第14章 第1話「三つの、祈り」
港に、人が、出ていた。
船が、桟橋に、着くと、漁民たちが、駆け寄ってきた。網を、繕う手を、止めて、籠を、放り出して、私たちを、囲む。
「海の主を、鎮めたと、聞いた」
年老いた漁師が、私の手を、両手で、握った。手のひらが、潮で、硬い。
「もう、海が、荒れぬのだな。子らを、舟に、乗せられる」
私は、頷くことしか、できなかった。鎮めたのは、私一人ではない。けれど、その違いを、ここで、説いても、仕方がなかった。アストリッドさんが、戦士団の、先頭で、剣を、提げて、立っている。彼女のほうが、よほど、人々の、目を、集めていた。
漁師の、女が、籠から、干した魚を、取り出して、私たちに、押しつけた。子供たちが、ファルの、シェフを、見て、歓声を、上げる。砂の都を、出てから、こんなに、人に、囲まれたのは、初めてだった。海を、渡って、北の果てまで、来て、それでも、人は、同じように、笑い、同じように、礼を、言う。私は、それに、少し、安心した。
その夜、氏族屋敷の、大広間で、長老会議が、開かれた。
炉の火が、高く、燃えていた。氏族長シグルドが、上座に、座り、その左右に、年寄りたちが、並ぶ。アストリッドさんは、父の、すぐ下に、いた。私とファルは、客人として、火の、向こうに、座らされた。
「北の海の、異変は、収まった」
シグルドが、短く、言った。
「だが、収めたのは、力ではない。理屈だ。——賢者の小僧。お前が、説明しろ」
私は、海底の、祠のことを、話した。
獣を、斬っても、終わらないこと。祠の、震えが、別の獣を、呼ぶこと。それを、眠りへ、戻したこと。戦士団の、牽制と、ファルの、足場と、アストリッドさんの、一閃が、なければ、私の、理屈は、ただの、言葉で、終わったこと。
「三人で」
私は、言った。
「初めて、解けました」
年寄りたちが、顔を、見合わせた。
ヒルダが、笑った。鋭い、笑い方だった。
「小さき賢者は、わしらの、見えぬものを、見た」
老女戦士は、火に、手を、かざした。
「わしらは、海の主を、斬る、ことしか、知らなんだ。斬っても、また、来ると、知りながらな。——この子らは、なぜ来るのかを、問うた。氏族に、ない、目だ」
年寄りたちが、低く、言葉を、交わした。
「氏族長を、継ぐ娘を」と、白い髭の、年寄りが、声を、上げた。「南の、小僧らに、預けるのか。それで、氏族は、どうなる」
ヒルダが、その言葉を、笑いで、受けた。
「預けるのでは、ない。世界に、出すのだ。——剣は、研がねば、鈍る。氏族の、中だけで、研げる剣は、もう、あの娘には、ない」
白い髭は、口を、つぐんだ。海の主を、鎮めた、実績が、ものを、言っていた。
「では」と、別の、年寄り。
「アストリッドの、旅立ちを、認めると」
広間が、静かに、なった。
シグルドが、娘を、見た。それから、私たちを、見た。
「お前の剣を、振るうべき場所は、もう、この氏族の、中だけでは、ない」
低く、言った。それきり、何も、足さなかった。それが、承認だった。
神月の祭礼は、三日後だった。
神殿の、前庭に、氏族の、すべてが、集まっていた。
剣を、捧げる祭だ。戦士たちが、それぞれの、得物を、布に、包んで、抱えてくる。祭壇の、前に、大きな、炉が、据えられ、薪が、高く、組まれていた。火が、入ると、人々の、顔が、赤く、照らされた。
イングリッドが、進み出て、剣歌を、唱えた。母から、娘へ、継がれてきた、あの節だ。低い、声が、夜気に、ほどけていく。やがて、氏族の、女たちが、唱和を、重ねた。歌は、火を、囲んで、ゆっくりと、回った。
私は、人の、輪の、隅で、その火を、見ていた。剣を、捧げる祭だという。けれど、捧げているのは、剣だけでは、ないように、思えた。戦士たちの、顔は、いつもの、荒々しさを、収めて、静かだった。年に、一度、剣を、神に、返し、また、受け取る。そういう、夜なのだと、ファルが、小さな声で、教えてくれた。彼の、故郷の、川にも、似た祭が、あるという。土地は、違っても、人は、神に、何かを、捧げる。
祈りは、一人ずつ、順番に、捧げる、習わしだった。
祭壇の、奥に、古い、石碑が、立っている。その傍らに、小さな、祠が、据えられていた。祈る者は、人の、輪を、離れ、石碑の前に、一人で、進む。背後の、火と、歌が、遠ざかる。そこから先は、誰の、祈りも、他の者には、見えない。
ファルが、先に、呼ばれた。彼は、シェフを、抱いたまま、立ち上がり、石碑のほうへ、歩いていった。小さな、背中が、火の、明かりの、外へ、出て、暗がりに、紛れた。
しばらくして、彼が、戻ってきた。
