第8章 第1話「森の小さき者」
川を、下りきると、潮の匂いがした。
レヴァンタは、海の港都だ。
砂の国の、白い静けさとは、違う、騒がしい色をしていた。
桟橋に、降りたところで、ファルが、足を、止めた。
海を、見ていた。
「……大きい」
それだけ、言った。
ファルは、生まれて初めて、自分の国の、外に、立っていた。
川しか、知らなかった目が、水平線を、測りかねていた。
足元で、シェフが、短く、鳴いた。
潮の匂いが、気に入らないらしかった。
私たちは、まっすぐ、ベン・サドゥール商会へ、向かった。
奥の文書館の、机の前に、サヒルは、座っていた。
私が、戸口に立つより、早く、顔を、上げた。
「着きました、と」
私は、言った。
イムホテプどのに、託した、文の、ことだった。
サヒルは、しばらく、私を、見た。
それから、ゆっくりと、頷いた。
「ええ、届いて、おりましたよ。——文のほうが、お前より、足が、速い」
机の隅に、私の文が、置いてあった。
封は、もう、開いていた。
報せは、先に、届いていた。
私が、来るより、早く。
私は、なんだか、嬉しくなった。
人の来訪を、人の手で、伝える。その、回り道が、ちゃんと、繋がっていた。
「エミール老も、旅の先々から、よく、寄越した」
サヒルは、封の開いた文の上に、しわの寄った手を、置いた。
「着いた、と、だけ書いた、短い文を。——ひ孫まで、同じ書き方を、するとはね」
私は、礼の言葉を、探して、見つけられなかった。
曽祖父と、同じ、と言われて、こんなに、嬉しいとは、思っていなかった。
「マダム・サヒル。連れを、紹介します」
ファルが、進み出て、几帳面に、礼をした。
「ファルです。カムランの……いえ、ファル、と。テオさんと、北へ、行きます」
サヒルは、ファルを、上から下まで、一度、見た。
書物の、背表紙を、確かめる、ような、目だった。
「カムランの、若君か。——で、わたくしの、先触れは、役に、立ったかい」
「立ちました」
私は、答えた。
「あなたの文が、誰が来るかを、報せていました。猫が、いつ来るかを、報せていました」
「猫が」
サヒルは、片眉を、上げた。
足元の、シェフが、心得たように、ひと声、鳴いた。
サヒルは、それ以上、何も、訊かなかった。
書物に、書かれていないことは、語らない人だ。
長居は、しなかった。
別れ際、サヒルは、北への路を、ひとつだけ、口にした。
「北は、古い土地だ。——古い土地には、古い住人が、いる。力で、押すな」
それ以上は、言わなかった。
何のことか、その時の私には、分からなかった。
ただ、頁を、繰るような、間だけが、残った。
私たちは、北へ、向かった。
街道は、海から、内陸へ、ゆっくり、上っていった。
砂が、土に変わり、土が、草に変わった。
北へ向かうほど、緑が、濃くなった。
そして、北へ向かうほど、朝が、冷えた。
夜明けの、息が、白く、見えるように、なった。
それで、私は、ずいぶん、遠くまで、来たことを、知った。
異変は、夜に、起きた。
異変、というほどの、ことでも、ない。
シェフが、眠らなくなった。
砂の国では、シェフは、よく、眠る猫だった。
ファルの、膝の上で、まるくなって、朝まで、動かなかった。
それが、北へ来てから、夜になると、起き上がる。
耳を、立てる。落ち着かない、足取りで、火のまわりを、歩く。
「シェフが、眠れない夜が、続いていて」
ファルが、言った。
少し、困った、顔だった。
「どこか、悪いのですか」
「いえ。体は、元気です。ただ……なんだか、そわそわ、していて」
ファルは、シェフを、抱き上げた。
シェフは、嫌がらずに、けれど、すぐに、また、降りた。
「砂漠の子だから、湿った空気が、苦手なのかも」
ファルは、それで、片づけた。
深くは、考えなかった。
私も、それ以上は、訊かなかった。
猫の、夜更かしは、猫の事情だ。
「ナフーは、平気そうですね」
「川の子ですから。……ホルは——」
ファルは、首元の、青い宝玉に、指で、触れた。
「ずっと、呼んでいません。あの子は、気位が、高くて。こっちが、本当に、困っていないと、降りてこないんです」
三つ目の、名前だった。
私は、まだ、その姿を、見たことがない。
森の手前に、宿が、あった。
ベルジアの森の、境の宿だ。
ここから先は、ひとつの、森だ、と、宿の主が、言った。
「森の、向こう側へは、二つ、路が、ある」
主は、太い指を、二本、立てた。
「直通路なら、半日。森を、突っ切る。だが、迂回の、川路なら、三日、かかる」
「では、直通路を」
私が、言うと、主は、首を、横に、振った。
太い指で、頬を、掻いた。
「気の、短い、客人だな」
「直通路は、誰でも、通れる、路じゃ、ない。——流儀を、知ってる者しか、通らねえ」
