第13章 第3話「三人の、手」
その夜、岩棚に、火を、焚いた。
戦士たちが、火を、囲んでいた。
ビョルンが、塩漬けの肉を、配る。シグニーが、槍の、穂先を、研いでいた。レイフは、海のほうを、見ている。アストリッドさんは、ヴィントヘルムを、膝に、置き、布で、刃を、清めていた。塩水を、拭い、油を、薄く、引く。
私は、帳面を、開いて、火の傍に、座った。
「あの、獣を、斬っても」
私は、言った。
「明日、また、出ます。祠の、眠りを、戻さないかぎり」
戦士たちが、こちらを、向いた。
「斬っても、終わらない、というのか」と、ビョルン。
「獣は、あの祠に、引き寄せられています。祠が、震えているかぎり、別の獣が、また、来る。だから——獣を、退けながら、祠を、静める。二つを、同時に、やらないと」
「やり方は、あるのか」
アストリッドさんが、刃から、目を、上げた。
「あります。けれど——私、一人では、できません」
私は、火の上に、分担を、置いた。
「戦士団の、皆さんは、獣を、岩棚に、引きとめてください。倒さなくて、いい。ホルは、上空から、動きを、知らせる。ナフーは——私の、合図で、一点を、凍らせます」
「お前は」と、ビョルン。
「私は、獣の、弱点を、見つけて、そこへ、水を、当てます。北海なら、水は、安く、出せる。火は——ここでは、死にますから」
「決めは」
アストリッドさんが、訊いた。
「あなたです」
私は、彼女を、見た。
「氷で、脆くなった、一点を、断つ。覚醒の、一閃で」
彼女が、ヴィントヘルムを、見た。
「覚醒は——一戦に、一度だ」
「分かっています。だから、一度きりです。氷が、決まった、その瞬間に、呼んでください。それまでは、ただの、剣で、戦う」
「使いどころは、私が、決める」
彼女が、低く、言った。それは、問いでは、なかった。確かめだった。
「ええ。あなたが、決める。私は、いつ、その時か、を、見つけます」
ファルが、火の、向こうから、言った。
「僕は——海の上に、足場を、作ります」
小さな、声だった。けれど、はっきりしていた。
「浮遊陣を、張ります。岩棚と、海の、境に。アスリさんが、踏み込める、足場を。……ずっとは、保てません。揺れたら、歪む。でも——皆さんが、決めるまでは、保ちます。落とさない」
私は、その横顔を、見た。
昨夜、船倉で、何を、思っていたのかは、知らない。けれど、いま、彼は、自分の、役割を、自分の口で、引き受けていた。
朝が、来た。
海が、盛り上がり、底の獣が、再び、岩棚に、這い上がった。
ファルが、両手を、かざす。岩棚と、海の、境に、淡い、光の、陣が、広がった。揺れる海の上に、見えない、床が、張られる。アストリッドさんが、その上に、踏み込んだ。足場が、彼女を、支えた。
戦士たちが、獣を、囲んだ。
ビョルンの、斧が、鰭脚を、打つ。シグニーと、レイフの、槍が、左右から、突く。「アスリ姉さんは、前へ! 引きつけは、こっちで!」と、シグニーが、短く、叫んだ。獣の、注意を、引きつける。ホルが、上空で、旋回し、鋭く、鳴いた。獣が、頭を、動かすたび、その鳴き声が、位置を、告げた。
私は、《魔法解析》を、走らせた。
━━ 甲殻。全身を、覆う。槍は、通らない。
━━ 鰭脚の、付け根。動くたびに、隙が、開く。
→ 左肩の、関節の、結合部。水に、弱い。
→ そこに、水を、当てる。
「アストリッドさん! 左の、肩!」
私は、叫んだ。
初級の、水を、編む。獣の、左肩の、関節へ、叩きつける。ナフーが、手首から、ほどけ、その水へ、奔った。瞬間、凍る。氷が、関節を、白く、包んだ。
アストリッドさんが、その一点へ、踏み込んだ。
刃が、氷を、狙って、奔る——
✗ 届かない。
獣が、肩を、引いた。
凍った、関節を、かばうように、半身を、ひねる。アストリッドさんの刃は、氷を、捉えそこね、虚しく、空を、切った。前の、戦いで、獣は、刃の、届く距離を、覚えていた。
私は、息を、のんだ。
読まれた。間合いを。獣が、学んでいる。同じ手は、もう、効かない。私の、理屈は、正しかった。弱点は、左肩だ。けれど、「どこ」が、分かっても、「いつ」が、合わなければ、刃は、届かない。
ただ、一つ、救いが、あった。彼女は、まだ、名を、呼んでいなかった。使いどころは、私が、決める——昨夜の、言葉どおり、最初の、一合は、剣だけで、間合いを、計っていたのだ。覚醒は、まだ、残っている。
「テオ」
アストリッドさんの、声だった。
岩棚に、戻りながら、低く、言った。
「お前の、見立ては、正しい。あの、肩だ。だが——あの獣は、私が、踏み込む、その瞬間を、読んでいる。間合いに、入ると、引く」
「均衡の」
彼女は、刃を、構え直した。
「私には、場の、重心が、視える。剣を、振る前に、相手の、体が、どちらへ、傾くか。——あの獣は、肩を、凍らされた、いま、半身が、重い。次に、左へ、傾く。傾いた、その一拍が、唯一の、隙だ」
場の、重心。
