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第2章 第2話「読めない頁」

サヒルは、もうひとつの、包みを、机に、置いた。


契約書よりも、厚い、包みだった。


「これが、エミール老の、手帳の、写しだよ」


サヒルは、言った。


「本物は、エミール老が、持って、いった。写しだけが、ここに、残された」


私は、その包みを、両手で、受け取った。


紐を、ほどく、指が、わずかに、震えた。


中から、出てきたのは、綴じられた、紙の、束だった。


ずいぶん、古い。けれど、契約書よりは、新しかった。


私は、最初の頁を、開いた。


古代語だった。


西方の、古代語。


私の、読める、文字だった。


私は、読んだ。


「南海の、市場にて、古き器の、欠片を、得たり」


「これは、より、大いなる、ものの、一部なり」


「残りは、いまだ、見えず」


文字は、几帳面だった。


一字一字が、急がず、しかし、確かに、書かれていた。


考えながら、書く者の、筆だった。


曽祖父の、声が、聞こえる、ようだった。


四十八年前、この、文書館で、何かを、見つけた、その、興奮が、文字の、上に、残っていた。


私は、頁を、めくった。


次の頁も、読めた。


その次も。


曽祖父は、古き市場で、ある、遺物の、一部を、手に入れた。


そして、その、続きを、探していた。


私は、夢中で、頁を、めくった。


会ったことの、ない、曽祖父と、文字を、通して、語り合って、いるようだった。


そして。


ある、頁で、私の、指が、止まった。


文字が、変わっていた。


知らない、文字だった。


昨日、古書の、露店で、見た、あの、読めない、文字。


それと、同じ、系統の、文字だった。


私は、《真理の眼》を、開いた。


文字の、奥を、見ようと、した。


成り立ちを。組み立てを。意味の、骨を。


見えなかった。


《完全記憶》を、たどった。


学院で、習った、すべての、古代語の、文法を。綴りを。語の、形を。


合う、ものが、なかった。


私の、知っている、古代語の、どれとも、違った。


私は、その、頁を、長い、あいだ、見つめた。


賢者の、眼を、もってしても、読めない、文字が、そこに、あった。


「砂の国の、言葉だよ」


サヒルの、声が、した。


私の、手元を、見て、いた。


「エミール老は、その、文字も、読めた。わたくしも、少しは、読める。だが、坊や。お前には、まだ、読めまい」


私は、頷くしか、なかった。


悔しさが、胸の、奥で、疼いた。


故郷では、私は、古代語を、読める者、だった。


ここでは、その、古代語が、世界の、古代語の、ひとつに、過ぎなかった。


学院で、習ったことは、世界の、すべてでは、なかった。


私は、それを、一枚の、読めない、頁の、前で、思い知った。


けれど。


不思議と、絶望は、しなかった。


読めない、ということは、まだ、学べる、ということだった。


世界は、私が、思っていたよりも、ずっと、広い。


その、広さは、恐ろしくも、あり、同時に、心を、躍らせも、した。


「悔しい、かい」


サヒルが、言った。


問いに、問いで、返す、人だった。


「……はい」


私は、正直に、答えた。


サヒルは、初めて、笑った、ように、見えた。


ほんの、わずかに、口の、端が、動いた、だけだった。


「エミール老も、最初は、読めなかった。だが、学んだ。砂の国まで、行って、学んだ」


「読めぬ、ことを、恥じる者は、伸びぬ。読めぬ、ことを、悔しがる者は、伸びる」


そう言って、サヒルは、ふと、肩を、すくめた。


「……なんてね。エミール老が、いつも、言って、いた、受け売りさ」


その、ぶっきらぼうな、照れ隠しに、私は、つい、少し、笑った。


私は、その言葉を、深く、内側に、刻んだ。


受け売りでも、よかった。曽祖父から、サヒルへ、サヒルから、私へ。言葉も、また、預かり物だった。


「曽祖父は」


私は、訊いた。


「曽祖父は、この、手帳に、何を、書いたのですか。読める、ところだけでも、教えて、いただけますか」


サヒルは、しばらく、黙って、いた。


それから、手帳の、頁を、繰った。


「エミール老が、追っていたのは、ふたつ」


サヒルは、言った。


「ひとつは、いま、言った、古き器の、欠片。残りが、どこに、あるか」


「もうひとつは、南方の、ある、家系の、ことだ」


サヒルは、椅子に、深く、座り直した。


昔を、語る、姿勢だった。


「エミール老は、毎日、この、文書館に、通った。朝から、晩まで。古い、証文を、繰り、古い、地図を、広げ、何かを、書き留めていた」


「わたくしは、まだ、若かったから、ただ、その、背中を、見ていた。西の、学者は、なぜ、こんなにも、古い物に、執着するのか、と、思いながら」


「いまなら、分かる。あれは、執着では、なかった。問いだったのだ。世界への、問い」


