第4章 第2話「待たれていた者」
川港は、市場の、喧騒で、満ちていた。
船着場に、川船が、並び、荷が、次々と、降ろされていく。
布。染料の、壺。乾いた、なつめやし。そして、書きものを、する、ための、薄い、紙の、束。
人々の、声が、飛び交っていた。
レヴァンタの、古い、市場に、似ていた。
けれど、匂いが、違った。
潮の、匂いの、代わりに、砂と、川の、匂いが、した。
乾いた、土と、流れる、水の、入り混じった、匂いだった。
聞こえてくる、言葉も、半ばは、知らない、ものだった。
それでも、ところどころ、レヴァンタで、耳に、した、通商の、言葉が、混じっていた。
幼い、ころ、母は、いくつもの、言葉を、私に、聞かせてくれた。
その、ときは、ただ、音の、遊びの、ように、思っていた。
けれど、いま、この、見知らぬ、街で、その、切れ端が、私を、助けていた。
「カムランの、家は、どちらですか」
私は、知っている、限りの、言葉を、つなぎ、なつめやしを、売る、女に、尋ねた。
女は、私の、たどたどしい、言葉に、少し、笑い、それでも、川上の、方を、指で、示してくれた。
言葉が、通じる、というのは、こういう、ことか、と、私は、思った。
完全に、分かり合えなくても、通じる、ところだけで、人は、道を、教え合える。
私は、その、切れ端を、拾いながら、道を、尋ね、市井を、抜けていった。
港の、喧騒を、離れるほどに、街は、静かになった。
やがて、白い、塀の、続く、一帯に、出た。
日干しの、煉瓦に、白い、漆喰を、塗った、塀。
その、向こうに、中庭式の、屋敷が、連なっていた。
街路は、布で、半ば、覆われ、強い、陽を、和らげていた。
砂より、緑が、多かった。
水路から、引かれた、水が、棗椰子の、根を、潤し、木陰を、作っていた。
港の、喧騒が、嘘のように、遠ざかっていた。
ここでは、人は、声を、低めて、歩いた。
足音さえ、布の、覆いに、吸われて、柔らかかった。
水が、貴重な、この、国で、これだけの、緑を、保てる、一帯。
それが、何を、意味するのかは、私にも、分かった。
ここに、住む、人々は、この、街で、最も、重んじられる、人々なのだ。
ここが、神官の、人々の、住む、一帯なのだ、と、私は、思った。
その、一帯の、入り口に、門が、あった。
街の、門というより、区画を、分かつ、ための、門だった。
衛士が、二人、槍を、手に、立っていた。
私が、近づくと、衛士の、一人が、手を、上げて、私を、止めた。
知らない、言葉で、何かを、問われた。
おそらく、用向きを、尋ねられたのだ、と、思った。
私は、懐から、紹介状を、取り出し、差し出した。
レヴァンタの、古い、市場の、奥で、あの、老いた、司書が、私に、託した、一通だった。
衛士は、封蝋を、検めた。
宛名を、読んだ、とき、その、眉が、かすかに、動いた。
何かを、確かめるように、もう一度、私の、顔を、見た。
それから、急ぐように、奥へ、誰かを、呼びに、行った。
しばらくして、一人の、若い、男が、足早に、出てきた。
白い、亜麻の、衣。腰に、青い、帯。手には、巻いた、紙と、筆を、持っていた。
書きものを、する、人の、身なりだった。
男は、私の、前で、立ち止まり、紹介状を、もう一度、検めると、急に、丁寧な、礼を、した。
「賢者どの。紹介状を、確かに。……はるばる、西の、海の、向こうから、ようこそ」
通商の、言葉だった。
少し、早口で、言葉の、端々に、固い、丁寧さが、こもっていた。
「わたくしは、この、街の、神官団に、仕える、書記で、ございます。イムホテプ、と、申します」
私は、頭を、下げ、名を、名乗った。
「カムランの、ご当家を、訪ねたいのです。この、紹介状は、その、ための、ものです」
イムホテプは、頷いた。
それから、何か、言いかけて、口ごもり、また、言いかけた。
