第6章 第2話「目覚めさせられた、だけ」
最初に、見えたのは、渦だった。
濃い、魔素の、渦。
石組みの、奥の、暗がりで、ゆっくりと、回り続けている。
私は、いつものように、読み始めた。
力は、どこから、来て、どこへ、行くのか。
━━ 魔素の、密度。外の、十倍を、超える。
━━ 渦の、回転。一定。十日、衰えていない。
→ 流れ込む、道を、探す。
→ 流れ出る、道を、探す。
✗ ——どちらも、ない。
入ってくる、道がないのに、渦は、濃くなり続けている。
出ていく、道がないのに、渦は、外へ、震えを、漏らしている。
私の知る魔法は、川と同じだ。
源があり、流れがあり、行く先がある。
これには、それが、なかった。
それでも、私は、手を打ってみた。
渦の、外側に、土の壁を、編んで、震えを、断つ。
火と土の濃いこの土地なら、壁は、固く編める。
壁は、編めた。
渦は——揺らぎも、しなかった。
壁の、内側で、震えは、何も、変わらずに、鳴り続けていた。
水で、包む手も、考えた。
けれど、この、砂の土地で、あれほどの渦を包む水を、集めるのは、無理だ。
私は、膝の上で、拳を、握った。
読めない。
力の、言葉では、これは、読めない。
「テオさん」
ファルの声が、した。
振り向くと、彼は、入口の、震える空気に、手のひらを、かざしていた。
「これは……魔法では、ありません」
「魔法では、ない?」
「召喚の、文法です」
ファルは、手のひらを、かざしたまま、言った。
「力の、流れじゃ、ないんです。これは——声、です。いえ」
彼は、言い直した。
「呼びかけ、です。誰かを、呼ぶための、かたちが、壊れたまま、鳴り続けている」
呼びかけの、かたち。
砂の中庭で、読めなかった、あの陣。
入口も、出口も、ない、流れのない、構造。
あれと、同じ、文法。
「ファル。中の、ものが、何か、分かりますか」
ファルは、目を閉じた。
長い、沈黙が、あった。
シェフが、ファルの足に、体を、寄せた。
「……いる」
ファルが、言った。
「奥に、誰か、いる。とても、古い……眠っていた、誰かが」
「怒って、いますか」
「いいえ」
ファルは、目を閉じたまま、首を振った。
「怒って、いません。ただ——」
その先を、彼は、探すように、言った。
「目覚めさせられて……戸惑って、いる。……寂しがって、いる」
寂しがって、いる。
兵が三十人、槍を構えて囲んでいる、その奥で。
「中を、見たい」
私は、言った。
「けれど、私たちは、三歩で、引き返すことになる」
「シェフなら」
ファルが、目を開いた。
「シェフなら、入れます。あの震えは、人の、肌には、障る。でも、シェフは、向こう側の、眷属ですから」
シェフは、もう、入口を、見ていた。
金色のまなざしが、暗がりの奥を、まっすぐに射ていた。
「シェフが、視たものは、僕に、届きます。僕が、それを、言葉にします。……あなたが、組み立ててください」
私が、外から、測る。
シェフが、中を、視る。
ファルが、それを、言葉にする。
「お願いします」
黒い小さな影は、震える空気の中へ、するりと、入っていった。
ファルが、目を閉じる。
「……入った。広間です。床に——輪が、ある。石に、刻まれた、輪。三重です」
三重の、輪。
「中心に、何か」
「台座。小さい。手のひらに、乗るくらいの……黒い、石。渦は、そこから」
「輪の、刻みを」
「外の輪は、無事。二番目も。……三番目が」
ファルの、眉が、寄った。
「欠けて、います。刻みが、三つ……いえ、四つ、潰れている。砂と、年月で」
「戻します。……シェフ、もう、いい」
黒い影が、暗がりから走り出てきた。
全身に、薄く、灰色の埃をかぶっていた。
千年分の、埃かもしれなかった。
シェフは、ファルの足元まで来ると、得意げに、尻尾を立てた。
それから、盛大に、くしゃみをした。
「お疲れさま」
ファルが、しゃがんで、埃を払ってやった。
「……『この借りは、大きい』そうです」
「干し魚で、足りますか」
「三匹は、要ると、思います」
そこまで、聞いて、組み上がった。
文法が、分かれば、同じものが、違って、見える。
私は、もう一度、《真理の眼》を、開いた。
