第13章 第2話「一撃の、海」
夜の、船倉で、僕は、シェフを、抱いていた。
揺れは、まだ、続いている。
胃の、底が、ときどき、ひっくり返りそうになる。でも、昼ほどでは、ない。シェフが、僕の、胸に、頭を、押しつけて、低く、喉を、鳴らしていた。温かい。それだけで、少し、楽になる。
明日、島に、上がる。
魔物が、いる。底の獣が。
僕は、知っている。
僕は、戦えない。剣も、振れない。攻めの魔法も、ない。アスリさんは、強い。テオさんは、見える。海の底まで、見通す目を、持っている。
僕だけが——何も、持っていない。
シェフを、呼ぶ。ナフーを、ホルを、呼ぶ。それしか、できない。三匹がいなければ、僕は、ただの、海に、酔った、子供だ。昼間、ビョルンさんに、笑われたとき、何も、言い返せなかった。返したい言葉は、あったのに、口から、出てきたのは、うめきだけだった。
明日、僕の、陣が、揺れたら。
海の上で、足場を、保てなかったら。二人が、戦えなく、なる。そう思うと、暗い船倉の、天井が、近く、見えた。
でも。
このことは、テオさんたちの、前では、言わない。
言ったら、ほんとうに、なりそうだから。
僕は、シェフの、背中を、撫でた。
ナフーが、手首で、輪を、巻き直す。ホルが、暗がりで、羽を、ひとつ、立てた。三匹が、いる。僕には、三匹が、いる。
僕の、陣が、二人の、足場になる。
それだけは——落とせない。
明日、島に、上がる。
僕は、目を、閉じた。
朝。私たちは、岩礁の島に、上がった。
低い、岩棚が、波に、洗われている。
岩の、表は、海藻と、潮で、ぬめっていた。波が、寄せるたび、足元まで、海水が、走る。アストリッドさんが、爪先で、岩を、一度、踏み確かめた。レイフが、後ろで、低く、言った。「足場が、悪い。波が、来たら、岩が、滑る。——陸の、戦いとは、思わないことだ」
奥に、崩れかけた、漁師小屋が、一軒。屋根が、半ば、落ちていた。引き裂かれた、網が、岩に、絡みついて、潮に、ふくらんでいる。人の、気配は、なかった。鳥も、いない。波の、音だけが、岩を、打っていた。
「漁師が、雨宿りに、使う、小屋だ」
レイフが、低く、言った。「この、島は、漁場の、目印だった。昔は。——いまは、誰も、近づかない」
ファルが、空を、見上げた。曇った、灰色の、空に、一羽の、鳥も、いない。彼の、肩で、ホルが、落ち着かなげに、羽を、動かしていた。
戦士たちが、岩棚に、散った。
ビョルンが、大斧を、構える。シグニーと、レイフが、槍を、持って、波打ち際を、うかがう。アストリッドさんは、中央で、ヴィントヘルムの、柄に、手を、置いていた。私とファルは、奥の、岩の、上に、上がった。ファルが、足元に、小さな陣を、描き始める。
海が、盛り上がった。
黒い、長躯が、波を、割って、現れた。
鱗と、甲殻に、覆われた、巨大な、体。複数の、鰭脚が、岩を、つかむ。頭が、低く、こちらへ、向いた。漁民が、底の獣と、呼ぶもの。それが、海から、這い上がってきた。
「来たか!」
ビョルンが、吼えた。
戦士たちが、いっせいに、突っ込んだ。槍が、その体に、突き立つ——はずだった。けれど、穂先は、甲殻に、弾かれて、火花を、散らした。通らない。大斧が、横から、叩きつけられても、鈍い音が、響くだけだった。
「硬い……っ」
シグニーが、槍を、引いた。
「鱗の、隙間も、ない。槍が、通る、場所が」
ビョルンが、もう一度、大斧を、振りかぶった。獣の、鰭脚の、付け根を、狙って、打ち下ろす。重い音が、響いた。けれど、甲殻は、割れなかった。獣が、鰭脚を、一振りすると、ビョルンの、巨体が、岩棚を、二歩、後退した。
「化け物が……っ。こいつ、岩より、硬いぞ!」
「私が、やる」
アストリッドさんが、前へ、出た。
ヴィントヘルムを、抜く。けれど、真の名は、呼ばなかった。覚醒は、使わない。剣歌も、ない。ただの、剣魔合一だ。刃に、淡い、霜が、宿る。氷の、刃。彼女の、本領だった。
「一撃で、終わらせる」
低く、言った。
彼女が、岩を、蹴った。
魔物の、頭が、沈む。
アストリッドさんの、刃が、その首筋を、狙って、奔った。一閃。氷の、軌跡が、空に、走る。決まる——と、誰もが、思った。
そのとき、岩が、揺れた。
波が、岩棚を、洗ったのだ。
足元の、岩が、ぬめって、彼女の、踏み込みが、わずかに、流れた。間合いが、ずれる。海の上の、揺れる足場が、剣士の、いつもの、間合いを、狂わせた。一閃は、魔物の、首筋を、捉えそこね、甲殻の、表を、滑った。
刃が、滑った、その反動で。
アストリッドさんの、体が、泳いだ。
