第11章 第1話「剣は、来たものしか、斬れない」
翌朝、長家の戸を、外から、叩く音で、目が、覚めた。
まだ、暗いうちだった。炉の火は、赤い熾になって、灰の中で、息をしていた。私は、毛皮を、はね除けて、起き上がった。
戸口に、若い戦士が、立っていた。息が、白く、肩で、上下していた。走ってきたらしい。
「外れの牧が、また、やられた」
奥から、アストリッドさんが、出てきた。
すでに、革のチュニックを、着込んでいた。眠っていた様子は、なかった。
「何頭だ」
「羊が、二頭、やられました。山犬の、群れです。——もう、十日です、アスリ姉さん」
アストリッドさんの、頬が、わずかに、硬くなった。
「二晩、追った。二頭、斬った。——だが、主格を、仕留めれば、終わると、思っている」
低い声だった。誰かを、責める声では、なかった。自分に、向けた声だった。
「止まって、いない」
戸口の戦士が、頷いた。
そのとき、別の足音が、近づいてきた。
港からの、使いだった。
「シグルド様の船が、一日、遅れます。北の海が、荒れて、湾の外で、待たされていると」
アストリッドさんは、短く、息を、吐いた。
「では、父の戻りは、明後日の夜だな」
夕餉も、一族の顔合わせも、一日、延びた。
それは、彼女が、私の目的を、量る期間が、一日、延びたということでもあった。学院の紙ではなく、彼女自身の目で。
私は、口を、開いた。
「私も、その牧へ、連れて行って、いただけませんか」
アストリッドさんが、私を、見た。
「剣は、振れないのだろう」
「振れません。けれど、見ることなら、できます」
彼女は、少しの間、私を、見定めていた。
それから、剣を、腰に、差した。
「足手まといなら、置いていく。——いいな」
「はい」
外は、雪だった。
牧へ向かう道は、固く、凍りついていた。下り坂の途中で、私は、何度も、足元を、確かめた。前を行く彼女の、歩幅は、一度も、乱れなかった。
外れの牧は、都の斜面を、下りきって、低い谷あいに、あった。柵で、囲った、ゆるい斜面に、羊が、身を寄せ合っていた。雪が、その背に、薄く、積もっていた。
私たちは、柵の、内に、入った。
そこから先は、待つだけだった。じっとしている分、寒さは、足の裏から、上ってきた。私は、指先を、何度も、握り直した。剣を、振れない私に、できる備えは、それくらいだった。
日が、暮れた。
風が、出てきた。雪が、横に、流れ始めた。息が、白い。雪は、視界のすべてを、白く霞ませ、柵の向こうの斜面も、その上の闇も、しだいに、見えなくなった。
ファルが、隣で、外套の、膨らみを、そっと、撫でた。中で、シェフが、丸くなっている、らしかった。
「番は、僕たちが、するから」
ファルが、小声で、言って、小さく、笑った。
夜が、更けると、アストリッドさんが、すっと、前に、出た。
そして、何も、言わずに、片腕を、横へ、伸ばした。
私とファルを、自分の、背後へ、下げる、仕草だった。
声は、なかった。ただ、その背中が、壁のように、私たちの、前に、立っていた。
坂の上で、エイリークさんが、言った言葉が、ふと、形になって、戻ってきた。
強い者は、弱い者を、背後に、置く。それが、こっちの、流儀だと。
いま、その流儀が、目の前に、あった。
説明では、なかった。背中で、示された。
そのとき、斜面の、上の闇から、白いものが、いくつも、滑り降りてきた。
山犬だった。
冬毛の、白い、痩せた獣だった。
雪の色に、紛れて、輪郭が、つかみにくい。低く、身を、伏せて、群れで、寄せてくる。数えるなら、六、七頭。獲物を、追う、ただの、獣の、目だった。
「来い」
アストリッドさんの、声が、低く、落ちた。
先頭の一頭が、跳んだ。
その瞬間、ふと、まわりの、音が、薄くなった。
風の、唸りも、雪を、踏む、足音も、彼女の、構えた一点に、吸われていくようだった。それは、修練場で、一度、見たものの、続きだった。
剣が、一閃、した。
無駄が、なかった。跳んだ、一頭を、空中で、捉え、地に、落とした。返す刃で、横から、来た、二頭目を、退けた。
派手さは、なかった。
ただ、来たものを、的確に、迎え、地に、伏せていく。それだけだった。
群れの、後ろのほうに、ひときわ、体の、大きな一頭が、いた。
アストリッドさんは、その一頭へ、まっすぐ、踏み込んだ。
剣が、弧を、描いた。大物は、声も、上げずに、雪の上に、沈んだ。
群れが、崩れた。
残った数頭は、斜面の上へ、散り散りに、逃げていった。
「これで、終わる」
剣を、納めながら、彼女は、言った。
声には、確かさが、あった。私も、そう、思った。
