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第10章 第1話「剣の音の都」

船は、川を下りきって、海へ出た。


最初の朝、水の色は、まだ、見慣れた緑がかった青だった。


それが、北へ進むにつれて、少しずつ硬くなっていった。


緑が抜けて、鉛のような灰青に変わった。波は低く、長くうねった。


手すりを握ると、指がすぐにかじかんだ。


息が白くなった。フランディアの冬でも、ここまでは冷えなかった。乾いた刃のような冷たさが、外套の縫い目から、忍び込んできた。


二日目、霧が出た。


帆が湿って、重く垂れた。船頭は、その霧の中を、勘だけで進んでいるようだった。


前が見えないということが、これほど、心細いとは、思わなかった。


「北の海は、今年は、荒れてる」


舵を握ったまま、船頭が、言った。


ファルケンブルクの河港で、聞いたのと、同じ言葉だった。


「ここ何年か、ずっとな。——だが、今日は、まだ、ましな方だ。流氷が、出てねえだろう」


私は、舳先の先を、見た。


霧の向こうに、ときどき、白いものが、浮かんでは、消えた。氷の欠片だった。


水面に、白が散っていた。


近づいて見ると、思っていたより、ずっと大きかった。海そのものが、固まりかけているようだった。


足元で、シェフが、震えていた。


砂の国の、乾いた熱を、知っている猫には、この寒さは、応えるらしい。シェフは、ファルの足を、何度も、見上げた。


そして、つと、ファルの外套の、毛皮の内側へ、もぐり込んだ。


「あ、こら、シェフ」


ファルが、慌てて、襟元を、押さえた。


毛皮の合わせ目から、シェフの片耳だけが、つんと、出ていた。


「僕の、外套は、もう、シェフの、家です」


ファルが、困った顔で、言った。


私は、思わず、笑った。海の上で、初めての、笑いだった。


ナフーは、ファルの手首で、静かにしていた。ホルは、帆柱の横木に止まって、北の空を、まっすぐ、見ていた。嫌がる様子は、なかった。


ファルが、舳先に、立った。


桟橋で、初めて、海を見た日、ファルは、足が、すくんでいた。けれど、いまは、揺れる甲板に、両足で、立っていた。


「テオさん。海って、こんなに、色が、変わるんですね」


「ああ。北へ来るほど、硬くなる」


ファルは、海の色を、覚えるように、じっと、見ていた。


砂の子の目に、北の海が、映っていた。


三日目の、夕方近く、霧が、晴れた。


そして、目の前に、陸が、立っていた。


「着いたぞ。——ヴィンドールだ」


陸、というより、壁だった。


海からいきなり切り立った岩の崖が、両側にそびえ、その間を、細い水路が奥へと続いていた。


船は、その水路へ、入っていった。


両岸の崖は、見上げても頂が霞んでいた。


首が痛くなるほど高かった。岩肌に、雪が筋になって残っていた。海の両側に、空が細く切り取られていた。


崖の上から、細い滝がいくつも落ちていた。


落ちる途中で、霧になって消えていく水もあった。岩肌の黒と、雪の白と、滝の銀とが、縦に層をなしていた。


水路の奥に、都が、あった。


斜面にへばりつくように、家々が積み重なっていた。低いところに、港。中ほどに、煙。高いところに、石造りの、大きな建物。


街そのものが、空へ向かって立ち上がっているようだった。


平らな土地を広く使うフランディアの街とは、まるで違った。ここでは、人が崖にしがみついて暮らしていた。土地が狭ければ、上へ伸びるしかない。理屈は分かった。けれど、目の前のその立ち方は、理屈を超えて、私を見上げさせた。


