第7章 第1話「井戸の、下」
翌朝、ザフィールは、中庭の井戸の前に、立っていた。
「時が、来た」
それだけを、言った。
老人が井戸の脇の敷石を手で示すと、ファルが進み出て、その一枚に、手のひらを当てた。
石が、沈んだ。
低い音を立てて、井戸の脇の、地面が、口を開けた。
下へ降りる、石段が、見えた。
「足元に、気をつけて」
ファルが、灯りを手に、先に立った。
石段は、長かった。
降りるほどに、空気が冷たく、乾いていった。
地上の砂の熱が、嘘のようだった。
あの、石の山の、神殿は、天に向かって、聳えていた。
この家は、同じ深さを、地の下に、持っていた。
高さと、深さ。
この国は、上にも、下にも、長い。
壁には、ところどころ、古い字が刻まれていた。
ファルの灯りが揺れるたび、字の影も揺れた。
「先祖の、名前です」
ファルが、言った。
「この階段を、降りた者が、一人ずつ、名を、刻むんです」
数えながら、降りた。
四十を、超えたところで、石段が、尽きた。
ファルの灯りが、広い部屋を照らし出した。
床に、輪が、刻まれていた。
幾重もの、円。見覚えのある、読めない文字。
砂の中庭で、ファルが描いていたものの、何倍も、大きく、何倍も、古い。
「先祖代々の、契約の陣です」
ファルが、言った。
「この上で、僕も、最初の契約を、しました」
壁は、書架だった。
巻かれた紙。綴じられた帳面。粘土の板。
おびただしい記録が、床から、天井まで、積まれていた。
そして、埃が、なかった。
地下の、書庫だ。
五十年、人の出入りの、少ない場所だ。
それなのに、どの棚にも、埃が、なかった。
守る、というのは、こういうことなのだと、思った。
この老人は、半世紀、ここを、拭き続けてきたのだ。
部屋の、最奥は、暗かった。
そこに、何かが、並んでいる、気配があった。
壺。像。宝玉。
灯りは、そこまで、届かない。
けれど、その暗がりは、ただの、暗がりでは、なかった。
眠っている者たちの、寝室の、暗さだった。
私は、目を、それ以上、向けないことにした。
起こさないのが、礼儀だ。
シェフは、石段の、最後の段で、足を止めていた。
降りて、こなかった、のではない。降りた上で、そこから先へ、進まなかった。
黒い猫は、私たちの方を、見ていなかった。
最奥の、暗がりだけを、じっと、見ていた。
目を逸らすのが、私の、礼儀で。
目を逸らさないのが、この猫の、礼儀、らしかった。
「ここだ」
ザフィールが、書架の、一角を、示した。
帳面の、背が、並んでいた。
何十冊も、あった。
私は、一冊を、手に取り、開いた。
息が、止まった。
知っている、字だった。
硬く、几帳面で、折り目正しい——手紙と、同じ字。
曽祖父の、字だった。
その隣に、別の手の字が、並んでいた。
流れるような、勢いのある字。若き日の、ザフィールの字だ。
二人の字は、頁の上で、問いを、投げ合っていた。
片方が、問いを書き、もう片方が、その横に、答えと、次の問いを書く。
——契約は、なぜ、血で、継がれるのか。
硬い字が、問う。
——血では、ない。血は、ただ、器を、作りやすい、だけだ。なら、器とは、何だ。
流れる字が、答えて、問い返す。
これは、記録では、ない。
これは、対話だ。
半世紀、前の、二人の、対話が、ここに、眠っていた。
頁をめくる、手が、ある見出しで、止まった。
曽祖父の字で、こう、あった。
「契約術は、力の術に、あらず。呼びかけの、かたち、なり」
呼びかけの、かたち。
私が、あの、祈りの場の前で、たどり着いた、言葉。
同じ言葉が、半世紀前の、頁の上に、あった。
血が、つながっている、からでは、ない。
同じものを、まっすぐに、見れば、同じ言葉に、たどり着く。
それが、こんなにも、嬉しいことだとは、知らなかった。
「お前たちが、祈りの場で、やったことはな」
ザフィールが、言った。
「儂と、エミールが、この、帳面の上で、やったことと、同じよ。あの男が、問い、儂が、答え、儂が、問い、あの男が、答えた」
「お二人は、何を、調べて、いたのですか」
ザフィールは、すぐには、答えなかった。
長い、間が、あった。
「……神々のことよ」
老人は、言った。
「あの男と、儂は、古い、記録を、集めるうちに、ひとつの、問いに、行き当たった。——六柱の、神々は、それぞれ、別々に、弱って、おられるのでは、ないか、と」
