第8章 第2話「北の娘の名」
翌朝、私たちは、力で押すのを、やめた。
森を、知る者に、訊くことに、した。
宿の主は、すぐには、答えなかった。
薪を、一本、割り終えてから、勿体を、つけるように、口を開いた。
「森の、小さき者か。——あれを、怒らせなきゃ、何も、しやしねえ」
「怒らせる、というと」
「騒ぐことだ。歌ったり、走ったり、獣を、連れて、入ったり。森の中じゃ、静かにしてりゃ、いい」
私は、帳面を、開いた。
ザフィールさまから、預かった、白紙の、帳面だ。
最初の、一行を、そこに、書いた。
歌わない。走らない。獣を、連れない。
集落の、外れに、炭焼きの、老婆が、いた。
煤で、黒い手を、しながら、老婆は、言った。
「手向けだ」
老婆は、それだけ、言った。
言葉を、薪のように、惜しんで使う人だった。
「白い、パンと、乳。道標の、根元に、置きな。——あれは、白いものが、好きだ」
「道標、とは」
「苔の石。踏むな。それだけだ」
私は、書き取った。
白いパンと、乳。苔の、道標を、踏まない。
最後に、木を、伐っていた、木こりに、訊いた。
木こりは、斧の手を、止めて、肩を、すくめた。
「俺は、森には、入らねえ。木は、境の、こっち側で、足りるからな」
それから、思い出したように、半笑いで、付け加えた。
「そういや、変な、話を、聞いたぜ。——ハーヴィンの娘が、北の海で、何か、やらかしたって、話だ」
「やらかした」
「さあな。詳しくは、知らねえ。北の連中の、噂だ。——まあ、与太話さ」
それで、木こりは、また、斧を、振った。
私は、その話を、書き留めなかった。
ただ、頭の、隅に、置いた。
宿に、戻って、帳面を、見返した。
三人とも、別々のことを、言っていた。
宿の主は、騒ぐな、と。老婆は、手向けを、置け、と。木こりは、道標を、踏むな、と。
ばらばらの、忠告だった。
けれど、書き並べると、形が、見えてきた。
静かに、する。手向けを、置く。道標を、踏まない。
三つとも、「相手の、邪魔を、しない」という、一点に、つながっていた。
数えると、見えてくる。
砂の国の、井戸の下で、見てきた、やり方だ。
白紙だった、帳面に、初めて、文字が、並んだ。
ザフィールさまは、続きを、書け、と、これを、私に、渡したのだ。
旅の、聞き書きが、そのまま、研究の、記録に、なった。
ささやかな、一頁だった。けれど、確かに、始まりだった。
けれど、ひとつ、足りなかった。
道標の、並びだ。
どの石が、どこへ、続いているのか。聞き込みでは、そこまでは、分からなかった。
「テオさん」
ファルが、首に、手を、当てた。
街道の夜に、触れていた、あの、青い宝玉だ。
「ホルを、呼んでみます。空なら、地形が、ないから」
宝玉が、淡く、光った。
風が、起きた。
一羽の、隼が、ファルの、腕に、降りた。
首のところに、あの、青い、宝玉と、同じ色の、石が、光っていた。
寡黙な、鳥だった。
シェフのような、騒がしさは、なかった。
ただ、まっすぐに、私を、見た。
高い、ところから、ものを見る者の、目だった。
「ホル、です」
ファルが、紹介した。
「空は、誰の、縄張りでも、ない。——と、だけ、言っています」
私は、その鳥を、見つめた。
シェフ。川の、ナフー。そして、この、隼。
——三つ目を、私は、初めて、見た。
ザフィールさまが、井戸の前で、三つ、と、言った、その、最後の、ひとつ。
長い旅の、果てではなく、こんな、森の、入口で、私は、それに、会った。
ホルが、舞い上がった。
木々の、天井を、抜けて、見えなくなった。
しばらくして、ファルが、目を、閉じた。
「道は……北東へ。白い石が、三つ。その先で、左に、折れる」
ファルの、声は、低く、区切れていた。
ホルの、言葉数を、そのまま、写しているようだった。
私は、帳面に、書き取った。
道標の、並びが、ようやく、つながった。
足元で、シェフが、ふて腐れた声を、出した。
「シェフが……自分にも、できた、って。森が、嫌いなだけだって。言ってます」
ファルが、苦笑した。
シェフは、そっぽを、向いていた。
ホルが、降りてきた。
シェフを、一瞥して、また、目を、逸らした。
その、素っ気なさが、かえって、おかしかった。
ファルが、急に、困った顔を、した。
「ホルが……『砂の子に、空は、見えまい』と。——すみません。嫌味な、やつで」
シェフが、毛を逆立てて、鳴いた。
ファルだけが、二匹のあいだで、頭を、下げていた。
「でも、一度で、来てくれました」
ファルが、少し、誇らしげに、言った。
