第14章 第2話「行かない、点」
夜が、更けていた。私は、長家の、奥で、眠る弟の、傍に、座っていた。
トルヴェの、頬が、火の、名残で、ほんのり、赤い。もうすぐ、姉が、遠くへ、行くと、知っているのに、この子は、よく、眠る。九つの、寝顔だ。
私の、代わりに、と、声は、言った。お前は、私の、代わりに、見届ける者だ、と。
私は、それを、餞だと、思った。氏族を、離れる、私への、贈り物だ。剣の家に、生まれた。剣を、振って、老いる。それが、道だと、思っていた。その私が、世界を、見に、行く。神は、それを、許した。代わりに、見てこい、と。そういう、意味だと、受け取ることに、した。
弟の、髪に、触れた。起きなかった。
奥の、間で、父の、背中が、見えた。寡黙な、背中だ。何も、言わずに、私を、送り出す。母は、肩布を、織っている。
私は、怖くは、ない。
帰る場所が、あるから、行ける。この弟が、この父が、ここに、いる。神月の、火は、毎年、燃える。私は、いつでも、戻れる。だから、遠くまで、行ける。
明日、行き先を、決める。
朝、長家の、卓に、地図を、広げた。
大陸の、略図だ。私の、帳面の、見開きを、写し取って、大きく、描き直したものだった。西の、故郷。南の、海。砂の、都。北の、この地。点が、散っている。
「行き先を、決めましょう」
私は、言った。
「私たちには、残りの、知を、訪ねる、道が、あります。クラスごとの、極みを、それぞれの、土地に、訪ねて、回る。けれど——一度に、全部は、回れない。どこから、始めるかを、決める」
アストリッドさんが、地図に、指を、置いた。
中央の、あたりだった。
「いちばん近いのは、中央ルシアの、導師だ」
低く、言った。
「聖都ヴェスナヤには、六柱の、総本山が、ある。氏族の、年寄りが、言っていた。神に、いちばん近い、土地だ、と」
私は、帳面を、繰った。
祖父の、手帳の、写しだ。古い、頁に、見覚えの一行が、あった。
「曽祖父も」
私は、言った。
「研究の、途中で、中央へ、向かったと、記録に、ありました。何を、求めて、行ったのかは、書かれていません。けれど、確かに——中央を、目指した」
ファルが、顔を、上げた。
「僕の家の、伝承にも、あります」
少し、ためらってから、続けた。
「中央の、聖教国には、契約の神に、いちばん近い、祭祀がいる、と。母が、言っていました。いつか、訪ねるべき、土地だ、と」
三つの、理由が、同じ方角を、指していた。
剣士の、勘。学者の、記録。召喚士の、伝承。出どころは、ばらばらなのに、矢印は、一つの、点に、集まる。私は、それを、見て、少しだけ、笑った。三つの、矢印が、揃ったとき、迷いは、消えていた。
「決まりですね」
私は、言った。
「中央ルシア。聖都ヴェスナヤ」
経路は、すぐに、決まった。
私は、地図の上に、指を、滑らせた。北の、この地から、南へ、下り、海を、渡る。ベルジアの、森を、抜け、ポロニアを、経て、中央へ、入る。来た道を、半分、戻る形だ。知った道なら、迷わない。
「急ぐ、旅では、ない」
アストリッドさんが、言った。
「道々、寄る土地も、ある。峠の、季節も、選ぶ。——次の、冬の神月には」
彼女が、地図の、中央に、目を、置いた。
「聖都に、いる」
それで、話は、決まるはずだった。
戸口に、人影が、立ったのは、その時だった。
漁村の、使いだった。息を、切らして、長家まで、駆けてきたらしい。土間に、膝を、つき、頭を、下げる。まだ、若い男だった。あの、岩礁の島の、村の者だという。助けられた礼を、言いに来て、そのついでに、この報せを、置いていくのが、心苦しい——そういう、顔を、していた。
「賢者さまに、お伝えしたいことが」
「どうしました」
「別の、海域でも——海が、荒れている、と」
私は、筆を、止めた。
「西の、漁場です。うちの、海とは、別の、海域だ。そこでも、海が、おかしい、と。底の獣の、影を、見た者が、いる、と。確かなことは、分かりません。ただ、噂が、流れてきて」
使いは、それだけ、言うと、また、頭を、下げた。
部屋が、静かに、なった。火の、爆ぜる音だけが、聞こえた。
アストリッドさんが、剣の、柄に、手を、置いた。
「氏族の、戦士団が、当たる」
低く、言った。それから、わずかに、息を、ついた。
「——だが、根本は、断てない。斬っても、また、来る。お前が、言った、通りだ。原因を、断てるのは——」
そこで、言葉を、切った。
私は、地図を、見た。