私は、動けなかった。
弱って、おられる。
千年、眠っていたものが、なぜ、いま——ノートの、分からない側に、置いてきた、あの問いが、急に、すぐ近くで、鳴った。
神々が、弱って、おられるの、なら。古い、眠りも、また、揺らぐのでは、ないか。
私は、その先を、止めた。
飛びつくのは、考えることでは、ない。
「弱って、おられる、とは……どういう、ことですか」
「記録の、量よ」
ザフィールは、書架を、目で、示した。
「古い、記録ほど、神々の、言葉が、多く、残っておる。神官の、書き留めた、お告げ。夢の、お言葉。……新しい、記録ほど、それが、少ない。千年かけて、少しずつ、な」
「それは、神官の、書き方が、変わっただけ、かもしれません」
「そうかも、しれぬ」
老人は、あっさりと、認めた。
「だから、戯言だと、言うておる。……だが、エミールは、数えた。国を、跨いで、数えた。どの国でも、減り方は、同じだった」
数えた。
いかにも、あの人の、やりそうなことだった。
古い紙ほど、火に、水に、虫に、失われる。
残る数だけなら、古い記録の方が、少ないはずなのだ。
それなのに、神々の言葉は、古い記録にこそ、多く、残っている。
書き方の、せいに、するには——向きが、逆だ。
「いにしえの、人々は、神々の、ために、何かを、作ったらしい。神々を、支える、何かを、な。それが、何かは、分からぬ。なぜ、神々が、それを、必要と、されたのかも、分からぬ」
「……」
声が、出なかった。
作った。誰が。何のために。なぜ、神々に、支えが、要るのか。
問いが、一度に、増えすぎて、どれを、先に、訊けば、いいのか、分からなかった。
「分かって、おるのは、ひとつだけよ。神殿の、奥書も、王家の、年代記も、名も、知れぬ、写本の、端書きも——出どころの、違う、古い記録が、口を、揃えて、言う。六つの、知が、揃わねば、それには、触れることも、できぬ、と」
六つの、知。
賢者。召喚士。残りは、四つ。
「ザフィールさま。それは——」
「戯言よ」
老人は、私の言葉を、静かに、断ち切った。
「確かめようの、ない、老人二人の、戯言。……そう、思って、聞いておけ。儂らも、そう、思おうと、してきた」
戯言だ、と言う声が、戯言を、信じていなかった。
私は、問いを、呑み込んだ。
確かめようのないことは、確かめられるように、なるまで、ノートの、分からない側に、置いておく。
その日の、午後、私たちは、手帳の写しの、読めない頁を、地下で、読んだ。
ファルが、音にする。
私が、手紙の、記憶と、突き合わせる。
そして、ひとつの、語で、すべてが、つながった。
「アヌウ」
ファルが、読んだ。
「古い言葉で——『一なる』。『ひとつの』という、意味です」
一なる。
私は、目を閉じ、《完全記憶》で、手紙の文面を、呼び出した。
何度も、読み返した手紙だ。
文字の、かすれの、ひとつまで、私のなかに、ある。
手紙の、あの句。
ほかの語は、読めるのに、はじめの一語だけが、最後まで、読めずに、残った句。
アヌウの手では、決して、足りぬ。
——一なる手では、決して、足りぬ。
一人の、手では、足りない。
曽祖父は、そう、書いていたのだ。
私への、手紙に。はっきりと。
「ザフィールさま」
私は、訊かずに、いられなかった。
「曽祖父は、一人では、足りないと、知っていた。書いて、いた。……なのに、なぜ、一人で、北へ、行ったのですか」
ザフィールは、答えなかった。
代わりに、書架の、最後の一冊を、抜き出して、私の前に、置いた。
最後の、頁。
曽祖父の、硬い字が、途中で、終わっていた。
その、余白に、一行。
「まだ、数え終えて、いない」
数えきれぬと、分かるためにも、数える、男。
その男は、数え終わる前に、待つことを、やめたのだ。
「儂は、止めなんだ」
ザフィールの声は、低かった。
「六つが、揃うのを、待てば、儂らの、命の方が、先に、尽きる。あの男は、そう、言った。……儂は、その、理屈に、勝てなんだ」
知っていて、なお、行った。
足りぬと、書いた、その手で、一人で、行った。
私は、頁の上の、硬い字を、見つめた。
曽祖父。
あなたの、誤りを、私は、いま、確かに、受け取りました。




