第4章 第1話「砂を渡る」
海沿いの、街道は、ひとつの、町で、尽きた。
水の、匂いが、薄れ、代わりに、乾いた、風が、吹き始める、境の、町だった。
ここから、先は、砂だ、と、誰もが、言った。
ガロンたちは、その、町で、足を、止めた。
「俺たちは、ここまでだ、坊主」
ガロンは、酒場の、軒先で、水で、薄めた、酒を、あおりながら、言った。
「海の、ある、ところで、戦うのが、俺たちの、仕事でな。砂の、中じゃ、剣も、なまる。風も、読めん」
「ここから、先は、俺たちの、縄張りじゃ、ねえ」
私は、頭を、下げた。
「ここまで、ありがとう、ございました」
ガロンは、片方の、眉を、上げ、それから、笑った。
「礼は、いい。お前の、おかげで、剣の、ことを、一つ、知れた」
彼は、腰の、剣を、軽く、叩いた。
斬るほどに、温まり、潮風でも、なまらない、あの、剣だった。
「砂の、国へ、行くんだろう。だったら、砂の、商人に、ついていけ。あいつらは、砂の、上で、生きて、帰る、目を、持ってる」
「お前に、足りないのは、そういう、目だ。……まあ、もう、分かってるみたいだが、な」
私は、もう一度、頭を、下げた。
ガロンは、それきり、振り返らなかった。
軒先の、影に、座ったまま、片手を、軽く、上げただけだった。
それが、別れだった。
砂を、越える、隊商は、その、町の、外れで、荷を、整えていた。
らくだに、似た、背の、高い、獣。革の、水袋。布で、覆われた、荷。
隊商頭は、ハムディ、という、名の、老人だった。
日に、焼けた、皺の、深い、顔。布を、頭に、巻き、目だけを、出していた。
私が、紹介状を、見せ、砂の、国へ、行きたいと、言うと、彼は、しばらく、私を、見た。
「子供が、一人でか」
「はい」
「水は、持っているか」
私は、革袋を、見せた。
ハムディは、首を、振った。
「足りん。砂は、海と、逆だ。海は、水が、ありすぎて、人を、溺れさせる。砂は、水が、なさすぎて、人を、枯らす」
彼は、自分の、隊の、水袋を、一つ、私の、足元に、置いた。
「分けてやる。代わりに、夜は、火の、番を、しろ。それで、貸し借りは、なしだ」
そうして、私は、砂を、渡る、列に、加わった。
隊商は、夜明け前に、発ち、陽の、高い、時刻には、止まった。
灼ける、昼を、避け、涼しい、うちに、進むのだ、と、ハムディは、言った。
獣の、背に、荷を、積み、人は、その、傍らを、歩いた。
歩く、速さは、ゆっくりと、していた。けれど、列は、決して、止まらなかった。
水は、決まった、時刻に、決まった、量だけ、配られた。
飲みたい、ときに、飲む、ことは、許されなかった。
「砂では、水を、惜しむ者が、生き、惜しまぬ者が、死ぬ」と、ハムディは、言った。
私は、その、言葉を、書き留めたい、と、思った。
けれど、ここには、机も、紙も、なかった。ただ、頭の、中に、刻んだ。
砂漠は、私が、書物で、読んだ、どの、言葉とも、違っていた。
見渡す、限り、砂だった。
風が、その、表を、撫でると、砂が、流れ、形が、ゆっくりと、変わっていった。
目印に、なる、ものが、何も、なかった。
木も、家も、丘の、形さえ、昨日と、同じ、ものは、なかった。
それなのに、ハムディたちは、迷わなかった。
自分が、どれほど、小さいかを、私は、思い知った。
海の、上でも、空の、広さに、圧されたが、砂の、広さは、それとも、また、違った。
海には、波が、あった。砂には、ただ、静けさが、あった。
その、静けさの、中を、列は、点のように、進んでいった。
空気が、乾いていた。
海辺では、肌に、まとわりついた、湿りが、ここには、なかった。
唇が、すぐに、乾き、喉の、奥が、ひりついた。
昼は、灼けるように、暑かった。
陽が、容赦なく、砂を、焼き、空気が、揺らいで、遠くが、歪んで、見えた。
それなのに、日が、沈むと、砂は、急に、冷えた。
夜には、震えるほど、寒かった。
私は、約束どおり、夜の、火の、番を、した。
枯れた、低い、草と、獣の、糞を、集め、火を、熾す。
その、とき、私は、気づいた。
火が、おとなしかった。
海辺で、煙幕を、試みた、あの、とき、火は、たちまち、水の、気配を、巻き込んで、白く、ふくれ上がった。
けれど、ここでは、火は、ただ、静かに、燃えた。
赤く、まっすぐに、立ち上り、暴れる、気配が、なかった。
同じ、初級の、火だった。