流れとして、読めなかった、渦の、底に——今度は、輪の、かたちが、薄く、浮かんで、見えた。
これは、呼びかけの、かたちだ。
三重の輪は、声を、内に、収めるための、つくり。
外の二重は、生きている。
最も内の、輪が、欠けている。
だから、呼びかけは、収まりを、失って、鳴りやまない。
眠っていた誰かは、鳴りやまない呼び声に、起こされた。
そして、呼んだ者は、どこにも、いない。
——それは、たしかに、寂しいだろう。
「ファル。止めるのでは、ありません」
私は、言った。
「呼びかけを、終わらせる。……眠りへ、呼び戻すんです」
「呼び戻す」
「欠けた、刻みを、埋めれば、輪は、閉じる。閉じれば、声は、やむ。けれど、それだけでは、起こされた、誰かが、宙に、残る」
「だから、閉じる前に」
ファルが、引き取った。
「『もう、眠っていい』と、伝える」
「伝えられますか」
「僕の、仕事です」
手順は、こうなった。
私が、土魔法で、潰れた刻みを、埋める。
外から、《魔法解析》で、輪の、かたちを、測りながら、一つずつ。
幸い、この土地は、土の魔素が、濃い。
故郷なら、息が切れる作業を、ここでは、続けられる。
奪われた、属性の、代わりに、与えられた、属性が、ある。
土地は、塞ぐだけでは、なかった。
刻みの、形は、勝手には、作れない。
無事な、二重の輪の、同じ位置の、刻みを、《魔法解析》で、写し取り、それを、手本に、欠けた場所へ、移す。
一つ目を、埋めた。
渦の、震えが、わずかに、低くなった。
二つ目を、埋めた——瞬間。
震えが、逆に、鋭くなった。
砂を踏む音で、兵たちが、一斉に、後ずさったのが、分かった。
「テオさん!」
「——分かって、います」
✗ 形が、違う。
外の輪と、内の輪では、刻みの、深さが、違っていた。
同じ、手本では、駄目なのだ。
私は、埋めたばかりの、土を、削った。
震えの、鋭さを、測りながら、少しずつ、深く。
震えが——低く、戻った。
息を、ついた。
掌が、汗で、濡れていた。
三つ目。四つ目は、最初から、深く、刻んだ。
埋めるたび、鳴りやまなかった声が、少しずつ、静かになっていく。
兵たちが、息を詰めて見守っているのが、背中で分かった。
そして、最後の、一つを、埋める、その前に。
ファルが、入口に、膝をつき、砂の上に、小さな陣を、描いた。
呼びかけの、かたちを。
「——ありがとう。もう、いいんです」
ファルの声は、静かだった。
「呼んだ人は、もう、いません。あなたは、よく、待ちました。……おやすみなさい」
震えが、ふっと、緩んだ。
私は、最後の刻みを、埋めた。
輪が、閉じた。
渦が——消えた。
あとには、ただの、古い、石の広間が、残った。
風の音が、急に、大きく、聞こえた。
しばらく、誰も、声を、出さなかった。
最初に、動いたのは、隊長だった。
岩のような顔が、入口と、私たちとを、何度も、見比べた。
「……おぬしら、二人だけで」
「シェフも、です」
ファルが、言った。
「三人、です」
「我ら三十が、十日、進めんかったものを」
隊長は、それだけ言うと、深く、頭を下げた。
兵たちが、それに、続いた。
「このことは、神官団に、上げる」
頭を上げて、隊長は、言った。
「古きものを、鎮めた、二人の、名と、共にだ。……いずれ、王宮にも、届くだろう」
ファルの顔が、少し、複雑になった。
家の名が、王宮に届くことの、重さを、知っている顔だった。
その夜、帰りの船を、岸に寄せて、私たちは、火を囲んだ。
「テオさん。僕、一人だったら」
ファルが、火を見ながら、言った。
「声は、聞こえました。でも、輪の、どこが、欠けているかは、測れなかった」
「私一人なら、測れても、読めなかった。読めても——伝えられなかった」
火が、爆ぜた。
シェフが、ファルの膝の上で、勝ち誇ったように、ひと声、鳴いた。
「『俺の、手柄だ』と、言っています」
「半分は、そうです」
私は、認めた。
私は、ノートを、開いた。
分かったことを、書いた。
呼びかけのかたちは、読める。二人なら。
それから、分からないことを、書いた。
千年、眠っていたものが、なぜ、いま。
眠りには、戻った。
けれど、なぜ、目を、覚ましたのか。
それは、誰にも、分からないままだった。




