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第3章 第2話「戦場の風を読めねえな」

白い、霧が、薄れていった。


風が、ようやく、海の方へ、抜けていく。


蒸気が、流れ、散り、視界が、戻ってきた。


私が、最初に、見たのは、背中だった。


私と、野盗の、あいだに、男が、一人、立っていた。


広い、背中。革の、鎧。手には、抜き身の、剣。


その、左右にも、人影が、あった。


四人。五人。武器を、構えた、男たち。


野盗では、なかった。


野盗は、もう、逃げ始めていた。


「逃がすな。だが、深追いは、するな」


背中の、男が、言った。


低く、よく、通る、声だった。


その、一言で、左右の、男たちが、動いた。


二人が、前へ、出て、逃げる、野盗を、押さえる。


一人が、横へ、回り、退路を、断つ。


残りが、その場に、留まり、守りを、固める。


誰も、言い合わなかった。


号令は、たった、一言だった。


それで、全員が、別々の、場所へ、散り、それでいて、一つの、形に、なった。


一人が、踏み込めば、隣の、一人が、その、空いた、場所を、埋める。


誰かが、退けば、別の、誰かが、前へ、出る。


まるで、五人で、一つの、生き物のように、動いていた。


それぞれが、何を、するか、初めから、決まっているかの、ようだった。


私は、地面に、座ったまま、それを、見ていた。


一人の、声で、皆が、動く。


体が、先に、知っているような、動きだった。


何度も、何度も、同じ、戦場を、くぐった者たちの、呼吸。


私の、知っている、強さとは、違った。


理屈でも、計算でも、なかった。


私は、まだ、それが、何なのか、言葉に、できなかった。


ただ、見たことの、ない、ものを、見た、と、思った。


野盗が、丘の、向こうへ、消えた。


戦いは、終わっていた。


ほんの、わずかな、あいだの、ことだった。


背中の、男が、振り向いた。


日に、焼けた、顔。


無精髭。片方の、眉に、古い、傷。


四十は、過ぎている、だろうか。


男は、剣を、鞘に、収めながら、私を、見下ろした。


それから、白い、蒸気の、消えた、あたりを、見回し、低く、笑った。


「坊主。あれは、お前が、やったのか」


私は、頷いた。


喉が、まだ、痛んで、声が、出なかった。


「煙幕の、つもりか」


私は、もう一度、頷いた。


男は、声を、上げて、笑った。


「たいした、思いつきだ。本当に、たいした、もんだ」


「だが、坊主」


男は、笑いを、収めて、言った。


「お前、頭は、いいんだろうが──戦場の、風を、読めねえな」


私は、何も、言えなかった。


その、通り、だった。


一言も、返せなかった。


「煙ってのはな」


男は、しゃがんで、私と、目の、高さを、合わせた。


「どっちへ、流れるかが、すべてだ。風下に、敵を、置けなきゃ、ただ、自分が、むせるだけさ」


「お前は、風が、どっちから、吹いてるか、見もしないで、火を、点けた。違うか」


違わなかった。


私は、風を、書物で、知っていた。けれど、いま、ここの、風を、肌で、読んでは、いなかった。


「……はい」


ようやく、私は、声を、出した。


「その、通りです」


男は、満足そうに、頷いて、立ち上がった。


「ガロンだ。見ての、通りの、流れ者の、傭兵さ」


「南へ、行くのか。だったら、しばらく、俺たちの、後ろを、歩け。お前、一人じゃ、次の、窪地で、おしまいだ」


傭兵の、一人が、私に、水の、革袋を、放って、よこした。


「飲め、坊主。蒸気を、吸ったんだ。喉が、灼けてるだろう」


私は、それを、受け取り、水を、飲んだ。


ぬるい、革の、匂いの、する、水だった。


それでも、灼けた、喉に、しみた。


私は、立ち上がり、頭を、下げた。


「助けて、いただいて、ありがとう、ございます」


礼を、言いながら、私の、目は、ガロンの、腰の、剣に、向いていた。


鞘に、収めるとき、刃が、一瞬、見えた。


その、刃に、細い、文字が、刻まれていた。


私は、そこに、何かを、感じた。


ただの、装飾では、なかった。


「その、剣を、見せて、いただけますか」


ガロンは、片方の、眉を、上げた。


それから、剣を、抜いて、私の、前に、差し出した。


私は、《魔法解析》を、走らせた。


刃に、刻まれた、文字の、奥に、術の、流れが、見えた。


熱を、刃に、留める、構造だった。


斬った、時の、摩擦の、熱を、逃さず、刃に、巻きつけ、次の、一振りへ、回す。


