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第7章 第2話「縁ある者と、共に行け」

その夜、私は、また、中庭にいた。


考えることが、多すぎる夜は、星の下が、いちばんいい。


ファルが、来た。


何も言わずに、井戸の縁に、腰かけた。


しばらく、二人で、黙っていた。


「テオさん」


ファルが、口を開いた。


「僕、ずっと、考えていました。祖父たちの、帳面のこと。……あの、対話は、途中で、終わっています」


「ええ」


「問いだけが、書いてあって、答えの、書かれていない、頁で」


途中で、終わった対話。


数え終えていない、勘定。


「僕の祖父と、君の曽祖父が、始めたことを——」


ファルは、星を見たまま、言った。


「僕たちで、進めよう」


敬語が、外れていた。


たぶん、本人は、気づいていない。


それくらい、まっすぐな、言葉だった。


「一なる手では、足りぬ」


私は、答えた。


「曽祖父の、残した、言葉です。なら、二なら、二人なら——少なくとも、一よりは、足りる」


「理屈ですね」


「理屈です。けれど、確かめられる、理屈です」


ファルが、笑った。


それから、少し、間を置いて、言った。


「……正直に、言うと。僕、怖いんです」


「怖い」


「僕、この街の、外を、知りません。生まれてから、ずっと、ここで。カムランの、息子として、育てられて。……外の世界で、僕が、何かの、役に立つのか」


私は、すぐには、答えなかった。


安い、励ましは、この告白に、釣り合わない。


「祈りの場で」


私は、言った。


「私は、読めませんでした。あなたが、読んだ」


「……」


「役に立つか、どうかは、私が、もう、知っています。あなたが、知らないだけです」


ファルは、目を、見開いて、それから、ゆっくり、息を吐いた。


井戸の中で、何かが、応えるように、小さく、鳴った——気がした。


「……ありがとう、ございます」


敬語が、戻っていた。


それも、たぶん、本人は、気づいていない。


翌日、父ダリウスが、王宮から、戻った。


ファルの父は、背の高い、寡黙な人だった。


無駄な言葉を、ひとつも、持っていない、という、立ち方をしていた。


「祈りの場の、件は、王宮に、届いた」


応接間で、ダリウスは、言った。


「神官団は、お前たちの、働きを、認めた。——客人。カムランの名に、かけて、礼を言う」


私は、頭を下げた。


それから、ダリウスは、息子を見た。


「ファル。旅に、出ると、聞いた」


「……はい」


「行き先は」


「北です。父上。祖父たちの、研究の、続きを——」


「理由は、聞かぬ」


ダリウスは、短く、遮った。


長い沈黙が、あるかと、思った。


なかった。


「お前の、選んだ道だ。私は、止めぬ」


それだけだった。


けれど、ファルの背筋が、伸びるのが、分かった。


部屋を出るとき、ダリウスは、思い出したように、付け加えた。


「レヴァンタへの、川船は、手配した。三日後の朝、川港を、発つ。……路銀は、母に、預けてある」


それから、私を、見た。


「客人。息子を、頼む——とは、言わぬ。対等の、連れと、見て、おる」


止めぬ、と言った口で、船は、もう、手配してあった。


夜、ザフィールが、ファルを、井戸の前に、呼んだ。


私も、呼ばれた。


「ファルよ」


老人は、孫の目を、見て、言った。


「外の世界で、封印を、解く、触媒を、探せ。この国には、もう、残って、おらぬ。——半世紀、儂が、探して、見つからなんだ」


「触媒……」


「お前の、連れている、三つの、眠りはな、まだ、浅い、眠りよ。深いところを、起こすには、鍵が、要る。古い、聖地。古い、宝玉。古い、誓い。……どれが、鍵かは、儂にも、分からぬ」