「……あの、賢者どの。ひとつ、奇妙な、ことを、申し上げても、よろしいでしょうか」
「なんでしょう」
「カムランの、お屋敷に、お取次の、ことを、伝えましたところ──」
彼は、巻いた、紙を、両手で、握り直した。
「カムランの、若君が、三日前から、客人を、待っている、と。そう、言われたのです」
私は、彼を、見た。
「三日、前から?」
「はい。三日前、いえ、正しくは、三日と、半日ほど、前から、西より、客人が、来る、と。……わたくしには、わけが、分かりませんが」
イムホテプは、本当に、わけが、分からない、という、顔を、していた。
「賢者どのは、あらかじめ、ご来訪を、お報せに、なって、いたのですか」
「いいえ」
私は、答えた。
「誰にも、告げていません。いつ、ここに、着くか、私自身、知らなかったのです」
砂の、道が、何日、かかるかも、分からなかった。
途中で、何が、起こるかも、分からなかった。
私は、ただ、紹介状を、頼りに、ここまで、来た。
到着の、日取りなど、決めようも、なかった。
「では、なおさら、わけが、分かりません」
イムホテプは、困ったように、眉を、寄せた。
「ともあれ、若君は、お待ちです。お取次を、いたしましょう。……どうぞ、こちらへ」
彼は、先に、立って、歩き出した。
私は、その、後ろを、ついていきながら、考えていた。
三日前から、待たれている。
不思議だった。
けれど、私は、それを、神秘の、ことだ、とは、思わなかった。
世の中に、前触れも、なく、人の、来訪を、言い当てる、力など、あるとは、思えない。
きっと、何か、人の、手の、経路が、あったのだ。
誰かが、私より、先に、ここへ、報せを、送った。
そう、考えるのが、筋だった。
レヴァンタの、あの、司書だろうか。
私が、街を、発った、あと、早い、船で、先触れの、文を、送ることは、できたかもしれない。
あるいは、紹介状の、宛先の、家には、もともと、私の、来訪を、見越す、何かの、縁が、あったのか。
砂の、商人たちも、街から、街へ、報せを、運ぶ、と、聞いた。
私の、知らない、糸が、どこかで、つながって、いたのかもしれない。
考えても、答えは、出なかった。
ただ、ひとつ、だけ、確かな、ことが、あった。
私は、それを、嬉しい、とは、感じても、恐ろしい、とは、感じなかった。
待たれている、ということは、迎えられる、ということだ。
異国の、知らない、街で、私を、待つ、誰かが、いる。
その、こと自体は、心強かった。
人の、来訪は、人の、手で、伝わる。
それが、私の、信じている、ことだった。
神官街区の、白い、街路の、向こうに、石の、山が、見えた。
天に、向かって、聳える、巨大な、神殿。
その、影が、街に、長く、伸びていた。
日が、傾き始めていた。
私は、その、石の、山を、見上げた。
曽祖父も、かつて、この、街路を、歩いたのだろうか。
この、同じ、神殿を、見上げたのだろうか。
きっと、見上げた、のだろう、と、思った。
学問の、ために、海を、越え、砂を、渡り、この、石の、都まで、来た、一人の、男。
私は、その、人の、顔を、知らない。声も、知らない。
ただ、残された、手紙と、研究の、跡を、辿って、ここまで、来た。
そして、いま、その、人が、立ったかもしれない、場所に、私も、立っている。
血の、つながりとは、不思議な、ものだ、と、思った。
会った、ことの、ない、人の、足跡を、こうして、私は、追っている。
知らない、国の、知らない、街で、私は、たしかに、曽祖父が、辿った、道の、先に、立っていた。
イムホテプの、背を、追いながら、私は、もう一度、自分に、問うた。
なぜ、私は、三日前から、待たれているのか。
誰かが、先に、報せた、はずだ。
けれど、それが、誰なのか、私には、まだ、分からなかった。




