第9章 第2話「点は、まだ、線ではない」
夜の、宿の、部屋で、僕は、シェフを、撫でていた。
シェフは、今夜も、眠らない。
僕の膝の上で、まるくなっては、すぐに、起き上がる。
耳を、立てて、窓の外を、うかがう。
そういう夜が、北へ来てから、ずっと、続いている。
僕は、シェフの、背中を、撫でながら、シェレムさまの声を、聞いていた。
契約の神さまは、たくさんの、小さな声で、僕に、話しかけてくれる。
ひとつひとつは、短くて、すぐに、途切れる。
風が、運んでくる、葉っぱの、ささやきみたいに。
僕は、それを、ぜんぶ、受け取る。
温かい声だ。
契約の神さまは、元々、こういう、ものだから。
僕は、それを、疑ったことが、ない。
ナフーは、手首で、静かに、している。でも、ときどき、思い出したように、輪を、解いては、巻き直す。
ホルは、椅子の背で、目を、閉じている。眠っては、いない。羽が、ときどき、小さく、立つ。
三匹とも、少しずつ、いつもと、違う。
いちばん、眠れていないのが、シェフだ。
僕は、それが、少し、心配だった。
ちゃんと、眠れているのかな。
神さまのことより、僕は、相棒の、寝不足のほうが、気がかりだった。
隣の卓で、テオさんが、帳面に、何かを、書いている。
低い、灯りの下で、ずっと。
僕は、シェフを、抱え直して、そっちを、見た。
「テオさん」
私は、帳面から、顔を、上げた。
ファルが、シェフを、抱えたまま、こちらを、見ていた。
「シェフ、また、眠れないのか」
「はい。——でも、シェフだけじゃ、ないんです」
ファルは、少し、声を、落とした。
「三匹とも、夜になると、落ち着かないんです。ナフーも、ホルも。前は、こんなこと、なかったのに」
私は、筆を、止めた。
それは、街道の夜に、聞いた、シェフ一匹の話より、一つだけ、進んだ話だった。
「いつから」
「北へ、来てから、だんだん。——気のせい、かもしれないけど」
ファルは、それ以上は、言わなかった。
砂漠の子だから、と、片づけることも、もう、しなかった。
ただ、事実として、それを、口に、した。
私は、その一言を、帳面に、書き取った。
三匹とも。
シェフだけの、夜更かしなら、猫の事情で、片づいた。
けれど、三匹となると、それは、もう、一匹の、気まぐれでは、ない。
そして、しばらく、灯りを、見ていた。
故郷で、聞いた、声の痩せ。
南の海で、聞いた、市場の噂。
砂の国で、ファルが、目覚めさせられた、召喚獣たち。
そして、いま、北の、神官たちの、夢。
私は、それらを、一つずつ、思い返した。
別々の、土地の、別々の話だ。
語った口も、違う。形も、違う。
けれど、どれも、何かが、いつも通りでは、ない。
それだけは、共通していた。
「ファル」
「はい」
「我々が、見てきた異変は——我々が、見たものだけでは、ないのかもしれない」
ファルは、私の言葉の、意味を、はかるように、首を、傾げた。
「世界中で、同じことが、起きている、ということ、ですか」
私は、答えなかった。
答えを、持っていなかった。
ただ、その問いを、声に、出した、自分に、驚いていた。
「分からない。——だが、訊いて、おくべき問いだ」
私は、帳面の、新しい行に、ゆっくりと、書いた。
仮説——六つの柱は、それぞれ、別々に、弱っているのでは、ないか。
祖父たちの問いが、正しいなら、これは、一つの国の、話では、ない。
かもしれない。
書いてから、私は、その「かもしれない」を、消さなかった。
まだ、断言できることは、何も、なかった。
分からないことの、台帳に、また一行、増えただけだった。
ファルは、私の手元を、覗き込んで、それ以上は、訊かなかった。
シェフが、膝の上で、ひと声、鳴いた。
数日が、過ぎた。
役所で、紹介状を、受け取った。
学院の、紋が、押された、封蝋が、赤く、光っていた。
役人は、相変わらずの、口ぶりで、それを、寄越した。
「上の判も、揃えてあります。——確かに、お渡ししました」
「ありがとうございます」
「物好きの、旅に、幸運を」
その「物好き」には、少しだけ、人間味が、こもっていた。
河港で、北行きの船を、探した。
川を、下って、海へ、出て、ノルディアへ、渡る船だ。
引き受けてくれた、船頭は、髭の、濃い男だった。
「北の海は、今年は、荒れてる」
世間話のように、男は、言った。
「ここ何年か、ずっとな。海の機嫌が、おかしいのさ。——まあ、渡れねえほどじゃ、ねえ」
私は、その一言を、覚えて、おいた。