「家系、ですか」


「砂の国に、古くから、続く、家がある。契約の、術を、代々、受け継ぐ、家だ。エミール老は、その、家のことを、調べていた」


契約の、術。


私の、内側で、何かが、引っかかった。


船の上で、聞いた、商人の、噂を、思い出した。


南の、砂の国。古い、召喚術。契約者の、末裔。


あの、噂と、曽祖父の、調べ物が、繋がった。


「その、家系の、名は」


私は、訊いた。


サヒルは、手帳の、ある、頁を、指で、示した。


そこには、西方の、古代語で、ひとつの、名が、記されていた。


カムラン。


「カムラン家。砂の国の、古都に、いまも、続いている、と、聞く」


サヒルは、言った。


「エミール老は、この、文書館で、調べ物を、終えると、その、古都へ、向かった。器の、残りも、家系の、ことも、答えは、砂の国に、ある、と」


砂の国の、古都。


私の、旅の、次の、行き先が、いま、定まった。


サヒルは、机の、引き出しから、一通の、書状を、取り出した。


封の、された、古い、書状だった。


「これは、わたくしの、伯父が、遺した、紹介状だよ。カムラン家、宛ての」


「エミール老の、縁の者が、訪ねたら、渡すように、と」


私は、その、紹介状を、押し、いただいた。


両手で、受け取った。


四十八年と、四十年あまり。


二人の、老人が、繋いできた、伝手が、いま、私の、手の中に、あった。


ふと、私は、訊いて、みたく、なった。


「マダム・サヒル。ひとつ、伺っても」


「何だい」


「最近、神の、声が、遠い、という、噂を、聞きました。砂の国の、神官や、西の、学び舎で。何か、ご存じ、ですか」


サヒルの、手が、止まった。


それから、首を、横に、振った。


「それは、わたくしの、読める、文字の、外だよ、坊や」


「商人の、噂は、風のようなものだ。わたくしは、書物しか、信じない。書物に、書かれて、いないことは、語れない」


線を、引かれた、と、感じた。


それ以上は、訊くな、という、線だった。


私は、頷いた。


サヒルは、立ち上がった。


そして、私を、書架の、いちばん、奥へ、連れて、いった。


棚の、隅に、布を、かけられた、何かが、あった。


サヒルは、その布を、めくった。


石の、欠片だった。


表面に、文字とも、模様とも、つかない、ものが、刻まれていた。


ひどく、古い、ものだ、と、ひと目で、分かった。


「これも、エミール老が、触って、いた」


サヒルは、言った。


「何が、書いてあるのか、わたくしには、分からぬ。エミール老にも、分からなかった、らしい」


私は、その、刻まれた、ものに、目を、凝らした。


文字の、ようだった。


風化して、ほとんど、消えかけている。


その中に、ひとつだけ、辛うじて、読める、連なりが、あった。


「六なる者の、手によりて……」


私は、息を、のんだ。


どこかで、見た、言い回しだった。


故郷の、書庫で。古い、書物の、一文の、中で。


けれど、その先が、思い出せ、なかった。


意味も、分からなかった。


ただ、ひとつだけ、確かなことが、あった。


故郷の、書庫の、古い書物と、この、砂にまみれた、石の欠片。


遠く、離れた、ふたつの場所に、同じ、言葉が、刻まれている。


それは、偶然、だろうか。


背筋に、かすかな、冷たさが、走った。


「読めるのか」


サヒルが、訊いた。


「いえ」


私は、答えた。


「ただ、どこかで、見た、気が、して」


サヒルは、何も、言わなかった。


ただ、布を、元に、戻した。


その、石の、欠片の、ことを、それ以上、語ろうとは、しなかった。


帰り際、戸口で、サヒルが、私を、呼び止めた。


「坊や」


「はい」


「書物は、預かり物だよ」


サヒルは、言った。


「わたくしも、いつかの、誰かから、預かって、いつかの、誰かへ、渡すだけ。今日は、その、『いつか』、だった、という、わけだ」


私は、深く、頭を、下げた。


「ありがとう、ございました。マダム・サヒル」


「エミール老の、曽孫どの」


サヒルは、初めて、私を、その名で、呼んだ。


「よい、旅を。砂の国は、遠い。お前の、旅は、まだ、半分も、始まって、いないよ」


その言葉は、脅かす、ものでは、なかった。


むしろ、励ます、ように、聞こえた。


まだ、半分も、始まっていない。


それは、これから、半分以上が、あるということだった。


私は、文書館を、出た。


灰色の通りを、戻った。


古き市場の、喧騒が、また、近づいてきた。


胸に、紹介状と、手帳の写しが、あった。


読めない、頁を、含んだ、まま。


けれど、行き先は、もう、分かっていた。


曽祖父は、次に、砂の国の、古都へ、向かった。


ならば、私も、行く。

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