第12章 第1話「剣の、本名」
夜明けの前。私は、武具庫の、暗がりに、立っていた。
父の剣が、壁の、架けに、掛かっている。
ヴィントヘルム。風の、兜。代々の、氏族長が、継いできた剣だ。いつか、氏族長を、継ぐ、私の手に、来る。
私は、それを、見上げていた。
この三年、夢の中で、誰かが、私を、呼ぶ。剣を、握れ、と。声は、いつも、途切れがちだった。目が、覚めると、半分しか、残らない。
けれど、客人の前で、その夢を、言葉にした。あの夜から、声が、少し、近い。
確かに、近い。
先祖が、応えているのだ。剣に、宿った、古い魂が、私の声を、聞いた。だから、近づいた。そうに、決まっている。
私は、それを、疑わない。氏族の年寄りが、ずっと、そう言ってきた。私も、そう、思ってきた。
ただ。
剣を持たぬ、あの客人が、母の歌を、書き取った夜の、震える手を、思い出す。あの少年は、何かを、見ている。私には、見えない。
借りが、できた相手だ。
私は、もう一度、剣を、見上げた。父は、許した。この剣の、古い銘を、客人が、読むという。
今日も、客人は、武具庫の前に、いるだろう。
朝の修練場の、縁に、一枚の卓が、出ていた。
私は、その上に、写し取った銘文を、広げていた。ヴィントヘルムの刀身を、薄い紙に当て、炭で、丁寧に、こすり取った写しだ。代々、誰も、読もうとしなかった、古い刻みの、連なりだった。家宝として、磨き、祈り、捧げてはきた。けれど、刻まれた言葉そのものを、読もうとした者は、いなかったらしい。
ルーンと、古い言葉が、混じっていた。
ルーンのほうは、イングリッドさんが、音を、教えてくれた。
母の書庫から、古い口伝の写しを、抱えてきて、卓の、向かいに、座る。そして、一つずつ、節のように、読んでくれる。意味は、分からない、と彼女は、言った。誰も、意味を、問わずに、ただ、音だけを、母から娘へ、継いできたのだと。
それでも、音は、千年、保たれていた。
擦り切れた紙の上の、ルーンの形と、彼女の口から、こぼれる音とを、私は、一つずつ、結んでいった。形だけでは、読めない。音だけでも、読めない。両方が、揃って、初めて、一つの語に、なる。
古い言葉のほうは、私の、帳面に、頼った。
砂の都の、井戸の下で、祖父たちが、残していった手帳。そこに、古い文法の、覚え書きが、あった。祖父が、書きかけて、私が、引き継いだ覚え書きだ。語の、終わりが、どう変わるか。どこで、言葉が、切れるか。覚え書きは、断片だったが、骨組みには、なった。
音と、文法を、突き合わせる。イングリッドさんの音で、語を、拾い、手帳の文法で、語の、切れ目を、引く。
少しずつ、読める語が、増えていった。「剣」。「手」。「呼ぶ」。意味の分かる語が、空白の中に、ぽつりぽつりと、灯っていくたび、私は、帳面に、書き留めた。
ファルは、卓の、端に、座って、見ていた。
シェフが、その膝で、丸くなっている。ときどき、欠伸をして、また、目を、閉じた。北へ来てから、夜に、落ち着かなかった相棒も、昼の、人の輪の中では、安らいでいるようだった。
「テオさん、これ、楽しい?」
ファルが、小声で、訊いた。私は、頷いた。
楽しい、というのとは、少し、違う。けれど、近い。読めなかった文字が、意味を、開く瞬間は、何にも、代えがたかった。前世から、書物の前で、ずっと、私を、捉えてきたものだ。それは、剣を、振れない私にも、許された、一つの道だった。
修練場の、奥から、シグルドさんが、こちらを、見ていた。
腕を、組んだまま、何も、言わない。けれど、咎める気配は、なかった。家宝の銘を、よそ者が、読み解くことを、嫌う氏族長も、いるだろう。彼は、そうしなかった。やがて、短く、口を、開いた。
「好きに、しろ。——娘の剣だ。娘が、許すなら」
それだけ言って、彼は、行った。剣を、持たぬ者の言葉を、初めて、信じてみる、と言った夜の続きが、その背中に、あった。
何日かが、過ぎた。
「また、ひとつ、読めたんですね」と、ファルが、自分のことのように、喜んだ。
写しの、上の、空白が、少しずつ、言葉で、埋まっていった。一行が、読めると、その前後の語も、繋がりやすくなる。文字は、互いに、寄りかかって、意味を、支え合っていた。
そして、ある朝。私の指が、一つの、連なりの上で、止まった。
刀身の、半ばに、刻まれた、一行だった。
イングリッドさんに、音を、もう一度、確かめた。手帳の、文法で、語の、切れ目を、引いた。一語ずつ、置いていく。「六なる」。「者の」。「手に」。語と語が、繋がって、意味が、立ち上がってきた。
六なる者の、手によりて、剣もまた、研がれよ
私は、その一行を、見つめたまま、動けなかった。
故郷の、書庫の、片隅。古い書物の、隅に、初めて、その四文字を、見た。意味は、分からなかった。ただ、なぜか、目が、留まった。