顔を、見たが、何も、訊かなかった。祈りの、最中のことを、その場で、問うのは、習わしに、反する。彼は、ただ、火の傍に、座った。シェフが、すぐに、その膝に、乗り、何かを、確かめるように、胸に、頭を、押しつけた。ファルは、黙って、その背を、撫でていた。
次に、アストリッドさんが、呼ばれた。
彼女が、石碑の前に、立つ、背中を、私は、見ていた。
剣を、提げている。ヴィントヘルム。眠った剣だ。彼女は、それを、両手で、捧げ持ち、石碑に、向かって、頭を、垂れた。長い、祈りだった。火の、爆ぜる音だけが、聞こえていた。やがて、彼女も、戻ってきた。横顔は、いつもの、通りで、何も、語らなかった。
最後に、私が、呼ばれた。
石碑の前は、思ったより、静かだった。
火と、歌が、背後で、遠い。私は、目を、閉じて、賢者神に、祈った。
ソフォン。知の、神。幼い日から、その、呼びかけを、聞いてきた神だ。
幼い日、声は、近かった。胸の、すぐ内側で、響いていた。けれど、故郷を、出る、朝には、もう、痩せていた。遠くから、絞り出される、感触だった。それでも、南へ行け、と、言葉は、確かだった。
いまは——あの朝より、なお、遠い。
声は、さらに、痩せて、いた。
遠い、井戸の、底から、届くようだった。けれど——言葉は、はっきりしていた。痩せても、途切れても、その一言だけは、確かに、私の、内側に、落ちた。
進め。中央へ。
私は、目を、開けた。
それ以上を、求めなかった。なぜ、声が、遠いのか。なぜ、痩せたのか。問いは、いくつも、あった。けれど、祈りの、最中に、それを、考えるのは、違う気が、した。私は、受け取った言葉を、胸に、しまって、人の、輪へ、戻った。
祭りは、夜更けまで、続いた。
長家の、客間に、三人が、揃ったのは、火が、低くなった、頃だった。
シェフが、寝床の、隅で、丸くなっている。ホルは、梁の上で、羽に、嘴を、埋めていた。私たちは、小さな、灯りを、囲んで、座った。誰からともなく、今夜の、祈りの、話になった。
ファルが、先に、口を、開いた。
「結べ。新たな、縁を——って」
彼は、灯りを、見ながら、言った。
「そう、聞こえました。でも——一つの、声じゃ、なくて。いくつもの、声が、重なって、聞こえたんです。同じ、言葉を、何人もが、少しずつ、ずれて、言うみたいに」
「重なって」
私は、繰り返した。
「はい。昔から、僕の神は、そういうふうに、聞こえます。だから、変だとは、思いませんでした。ただ——今夜は、いつもより、数が、多かった、気が、します」
それきり、彼は、言葉を、選べずに、黙った。
シェフを、撫でる手が、いつもより、ゆっくり、だった。
新たな、縁を、結べ、と。
ファルは、契約の、神に、仕える。人と、獣を、結び、人と、人を、結ぶ。その神が、縁を、結べと、言うのは、不思議では、ない。けれど、いくつもの、声が、重なる、というのは。私は、それを、どう、受け取れば、いいのか、分からなかった。神の、声は、一つでは、ないのだろうか。
私は、アストリッドさんを、見た。彼女は、火を、見つめたまま、言った。
「お前は、私の、代わりに、見届ける者だ」
低い、声だった。
「そう、言われた。——一度も、途切れなかった。最初から、最後まで、まっすぐ、聞こえた。いつも、そうだ。私の神の、声は、揺れない」
私は、帳面を、開いた。
そして、今夜、三人が、聞いた、言葉を、書き写した。一行ずつ。間を、空けて。
進め。中央へ。
結べ。新たな、縁を。
お前は、私の、代わりに、見届ける者だ。
三つの、行を、私は、見つめた。
順番を、入れ替えて、書き直してみた。指で、一行ずつ、辿った。並べ替えても——違いは、消えなかった。
並べて、初めて、見えた。
同じ夜の、同じ火の、祈りなのに、三つの声は、届き方が、まるで、違う。
三人の神が、みな、違う。
私は、筆を、止めた。
地域差か、と、思った。
砂の都で、見た、神像を、思い出す。土地ごとに、神の、像は、違っていた。色も、姿も、まつり方も。神への、祈りは、土地の、信心の、濃さで、変わるのかもしれない。だとすれば、三人の、神が、違って、聞こえても、不思議は、ない。
けれど。
私たちは、同じ、土地に、いた。
同じ、神殿で、同じ、夜に、同じ、火を、囲んで、祈ったのだ。土地は、一つだった。信心の、濃さも、同じはずだった。それでも、三つの、声は、これほど、違った。
地域差では、説明が、つかない。
では、何か。仮説を、立てるには、数が、足りなかった。六つの、柱のうち、私が、聞いたのは、まだ、三つの、声だけだ。
私は、三つの、行を、もう一度、見た。
弱いが、明確。重なって、断片的。途切れず、明瞭。
なぜ、神によって、こんなに、違うのだろう。




