第10章 第2話「音が、消えた」
その視線は、私を、見定めるように、動かなかった。
エイリークの、明るさとは、別の種類の、落ち着きだった。
声を、荒げる気配が、まるで、なかった。
「アストリッドだ。——ハーヴィンの、娘だ」
それから、彼女は、剣の切先を、地に、下ろした。
「フランディアから、ここまで、来た目的が、あるのだろう。聞かせてもらおう」
私は、姿勢を、正した。
アストリッドさん、と、心の中で、呼び方を、決めた。
「祖父たちが、半世紀前に、書きかけた、問いを、追っています」
「世界には、六つの、異なる知が、ある。それが、揃わねば、見えないものがある、と」
「私が、持っているのは、その、ひとつだけです。残りを、訪ねて、歩いています」
彼女は、黙って、聞いていた。
剣の、切先を、地に、つけたまま、私の言葉の、一つずつを、量るように、見ていた。急かす様子は、なかった。話を、遮ることも、なかった。ただ、聞いていた。それは、人の話を、よく聞く者の、静けさだった。
「その、ひとつが、ここに、あると」
「剣で、神に、近づく知。——私の、知らない、もう一つの知です。ハーヴィン氏族の、古い剣歌と、伝承を、聞かせてほしいのです」
彼女は、少し、首を、傾けた。
「剣を、学問に、するのか」
「いえ。学問を、剣に、近づけたいのです」
「振ったことは」
私は、答えに、詰まった。
「……ありません」
「ない、のか」
「ありません。——だから、来ました」
その一言で、彼女の、瞳の色が、わずかに、変わった。
値踏みの、冷たさが、半呼吸ぶん、和らいだ。
「……正直だな」
低く、短く、彼女は、言った。
「剣を、知らない者ほど、知った口を、きく。お前は、その逆だ」
「——だが、それと、お前の、目的を、認めるかは、別の話だ」
それから、彼女は、剣を、握り直した。
「言葉より、見たほうが、早い。——下がっていろ」
私は、修練場の、縁まで、退いた。
彼女が、土間の、中央へ、歩み出た。
そして、剣を、構えた。
その、瞬間だった。
音が、引いた。
それまで、絶え間なく、聞こえていた、炉の、火の、はぜる音が、すうっと、遠のいた。
坂の下の、海の音も、遠い、鍛冶の、打つ音も、ひとつ残らず、後ろへ、退いていった。
私の、耳の中に、残ったのは、自分の、心の臓の、音だけだった。
世界から、音という音が、彼女の、構えた一点に、吸い寄せられて、消えたようだった。
彼女が、踏み込んだ。
剣が、ひとつの、弧を、描いた。
無駄が、なかった。速さが、見えないほど、滑らかだった。
体の、軸が、まったく、ぶれなかった。
足の、運びも、肩の、開きも、すべてが、一つの、流れの中に、あった。剣だけが、動いているのでは、なかった。彼女の、体ぜんたいが、剣に、なっていた。
風が、その後を、追って、遅れて、鳴った。
剣が、止まり、彼女が、息を、吐いた、その、瞬間。
音が、戻ってきた。
炉の、はぜる音。海の音。鍛冶の音。世界が、堰を、切ったように、一度に、耳へ、戻った。
私は、立ち尽くしていた。
誇張だと、思っていた。
剣を、構えると、まわりの、音が、消える。傭兵の、酒場の、誇張だと。たぶん、見入った者が、そう、感じただけだと。
私が、間違っていた。
理屈で、減らして、しまった分が、いま、まるごと、私の、耳に、返ってきていた。
なぜ、音が、引くのか。
その問いは、すぐには、解けなかった。解こうと、することすら、できなかった。
集中、という、一語では、足りなかった。
たしかに、人が、何かに、深く、入り込んだとき、まわりの、音が、聞こえなくなることは、ある。私にも、覚えが、あった。けれど、それは、自分の、内側の、話だ。彼女の、構えは、私の、耳の、外で、音を、引いた。それは、別の、ものだった。
私は、帳面を、開いた。
そして、見たままを、書いた。
構え。音が、引く。剣が、止まると、音が、戻る。理由、不明。
理由を、書く欄は、空けて、おいた。
いまの、私には、それを、埋める言葉が、なかった。
修練場の、隅で、若い、女の戦士が、見ていた。
アストリッドさんより、少し、年下だろうか。私たちの、視線に、気づくと、誇らしげに、言った。
「アスリ姉さんの、構えは、誰にも、真似、できません」
アスリ。
氏族の者は、彼女を、そう、呼ぶらしかった。
私には、まだ、遠い、呼び名だった。
後で、その娘は、シグニーと、呼ばれていた。
氏族の、若手の、戦士の一人だと、知れた。
その声には、当たり前のことを、言う、響きがあった。
