第12章 第2話「風断ち」
翌朝の、修練場に、一族が、集まっていた。
シグルドさんが、腕を、組んで、立っていた。イングリッドさんは、母の写しを、膝に、抱えていた。エイリークさんと、トルヴェ。後輩の女戦士、シグニー。そして、私とファル。
中央に、アストリッドさんが、立っていた。手には、ヴィントヘルム。
雪は、固く、凍りついていた。空は、低く、灰色だった。
アストリッドさんが、剣を、構えた。
そして、強い声で、その名を、呼んだ。
風断ち。
剣は、応えなかった。鳴りも、しなかった。昨日の夕、かすかに鳴った刃は、今朝は、ただの、古い鉄のように、黙っていた。
彼女は、もう一度、呼んだ。
声を、いっそう、張った。命じるように。氏族の長の娘が、家宝の剣に、命じるように。
それでも、剣は、沈黙したままだった。三度目も、同じだった。
修練場に、沈黙が、降りた。
アストリッドさんは、剣を、下ろさなかった。けれど、その肩が、わずかに、上下していた。
「呼んで、いるのに」
低い、つぶやきだった。
拳を、握って、激するような、人ではない。彼女は、ただ、剣の刃を、見つめ、長く、息を、吐いた。何が、足りないのかを、内で、量っている、横顔だった。
私は、その横顔を、見ていた。
そして、あることを、思い出していた。
妖精の、森だった。
力で、押し入ろうとした私たちは、森の、小さき者たちに、追い回されて、退いた。けれど、土地の流儀を、聞き集め、手向けを、置いて、静かに、歩いたとき。森は、私たちを、通した。
押せば、追い回される。呼びかければ、通される。
そして、砂の都の、井戸の下。祖父たちの、覚え書きの、一行。
契約術は、力の、術に、あらず。呼びかけの、かたち、なり。
けれど、あれは、森と、召喚の話だ。他人の、剣に、同じ理屈を、当ててよいのか。口を、開きかけて、私は、一度、迷った。
そのとき、銘文の、言葉が、頭の奥で、立ち上がった。
名を、呼ぶ時——剣は、本来の、姿を、取り戻す。
呼ぶ、と、刻まれている。命じる、とは、刻まれていない。理屈では、なかった。剣に、最初に、言葉を、刻んだ手が、そう、選んでいた。
私は、口を、開いた。
「アストリッドさん」
彼女が、私を、見た。
「押すのでは、なく——呼びかけるのです。命じるのでは、なく。名前を、呼ぶように」
短く、それだけ、言った。
これ以上は、私の、口を、出る言葉では、なかった。剣と、彼女のあいだのことだ。
「……名前を」
アストリッドさんが、剣に、目を、戻した。
その手から、力が、わずかに、抜けた。握り、ではなく、添える。命じる構え、ではなく、迎える構え。
イングリッドさんが、写しを、開いた。
そして、低く、剣歌を、歌い始めた。昨夜、大広間で、流れた、あの古い節だった。
戦と均衡の神に、仕えし、六なる者
節が、静かに、流れた。
アストリッドさんが、目を、閉じた。歌に、合わせて、息を、整えていく。長く、深く。胸の、奥まで、空気を、満たし、ゆっくりと、吐く。
雪の、修練場が、しんと、なった。
彼女は、もう、声に、出さなかった。
ただ、胸の、内で——名を、呼んだ。
刀身に、淡い、銀の、光が、走った。
刃の、根本から、切っ先へ。水が、流れるように、銀の、光が、奔った。そして、刃先から、風が——細い、渦を、巻いて、立ち上った。
風は、見えなかった。
けれど、確かに、そこに、あった。アストリッドさんの、足もとの、雪が、円く、外へ、外へと、払われていった。乾いた地面が、まるい紋を、描いて、現れた。風が、彼女を、中心に、静かに、渦を、巻いている。荒ぶる嵐では、ない。剣の、まわりだけ、空気が、目を、覚ましたような、そんな、渦だった。
ファルが、息を、詰めて、修練場の、中央を、見つめていた。
銀の光が、彼女の、氷青の瞳に、映った。
「うわ……っ」
トルヴェが、声を、上げた。
「姉ちゃん、剣が、光ってる!」
子供の、率直な、歓声だった。張り詰めていた場が、その一声で、わずかに、ゆるんだ。
アストリッドさんが、目を、開けた。
刃を、ひとつ、横に、薙いだ。
風が、刃に、遅れなかった。
刃と、風が、同時に、鳴った。修練場の、隅に、立てかけてあった、古い的の藁束が、すっと、二つに、分かれて、雪の上に、落ちた。
私は、それを、見ていた。
これは、彼女が、夜の牧で、見せたものとは、違う。あのとき、彼女の、技の冴えは、まわりの音を、吸って、薄くした。けれど、いまは、逆だ。音は、引かない。風が、刃と、声を、合わせて、鳴っている。
