第3章 第1話「街道の風」
紹介状を、懐に、入れて、私は、アルカリオを、発った。
砂の国へ。
曽祖父が、四十八年前に、向かった、その先へ。
港を、出ると、街道は、海に、沿って、続いていた。
右手に、海。
左手に、低い、丘。
道は、その、あいだを、南へ、伸びていた。
海は、明るい、青を、していた。
陽が、水面に、砕けて、無数の、光が、揺れていた。
故郷の、北の海の、灰色とは、違う、色だった。
この、海の、向こうに、砂の国が、ある。
そう、思うと、足が、軽く、なった。
朝のうちは、隊商の、列に、混じって、歩いた。
荷を、積んだ、駱駝と、護衛の、男たち。
その、最後尾に、ついて、歩けば、安全だった。
護衛の、男たちは、寡黙だった。
時々、丘の、上や、道の、先へ、目を、走らせた。
何かを、警戒する、目だった。
私は、その、意味を、深く、考えなかった。
ただ、彼らの、後ろを、歩いていれば、いい。
そう、思っていた。
けれど、昼前に、隊商は、脇道へ、それた。
内陸の、町へ、荷を、運ぶ、のだという。
私は、海沿いの、道を、まっすぐ、行きたかった。
砂の国へは、こちらが、近い。宿の主人が、そう、言っていた。
別れぎわ、護衛の、一人が、私を、見て、言った。
「坊主。一人で、先へ、行くのか。この先は、人気が、ないぞ」
私は、頷いた。
大丈夫です、と、答えた。
魔法が、ある。心の中で、そう、付け加えた。
だから、私は、一人で、歩き続けた。
それが、油断だった。
いまなら、分かる。
街道には、人影が、なかった。
潮の、匂いが、濃かった。
海から、ぬるい、風が、吹いていた。
昼の、海風だ、と、私は、思った。
陽が、高くなると、海から、陸へ、風が、吹く。学院の、書物に、書いてあった。
知識としては、知っていた。
ただ、それだけ、だった。
私は、その風が、いま、どちらへ、流れているのかを、肌で、確かめは、しなかった。
風は、書物の中の、言葉だった。
私の、足元の、現実では、なかった。
歩きながら、私は、考えていた。
砂の国の、古代語のこと。読めなかった、手帳の、頁のこと。
頭の中は、書物で、いっぱいだった。
道の、先のことは、何も、考えていなかった。
道が、ゆるい、窪地へ、下りた、その時だった。
両側の、丘の、陰から、人が、立ち上がった。
四人。
いや、五人。
汚れた、外套。手には、棒や、錆びた、刃。
顔を、布で、隠した、男たち。
痩せた、男も、いた。大きな、男も、いた。
けれど、どの、目も、同じ、色を、していた。
飢えと、慣れの、混じった、目だった。
人を、襲うことに、慣れた、者の、目。
私は、その、目を、見て、初めて、これが、遊びでは、ないと、悟った。
「荷を、置いていきな」
一人が、言った。通商語では、なかった。
訛りの、強い、フランディア語。それでも、意味は、分かった。
荷。私の、鞄。
その中には、サヒルから、託された、紹介状が、入っていた。
砂の国への、ただ一つの、手がかりだった。
渡せない、と、思った。
これを、失えば、私の、旅は、ここで、終わる。
私の、足が、止まった。
心臓が、いきなり、速く、打った。
私は、戦ったことが、なかった。
兄に、剣の、素振りを、教わったことは、ある。幼い日に、庭で、何度か。
けれど、それは、遊びだった。
本物の、刃を、向けられたのは、これが、初めてだった。
逃げよう、と、思った。
足が、動かなかった。
膝が、震えていた。
口の中が、からからに、乾いた。
子供の、体だった。
二十八年、生きた、はずの、私の、中身は、その、震えを、止められなかった。
落ち着け。
私は、自分に、言い聞かせた。
私には、魔法が、ある。なんとか、なる。
そう、思った。
その、思いこそが、二つ目の、油断だった。
頭の中で、前世の、知識が、回り始めた。
ものが、不完全に、燃えると、煙が、出る。
枯れた、草を、燻らせれば、白い、煙が、立つ。
煙は、視界を、奪う。