港に、船がずらりと並んでいた。


細長く、舳先の反り上がった北の船だった。竜の頭を刻んだものも、あった。


桟橋に船を寄せると、冷たい潮の匂いに、木と煙の匂いが混じった。


船を、降りた、その足元で、すぐに、声が、かかった。


「よそ者だな。——保証状は」


槍を持った、戦士が、二人、立っていた。


毛皮の上に、簡素な、鎖の帷子を、着ていた。


「ノルディアは、氏族の、土地だ。誰の、客だ」


私は、懐から、紹介状を、取り出した。


赤い封蝋に、学院の紋が、押されていた。


戦士は、それを、受け取って、封蝋を、検めた。


「フランディアの、学院か。——で、誰に、用だ」


「ハーヴィン氏族の、娘御に」


戦士の、片方が、もう一人と、目を、見交わした。


「ハーヴィンに、客だと」


もう一人の戦士が、私を、上から下まで、見た。


それから、少し、声を、和らげた。


「あんた、南から、来たのか。学院は、南の、もっと先だろう」


「途中、南の、砂の国にも、寄りました」


戦士は、ふと、目を、細めた。


「砂の国なら、俺も、行った。——若い頃に、傭兵で、一度な」


その声には、世間話とは、違う、手触りがあった。


実際に、そこに、立った者の、声だった。


「あの、暑さと、乾きは、剣を、駄目にする。——あんたら、よく、生きて、戻ったな」


私は、頷いた。


「なんとか、です」


戦士は、それ以上は、訊かなかった。


ただ、その目に、一瞬、同じ路を、通った者だけが、交わす色が、あった。


紹介状を、私に、返して、顎で、斜面の上を、指した。


「ハーヴィンの、屋敷は、上だ。——使いを、出しておく」


港から斜面を上る道は、石を組んだ、急な坂だった。


坂は急で、息が切れた。石の段は雪と氷で滑りやすく、私は二度、足を取られかけた。検めの戦士の使いが先に走ったのか、すれ違う者たちは、私たちを見ても咎めなかった。ただ、物珍しげに、振り返った。


中ほどまで上ると、空気が変わった。


炉の火の匂い。金属を打つ、規則正しい音。どこかで、低い歌の声が、聞こえた。


戸口ごとに、小さな炉があった。


その火で、人々は暖を取り、鉄を打っていた。子供が刃の研ぎ方を教わっていた。女が革の帯を縫っていた。歌は、その手の動きに合わせて、流れているようだった。


ここでは、絶え間なく、剣が、打たれている。


港の、冷たい潮の都から、火と、音の、都へ、一段、上ってきたのだと、分かった。一つの都の中に、いくつもの、層があった。下は、水と、潮。中ほどは、火と、鉄。そして、いちばん高いところに、氏族の、館がある。


坂の途中で、大柄な、若い戦士が、私たちを、待っていた。


「おい。賢者ってのは、あんたか」


明るい、よく通る声だった。


私より、頭ひとつ半、背が高く、肩幅も、広かった。


「そうですが」


戦士は、私を、まじまじと、見て、それから、豪快に、笑った。


「そんな、細っこい体で、北海を、渡ってきたのか。——根性だけは、氏族の戦士並だな」


「エイリーク・ハーヴィンだ。あの娘の、兄だよ」


エイリークと、名乗った男は、軽い足取りで、坂を、上り始めた。


私たちは、その後に、続いた。


「妹が、お前を、直接、迎えるって、言ってる。——珍しいことだ」


「紹介状を、お持ちしました」


「ああ、聞いてる。——だがな」


エイリークは、振り返らずに、言った。


「妹は、紙では、動かない。会ってから、決める。そういう、奴だ」


紙は、戸口を、開けるだけ。中で、どう扱われるかは、腕次第。


帳場頭の、無骨な指の、あの言葉が、坂の上で、形になっていくようだった。学院の名は、ここまでの、扉を、開けてくれた。けれど、その先は、私が、自分で、開けるしかない。


道の脇に、剣を、立てて、祈っている、老人がいた。


「氏族じゃ、剣は、祖先の魂の、器なんだ」


私の視線に、気づいて、エイリークが、言った。


「だから、剣を、拾うときは、敬う。——あと、強い者は、弱い者を、背後に、置く。それが、こっちの、流儀だ」


エイリークの、足元を、シェフが、ちらと、見上げた。


「猫連れの、客は、初めてだ」


エイリークは、また、笑った。


ファルが、照れたように、頭を、下げた。


坂を、上りきると、石造りの、長い家が、あった。


低く、横に、伸びた、頑丈な建物だった。屋根は、芝で、覆われていた。


ここが、いちばん、高い。


振り返ると、坂の下に、都の全部が見えた。火の煙がいくつも立ち上り、その向こうに、海が灰青に光っていた。流氷の白い点が、遠くに散っていた。私は、いま、そのすべてを、見下ろす場所に、立っていた。


その、屋敷の、脇から、剣の音が、聞こえていた。


ひゅう、と、空を、切る音。一定の、間で、繰り返されていた。


「修練場だ。——妹は、たぶん、そこにいる」


エイリークが、屋敷の、横手へ、回った。


私は、その後を、追った。


板で、囲った、広い土間の、中央に、一人、立っていた。


長身だった。私より、頭ひとつ、大きい。


薄い金髪を、革紐で、一つに、まとめていた。


剣を、振っていた。


その、振りの音だけが、規則正しく、続いていた。


炉の火の音も、海の音も、遠い鍛冶の音も、その振りの、間に、吸い込まれていくようだった。


私は、立ち止まった。


足音に、気づいたのか、振りが、止まった。


そして、ゆっくりと、振り向いた。


氷のように、薄い青の、瞳だった。


その瞳が、私を、捉えた。


頭の、てっぺんから、足の、先まで、ひと撫でするように。


「ずいぶん、年下の、研究者だな」

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