「流儀」
「森には、森の、決まりが、ある。それを、知らねえ者が、入ると、出てこられねえ。案内人は、いるが、いま、出払っててな。何日か、待つことに、なる」
主は、それ以上、流儀の中身を、言わなかった。
当たり前すぎて、言うまでもない、という、口ぶりだった。
その夜、食堂は、賑やかだった。
相席の、旅商人が、酒を、あおりながら、誰にともなく、しゃべっていた。
「そういや、北のほうじゃ、神官さまが、妙な夢を、見るんだとよ」
別の男が、笑った。
「夢くらい、誰だって、見るだろうが」
「いや、神官さまが、揃いも揃って、妙な夢を、見るって話だ。氏族の、娘っ子まで、神様の声を、夢で、聞いたんだと。——なんて、聞いた、だけだがな」
それで、話は、終わった。
誰も、本気には、しなかった。
私は、聞き流した。
聞き流しながら、ひとつだけ、覚えておいた。
部屋に、戻ると、ファルが、言った。
「テオさん。案内人を、待つの、もったいなくないですか」
「と、いうと」
「シェフなら、獣道を、見つけられます。砂漠でも、隊商の路を、嗅ぎ当てたんです。森くらい、きっと」
ファルの、目は、輝いていた。
自分の、相棒を、信じる目だった。
私は、止めなかった。
止める、理由が、その時は、なかった。
朝、私たちは、森に、入った。
木々の、天井は、高く、暗かった。
空気が、湿っていて、足元が、柔らかかった。
シェフは、最初の、数歩で、立ち止まった。
「あれ」
ファルが、しゃがんだ。
「シェフ。どうしたの。——獣道、分からない?」
シェフは、ひと声、鳴いた。
それから、もう、ひと声。
明らかに、機嫌が、悪かった。
「砂が、ない、って。足の、裏が、気持ち悪い、って。文句を、言ってます」
ファルが、通訳した。
困ったように、笑っていた。
それでも、シェフは、進んだ。
主人の、手前、意地が、あるらしかった。
茂みに、鼻先を、突っ込んで、獣道を、切り開こうと、した。
砂の国では、シェフは、隊商の路を、嗅ぎ当てる、名手だった。
砂の、においを、読んで、人より、早く、水場を、見つけた。
けれど、ここには、砂が、ない。
読むべき、においが、まるで、違った。
その、瞬間だった。
茂みが、揺れた。
苔の色をした、小さなものが、いくつも、飛び出した。
掌に、乗るくらいの、背丈だった。
群れていた。すばしこかった。
それが、いっせいに、シェフに、向かって、跳んだ。
シェフが跳び退いた。
どんぐりが降ってきた。
雨のように、頭の上から。
「わっ」
ファルが腕で顔をかばった。
シェフは尻尾の毛を引っ張られた。
ぴゃっ、と悲鳴を上げた。
逃げた。
茂みを回り込んだ。苔色のものが追った。
木の幹を駆け上がった。苔色のものが先回りした。
シェフは、もう、誇りも、何も、なかった。
一直線に、ファルの、腕へ、飛び込んだ。
頭から、突っ込んで、震えていた。
森の、上で、声がした。
小さな、笑い声だった。
何匹もの、笑い声が、枝の、あいだから、降ってきた。
私は、見上げた。
苔色のものたちが、枝に、並んで、こちらを、見ていた。
足を、ぶらぶら、させていた。
掌に、乗るほどの、背丈で、何匹いるのか、数えきれなかった。
枝が、しなるほどでは、なかった。それくらい、軽い、ものたちだった。
私は、気づいた。
彼らは、怒っていない。
——笑っている。
それだけ、だった。
牙も、爪も、見せなかった。
ただ、見慣れない、よそ者を、からかって、楽しんでいた。
ファルが、シェフを、抱えたまま、立ち上がった。
「……分かりました」
声が、震えていた。
笑いを、こらえているのか、悔しいのか、半分ずつ、だった。
「僕の召喚獣は、砂漠の、眷属だから。森では、本領を、発揮できないんだ」
敬語が、外れていた。
本人は、気づいていなかった。
私たちは、退いた。
来た路を、戻った。
背中で、まだ、小さな笑い声が、続いていた。
追っては、こなかった。
森の、外まで、わざわざ、見送る気は、ないらしかった。
縄張りの、内側でだけ、彼らは、騒いだ。
一歩、外へ、出れば、もう、用は、ないのだ。
森の、境まで、出ると、空気が、乾いた。
シェフが、ようやく、顔を、上げた。
宿の、軒先で、私は、空を、見上げた。
直通路は、すぐ、そこに、あった。
半日の、路だ。
けれど、私たちは、一歩も、進めていなかった。
力で、押すな。
別れ際の、低い声が、いまさら、耳に、戻ってきた。
それから、もうひとつ。
聞き流したはずの、北の噂が、なぜだか、耳の底に、残っていた。
神官たちの、妙な夢。神の声を、夢で聞いたという、氏族の娘。
——まだ、私の知らない、遠い話の、はずだった。
森は、まだ、私たちを、通していない。