前世で、読んだ、知識だった。
火は、酸素が、足りないと、すすを、出す。すすは、煙に、なる。
理科の、教科書に、書いてあった、当たり前の、ことだった。
煙幕だ。
野盗の、目を、奪って、その、隙に、逃げる。
理屈は、通っていた。完璧に、通っていた。
私は、道端の、枯草に、目を、やった。
夏の、終わりの、乾いた、下生えが、丘の、裾に、茂っていた。
火を、点ける。大きく、燃やすのでは、ない。
低い、温度で、燻らせて、煙だけを、出す。
私は、手を、伸ばした。
初級の、火を、唱えた。
指先に、熱が、灯った。
それを、枯草の、根元へ、置いた。
そこまでは、思い通り、だった。
けれど。
火が、草に、移った、瞬間。
空気が、白く、膨れた。
煙では、なかった。
蒸気だった。
火の、熱が、あたりの、湿った、空気を、つかんで、一息に、白い、塊に、変えた。
潮を、含んだ、海沿いの、空気。その、水の、気配が、火に、巻き込まれた。
煙より、ずっと、速く。
煙より、ずっと、濃く。
白い、塊が、ふくれ上がった。
私の、背丈の、倍。三倍。
ごう、と、音が、した。
熱と、湿気が、ぶつかり合う、音だった。
枯草は、煙を、出す、暇も、なく、その、白さに、飲まれた。
私が、思い描いた、ゆっくりと、燻る、煙では、なかった。
しまった、と、思った。
火が、湿気を、蒸気に、変えている。学院では、こんなこと、習わなかった。
いや、習わなかった、のでは、ない。
この、土地の、空気が、違ったのだ。
水の、気配が、濃い。
火が、その、水を、つかんで、白く、ふくらんだ。
なぜ、ここでは、こうも、たやすく——
問いは、続かなかった。
そして、もうひとつ。
風だった。
白い、塊は、私の、思っていた、向きに、流れなかった。
野盗の、方へ、行く、はずだった。
海から、陸へ。
昼の、海風は、海から、陸へ、吹く。
私は、海を、右手に、見て、立っていた。
風は、その、右手から、私の、背へ、抜けて、いくはず——
違った。
道が、窪地へ、下りた、その、地形で、風は、巻いていた。
海風は、丘に、当たって、跳ね返り、私の、正面から、吹き戻していた。
書物には、書いていない、風だった。
白い、蒸気の、塊が、まっすぐ、私の、顔へ、押し寄せた。
視界が、消えた。
何も、見えなかった。
白の、中に、自分が、いた。
熱い、湿気が、喉を、塞いだ。
私は、咳き込んだ。激しく、咳き込んだ。
目が、痛んだ。涙が、出た。
息が、できなかった。
野盗が、どこにいるか、分からなかった。
自分が、どちらを、向いているかも、分からなかった。
白の、中で、私は、独りだった。
理屈は、すべて、頭の中に、あった。
それなのに、私の、体は、その、白さの中で、何ひとつ、できなかった。
笑い声が、聞こえた。
白い、霧の、向こうで、男たちが、笑っていた。
「なんだ、こりゃ」
「自分で、自分を、煮てやがる」
足音が、近づいた。
私の、方へ。
私は、後ずさった。何かに、つまずいた。
尻もちを、ついた。
手が、地面を、探った。逃げ道を、探した。
白い、霧は、まだ、晴れなかった。
私は、ここで、死ぬのかもしれない、と、思った。
こんな、ところで。自分の、作った、白さの、中で。
砂の国は、まだ、見てもいない。
曽祖父の、手帳の、続きも、読めていない。
理屈は、正しかった。
不完全燃焼で、煙が、出る。煙は、視界を、奪う。
すべて、正しかった。
ただ、ひとつ。
私は、いま、ここの、空気が、何で、できているかを、知らなかった。
いま、ここの、風が、どちらへ、吹くかを、読めなかった。
足音が、すぐ、そこまで、来た。
刃の、光が、霧の中に、にじんだ。
その、時だった。
別の、足音が、聞こえた。
重く、速い、たくさんの、足音。
そして、鋭い、声が、街道に、響いた。
「左、回り込め——っ」
号令だった。
霧の、向こうで、金属が、ぶつかる、音が、した。
何かが、始まっていた。
私には、まだ、何も、見えなかった。