書くか、どうかは、まだ、決めかねた。
宿に、戻ると、主人が、帳場の前で、私を、待っていた。
「明日、出るんだってな」
「ええ。世話に、なりました」
主人は、布巾を、肩に、かけたまま、訊いた。
「弟は、役に、立ったか」
「立ちました。北の路が、見えました」
主人は、満足げに、頷いた。
それから、ふと、思い出したように、付け加えた。
「そもそも、なんで、うちを、選んだ」
私は、ファルのほうを、ちらと、見た。
「あなたの、宿を選んだのは——連れの、勘です」
主人は、片眉を、上げて、ファルを、見た。
ファルは、照れたように、頭を、下げた。
「勘で、当たりを、引いたか。——大した、連れだな」
主人は、それだけ、言って、奥へ、引っ込んだ。
森を、抜けた日に、ファルが、顔で、選んだ宿は、ちゃんと、北への扉に、なっていた。
その、回り道が、最後に、ひとつ、閉じた。
出立の、前夜だった。
私は、帳面を、見開きで、開いた。
白紙の、二頁に、大陸の、おおよその形を、描いた。
海岸線。山脈。川。記憶を、頼りに、線を、引いた。
旅で、通ってきた道を、指で、なぞるように、思い出した。
正確では、なかった。それでも、形は、見えた。
大陸は、思っていたより、ずっと、広かった。
そこへ、私は、聞いてきた異変を、一つずつ、点で、置いていった。
まず、西の端に、点を、置いた。
故郷だ。
幼い日から、聞いていた、呼びかけの声が、年々、痩せていた。
道端の、祠が、欠けていた。
当たり前だと、思っていたものが、少しずつ、薄れていた。
次に、南の海辺に、点を、置いた。
市場で、聞いた、噂。
神の声が、遠くなった、という、人々の、ぼやき。
たしかなことは、何も、なかった。ただ、声が、聞こえにくい、と、皆が、口を、揃えていた。
南の、砂の国にも、点を、置いた。
祖父たちが、半世紀前に、書きかけた、問い。
そして、南の遺跡で、眠っていたはずの、ものが、目を、覚まさせられて、いたこと。
あれは、本来、もっと、ずっと、深く、眠っているはずだった。
この点だけ、置く手が、少し、重かった。
理由は、自分でも、分からなかった。
最後に、北の端に、点を、置いた。
神官たちの、夢。
剣の神の声を、聞いたという、娘。
三たび、聞こえた、北の娘の名。
その点を、私は、いちばん、濃く、置いた。
私は、筆を、止めた。
そして、見開きを、じっと、見た。
点が、四つ。
大陸の、西の端から、北の端まで。
端から、端まで、散っていた。
一つの、土地の話では、なかった。
少なくとも、それだけは、見て、分かった。
船頭の、言っていた、海の機嫌は、置かなかった。
海は、広すぎて、点に、ならなかった。それに、あれが、これらと、同じ話なのかどうかも、私には、まだ、分からなかった。
私は、点と、点を、線で、つなぎたく、なった。
筆を、その上に、運びかけて——止めた。
つなぐ理由を、私は、まだ、一つも、持っていなかった。
四つの点が、同じ理由で、生まれたという、証は、どこにも、ない。似ているものを、線で、結ぶのは、いちばん、危うい。
砂の国の、井戸の下で、私は、答えの、書かれていない、頁を、見てきた。
祖父たちは、確かめられない問いを、問いのまま、置いておいた。
その、踏みとどまり方ごと、私は、受け継いだのだ。
数えた点は、四つ。
それは、確かに、多かった。多すぎる、ほどだった。
——まだ、早い。
私は、筆を、置いた。
点は、まだ、線では、ない。
そう、自分に、言い聞かせて、帳面を、閉じた。
けれど、閉じる、間際に、見た、その一枚は、私の目の、奥に、残った。
大陸を、またいで、散らばる、四つの点。
翌朝、空は、晴れていた。
河港に、船が、待っていた。
シェフは、ファルの腕の中で、まだ、少し、落ち着かなげに、していた。
ナフーは、手首で、静かだった。ホルの宝玉は、淡く、光っていた。
船頭が、舫いを、解いた。
「北は、寒いぞ。覚悟は、いいか」
「はい」
ファルが、答えた。海を、初めて、見た桟橋とは、違う、落ち着いた声だった。
船が、川を、下り始めた。
岸が、後ろへ、流れていった。
ファルケンブルクの、木組みの家並みが、遠ざかった。
宿の、軒先が、最後に、見えた。
ファルが、顔で、選んだ、あの宿だ。
もう、戻らない、土地だった。
私は、帳面を、ひと撫でして、舳先に、立った。
四つの点のうち、三つは、もう、過ぎた土地だ。
残る、一つが、この先に、ある。
私たちは、いちばん、北の点へ、向かう。