三つ、と、老人は、言った。


シェフ。川の、ナフー。……あとの、ひとつを、私は、まだ、見たことが、ない。


ザフィールは、それから、私を、見た。


「だが、ひとつだけ、分かって、おることが、ある」


「……はい」


「一人で、探すな。——縁ある者と、共に、行け」


一なる手では、足りぬ。


出立の朝は、よく、晴れた。


荷は、ひとつ、増えていた。


ナイラどのが、持たせてくれた、干した川魚と、平たいパン。それから、ザフィールさまから、と、ファルが、渡してくれた、小さな、革表紙の、帳面。


開くと、白紙だった。


書け、ということらしい。


続きを、と、いうことかも、しれなかった。


表門の前に、見送りが、並んだ。


そして、門の外に、見覚えのある、白い衣が、立っていた。


「イムホテプどの」


「賢者どの。お発ちと聞きまして。お見送りをと。いえ、それだけでは、なく」


書記は、几帳面に礼をして、それから、我慢できない、という顔で、一息に、訊いた。


「例の件です。なぜ若君が、賢者どのをお待ちになっていたのか。いつから、ご存じだったのか。いえ、そもそも、お答えいただけるものなのでしょうか」


私は、約束を、果たした。


「文と、猫が、私を、待っていたのです」


「……文と、猫」


「レヴァンタの、司書どのの、先触れの文。それと、この、シェフが、私の、気配を、感じていました」


足元の、シェフが、心得たように、ひと声、鳴いた。


イムホテプは、文のくだりで、深く、頷き、猫のくだりで、止まった。


「猫が……気配を……」


「これで、眠れますか」


「いえ」


書記は、正直に、言った。


「ますます、眠れません」


私は、笑って、それから、懐から、一通の文を、取り出した。


「イムホテプどの。ひとつ、お願いが、あります。この文を、レヴァンタの、ベン・サドゥール商会の、サヒルどのへ、届くように、していただけませんか」


「お安い、御用ですが……どなたへ?」


「私を、ここへ、送り届けてくれた人へ。——着きました、と」


人の、来訪は、人の手で、伝わる。


あの老司書は、私のために、先触れの文を、送ってくれた。


今度は、私が、報せの文を、送る番だった。


イムホテプは、文を、両手で、受け取り、職務の顔で、深く、頷いた。


見送りは、四人だった。


ダリウスが、立っていた。


「ファル」


「はい、父上」


「……体を、こわすな」


それだけ、だった。


ファルは、深く、頭を下げた。


母ナイラが、進み出た。


ファルの母は、歌うように、話す人だった。


「いってらっしゃい。……川は、いつでも、同じ場所へ、帰ってくるのよ」


「うん。母さん」


「わたしの歌は、あなたの背に、ついていくわ。——テオさんの背にも、ね」


私の背にも。


私は、なぜだか、上手く、礼が、言えなかった。


ライラは、ファルの長衣を、つかんで、離さなかった。


それから、足元の、シェフを、抱き上げた。


シェフは、嫌がらなかった。


この子にだけは、嫌がらないのだと、ファルが、前に、言っていた。


「シェフも、いっちゃうの」


「シェフは、僕の、相棒だから」


ライラは、黒い毛に、顔を、埋めて、それから、そっと、地面に、下ろした。


「……おにいさま、かえってくる?」


「帰ってくるよ」


「ライラが、おうちで、まってる」


「うん」


「テオも、かえってくる? ここに」


ここに。


この子にとって、私は、もう、ここに帰ってくる側の、人間らしかった。


「はい」


私は、答えた。


「いつか、必ず」


ザフィールは、門までは、来なかった。


目で、捜すと、中庭の奥、井戸の縁に、手を置いて、立っていた。


老人は、何も、言わなかった。


ただ、ゆっくりと、頷いた。


行け、と、言う頷きだった。


待っておる、と、言う頷きでもあった。


私は、遠い、その人影に、頭を下げた。


それから、井戸にも。


この下に、まだ、終わっていない、対話が、眠っている。いつか、続きを、書きに、戻ってくるために。


私たちは、歩き出した。


街門を、抜けるとき、ファルが、一度だけ、振り返った。


白い、神官街区の、向こうに、石の山の、神殿が、聳えていた。


その、はるか地下に、途中で終わった、二人の対話が、眠っている。


「行こう」


ファルが、前を、向いた。


そこから、川港まで、ファルは、二度と、振り返らなかった。


その横顔が、強がりで、できていることくらい、私にも、分かった。


朝の、川港は、もう、動いていた。


荷を運ぶ声。水を打つ、櫂の音。誰も、私たちの旅立ちを、特別には、扱わなかった。


それが、よかった。


船は、もう、帆を、上げかけていた。


船べりに、先に、跳び乗った、シェフが、ひと声、鳴いた。


別れの声では、なかった。出発の、合図の、声だった。


その夜の、ノートに、私は、短く、書いた。


曽祖父。あなたは、一人で、行った。


私たちは、二人に、なった。

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