人の、技と、剣の、目覚めは、別のものだ。私は、そう、思った。
私は、帳面を、開いて、書き取った。
真の名。呼びかけ。——応える。
理由は、まだ、書けなかった。
なぜ、力では、応えず、呼びかけには、応えるのか。なぜ、千年、黙っていた剣が、いま、目覚めたのか。それは、空白のまま、残した。書けることだけを、書いた。
やがて、銀の光が、薄れ始めた。
刃先の、風の渦が、ほどけた。雪を、払っていた、まるい紋の、外から、また、白いものが、流れ込んできた。光は、刀身に、吸われるように、消えた。
アストリッドさんが、剣を、地に、突こうとして——よろめいた。
「……重い」
低い、声だった。
「さっきまで、羽のように、軽かった。それが——急に。ただの、古い、剣の、重さに、戻った」
イングリッドさんが、写しを、閉じた。
「呼ぶには、剣歌と、集中が、要る」
静かに、言った。「そして、呼んだ後は——剣が、眠る。しばらくは、もう、応えまい」
アストリッドさんは、両手で、剣を、抱え直した。
「眠る、か」
それから、ふっと、息を、吐いた。
「——一戦に、一度、ということか」
それは、嘆きでは、なかった。
授かった力の、輪郭を、確かめる、戦士の声だった。いつでも、振るえる力では、ない。剣歌を、歌い、集中を、整え、心を、澄ませて、初めて、応える。そして、一度、応えれば、剣は、しばらく、眠る。
だから、いつ、振るうかを、選ばねばならない。多くの敵を、前にして、どの一手で、それを、抜くか。抜いた後の、長い時を、どう、戦い抜くか。彼女は、それを、すぐに、理解していた。力の、大きさよりも先に、使いどころの、難しさを。
「楽な、剣では、ないな」
彼女が、低く、笑った。けれど、その目には、力への、おそれは、なかった。難しい剣を、与えられた。それを、使いこなす、道のりを、もう、見据えている目だった。
エイリークさんが、低く、口笛を、吹いた。
「派手な、ものを、隠してたもんだ。——うちの剣は」
シグニーが、無言で、頷いていた。あの夜、牧で、見た冴えとは、また、別の何かを、見た——そういう、目だった。
ファルが、隣で、小さく、つぶやいた。
「呼びかけの、かたち……。僕の、術と、同じだ」
私は、黙って、その一言を、帳面に、書き留めた。
その夜。炉の、前に、一族が、集まった。
シグルドさんが、立ち上がった。
そして、アストリッドさんの前に、立ち、ヴィントヘルムを、両手で、捧げ持った。鞘に、納められた、古い剣だった。今朝、銀に、光った剣とは、思えないほど、静かだった。
「アストリッド」
低く、重い、声だった。
「この剣は、代々、氏族長が、継いできた。俺も、父から、受けた。——今日、お前に、渡す」
誰も、声を、立てなかった。
エイリークさんも、トルヴェも、息を、のんで、見ていた。氏族の、長い時間が、ひとつ、区切られていく、音のない、瞬間だった。
アストリッドさんが、両手を、差し出した。
シグルドさんが、剣を、その手に、載せた。今朝、銀に、光った剣は、いま、深く、眠っている。ただの、古い鉄の、重さで、彼女の、両手に、収まった。けれど、それは、もう、ただの古剣では、なかった。本名を、知られた剣だった。
「お前の剣を、振るうべき場所は」
彼は、そこで、一度、言葉を、切った。
「もう、この氏族の、中だけでは、ない」
それだけ、言って、彼は、座に、戻った。多くを、語る人では、なかった。けれど、その短い一言に、娘の旅立ちを、引き止めない覚悟が、籠もっていた。氏族の、剣聖が、半世紀、握ってきた剣を、娘に、渡した。氏族の、外へ。それが、何を、意味するのかを、彼は、知って、言っていた。
アストリッドさんは、受け取った剣を、膝の上に、置いた。
長いあいだ、その刀身を、見ていた。三年、夢で、彼女を、呼んできた声。それが、何なのかを、私は、まだ、知らない。けれど、いま、剣と、彼女は、確かに、応え合った。
トルヴェが、その横に、寄り添った。ファルの腕の中で、シェフが、片耳を、立てて、こちらを、見ていた。
炉の火が、低く、燃えていた。雪明かりが、戸の、隙間から、薄く、差し込んで、膝の上の、鞘の、銀の飾りに、火と、雪の、両方の色を、映していた。
やがて、アストリッドさんが、口を、開いた。
私に、でも、父に、でもなく。膝の上の、剣に、向けた、声だった。
「私の剣は、私だけの、ものでは、なかった」