私の、理屈に、足りなかったのは——彼女の、感応が、与える、「いつ」だった。
「もう一度!」
私は、叫んだ。
「同じ、左肩を、凍らせます。傾いた、その瞬間を、あなたが、捉えてください。——私は、いつ凍るかを、声で、伝えます」
「分かった」
彼女が、言った。
「三つ、数えたら、振り抜く」
私は、ふたたび、水を、編んだ。
獣が、また、岩棚へ、頭を、低くする。ファルの、陣が、揺れた。歪む。けれど、彼は、両手を、震わせて、それを、保った。アストリッドさんの、足場が、ぎりぎりで、踏みとどまった。
水を、放つ。ナフーが、奔る。凍る。左肩の、関節が、白く、固まる。
「一つ」
獣の、半身が、重みで、傾き始めた。
「二つ」
母から、娘へ、継がれてきた、あの節を、アストリッドさんが、低く、口ずさんだ。
戦と均衡の神に、仕えし、六なる者
「三つ!」
彼女は、声に、出さず、胸の内で、名を、呼んだ。
刀身に、銀の、光が、奔った。
刃先から、風が、渦を、巻いて、立ち上る。覚醒。
傾いた、半身。白い、一点へ——
一閃。
風断ちの、刃が、氷の一点を、断った。
甲殻の、奥の、結合が、断たれる。獣の、巨体が、傾ぎ、岩棚を、揺らして、崩れ落ちた。鰭脚が、二度、波を、打って——止まった。
静かに、なった。
ファルが、陣を、解いた。
両手を、下ろし、岩に、座り込む。汗が、額を、伝っていた。陣は、揺れ、歪みかけた。けれど、最後まで、落ちなかった。ホルが、降りてきて、その肩に、止まる。シェフが、足元に、すり寄った。
アストリッドさんが、剣を、提げて、岩棚に、立っていた。銀の光が、ゆっくりと、薄れていく。
けれど、まだ、終わりでは、なかった。
引き潮が、来た。
海が、退いて、岩の道が、現れた。
島の、岩棚から、海底へ、続く、岩の、背だ。その先に、海水に、洗われた、低い、石組みが、覗いていた。引き潮が、それを、束の間、空の下に、晒している。
私と、ファルが、その道を、下りた。
祠は、苔と、貝に、覆われた、古い、石組みだった。誰が、組んだのか。何のために、ここに、置かれたのか。それは、分からない。ただ、低く、震えていた。
「眠りを、乱されています」
私は、言った。
「南の、あの、場所と、同じです。目覚めさせられて、戸惑っている。——止めるのでは、ない。眠りへ、呼び戻すのです」
ファルが、祠の前に、膝を、ついた。
砂の都で、したように。海水に、濡れた、石の上に、呼びかけの、かたちを、描く。
「——もう、いいんです。呼んだ人は、いません。あなたは、よく、待ちました。おやすみなさい」
私は、水を、編んだ。
そして、風を、添えた。水と、風が、混じり、霧に、なる。淡い、霧が、祠を、ふわりと、包んだ。眠りへ、誘うように。震えが、少しずつ、低くなっていく。やがて——止まった。
祠が、静まった。
潮が、満ち始めた。
海水が、ふたたび、祠を、覆っていく。私たちは、岩の道を、上がった。背後で、古い石組みが、また、海の底へ、沈んでいった。今度は、震えずに。眠ったまま。
岩棚に、アストリッドさんが、待っていた。
剣を、提げている。覚醒の光は、もう、ない。彼女は、それを、地に、突こうとして——わずかに、よろめいた。
「……重い」
低く、言った。
「眠ったか。——一度きり、だったな」
それから、彼女は、私とファルを、見た。
「私一人なら、あの魔物は、倒せた」
静かな、声だった。
「だが、原因は、分からなかった。原因が、分からなければ、明日、また、同じものが、出る。——お前たちの、理屈と、召喚が、根本を、断った」
そして、ファルを、見た。
「お前の陣が、私の、足場だった」
ファルが、顔を、上げた。
何か、言おうとして、言葉に、ならず、ただ、頷いた。シェフが、その膝に、頭を、押しつけた。
「三人で」
私は、言った。
「初めて、解けました」
アストリッドさんが、剣を、布で、清め始めた。
塩水を、拭い、油を、引く。眠った剣を、戦士は、丁寧に、手入れした。
帰りの、船は、静かだった。
ファルは、シェフを、抱いたまま、舷に、もたれて、眠りかけていた。アストリッドさんは、眠った剣を、膝に、抱いて、海を、見ていた。戦友として、と、彼女は、言った。その言葉に、今日、初めて、応えられた気が、した。
私は、帳面を、開いた。
見開きに、大陸の、略図が、ある。西の、故郷。南の、海。砂の、都。北の、果て。けれど、海には、点を、置いてこなかった。海は、ただ、渡る場所だった。
私は、筆を、執った。
そして——この、北の海の上に、点を、置いた。
五つ目の、点だった。
陸の、端から、端まで。そして、いま、海の上にも。点が、散っている。
私は、筆を、止めた。
眠っているはずのものが、あちこちで、起こされて、いるのだとしたら——
そこまで、書いて、私は、続きを、書かなかった。
問いのまま、置いた。線は、まだ、引けない。けれど、点は、確かに、増えていた。
船は、霧を、抜けて、南へ、向かっていた。
海の底にも、点が、あった。




