第6章 第1話「二人で、行け」
朝の中庭には、日陰のうちに、小さな机が出される。
それが、この数日の、私たちの決まりごとになっていた。
机の上に、曽祖父の手帳の写しを広げる。
ファルが、読めない文字を、声にする。
私が、その声の意味を、考える。
進みは、遅かった。
一日に、数行のこともあった。
けれど、確かに、進んでいた。
「ここ、また、あの言い回しです」
ファルが、頁の隅を指した。
「『数えてみなければ、分からない』……この人、よほど、好きだったんですね」
「曽祖父の、癖です」
私は、答えた。
あの言い分は、手帳のなかでも、生きていた。
意外だったのは、読み解けた部分の中身だった。
学問の覚え書きを、想像していた。
けれど出てくるのは、市場で買ったパンの値段。宿の女主人の名前。船頭と交わした冗談。
旅の日々の、記録だった。
「研究の頁は、もっと先なのかもしれません」
ファルが言った。
「でも、僕、この頁、好きです。……この人が、どんなふうに歩いたか、分かるから」
私も、同じことを思っていた。
この人は、なんでも書き留めた。
値段も、名前も、冗談も。
世界の何が、あとで意味を持つか、分からないからだ。
読めない文字の向こうに、よく笑う男が、いる。
その人の声を、私は、少しずつ、聞き始めていた。
その朝、屋敷に、報せが届いた。
白い衣の使者が、足早に奥へ通され、やがて、私たちは応接間に呼ばれた。
ザフィールが、書見台の前に、立っていた。
「南の、川上に、古い、祈りの場が、ある」
老人は、前置きなしに、言った。
「十日、前から、様子が、おかしい。中に、濃い、魔力が、渦を、巻いて、誰も、奥へ、入れぬ。……神官団の、兵が、三十人、囲んで、おるがな。囲んで、おるだけよ」
「原因は」
「分からぬ。分からぬから、困って、おる」
ザフィールは、私と、ファルを、順に見た。
長い、間が、あった。
「お前たち、二人で、行って、みるがよい」
「僕たちで、ですか」
ファルが、目を見開いた。
「儂が、見た限り、お前たちの、組み合わせは——何か、特別だ」
それから、老人は、ふっと、息を抜いた。
「……と、いうのは、老いぼれの、勘よ。当てに、せずとも、よい。だが、行って、みるがよい」
「行って、何を、すれば、よいのですか」
私は、訊いた。
「見て、参れ」
ザフィールは、短く、答えた。
「見れば、分かる。……分からねば、戻って、来れば、よい。それも、ひとつの、答えよ」
勘だ、と言いながら、その目は、勘で語る目ではなかった。
私たちは、翌朝、川船で発った。
アル・ナイラの流れを、南へ、遡る。
岸辺には棗椰子の緑が続き、その向こうにはすぐ、砂の色が始まっていた。
緑と砂の境目がこんなにもはっきりしている土地を、私はほかに知らない。
水の上は、涼しかった。
船頭がゆっくりと、棹を差していた。
ファルは舳先に座って、膝の上のシェフを撫でていた。
と思ったら、急に吹き出した。
「……っ。だから、それは、違うって」
誰に言ったのでもない。
少なくとも、私にではなかった。
ファルはシェフを見下ろして、何かを言い返していた。
シェフは知らん顔で、前足をなめていた。
「あの」
私はたまらず、訊いた。
「いま、シェフは、何と?」
ファルははっとして、それから気まずそうに笑った。
「……『西の小僧の、顔が、固い』と」
「固い」
「『岩みたいだ』とも」
私は、自分の頬に、手をやった。
固い、だろうか。
固い、かもしれない。
「すみません。シェフの言葉は、僕にしか、聞こえないので。……つい、一人で、言い合いに」
「いえ」
私は、首を振った。
「うらやましい、と、思っただけです」
声が、聞こえるということは、ずっと、誰かと、一緒にいるということだ。
ファルは、少し、驚いた顔をして、それから、嬉しそうに、シェフの頭を、つついた。
シェフは、迷惑そうに、耳を伏せた。
ファルの右手首では、銀の腕輪が陽を受けて光っていた。
「ナフーは、川の上だと、機嫌がいいんです」
ファルが腕輪を軽く撫でた。
「ここは、この子の川ですから」
腕輪の中で、何かが、満足げに、身じろぎした——ように、見えた。
水を行く船の上に、川の眷属がいて、砂の眷属が不機嫌に丸まっている。
連れだって旅をするとは、こういうことかと、私は思った。
夜は、岸に船を寄せて眠った。
砂漠の夜空は、星の数が違った。
数えきれぬと、分かるためにも、数える。
ふと、その言葉を思い出して、私は、少しだけ、数えてみた。
百を超えたところで、やめた。
曽祖父は、これを、いくつまで、数えたのだろう。
三日目の昼に、着いた。
川辺から、少し、砂地へ入った場所に、それは、あった。
石を、積んだ、古い、祈りの場だった。
大きくは、ない。
故郷の、村の礼拝堂ほどの、石組みが、半ば、砂に、埋もれている。
けれど、その、石の積み方は、シャールハルの神殿と、同じだった。
いや——もっと、古いのかもしれない。
まわりに、天幕が、並んでいた。
白い衣に、革の胸当てを着けた、神官団の兵が、三十人ほど。
槍を手に、石組みを、遠巻きに、囲んでいた。
囲んで、いるだけだった。
兵たちの顔には、十日分の、疲れがあった。
槍を構えながら、その槍が、何の役にも立たないことを、全員が、知っている。
そういう、構え方だった。
天幕の陰では、若い兵が一人、石組みに向かって、低く、祈りの文句を、唱えていた。
武器が、通じないものには、祈るしかない。
それは、たぶん、人が、ずっと、やってきたことだ。
年かさの、隊長が、私たちを迎えた。
日に灼けた、岩のような顔の男だった。
「カムランの、若君か。……それと、西の」
隊長は、私を見て、わずかに、言葉を探した。
「賢者どの、と、聞いている」
「テオと、申します」
「状況を、言う」
隊長は、短く、言った。
「十日前の夜明け、中から光が漏れた。以来、奥で魔力が渦を巻いている。近づけば肌が粟立つ。入った者は三歩で引き返した。怪我人はない。だが誰も進めん」
「中に、何が、あるのですか」
「分からん」
隊長は、石組みを振り返った。
「神官を呼んで、祈祷もした。香も焚いた。鎮めの儀も三度やった。変わらん。……我らにできることは、もう試した」
「ここは、古きものだ。古王朝よりも古い、と年寄りは言う。我らは近づかぬよう教えられてきた。それが——向こうから、目を覚ました」
目を、覚ました。
その言い方が、妙に、正確である気がした。
私とファルは、石組みの、入口に立った。
奥は、暗かった。
その暗さの、さらに奥に、何かが、あった。
見えるのでは、ない。
肌で、分かるのだ。
空気が、震えている。
低く、低く、鳴り続ける、鐘の余韻のような、震えだった。
隣で、ファルが、小さく、息を呑んだ。
シェフが、ファルの足元で、毛を、逆立てていた。
「ファル」
「……はい」
「始めましょう。まず、私が、外から、見ます」
私は、入口の前に、膝をついた。
そして、《真理の眼》を、開いた。




