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第5章 第2話「儂の若き日の友人」

応接間は、薄暗く、涼しかった。


厚い壁が、昼の熱をさえぎっているのだろう。


高い位置の小さな窓から、夕陽が細く差し込んでいた。


部屋の奥に、古い書見台があった。


台の上には、書物が一冊、開かれたままになっていた。


頁の端が、何度も繰られて、丸く、やわらかくなっていた。


読まれている書物だった。


飾られているのでは、なかった。


壁際の棚には、大小の宝玉が並んでいた。


どの宝玉にも、あの二つの環の紋様が刻まれていた。


廊下の奥から、ライラの高い声が、かすかに聞こえていた。


母親らしい声が、それをやわらかく押しとどめていた。


私とファルが待っていると、奥の戸が開いた。


老人が、入ってきた。


背は高くなかった。


けれど、その歩みには、揺らぎがなかった。


白い髭。深い皺。日に灼けた浅黒い肌。


ファルと同じ琥珀色の瞳が、皺の奥から私を見た。


「西の、若き、賢者か」


低い声だった。


石の底から響くような。


私は頭を下げ、名乗り、紹介状を両手で差し出した。


老人はそれを受け取り、封を検め、しばらく文面を読んだ。


それから、顔を上げた。


「ヴァルメール、と、言ったな」


「はい。テオ・ヴァルメールと申します」


老人は、すぐには答えなかった。


長い、間が、あった。


夕陽の細い光のなかで、埃がゆっくりと舞っていた。


「……お前の、曽祖父、エミール・ヴァルメールは」


老人は、言った。


「儂の、若き日の、友人だった」


私は、言葉を、失った。


海を、越えた。


砂を、渡った。


会ったことのない人の足跡を追って、ここまで来た。


その道の果てに、その人を知る人が、立っていた。


「曽祖父を、ご存じなのですか」


「知っておる」


老人はゆっくりと腰を下ろした。


「ザフィール・カムラン。この、家の、隠居よ。……座るが、よい」


私は勧められた椅子に座った。


ファルが私の斜め後ろに、静かに立った。


「半世紀、前の、ことよ」


ザフィールは語り始めた。


「西から、一人の、学者が、来た。砂を、渡って、この、街へ。いまの、お前と、同じように、だ」


「……」


「あの男は、古いものを、追っておった。儂も、追っておった。それで、馬が、合った。共に、調べ、共に、書き、共に、迷った。……長い、年月を、だ」


「曽祖父は……どんな、人でしたか」


問いは、思うより先に、口から出ていた。


私はその人の、手紙の文字しか知らない。


硬く、几帳面で、折り目正しい文字だった。


「よく、笑う、男だった」


ザフィールは、即座に答えた。


「そして、無茶を、言う、男だった。砂漠の、真ん中で、夜に、なると、星の、数を、数え始める。数え、きれるはずも、ないのに、な。……止めると、怒る。数えきれぬと、分かるためにも、数えるのだ、と」