岩の、際だった。波が、引いた、その先は、深い海だ。彼女の、足が、岩を、失う。手から、ヴィントヘルムが、滑った。剣が——宙に、浮いて、海へ、落ちようとした。
「姫様!」
ビョルンの、腕が、伸びた。
彼女の、肘を、つかむ。もう一方の、手が、剣の、柄を、つかんだ。大柄な、戦士の、力で、二つとも、岩棚に、引き戻される。剣は、海に、落ちなかった。彼女も、海に、落ちなかった。けれど、危ういところだった。
魔物が、海へ、退いた。
黒い、長躯が、波を、巻いて、深みへ、沈んでいく。
沈む、間際。獣の、目が、一度、こちらを、見た。刃の、滑った、その場所を、見ていた。それから、底の獣は、海の中へ、消えた。追えなかった。岩棚から、海へ、踏み込めば、今度は、こちらが、足場を、失う。後には、波の、音だけが、残った。取り逃がした。
アストリッドさんが、岩に、膝を、ついた。
ヴィントヘルムを、握り直す。肩で、息を、していた。けれど、声を、荒げは、しなかった。剣を、握る手に、力が、こもっただけだった。
「——悪い」
低い、声だった。
「足場を、見誤った。海の上では、いつもの、間合いが、効かない。剣が、来るものしか、斬れないように——私も、立てる場所でしか、振れない」
彼女は、岩棚を、見渡した。揺れる海。ぬめる岩。引けば、足を、取られる海。陸の、戦いとは、何もかもが、違っていた。
「雪の、牧で、学んだはずだった。来ないものは、斬れない、と。今度は、立てない場所では、振れない、だ。——海は、私の、知らないことを、まだ、たくさん、隠している」
それから、彼女は、ビョルンを、見た。
「助かった。礼を、言う」
ビョルンが、ばつが悪そうに、鼻を、鳴らした。
「もう一手、考えさせて、くれ」
私は、剣を、握り直す、その手を、見ていた。
声を、荒げず、悔しさを、内に、収めて、次の手を、探す目だった。覚醒の剣を、手にしても、海の上の、揺れる足場は、別の、難しさを、突きつけてくる。剣は、万能ではない。彼女自身が、いちばん、それを、知っていた。
私は、海を、見た。
そして、《真理の眼》を、開いた。
魔物では、なく。海そのものを、観た。
岩棚の、まわりの、海。
魔素の、流れが、見えてくる。普段の、北海なら、冷たく、澄んだ、流れであるはずだった。けれど、この、島の、まわりだけ、流れが、淀んでいた。底のほうから、何かが、にじみ出して、海を、濁らせている。
魔物の、足取りを、辿った。
底の獣は、ただ、暴れているのでは、なかった。
潜って、退いて、また、現れて。その、行き来の、すべてが、海底の、ある、一点を、中心に、していた。傷ついた獣が、巣に、戻るように。いや、違う。引き寄せられている。何かに。
獣の、目を、思い出した。岩棚で、向き合った、あの、目。怒りでも、飢えでもなかった。落ち着かない、苦しそうな、目だった。深いところに、いるべきものが、無理に、浅いところへ、引き出されている。そういう、目だった。
私は、その一点へ、目を、凝らした。
海の、底。岩の、裂け目の、奥。
そこに、人の、手の、入った、何かが、あった。石を、組んだ、古い、かたち。長い、年月、海の底で、沈黙していたものが、いま、低く、震えていた。震えが、海を、濁らせ、魔素を、淀ませ、獣を、呼んでいた。
私は、その震えを、知っていた。
南の、土地で。砂の国の、南の、古い遺跡の、石組みの中で。私は、これと、同じ、震えに、出会った。眠っているはずの、何かが、目を、覚まさせられて、戸惑い、寂しがっていた、あの、震え。
ファルが、そのとき、言った言葉が、よみがえる。目覚めさせられて、戸惑っている。寂しがっている。
同じだ。
ここでも、何かが、眠りを、乱されている。
南の、あの場所は、陸の、奥の、砂の中だった。ここは、北の、海の、底だ。離れた、二つの、土地。気候も、人も、言葉も、まるで、違う。それなのに、同じ、震えが、ある。誰が。何のために。なぜ、こんなにも、離れた、二つの場所で。私は、その問いを、胸の、奥に、抱えた。
「テオ」
レイフが、隣に、来ていた。
海を、のぞき込んで、眉を、寄せている。
「何が、見える」
「やはり、変だ、と——あなたが、言ったとおりです」
私は、海の、底を、指した。
「あの、獣は、ただ、暴れているのでは、ありません。あの島の、海の、底に——何かが、ある」
レイフが、息を、のんだ。
ビョルンも、シグニーも、アストリッドさんも、こちらを、見ていた。波が、岩棚を、洗っていた。誰も、すぐには、言葉を、継げなかった。
海の底に——古い、祠が、あった。