街道で、聞いた通りの、気位の高さなら——いまの私たちは、ホルの目に、本当に、困っている、と映ったのだろう。
それは、少し、悔しくて、少し、ありがたかった。
翌朝、私たちは、森に、入った。
白いパンと、乳を、苔の、道標の、根元に、置いた。
シェフは、呼ばなかった。
ファルが、陣へ、帰した。本人も、森には、二度と、入らない、と、言ったらしい。
歌わず、走らず、静かに、歩いた。
ファルの、手首で、ナフーだけが、いつも通りだった。
川の蛇は、森の湿りを、嫌わない。
同じ、三つの眷属でも、土地との、相性は、それぞれ、らしかった。
木々の、間から、苔色のものたちが、こちらを、見ていた。
今度は、跳びかかって、こなかった。
ただ、じっと、見ていた。
一度だけ、一匹が、枝から、降りてきた。
道の、真ん中で、私たちを、待っていた。
ファルが、足を、止めた。私も、止めた。
それは、私たちを、頭の上から、足元まで、見て——脇へ、退いた。
試されて、許された。
その、順番だった。
私たちは、北東へ、進んだ。
白い石を、三つ、数えて、左へ、折れた。
森は、私たちを、通した。
森を、抜ける、間際、私は、一度、振り返った。
最初に、手向けを、置いた、道標が、遠くに、見えた。
その、根元の、器が、空に、なっていた。
誰が、受け取ったのかは、見えなかった。
ただ、受け取られた、ことだけが、そこに、あった。
私は、地下の、書庫で、見た、言葉を、思い出した。
祖父たちの、対話の、中に、あった、一行だ。
契約術は、力の術に、あらず。呼びかけの、かたち、なり。
あの、井戸の下で、文字として、読んだときは、理屈だった。
いま、空の器を、前にして、それは、理屈で、なくなった。
押せば、追い回される。
呼びかければ、通される。
ただ、それだけの、ことだった。
そして、それが、すべてだった。
何も、強くは、なっていない。
ただ、向き合い方を、変えただけだ。
祖父たちが、半世紀前に、書きかけた、その一行を、私は、いま、足の裏で、確かめていた。
「テオさん」
ファルが、隣で、ぽつりと、言った。
「召喚陣を……土地に、合わせて、描き替えられたら。シェフも、森で、本領を、出せるのかな」
それは、問いの、形を、していなかった。
ひとりごとの、ような、言葉だった。
私は、答えなかった。
ただ、帳面に、その、一言を、書き留めた。
森を、抜けると、川が、見えた。
ファルケンブルクは、河港の、中継都市だった。
木組みの、家並みが、川沿いに、ひしめいていた。
いくつもの、言葉が、混じり合って、飛び交っていた。
店先には、見たことのない、つくりの、魔導具が、並んでいた。
北の、工房の品だ、と、通りすがりの、誰かが、言っていた。
宿は、いくつも、あった。
私は、二軒目の、前で、足を、止めた。
「ここが、いいでしょう。値も、手頃で、造りが、しっかりしている」
ファルは、首を、傾げた。
「僕は、向こうの、ほうが」
「あちらは、少し、高い」
「でも……あそこの、主人の、顔が、いいんです。なんとなく」
理屈では、なかった。
ファルの、直感だった。
私は、少し、考えて、それから、頷いた。
「では、あちらに」
森で、学んだばかりだ。
土地の、流儀には、土地を、知る者の、勘が、要る。
ファルの、勘は、たぶん、そういうものだった。
夜、私たちは、宿の、食堂に、いた。
北から、来たらしい、商人たちが、隣の卓で、騒いでいた。
「ノルディアでも、神官たちが、妙な夢を、見ている、らしいぜ」
「またその話か。どこも、かしこも、夢、夢、だな」
「いや、これは、聞いた話だが——ハーヴィン氏族の、娘が、夢で、剣の神の、声を、聞いたとか、何とか」
「剣の神の、声、ねえ」
「アストリッド、とか、いったか。——名前まで、知らんが」
商人たちは、笑って、杯を、合わせた。
それ以上は、誰も、本気にしなかった。
私は、口を、挟まなかった。
ただ、数えた。
一度目は、森境の、宿。神官たちと、氏族の娘が、神の声を、夢で、聞いた、と。
二度目は、木こり。ハーヴィンの娘が、北の海で、何か、やらかした、と。
そして、三度目が、今。
娘に、初めて、名前が、ついた。
同じ、北。同じ、娘。同じ、夢。
三つの、断片が、別々の、口から、出て、ひとつの、影を、結びかけていた。
森で、覚えた、やり方と、同じだった。重なりを、数える。
けれど、影は、まだ、影のままだった。
名前は、聞こえても、顔は、見えなかった。
私は、仮説を、立てなかった。
立てるには、まだ、早すぎた。
ただ、帳面に、書いた。
聞いたままを、伝聞のままで。
北の娘の名が、三たび、聞こえた。