ここでは、それは、自慢ではなく、ただの、事実なのだと、分かった。
剣を、納めて、アストリッドさんが、こちらへ、歩いてきた。
「見たな」
「見ました。——言葉で、聞いた、何倍も」
彼女は、ふっと、息だけで、笑ったように、見えた。
「来い。母たちに、引き合わせる」
修練場を、出ると、外は、夕暮れの色に、なっていた。
冷えた空気を、ひと呼吸、吸い込んだ。耳の奥には、まだ、あの、音の引いた、静けさが、残っていた。
長い家の、大広間は、中央に、大きな炉が、切ってあった。
火が、赤々と、燃え、煙が、屋根の、穴へ、立ち上っていた。
炉に、掛けた、鍋から、湯気が、上がっていた。乳と、麦の、匂いがした。
壁には、剣と、盾が、掛かっていた。
壁の、剣は、どれも、古く、けれど、よく、手入れが、されていた。
刃が、火を、映して、鈍く、光っていた。エイリークが、坂で、言った通りなら、この一振り、一振りに、祖先の、魂が、宿っているのだろう。私には、まだ、その感覚は、分からなかった。けれど、剣を、ただの、道具とは、見ない目が、ここには、あった。
炉の、傍に、女が、一人、座っていた。
静かな、佇まいだった。その女が、口を、開いた。
「あなたが、賢者どの」
声が、低く、節のように、流れた。
「イングリッドだ。私の、母だよ」
アストリッドさんが、言った。
イングリッドは、私を、しばらく、見つめた。
それから、穏やかに、口を、開いた。
「剣は、振る者の、心を、映す鏡。——あなたの、心は、澄んでいるね、賢者どの」
それ以上は、何も、訊かなかった。
ただ、私の、来た理由を、もう、見抜いているような、目だった。
炉の、向こうから、笑い声が、上がった。
白髪を、束ねた、老いた女が、私を、見て、肩を、揺らしていた。
「小さき賢者。——お前さん、剣は、振れぬが、言葉で、剣を、抜くのだな」
「祖母の、ヒルダだ」
ヒルダは、よく、笑った。
その笑いには、若い頃に、剣を、握っていた者の、鋭さが、まだ、残っていた。
「悪く、ないぞ。剣を、知らぬ者の、目で、ここを、見ろ。——わしらの、見えぬものを、お前は、見るかもしれん」
私の、足元に、小さな、影が、駆け寄ってきた。
九つか、十ほどの、少年だった。
「ねえ、賢者って、剣より、強いの?」
目を、輝かせて、私を、見上げていた。
「姉ちゃんと、どっちが、強い?」
「トルヴェ。客人を、困らせるな」
アストリッドさんが、たしなめた。
けれど、少年は、私の、答えを、待っていた。
私は、少し、考えてから、正直に、言った。
「比べたことが、ありません。——比べ方も、まだ、知りません」
トルヴェは、きょとんと、した。
それから、ふしぎそうに、首を、傾げた。
「比べ方を、知らないの? 賢者、なのに?」
「ええ。知らないことの、ほうが、ずっと、多いのです」
トルヴェは、なおさら、不思議そうな、顔を、した。
賢者という、言葉は、この少年には、何でも、知っている者、という意味だったらしい。私は、その期待を、裏切ってしまったようだった。けれど、嘘を、つくよりは、よかった。
ヒルダが、また、笑った。
炉に、薪を、足しながら、エイリークが、にやりと、した。
「言ったろ、賢者。妹は、紙では、動かない。——だが、嘘を、つかない奴の話なら、聞く」
アストリッドさんが、炉の、火を、見ながら、言った。
「客人として、私が、預かる。——氏族の、許しは、私が、取る」
それは、決定だった。
エイリークが、坂で、言った通り、紙ではなく、彼女自身が、私を、認めた。
「明日の、夜、一族が、揃う。——父も、戻る。それまでに、お前の、目的を、私が、量る」
火が、爆ぜた。
私は、頷いた。
夜が、更けて、人が、散った後も、私は、炉の、傍に、残った。
ここへ、来るまでに、聞いてきた話を、一つずつ、思い返した。
次の、氏族長に、なる娘だと、傭兵は、言った。
たった一人で、殿を、務めたと。凍る海で、船団を、守ったと。
剣で、話す娘だと、古参の傭兵は、言った。
剣を、構えると、まわりの、音が、消える、という話も、あった。
私は、その、どれもを、帳面に、書いて、数えてきた。
けれど、今日、見た一振りは、その、どの言葉より、ずっと、先に、あった。
殿も、船団も、人の、強さの話だと、私は、思っていた。音が、消えるのは、誇張だと、減らしていた。
数えてきた、噂の、ひとつとして、目の前の、彼女に、届いていなかった。
私は、帳面に、一行、書き足した。
噂は、足りて、いなかった。