私は、驚いていた。


手紙の硬い文字の向こうに、初めて、生身の人が立った。


数えきれぬと、分かるためにも、数える。


その言い分は、悔しいほど、よく分かった。


何を調べたのですか、と、私は問いたかった。


けれど、ザフィールの語りには、間があった。


その間が、急かすことを許さなかった。


「あの男は、最後に、言った。答えは、もっと、北に、ある、と。……砂の、向こう、誰も、行かぬ、土地の、方角を、見ておった」


「曽祖父は、その土地へ……」


「行った。そして、戻らなかった」


ザフィールは、それきり、しばらく黙った。


悔いのようなものが、その沈黙にはあった。


「儂は、残った。残って、守った。……あの男と、儂が、書き残したものを、だ」


「書き残したもの?」


「この、屋敷の、地下に、眠っておる」


私は思わず、床を見た。


砂を敷いた中庭の、下。


井戸の、下。


この家の地下に、曽祖父の研究がある。


「見せていただけますか」


「時が、来れば、な」


ザフィールは、短く答えた。


それから、付け加えた。


「まずは、その、懐の、写しを、読んでみせよ。……あの男の、字を、読めぬ者に、あの男の、地下は、読めぬ」


試された、のだと、思った。


地下への扉には、鍵がある。


その鍵は、力でも、血筋でもなく──読むことだ。


驚いてもいた。私は、写しのことを、まだ話していなかった。


「サヒルの、文に、書いてあった」


ザフィールは、私の顔を見て、わずかに目を細めた。


「お前が、何を、携えて、来るか、もな」


「お前は、エミールの、曽孫だ。……顔の、つくりは、似ておらぬ。だが、目が、似ておる。分からぬものを、前にした、ときの、目が、な」


それから、老人は、ふと目を細めた。


「儂の、屋敷の、井戸はな、曽孫よ。古い、井戸よ。……水だけでは、なく、縁も、湧く、と、この、家では、言う」


「縁も……」


「お前の、縁も、湧いた、ということよ。──と、言えば、聞こえは、良いがの」


老人の目の皺が、深くなった。


笑ったのだ、と、少し遅れて分かった。


「種を、明かせば、儂は、ただ、サヒルの、文を、読んだだけよ。あの、女の、字は、昔から、変わらん」


私は懐から、手帳の写しを取り出した。


レヴァンタの古い文書館で、受け取ったものだった。


「曽祖父の手帳の写しです。ただ、私には、読めない頁があります」


ザフィールは頁を繰り、目を細めた。


「古き、エジプティアの、文字よ。あの男は、この、国の、古い、言葉を、儂から、学んだ。……ファルよ」


「はい」


「読めるな」


ファルは頁をのぞき込み、頷いた。


「読めます。……古い書き方ですが、習いました」


それから、彼は私を見た。


「一緒に、読み解きましょう。あなたは、文の意味を考える。僕は、文字を声にする。……二人なら、進む」


二人なら、進む。


その言葉は、まっすぐで、当たり前のことのように言われた。


その夜、私はカムランの家の客間に泊まった。


寝る前に、中庭に出た。


夜の砂は、昼の熱を忘れて、冷たかった。


空には、見たことのないほど、たくさんの星があった。


ファルが井戸の縁に腰かけていた。


足元で、シェフが丸くなっていた。


「眠れませんか」


ファルが訊いた。


「いえ。……星を、見たくて」


しばらく、二人で星を見た。


「……このごろ」


ファルが、ぽつりと言った。


「シェフたちの、眠りが、浅いんです」


「眠りが?」


「ええ。夜中に、何度も起きる。理由を訊いても、分からない、と言う。……いえ、言葉ではなくて。そういう気配が、伝わってくるんです」


私は足元の黒い獣を見た。


いまは、よく眠っているように見えた。


「契約の神さまに、祈っても」


ファルは続けた。


「声は、いくつにも、聞こえます。昔から、そういうものですけど」


いくつにも、聞こえる。


私はその言葉を、胸のなかで繰り返した。


私の知る神の声は、一つだった。


遠く、痩せて、途切れがちな、けれど、一つの声だった。


神の声とは、土地によって違うものなのだろうか。


それとも──


考えは、そこで、止めた。


分からないことを、分からないままに、並べておくのも、学問のうちだ。


「母は、言います」


ファルが、星を見たまま言った。


「契約は、数ではなく、心で結ぶもの、だと」


心で、結ぶ。


私は魔法を、仕組みで考える。


どこから力が来て、どこへ行くか。それを測り、確かめ、組み立てる。


彼は、同じ世界を、心で結ぶ、という。


同じものを見ても、入口が違う。


その違いは、優劣ではない、気がした。


昼の中庭で読めなかった、あの砂の上の陣のことを、私は思い出していた。


客間に戻って、私は実験ノートを開いた。


分かったことを、書いた。


曽祖父には、友人がいた。


半世紀前、二人は共に、何かを調べていた。


その記録が、この家の地下に、眠っている。


それから、頁を改めて、分からないことも書いた。


シェフたちの、眠りが、浅いこと。


神の声が、いくつにも聞こえる、ということ。


そして──額の奥の、あの、温み。


分からないことの、覚え書きは、三つに、なった。


血のつながりだけが、私をここへ連れてきたのではなかった。


人から人へ手渡されたものが、ここまで続いていた。


私は、ろうそくの火を消した。


そして、明日。


読めない頁を、読める人と、読む。

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