しかも、湿気で、鈍らないよう、流れに、塩への、備えが、織り込まれていた。


無駄が、なかった。


一つひとつの、刻みが、海辺で、戦うという、一つの、目的の、ために、組まれていた。


これを、刻んだ、術師は、海の、風を、塩を、湿気を、すべて、知っていた。


知った、上で、剣に、写し取っていた。


海の、近くで、戦う者の、剣だった。


「これは……熱を、ためる、付与ですね」


私は、言った。


「斬るほどに、刃が、温まる。そして、潮風でも、なまらない。海辺で、戦うために、組まれた、術です」


ガロンの、手が、止まった。


「……お前」


しばらく、彼は、私を、見つめた。


それから、剣を、鞘に、戻した。


「この、刻みの、意味は、付けた、術師しか、知らねえ。俺だって、ただ、よく、斬れる、剣だ、としか、思ってなかった」


「お前、学者か。たいした、もんだ」


不器用な、短い、賞賛だった。


それが、かえって、本物に、聞こえた。


私は、嬉しかった。


剣の、構造は、読めた。文字の、奥の、術の、流れが、見えた。


それは、私の、得意な、ことだった。


けれど、すぐに、別の、思いが、来た。


私は、この、剣の、術を、読めた。


それなのに、さっきは、風を、読めなかった。


読めることと、使えることは、違う。


私は、初めて、その、隔たりを、はっきりと、感じた。


ガロンたちの、後ろを、歩きながら、私は、考え続けた。


私には、理屈が、ある。


火が、どう、燃えるか。煙が、どう、立つか。剣に、どんな、術が、込められているか。


そういう、ことなら、誰よりも、よく、分かる。


けれど、戦場で、風が、どちらへ、吹くか。


刃が、いつ、どこから、来るか。


そういう、ことは、何も、分からなかった。


うまく、言葉には、ならなかった。


ただ、たしかに、欠けている、ものが、あった。


私は、理論を、持っている。


それを、使う、場の、感覚を、持っていない。


そう、言葉に、してみても、まだ、どこか、しっくりとは、こなかった。


頭で、分かることと、それを、本当に、分かることの、あいだにも、きっと、隔たりが、あるのだろう。


幼い日に、兄が、庭で、教えてくれた、剣の、素振り。


「腰だ、テオ。手で、振るな。腰で、振るんだ」


繰り返す、私の、構えを、兄の、手が、何度も、直した。


あの、繰り返しは、遊びでは、なかったのかもしれない。


体に、覚えさせる、ということ。頭ではなく、体が、先に、動くということ。


あの、素振りでは、まだ、足りない。


私は、もっと、剣を、習わねば、ならない。


剣士に、なるためでは、ない。


私の、道は、剣では、ない。


ただ、自分の、身を、守るために。


そして、いつか、場の、感覚を、頭ではなく、体で、つかむために。


「おい、坊主。遅れるなよ」


前から、ガロンの、声が、飛んだ。


私は、足を、速めた。


歩きながら、私は、もうひとつのことに、気づいていた。


さっき、火が、蒸気に、変わった。


あれは、失敗だった。けれど。


この、土地では、火は、たやすく、水の、気配を、巻き込んで、白く、ふくれる。


もし、それを、狙って、作れたなら。


煙では、ない、霧を。


その、考えは、まだ、形に、ならなかった。


火が、暴れた、その、悔しさの、底で、小さく、光っただけだった。


私は、それを、頭の、隅に、留めた。


前を、行く、ガロンたちは、時折、丘の、上へ、目を、走らせた。


朝の、隊商の、護衛と、同じ、目だった。


彼らは、いつも、風を、見ている。


道の、先を。地形を。空の、色を。


それが、生きて、帰る者の、目なのだ、と、私は、思った。


書物の中には、ない、目だった。


海沿いの、街道は、南へ、続いていた。


潮の、匂いの、中を、傭兵たちの、背を、追って、私は、歩いた。


砂の国は、まだ、遠かった。


懐の、紹介状は、無事だった。


曽祖父が、向かった、その先へ、私は、まだ、歩いていける。


ただ、出立の、朝より、少しだけ、私は、自分の、足りなさを、知っていた。


理論を、持つことと、それを、使えること。


そのあいだに、私の、知らない、広い、隔たりが、横たわっている。


その、隔たりを、私は、これから、一歩ずつ、渡っていくのだ。


風の、吹く、向きを、肌で、読めるように、なるまで。


顔を、上げた。


街道は、まだ、ずっと、南へ、続いていた。


その、先に、私の、まだ、知らない、国が、待っている。

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