それから、南の海の、薄暗い文書館。白い衣の、老婦人が、机の上に、置いた、風化した石の欠片。消えかけた刻みの中に、辛うじて、読める連なりが、あった。六なる者の、手によりて。
そして、この、北の果てで。イングリッドさんが、低く、歌った、古い節。
同じ、言葉だ。
私は、ようやく、気づいた。
歌は、この、銘の、写しだったのだ。
ヴィントヘルムの刀身に、初めに、刻まれた言葉が、あった。それを、誰かが、節に、乗せて、歌い継いだ。意味を、問わないまま、千年。母から、娘へ。実物の銘が、消えかけても、歌が、言葉を、保った。
南の海の、石も、同じだ。風化して、ほとんど、読めなくなった刻みを、誰かが、書き写し、文書館に、納めた。
形は、違っても、保たれてきたのは、同じ、一つの言葉だった。
私は、帳面を、開いて、震える指で、書き留めた。
これまでは、ばらばらの、点だった。西の、故郷。南の、海。砂の、都。北の、果て。別の国で、別の年に、別の人の口から、聞いた。だから、別々のものとして、書いてきた。
けれど、もう、別々では、ない。
四つの場所は、同じ、源を、持っている。
それは、もはや、推し量りでは、なかった。確かめられた、繋がりだった。北の果てで、歌が、銘の、写しだと分かった、その瞬間に、線は、確信に、変わった。
私は、そこで、筆を、止めた。
では、誰が。何のために、この言葉を、撒いたのか。誰が、この剣を、打ち、初めの一行を、刻んだのか。海を隔てた、四つの場所に、同じ言葉を、遺したのは、どんな手だったのか。
それは、まだ、分からなかった。
問いだけを、帳面に、書いた。答えは、書けなかったから、空白のまま、残した。分からないことを、分からないまま、置く。それも、解読の、作法だと、祖父の手帳が、教えていた。
線は、引けた。けれど、線の、向こうにあるものは、まだ、闇の中だった。
その日の、夕。最後に残った、一句が、解けた。
刀身の、切っ先に、近い、ところ。いちばん、深く、刻まれた、連なりだった。これだけが、最後まで、読めずに、残っていた。私は、ルーンの音と、古語の文法を、最後の一語まで、繋いだ。
語の中に、聞き覚えのない、一語が、あった。固有の、名のように、扱われている語だった。イングリッドさんに、その音を、確かめる。風を、断つ、という意味の、古い言葉だと、彼女は、言った。
私は、その音を、声に、出さずに、読んだ。続く語を、繋ぐ。一行が、ひと続きの、意味に、なった。
風断ちの、名を、呼ぶ時、剣は、本来の、姿を、取り戻す
場が、静まった。
イングリッドさんが、写しから、顔を、上げた。私の、書き取った言葉を、彼女は、長いあいだ、見ていた。母から、娘へ、音だけを、継いできた節が、いま、意味を、開いていく。それを、見届けるような、目だった。
「……本名、だね」
低い、声だった。
「わたしたちは、ヴィントヘルムと、呼んできた。風の、兜と。けれど、それは——通り名、だったのだ。この剣には、もう一つ、もっと古い名が、ある」
炉の、傍に、ヒルダさんが、座っていた。
老女は、肩を、揺らして、笑った。けれど、その目は、笑っていなかった。
「アストリッド。お前には、この剣の、本名を、知る、権利が、ある」
アストリッドさんが、ヒルダさんを、見た。
「怖がるな。わしも、若い頃に、同じ顔をした。——名を、知るというのは、そういうものだ」
言って、老女は、炉の火に、目を、細めた。半世紀前の、何かを、見る目だった。
アストリッドさんは、しばらく、動かなかった。
それから、武具庫へ、行き、架けから、剣を、外して、戻ってきた。両手で、捧げるように、持っていた。鞘を、払う。古い刀身が、炉の火に、鈍く、光った。私が、写しを、取った、あの刃だった。半ばに、切っ先に、いまは、意味を、開いた言葉が、刻まれている。
「真の、姿を、取り戻す、か」
彼女は、剣を、両手で、持ち、その刃を、見つめた。
「呼べば、応える、というのか。——夢の声と、同じように」
私は、それには、答えなかった。
夢の声と、剣の銘が、同じ何かの、別の側面なのか。私には、まだ、分からない。ただ、彼女が、剣を、握る、その手つきには、迷いが、なかった。
日が、暮れかけていた。
アストリッドさんは、剣を、提げて、修練場の、中央へ、出た。雪が、薄く、積もった、地面だった。私と、イングリッドさんは、縁の卓の、傍に、残って、それを、見ていた。ファルの腕の中で、シェフが、片耳を、立てた。
彼女が、剣を、ゆっくりと、構えた。
氷青の瞳が、刃の、向こうを、見据えていた。声には、出さない。ただ、胸の内で、何かを、確かめている、横顔だった。本名を、知った剣。三年、夢で、呼ばれてきた手。その二つが、いま、初めて、向き合っている。
風が、低く、渡った。
剣が——かすかに、鳴った。




