第5章 第1話「砂の上の召喚陣」
カムランの屋敷の門は、木でできていた。
白い漆喰の塀のあいだに、その門だけが、深い木の色をしていた。
扉の表には、見たことのない紋様が彫られていた。
二つの、環が、結び合う、かたち。
私はその彫りの深さに、年月を見た。
何代もの手が、この紋様をなぞってきたのだろう。
イムホテプが、門の家人に取次を告げた。
家人は私の顔を見て、すぐに頷いた。
まるで、私が来ることを知っていたかのように。
「では、賢者どの。わたくしのお役目は、ここまでで、ございます」
イムホテプは几帳面に礼をして、それから少し迷うように、付け加えた。
「……あの。若君がなぜ賢者どのをお待ちになっていたのか、もしお分かりになりましたら、いつか、わたくしにも、お教えください。気になって、夜も、眠れませんので」
私は約束した。
分かったら、必ず、と。
「若君が、中庭でお待ちです」
家人が言った。
前庭は、静かだった。
塀の内側に、水路の水音が低く流れていた。
神官街区の奥で聞く水の音は、それだけで富のしるしだった。
壁の漆喰には、ところどころ、古い補修の跡があった。
新しい家ではなかった。
古さを誇るのでもなく、ただ住み継いできた家だった。
前庭を抜けると、急に視界が開けた。
中庭は、砂で敷かれていた。
白く、細かい砂だった。
掃き清められ、夕陽を受けて、淡く金色に光っていた。
中央に、古い井戸があった。
石の縁に、門と同じ、二つの環の紋様が刻まれていた。
そして井戸の手前に、一人の少年がいた。
少年はこちらに背を向けて、砂の上にしゃがんでいた。
細い棒の先で、砂に何かを描いていた。
円。
その内側に、もう一つの円。
二つの円をつなぐ、幾本もの線と、読めない文字。
私は足を止めて、それを見た。
魔法陣に似ていた。
けれど、私の覚えのある、どの陣とも違っていた。
私は、《真理の眼》を、わずかに、開いた。
見えたのは、流れのない構造だった。
魔素が巡る道筋が、読めない。
入口も、出口も、見つからない。
私の知る魔法は、力がどこから来て、どこへ行くかで、できている。
けれど、この陣は、そうできていなかった。
読めない。
南方には、契約にもとづく別の術がある──王立図書館の書物は、そう書いていた。
けれど、その姿までは描いていなかった。
力の道筋ではなく、おそらく、これは──呼びかけの、かたちだ。
私の、知らない、文法で、世界に、何かを、語りかけている。
「あなたが、西の、賢者ですね」
少年が言った。
振り向かずに、だった。
棒の先は、まだ砂の上を動いていた。
線が一本、ゆっくりと、円を閉じた。
私が答えるより先に、足元で、何かが動いた。
黒い、小さな獣だった。
猫に似ていた。
子猫ほどの大きさで、毛は夜の色をしていた。
獣は私の足元をひと回りし、旅装の裾の匂いを嗅ぎ、それから、私の顔を見上げた。
金色の、目だった。
値踏みをされている、と思った。
私はしゃがんで、手の甲をそっと差し出した。
故郷で、近所の猫にしていたように。
獣は私の手を一瞥し、それから、ぷいと横を向いた。
……ふられた、らしい。
獣はしばらくそっぽを向いたまま、それでもその場を離れず、最後に短く、ひと声鳴いた。
少年が立ち上がった。
砂を払い、振り向き、私と正対した。
浅黒い肌。琥珀色の瞳。ゆるく後ろで結んだ黒い髪。
白い亜麻の長衣に、濃紺の帯。
私より少し、背が高かった。
その、瞳と、目が、合った、瞬間だった。
額の、奥が、温んだ。
熱では、なかった。痛みでも、なかった。
ただ、温んだ。
冬の朝に、誰かが灯りをともした部屋へ入ったときのような。
似た感覚を、知っていた。
故郷の大神殿の礼拝堂で祈ったときの、あの気配に似ていた。
けれど、違った。
あれは、上から、降りてくる、ものだった。
これは、目の前から、まっすぐに、届く、ものだった。
理由は、分からなかった。
けれど、私は、確信していた。
この、少年も、いま、同じものを、感じている。
「……やっぱり」
少年は小さく笑った。
「シェフの、言う、通りだった」
それから彼は、自分の左胸に軽く手を当てた。
無意識の所作のようだった。
私も気づけば、額に手をやりかけて、止めていた。
「シェフ?」
「この子です」
少年は、足元の黒い獣を目で示した。
「僕の、最初の、相棒です」
それから彼は、胸に手を当てて名乗った。
「ファルザード・カムラン。……ファルと、呼んでください」
私も名乗った。
テオ・ヴァルメール。西海フランディアから来たこと。
「知っています」
ファルは頷いた。
「ずっと、お待ちしていました」
「それを、伺いたかったのです」
私は言った。
「私は、誰にも到着を告げていません。日取りは、私自身知らなかった。……なのに、なぜ、待たれていたのですか」
ファルは、少し、間を置いた。
言葉を選ぶときの、間だった。
「二つ、あります」
「二つ?」
「ひとつは、文です。レヴァンタのサヒルさまから、商会の早船で、先触れの文が届いていました。西の賢者の若君が、砂を渡って来る、と」
私は息をついた。
やはり、人の手の経路はあったのだ。
あの老いた司書は、私を送り出したあとも、私の道を整えてくれていた。
「ですが、文には、私がいつ着くかまでは、書けなかったはずです」
「ええ」
ファルは頷いた。
「……いつ、を、知っていたのは、シェフです」
「もう、ひとつ、ですか」
「シェフが、感じていました。西から、誰かが、近づいてくる、と。文が届くより、前から、ずっと、です」
私は、黒い獣を見た。
獣はもう私を見ていなかった。砂の上で、前足をなめていた。
文は、分かる。
けれど、気配とは、何だろう。
人の手の経路だけでは、説明のつかない何かが、この家にはある。
私は、それを、まだ、知らない。
「おにいさま!」
高い声がして、小さな影が中庭に駆け込んできた。
女の子だった。六つか、七つほどの。
女の子はファルの長衣の後ろに半分隠れ、そこから私をのぞき見た。
「……おにいさまの、おともだち?」
「お客さまだよ、ライラ」
「にしのひと? 西ってどこ? 海よりとおい?」
「海の、向こうだよ」
「海のむこう……」
ライラは目を丸くして、私を見上げた。
世界の果てから来た生きものを、見る目だった。
「おなまえは?」
「テオです」
「テオ。……みじかい」
「ライラ」
ファルが、たしなめた。
けれど、その声は笑っていた。
「だっておにいさまのおともだちは、みんな、ながいなまえだもの」
私は思わず笑った。
海より遠いか、と問われれば、たしかに私は、海より遠くから来たのだった。
そのとき、表の方から年かさの家人が歩いてきた。
家人はファルに、何かを告げた。
ファルの表情が、少し改まった。
彼は私に向き直った。
「祖父が、あなたに、お会いになります」