けれど、翌朝、それは、覆された。
夜が明けて、別の使いが、走ってきた。
「南の、牧が、やられました。——夜のうちに」
アストリッドさんは、しばらく、その報せの、意味を、量るように、立っていた。
「……南の牧。昨夜、私たちが、いたのは、東の牧だ」
修練場の隅から、あの一振りを、見ていた、若い女戦士が、そばに、いた。シグニーだった。
「罠を、増やしましょう。柵沿いに、ぐるりと。手の数を、割けば」
シグニーの、声には、迷いが、なかった。
守る側に、立ち続けてきた者の、確かな、備えの話だった。
アストリッドさんは、答えなかった。
代わりに、雪の上に、片膝を、つき、昨夜、斬った大物の、亡骸を、見下ろした。
「三晩で、四頭。主らしいのも、斬った。——それでも、止まらない」
その声は、低かった。
「斬っても、減らない。なぜだ」
彼女は、声を、荒げなかった。
ただ、膝の上の、拳が、ゆっくりと、握られて、指の節が、白く、なった。それだけが、彼女の、内側を、語っていた。
私は、その拳を、見ていた。
そして、帳面を、開いた。
「いくつか、伺っても、いいですか」
アストリッドさんが、私を、見上げた。
「どの牧が、どの夜に、やられたか。風は、どちらから、吹いていたか。——そして、何が、食われたか」
彼女は、怪訝そうな、顔を、した。けれど、答えてくれた。シグニーも、覚えている限りを、足してくれた。
私は、それを、一つずつ、書き取った。
牧の、場所。夜。風向き。被害。
書きながら、一つのことに、気づいた。
「羊は、二頭、襲われた。けれど——食われては、いない」
「……何?」
「噛み殺されただけで、ほとんど、残っている。十日のあいだ、家畜の、被害は、出ている。けれど、食べられた家畜は、ほとんど、いません」
私は、もう一つ、訊いた。
「この牧に、家畜のほかに、何か、置いていませんか。——蓄えの、たぐいを」
シグニーが、思い出したように、言った。
「干した、魚なら。冬の、蓄えに、小屋に。——それなら、ずいぶん、やられてます」
私は、帳面の、上で、線を、結んだ。
「狙いは、家畜では、ない。干した、魚のほうです」
「魚……」
アストリッドさんが、ゆっくりと、立ち上がった。
「今年は、海が、荒れている、と聞きました。浜の漁が、減れば、山にも、屑の魚が、出ない。獣たちは、いつもの、冬の餌を、失った」
私は、慎重に、言葉を、選んだ。
これは、ただの、自然の巡りだ。荒れた海も、痩せた獣も、何か、大きなものに、結びつけるべきではない。私は、それを、自分に、言い聞かせた。
「腹を、空かせた群れが、蓄えの、匂いに、降りてきた。羊は、その、ついでに、襲われただけです。——主を、斬っても、腹は、満ちない。腹が、満ちないかぎり、餌の、ある場所には、別の、群れが、流れてくる。だから、止まらないのです」
アストリッドさんは、長いあいだ、黙っていた。
「干し魚を、石の倉へ、移してください。獣が、近づけない、固い倉へ。——あわせて、山際に、屑の魚を、ひと冬ぶん、撒いておく。獣の、餌を、人の蓄えから、山へ、戻すのです」
それは、剣の、いらない、答えだった。
その夜、私たちは、また、牧で、過ごした。
雪は、静かに、降っていた。
風は、低く、唸っていた。けれど、闇の、斜面から、白いものは、降りてこなかった。
明け方まで、待った。
牧は、静かなままだった。
アストリッドさんは、剣の、柄に、手を、置いたまま、夜明けの、空を、見ていた。
抜かずに、終わった、剣だった。
「剣は——来たものしか、斬れないな」
ぽつりと、彼女は、言った。
「来ない理由のほうは、斬れない。なぜ、来るのか。それを、見て、いなかったのは、私の、ほうだ」
彼女は、抜かずに、終わった、剣の、柄を、軽く、握り直した。
「四頭、斬った。腕は、足りていた。——足りなかったのは、目だ。私は、来るものを、見ていた。お前は、来ない夜の、ことを、考えていた」
それから、彼女は、私を、見た。
氷青の、瞳に、夜明けの、光が、差していた。
「……借りが、できたな」
短い、一言だった。
けれど、それは、修練場で、初めて、私を、見たときの、値踏みの目とは、違っていた。
私は、その一言を、胸の、内に、置いた。
返す言葉は、見つからなかった。見つからないままで、よい一言も、あるのだと、思った。
坂の、上から、角笛の音が、長く、響いてきた。
港の、方角だった。
シグニーが、顔を、上げた。
「湾に、入る、合図です。——一日、遅れの」
アストリッドさんが、立ち上がった。
父が、戻って、きた。