西の、海域。新しい、点だ。そこにも、震えている、何かが、ある。行けば、また、一つ、眠りへ、戻せるかもしれない。けれど、そこへ、行けば、中央は、遠ざかる。声は、進め、中央へ、と、言った。
「全部の、点には、行けない」
私は、言った。
短い、沈黙が、あった。
「今は」
私は、続けた。
「中央を、優先します」
誰も、何も、言わなかった。アストリッドさんは、頷いた。ファルは、シェフの、背を、撫でた。それで、決まりだった。
使いの、男には、アストリッドさんが、答えた。戦士団を、向かわせる。村には、そう、伝えろ、と。男は、何度も、頭を、下げて、帰っていった。その、背中を、私は、戸口まで、見送った。
私は、帳面の、地図に、筆を、置いた。
西の、海域の、あたりに、新しい、点を、打つ。これで、点は、六つに、なった。それから、その、新しい、点の、傍に、私は、小さく、書き添えた。一字ずつ、確かめるように。
この点には、行かない。
筆を、置いた。
点を、打つことは、これまで、いつも、何かを、見つける、しるしだった。ここに、何か、ある。いつか、解く。そういう、約束の、点だった。
けれど、この点は、違った。打った瞬間に、約束ではなく、置き去りに、なった。行けない、と、私が、決めた、点だ。地図の上で、一つだけ、色が、違って、見えた。
そこにも、誰かの、舟が、あり、誰かの、子が、いる。その海を、私は、見ないまま、北を、発つ。
私は、その点を、しばらく、見ていた。
筆の先が、また、近づいて——離れた。
出立の、前夜、炉の傍に、皆が、集まった。
炉に、薪が、惜しみなく、くべられていた。
シグルドが、私の前に、立った。剣聖の、父だ。彼は、私を、しばらく、見下ろしてから、短く、言った。
「娘を、頼む」
低い、声だった。
「私が、育てた剣だが——ここから先は、世界が、研ぐ」
それきり、彼は、何も、足さなかった。私は、頷いた。返す、言葉を、探したが、見つからなかった。頷くことが、唯一の、答えだった。
トルヴェが、姉の、袖を、引いた。
「姉ちゃんが、帰ってくる頃」
弟は、胸を、張った。
「僕も、剣を、握れるように、なってるよ」
アストリッドさんが、弟の、頭に、手を、置いた。何も、言わなかった。けれど、その手は、しばらく、離れなかった。
トルヴェは、それから、私のほうを、向いた。
「テオ兄ちゃん。姉ちゃんを、よろしく」
私は、思わず、笑ってしまった。九つの、戦士の、言いつけだ。重く、受け取るほか、なかった。
ヒルダが、火の、向こうで、笑った。
「案ずるな」
老女戦士は、鋭く、言った。
「ハーヴィンの、女は、どこへ、行っても、ハーヴィンの、女だ。剣も、首も、折れぬ。——むしろ、案じるべきは、行く先の、ほうよ」
それから、私のほうへ、顔を、向けた。
「小さき賢者。お前さんは、剣を、振れぬが、言葉で、剣を、抜く。——その言葉で、この娘を、何度も、助けてやれ。剣だけでは、届かぬ、ところが、ある。わしは、長く、生きて、それを、知った」
私は、頷いた。老女戦士の、目は、笑っていたが、声は、本気だった。
イングリッドが、立ち上がり、アストリッドさんの、肩に、織った布を、掛けた。
何も、言わずに。ただ、低く、剣歌の、一節を、口ずさんだ。
海の彼方より、来たる魂と、東の山より、来たる魂
母から、娘へ、継がれてきた、節だ。火が、その声を、吸い込んでいった。
エイリークが、私の、背を、叩いた。親衛団の、兄だ。
「おい賢者。妹が、無茶を、したら、止めてくれ。——いや、お前にも、無理か」
軽く、笑った。湿りかけた、炉の、空気が、少しだけ、軽くなった。
ファルの、肩で、ホルが、羽を、ひとつ、立てた。ナフーは、手首で、静かだった。シェフは、トルヴェの、膝の上に、いた。三匹も、それぞれの、かたちで、夜の、輪の中に、いた。
別れは、その夜で、済ませた。
私は、客間に、戻り、帳面を、開いた。
地図に、点が、六つ。西の、故郷。南の、海。砂の、都。北の、この地。海の上に、一つ。そして——西の、海域に、行かない点が、一つ。
明日、私たちは、北を、発つ。来た道を、半分、戻り、それから、中央へ、向かう。声が、指した、方角だ。三つの、理由が、集まった、方角だ。
私は、地図を、閉じた。
灯りを、消す前に、窓の外を、見た。北の、星が、いつもの、場所に、あった。明日からは、この星を、背にして、歩く。
行かない点を、ひとつ、置いて——私たちは、中央へ、向かう。




