第9章 第1話「剣で、話す、娘」
翌朝、私は、宿の主人に、相談を、持ちかけた。
北のことを、もっと、知りたい、と。
主人は、すぐには、答えなかった。
布巾で、卓を、ひと拭きしてから、口を、開いた。
「北の、何を、知りたい」
「ノルディアへ、渡る、つもりです。氏族のことや、路のことを」
主人は、しばらく、私を、見た。
それから、川向こうを、顎で、指した。
「弟が、帳場に、いる」
「帳場、というと」
「傭兵ギルドだ。北帰りの、連中が、たむろってる。——北の話なら、わたしより、あいつらだ」
主人は、それだけ、言って、また、卓を、拭き始めた。
私は、礼を、言って、宿を、出た。
歩きながら、ふと、思った。
ファルが、顔で、選んだ宿は、思いがけず、北への扉に、つながっていた。
理屈で、選んだ宿なら、こうは、ならなかったかもしれない。
そういうことも、ある。
傭兵ギルドは、川沿いの大きな建物だった。
板張りの大広間に、依頼の札が、壁一面に貼ってあった。
北行きの札も、何枚かあった。海が荒れていて、人手が足りないらしかった。
長椅子では、傭兵たちが、武具を磨いたり、昼間から杯を傾けたりしていた。
汗と、革と、酒の、匂いがした。
足元で、シェフが、鼻を、つまむように、顔を、しかめた。
「シェフが、出たいって。匂いが、濃すぎるって」
ファルが、小声で、通訳した。
困った顔で、シェフを、抱え直した。
「もう、少し、辛抱して」
帳場には、宿の主人に、よく似た、無骨な男が、座っていた。
「兄貴の、紹介か。——で、何が、知りたい」
私は、白紙でなくなった、革表紙の帳面を、開いた。
森の入口で、村人の言葉を、書き並べた、あの頁の、続きだ。
聞いて、書いて、重なりを、数える。砂の国の井戸の下で、覚えた、やり方だった。
帳場頭は、ぶっきらぼうに、答えた。
北方帰りの傭兵たちも、横から、口を、挟んだ。
「ハーヴィンか。剣の、名門だ」
「氏族の、中でも、別格でな。代々、剣士を、出してる」
「あそこの、剣は、神の、流儀だって、言われてる。理屈じゃ、ねえらしい」
私は、書き取った。
ハーヴィン=剣の名門。
理屈じゃ、ない、剣。
その一言だけ、私は、少し、長く、見つめた。
「ハーヴィンには、アストリッドという、娘御が、いると、聞きました」
私が、訊くと、帳場頭より、先に、傭兵たちが、応えた。
「ああ、いるな。次の、氏族長は、あの娘だって、もっぱらの、噂だ」
「まだ、若いんだろ。女だてらに、ねえ」
「腕が、立てば、男も、女も、ねえのが、北の、氏族だ。あの娘は、別格だからな」
女の、氏族長候補。
私は、それも、書いた。
傭兵の、一人が、酒の杯を、置いて、身を、乗り出した。
「あの娘はな、すごいんだ。去年の、北方遠征で、たった一人で、殿を、務めたって話だ」
「俺は、別の話を、聞いたぜ。凍る海で、船団が、立ち往生したとき、あの娘が、先頭を、切って、道を、開いたとか」
「殿に、海に、ずいぶん、忙しい娘だな」
「だから、別格だって、言ってるだろうが」
別の、一人が、ふと、声を、落とした。
「ただ、妙な話も、あってな。あの娘が、剣を、構えると——まわりの、音が、消えるんだと。見たやつが、そう、言ってた」
「そりゃ、おめえが、見入ってただけだろ」
笑いに、紛れて、その話は、流れた。
世間話は、すぐに脱線した。
誰それが強い、誰それがもっと強い、という、酒場の自慢比べになった。
昔、自分がどこそこで何をした、という話に、いつのまにか、すり替わっていた。
私は、聞き流しながら、強い、という言葉だけを、数えた。
殿を、務めた。船団を、守った。
どちらも、人の、強さの話だった。
音が、消える、というのは、たぶん、誇張だ。それほどの、集中、ということだろう。
剣の腕が、図抜けている、という、ただ、それだけのことだ。そう、思いながら、聞いていた。
「夢で、剣の神の、声を、聞いたって話も、あったな」
誰かが、言った。
「またそれか。北の、神官連中が、言ってるってだけだろ」
「いや、俺が、聞いたのは、そいつから、聞いたって、やつから、聞いた話でな」
それで、座が、どっと、笑った。
又聞きの、又聞きだった。
誰も、本気には、していなかった。
私は、その話だけは、書き留めなかった。
書くには、まだ、遠すぎる話だった。
最後に、渡航の、実務を、訊いた。
帳場頭の、答えは、そっけなかった。
