表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
77/103

第13章 第1話「北の、海の上」

漁民が、長家に、駆け込んできたのは、継承の、数日後だった。


「海の、主が、出た」


息を、切らして、その男は、言った。網元の、使いだという。北の、漁場で、船が、二艘、やられた。乗っていた者は、辛うじて、岸まで、泳ぎ着いた。


「普段は、出ない海域だ。あんな、ところに、底の獣が、いるなんて、聞いたことが、ない」


シグルドさんが、腕を、組んで、聞いていた。


「いつから、出る」


「ここ、十日。日に、日に、岸へ、近づいてくる。このままでは、村が」


漁民の、声が、震えていた。日に焼けた、漁師の手が、膝の上で、固く、握られている。


「年寄りに、聞いても、誰も、知らない。あの海域に、底の獣が、出たことなど、一度も、ない、と。海の主は、深いところで、眠っているもので、岸へは、来ないはずだと。それが——」


長家の、炉に、火が、入っていた。


集まった戦士たちの、顔が、火に、染まっていた。出るか、出ないか。問うまでも、なかった。氏族の、海で、氏族の、漁民が、襲われている。


「船団を、出す」


シグルドさんが、言った。


「アストリッド。お前が、率いろ」


アストリッドさんが、頷いた。


膝の上に、ヴィントヘルムが、あった。鞘の、銀の飾りが、火を、映している。彼女は、その柄に、手を、添えて、何かを、確かめる目を、した。


「剣が」


低く、つぶやく。


「眠りから、覚めかけている。——出番が、近いと、知っているのかもしれない」


私は、その横顔を、見ていた。


そして、口を、開いた。


「私も、行きます」


戦士たちの目が、こちらを、向いた。


剣を、持たぬ、年下の、よそ者。海の、戦いに、何ができる。そういう、目では、なかった。けれど、誰も、すぐには、答えなかった。


アストリッドさんが、私を、見た。


「海は、危ない」


彼女は、言った。


「揺れる。寒い。火も、まともには、使えまい。お前の、術の、半分は、ここでは、効かない」


「それでも、見たいのです。なぜ、出ないはずの、海域に、出るのか。——理由を」


彼女が、しばらく、私を、見ていた。


それから、ふっと、口元を、ゆるめた。


「客人として、では、ない」


「——私の、戦友として、参加してほしい」


その言葉が、炉の、火明かりの中に、静かに、置かれた。


客人。賢者どの。これまで、彼女が、私を、呼んできた言葉とは、違っていた。並んで、戦う者を、呼ぶ言葉だった。私は、頭を、下げた。ファルが、隣で、嬉しそうに、息を、のんだのが、分かった。


ヴィンドールの港に、船団が、並んでいた。


五隻の、ロングシップ。細長い、船体に、楯が、並び、漕ぎ手の、櫂が、揃っている。帆柱の上で、氏族の、旗が、北風に、はためいていた。商いの船なら、いくつも、乗ってきた。けれど、戦のための船を、間近で、見るのは、初めてだった。


「おい、賢者!」


大柄な、戦士が、櫂を、担いで、近づいてきた。日に焼けた顔に、白い歯が、覗いている。


「そんな、細っこい体で、北海まで、来るのか。沈んだら、俺が、引き上げてやる。——ビョルンだ」


「テオです。よろしく、お願いします」


「ほう、礼儀は、知ってるな。氏族の小僧どもより、よっぽど、いい」


ビョルンが、白い歯を、見せて、笑った。担いだ櫂を、軽々と、振り回す。腕は、私の、胴ほども、ありそうだった。


ビョルンの、後ろから、二人。


「シグニーです」


女戦士が、短く、名乗った。アストリッドさんと、同じ、引き締まった目をしていた。多くを、語らない人らしかった。


もう一人は、舳先で、海を、見ていた。痩せた、若い男だ。こちらを、振り向くと、低く、言った。


「レイフ。……船を、読むのが、仕事だ」


それから、彼は、空を、見上げた。風の、向きを、確かめる目だった。


「賢者どのは、海の、理屈も、読むと、聞いた。——なら、教えてくれ。出ないはずの、獣が、出る。その理屈が、あるなら」


私は、まだ、答えを、持っていなかった。けれど、その問いを、忘れまいと、思った。


櫂が、水を、噛んだ。


五隻が、次々と、港を、離れていく。櫂の、揃った音が、海に、響いた。やがて、帆が、張られ、船は、北へ、向かって、滑り出した。岸が、遠ざかる。海の、色が、深くなっていく。


私は、船縁から、その色を、見ていた。


故郷の、川とも、南の、温かい海とも、違っていた。北の海は、深く、暗く、冷たい。手を、入れれば、すぐに、痺れそうだった。漕ぎ手たちは、その海を、慣れた手つきで、押し開いていく。海と、共に、生きてきた人々の、手だった。