私の、唱える、言葉も、込める、力も、何も、変えていない。
それなのに、火は、土地が、違うだけで、別の、ふるまいを、する。
水が、ありすぎる、ところと、水が、なさすぎる、ところ。
その、違いを、火は、正直に、映した。
私は、それを、ただ、見ていた。
うまく、言葉には、ならなかった。
ただ、海辺で、肌で、読めなかった、あの、感覚が、ここにも、横たわっている、と、思った。
書物は、火の、燃え方を、教えてくれる。けれど、この、土地で、火が、どう、ふるまうかは、ここに、来て、火を、熾してみるまで、分からなかった。
ハムディたちは、火の、向こうで、星を、見ていた。
「あの、星が、低くなれば、川が、近い」
老人は、低く、言った。
「砂の、形でも、分かる。風が、いつも、同じ、向きから、来る、ところは、砂の、背が、同じ、向きに、寝ている」
私は、つい、尋ねた。
「水は、どこに、あるか、星で、分かるのですか」
ハムディは、私を、見もせずに、言った。
「星では、分からん。砂が、知っている。……お前は、まだ、知らんがな」
最後の、一言が、妙に、おかしかった。
からかわれたのか、慰められたのか、私には、判じかねた。
ただ、悪い、気は、しなかった。
知らない、ことを、知らない、と、言える、相手と、いるのは、久しぶりだった。
彼らは、砂の、上の、すべてを、読んでいた。
砂の、寝方。星の、高さ。風の、匂い。
それは、ガロンが、戦場の、風を、読んだ、あの、目と、同じ、種類の、ものだった。
書物の、中には、ない、目。
その、土地で、生きて、帰る、者だけが、持つ、目だった。
私には、まだ、その、目が、なかった。
この、目を、持たないまま、私は、知らない、都へ、入ろうとしている。
そこで、私は、何を、頼りに、すればいいのだろう。
幾日目の、夜だった、だろうか。
星が、ハムディの、言ったとおり、低く、なっていた。
「川が、近い」
老人は、星を、見上げて、そう、言った。
その、翌朝、砂の、果てに、緑が、見えた。
初めは、目の、迷いか、と、思った。
けれど、近づくほどに、それは、はっきりとした。
棗椰子の、木立。畑へ、水を、引く、細い、水路。そして、ゆったりと、流れる、大きな、川。
水の、匂いが、した。
海とは、違う、土を、含んだ、川の、匂いだった。
「アル・ナイラだ」
ハムディが、言った。
「この、川が、砂の、国を、生かしてる。川の、ある、ところにだけ、人が、住める」
緑地帯に、入ると、暑さが、和らいだ。
木立の、影が、道に、落ち、水路の、せせらぎが、聞こえた。
砂の、海を、渡りきった、ことを、私は、ようやく、実感した。
川に、沿って、しばらく、進んだ、とき。
地平の、向こうに、それが、見えた。
石の、山だった。
四角い、底から、上へ、向かって、すぼまり、天に、向かって、聳える、巨大な、石の、構築物。
それが、いくつも、川沿いの、高台に、並んでいた。
私は、足を、止めた。
フランディアの、学院には、塔が、あった。
問いを、立てるように、空へ、伸びる、細い、塔。
レヴァンタの、市場は、混じり合う、喧騒だった。
幾つもの、言葉と、品物が、ぶつかり合う、ところ。
けれど、これは、そのどちらとも、違った。
問いも、しない。喧騒も、ない。
ただ、沈黙して、聳えていた。
何百年、いや、何千年、そこに、あった、かのように、石は、ただ、静かに、空を、背負っていた。
私は、その、威容に、言葉を、失った。
これを、築いた、人々が、いる。
私の、知らない、神を、私の、知らない、やり方で、祀る、人々が。
私の、知らない、別の、形で、世界と、向き合ってきた、人々が、たしかに、ここに、いた。
世界は、私が、思っていたより、ずっと、広い。
その、ことを、私は、その、石の、山を、見上げながら、思った。
「シャールハル」
ハムディが、川の、先を、指して、言った。
「砂の、国の、古い、都だ。お前の、行き先は、あそこか」
「はい」
私は、頷いた。
あの、石の、都に。
曽祖父が、かつて、辿った、道の、先が、ある。
懐の、紹介状を、私は、そっと、押さえた。
封蝋は、まだ、無事だった。
川の、流れに、沿って、都は、少しずつ、近づいてくる。
私は、足を、速めた。
あの、石の、都で、私を、待っているものが、何なのか。
その、ときの、私は、まだ、知らなかった。