「ノルディアは、氏族の、土地だ。よそ者は、保証状が、いる」
「保証状」
「氏族の、誰かが、身元を、請け合う紙だ。それが、ないと、上陸で、止められる」
「商人でも、ですか」
「商人は、商人で、伝手がある。あんたら、みたいに、ふらっと来た、よそ者は、別だ」
私は、学籍の証書を、見せた。
フランディア王立学院の、ものだ。
帳場頭は、それを、ひと目、見て、首を、横に、振った。
「学者の、ライセンスか。——なくは、ないが、足りん。保証状の、代わりには、ならねえ」
「では、どうすれば」
「役所で、紹介状を、出してもらえ。学院の、名があるなら、辺境伯領なら、通る。氏族への、目通りも、それなら、形は、つく」
「ありがとうございます」
「礼は、いらん。——だが、ひとつ、言っとく」
帳場頭は、無骨な指で、卓を、叩いた。
「氏族は、紙より、腕を、見る土地だ。紹介状は、戸口を、開けるだけだ。中で、どう、扱われるかは、あんた次第だぞ」
私は、頷いた。
それも、覚えて、おいた。
紹介状。
私は、帳面に、書いた。
学院の名→役所→紹介状→ノルディア。
筋道が、一本、通った。
ギルドを、出ると、空気が、軽くなった。
シェフが、ようやく、顔を、上げた。
宿への、帰り道。
ファルが、ぽつりと、言った。
「テオさん。その人に、会いに、行くんですよね。アストリッド、っていう」
「会えれば、と、思っている」
ファルは、少し、考えてから、まっすぐに、私を、見た。
「僕は、会いに、行くべき相手だと、思います」
その声には、いつもの、迷いが、なかった。
「シェフも、同じ気配を、感じています」
「気配、というと」
「分かりません。——でも、ナフーも、ホルも、北を、嫌がらないんです。シェフだけが、そわそわして、あとの二匹は、平気で」
ファルは、自分の言葉を、探すように、続けた。
「行ったほうが、いい、って、三匹が、言っている気が、します。うまく、言えないけど」
理屈は、なかった。
ただ、ファルの目は、確信していた。
森の入口で、ファルは、シェフを、信じて、先走った。
あの時の勘は、外れた。森は、私たちを、通さなかった。
だから、私は、ファルの勘を、頭から、信じるわけでは、なかった。
それでも、今度は、聞いて、おきたかった。
故郷の、地下の書庫で、祖父たちは、書いていた。
六つの知が、揃わねば、と。
私が、持っているのは、ひとつの知だけだ。
その問いに、いちばん近い専門知が、北の、魔剣士だった。剣で、神に、近づく者。私の知らない、もう一つの知だ。
「テオさんも、北へ、行きたいんですね」
ファルが、言った。
顔に、出ていたらしい。
ギルドの男が、言っていた。
ハーヴィンの剣は、理屈じゃ、ない、と。
理屈で、ないものを、知らないからこそ、会って、確かめたかった。
私は、理屈で、北を、指していた。
ファルは、勘で、同じ北を、指していた。
別々の、道筋だった。
けれど、その指は、同じ、方角を、指していた。
理屈と、勘が、同じ方角を、指している。
なら、行くしか、ない。
「行こう」
私が、言うと、ファルは、嬉しそうに、頷いた。
その足で、私たちは、役所へ、向かった。
辺境伯領の、役所は、石造りの、静かな建物だった。
窓口の、役人は、形式ばった、口ぶりで、応対した。
私が、学籍の証書を、差し出すと、役人は、眼鏡の奥で、目を、細めた。
「フランディア王立学院、ね。——名前は、こんな北まで、届いていますよ」
少しだけ、感心したような、声だった。
名前が、旅をする。
文と、同じだ。私より、先に、学院の名が、ここまで、歩いてきていた。
「ノルディアへ、渡るための、紹介状を、いただきたいのです」
「目的は」
「ハーヴィン氏族の、娘御に、会いに」
役人は、書きかけの、手を、止めた。
「あの、ハーヴィンの、娘にね」
それから、ふっと、口元を、ゆるめた。
「物好きだな。——まあ、いい。書式は、整える」
「いつ、いただけますか」
「数日、待ってもらう。封蝋を、押すのに、上の判が、いる」
私は、礼を、言った。
数日。それくらいは、待てる。
窓口を、離れようとしたとき、後ろから、声が、かかった。
帳場で、見かけた、古参の傭兵だった。
役所に、用が、あったらしい。
「あんた、あの娘に、会いに、行くのか」
「ええ」
傭兵は、私を、上から下まで、見た。
それから、少し、笑った。
「会えば、分かる」
「何が、です」
「あれは——剣で、話す、娘だ」