「あの剣はな」


漕ぎながら、ビョルンが、誰にともなく、言った。


「鳴るんだ。姫様の、ヴィントヘルムは。——昔から、そう、言われてる。姫様が、儀を、受けた日にも、鳴ったそうだ。じいさん連中が、言ってた」


「鳴った剣を、継いだ姫様が、率いる遠征だ」と、別の漕ぎ手が、続けた。「縁起が、いい」


私は、それを、聞いていた。


十年前に、鳴った剣。その伝承が、漕ぎ手たちの口に、生きている。継いだばかりの、覚醒のことは、まだ、彼らは、知らない。けれど、いずれ、これも、語り継がれていくのだろう。


舳先で、アストリッドさんが、海を、見据えていた。何も、言わなかった。


海が、変わってきた。


白い、塊が、波の間に、浮かんでいる。流氷だ。船は、それを、よけながら、進んだ。空気が、冷たく、湿ってくる。やがて、薄い、霧が、海面を、這い始めた。前を、行く船の、帆が、白く、にじんで、見えた。


「この時季に、これだけの、霧は、珍しい」


レイフが、舳先で、つぶやいた。「海が、いつもと、違う。風も、潮も。——何かが、北の海を、乱している」


漕ぎ手たちは、その言葉に、答えなかった。けれど、櫂の、音が、少し、固くなった。皆、感じているのだ。この海が、いつもの海では、ないことを。


「ぐ……っ」


足元で、低い、声がした。


ファルが、船縁に、両手で、しがみついていた。顔が、白い。砂の都で、召喚陣を、操っていた、あの落ち着きは、どこにも、なかった。


「テオさん……船が……上下に……」


「ファル」


「だめです……揺れが……砂は、こんなに……揺れない……」


砂の都で、いくつもの、召喚陣を、同時に、操っていた、あの落ち着いた声は、消えていた。代わりに、出てくるのは、途切れがちな、うめきだけだった。海の、上下に、合わせて、彼の、肩が、上がり、下がる。


シェフが、心配そうに、ファルの、膝に、前足を、かけて、顔を、覗き込んでいた。


ナフーは、手首で、平気な顔をしている。蛇は、揺れを、気にしないらしい。ホルは、帆柱の、横木に、止まって、羽を、たたんでいた。三匹のうち、主人だけが、いちばん、まいっていた。


「がっはは!」


ビョルンの、大声が、響いた。


「砂の国の、術師どのは、海は、初めてか! その様子じゃ、魔物が、出る前に、海に、捧げ物を、しちまいそうだな!」


漕ぎ手たちが、どっと、笑った。


笑いの、輪の外で、レイフだけが、海を、睨んだまま、黙っていた。


ファルが、青い顔のまま、ビョルンを、にらんだ。


「ぼ……僕の、召喚獣は……海でも……ちゃんと……」


言いかけて、口を、押さえた。続きは、言葉に、ならなかった。


「無理は、しないでください」と、私は、背中を、さすった。


「砂漠の、召喚士どのが、海に、負けた、ってか!」と、別の漕ぎ手が、はやした。「おい、誰か、桶を、持ってこい! 術師どのの、ぶんだ!」


ふたたび、笑いが、起きた。


笑い声が、船を、包んでいた。


張り詰めていた、遠征の、空気が、その一声で、ゆるんだ。寒い海の、霧の中で、人の、笑いが、温かかった。


「僕の、外套は……もう、いいです……」


ファルが、力なく、つぶやいた。シェフが、ぺろりと、その頬を、舐めた。


舐めながら、シェフの、片耳は、ずっと、北を、向いていた。笑いの、輪の中で、それに、気づいた者は、いなかった。


霧が、濃くなった。


日が、傾いてきた。


霧の、向こうが、薄く、赤い。漕ぎ手の、声が、少なくなった。海の、音だけが、船を、満たしていた。私は、ファルの、背中を、さすりながら、その、灰色の、向こうを、見ていた。


舳先で、レイフが、急に、立ち上がった。


「——あれだ」


霧の、切れ間に、黒い、影が、あった。


岩の、島だ。低く、平たい、岩礁の、島が、海の上に、横たわっていた。船団は、ゆっくりと、そちらへ、舳先を、向けた。近づくにつれ、私は、奇妙なことに、気づいた。


鳥が、いない。


岩の島には、ふつう、海鳥が、群れる。けれど、その島の、上空には、一羽も、いなかった。波打ち際に、引き裂かれた、漁網が、流れ着いて、岩に、絡んでいた。海面が、ぬめるように、黒く、静まっている。


レイフが、低く、言った。


「やはり、変だ。——あの島の、まわりだけ、海が、死んでいる」


ファルが、顔を、上げた。


船酔いの、苦しさが、ふと、引いていた。三匹の、相棒たちが、いっせいに、島のほうを、見ている。シェフの、毛が、逆立っていた。ナフーが、輪を、解いて、ファルの腕に、巻きついた。


私は、霧の、向こうの、その島を、見据えた。


島は——私たちを、待っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