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序章「南方の風、ふたたび」

潮の匂いが、風に、混じりはじめたのは、いつからだったろう。


足の裏の感触は、もう、幾度も、変わっていた。


石畳から、砂利へ。砂利から、踏み固められた土へ。土から、板へ。


板の道は、桟橋だった。


南へ。あの声に、そう告げられた朝から、幾日が過ぎたのか、私は、もう、正確には、数えていなかった。


馬車を、乗り継いだ。


歩いた日も、あった。


川を、乗合の小舟で、下った日も、あった。


足の裏の質感が、毎日、少しずつ、違っていた。日数を数えるよりも、その変化のほうが、距離を、よく語った。


夜は、街道沿いの、宿に、泊まった。


知らない天井を、毎晩、見上げた。


宿の食事は、その土地ごとに、少しずつ、違った。パンの硬さ。スープの塩。林檎の、酸い甘さ。


家の食卓の味を、私は、何度か、思い出した。母が、私の手元に、置いた、塩の小皿を。


けれど、思い出すたびに、私は、それを、ノートには、書かなかった。


書けば、寂しさが、形に、なってしまう気が、した。


そうして、私は、海の、すぐ手前まで、来ていた。


港町の名は、サラントといった。


フランディアの、南の端の、海に開いた町だった。


潮の匂いが、まず、来た。


それから、海鳥の声。荷を担ぐ人足たちの、掛け声。樽の転がる音。索具の、軋み。


アルセリアの、紙とインクの匂いとも、違った。


リューヴェルの、石と人いきれとも、違った。


桟橋の、いちばん先まで、私は、歩いた。


そして、立ち止まった。


海が、あった。


私は、これまで、海を、正面から、見たことが、なかった。


いや。


この身体では、なかった。


前の生で、私は、海を、見たことが、あった。それは、遠い、別の誰かの、記憶のように、薄かった。いま、この目で、見ている海だけが、確かに、私のものだった。


故郷を発った朝、馬車の窓の遠くで、空の奥に、薄い、別の色が、混ざって見えた。私は、それが、何の色なのか、分からなかった。


いま、分かった。


あれは、海と、空の、境の、光だった。


灰がかった、青。


低い雲の下で、海は、鈍く、光っていた。


風は、冷たく、湿っていた。


これは、まだ、故郷の海だった。


私は、なぜか、そう、思った。


南へ行け、と、告げられた。その南の海は、きっと、この色では、ないのだろう。


桟橋には、一艘の、大きな船が、舫われていた。


三本の帆柱を持つ、乗合の帆船だった。


南海へ渡る船は、これだ、と、桟橋の番人が、教えてくれた。


船賃を、払った。


革袋から、フラン金貨を、出した。


番人は、それを、受け取り、南の港では、この金貨が、別の名で、呼ばれる、と、言った。


「向こうじゃあ、レヴァンタ金貨だ。だが、重さは、同じさ。心配は、要らねえ」


私は、頷いた。


重さが同じなら、価値も同じ。理屈は、分かった。


だが、同じものが、別の名で呼ばれる、という事実のほうが、私の内側に、残った。


旅装の鞄を、肩に掛け直した。


革紐の結び目を、指の腹で、確かめた。


ふたつとも、結ばれたままだった。


私は、船に、乗り込んだ。


甲板は、人で、いっぱいだった。


帆は、まだ、畳まれていた。


太い索具が、帆柱から、何本も、斜めに、張られていた。


私は、その張り具合を、目で、追った。


風を受けるための、角度。力を逃がすための、結び目。


学院では、習わなかった理屈が、そこに、確かに、あった。


私は、それを、面白い、と、思った。


船が、動き出した。


桟橋が、ゆっくりと、遠ざかった。


私は、振り返った。


故郷を発った朝、私は、振り返らなかった。馬車の窓の外を、流れる景色を、見なかった。


いまは、振り返ることが、できた。


遠ざかる桟橋の、その奥に、サラントの町並みが、低く、見えた。


そのもっと奥に、故郷の方角が、あるはずだった。


だが、それは、もう、見えなかった。


甲板には、いろいろな人が、いた。


亜麻の長衣を着た、商人たち。頭巾を巻いた、旅の人。革のサンダルを履いた、若い男。


肌の色も、髪の色も、さまざまだった。


故郷の街では、見かけなかった顔が、いくつも、あった。


私は、その一人ひとりを、見ないようにしながら、見ていた。誰もが、どこかから来て、どこかへ、行く途中だった。この船の上では、私も、その一人だった。


そして、言葉が、飛び交っていた。


私の、知らない言葉だった。


フランディア語の、響きとは、違った。


もっと、丸く、もっと、速く、母音が、転がるような、音だった。


私は、その大半を、聞き取れなかった。


けれど。


その音の流れの中に、ときどき、聞き覚えのある響きが、混じった。


ひとつ。ふたつ。


私は、耳を、澄ました。


——あれは、母さんの、言葉だ。


幼い日、母が、私を、呼ぶときに、使った響きが、あった。


故郷を発つ朝、馬車の窓越しに、母が、音を出さず、唇の形だけで、告げた、二言が、あった。


その響きが、いま、この船の上の、見知らぬ人々の口から、ふつうの言葉として、転がっていた。


家にいた頃、母は、ときどき、知らない言葉で、何かを、口ずさんだ。


子守唄のような、ものだった。意味は、分からなかった。私たちは、ただ、その音の、丸さを、聞いていた。


その丸い音が、いま、海の上に、満ちていた。


母は、三つの言葉を、話せた。そのうちのひとつが、これだったのだ。


私は、それを、いま、初めて、知った。


船が、大きく、揺れた。


胃の奥が、ふわりと、浮いた。


私は、手すりを、掴んだ。


風と、波と、船の重さ。その三つの釣り合いを、私は、頭の中で、組み立てようとした。


組み立てられた。


けれど、組み立てたところで、胃の奥の浮きは、収まらなかった。


理屈は、私の頭の中に、あった。


だが、私の身体は、その理屈を、まだ、知らなかった。


賢者の眼も、船の揺れの前では、何の役にも、立たないらしい。


私は、手すりに、もたれた。


しばらく、そうしていた。


甲板の風は、冷たかった。


私は、目を、閉じた。


そして、内側の、あの温度を、確かめようとした。


額の、奥の、薄い層。故郷を発つ朝、そこに、確かに、何かが、宿った。


あの声も、そこから、届いた。


南へ行け、と。


私は、いま、その声を、もう一度、聞こうとした。


遠かった。


声は、なかった。


ただ、遠くに、気配の、薄い、名残のようなものが、あった。


出立の朝、あの声は、痩せていた。遠くから、絞り出された、という感触が、あった。


いまは、その痩せた声すら、聞こえなかった。


ただ、遠い、とだけ、感じた。


出立の朝、額の奥に、温度が、宿った。


あの温度は、いまも、ときどき、思い出したように、滲んだ。


けれど、声は、その温度の、ずっと、奥に、退いていた。


手を、伸ばしても、届かない、ところに。


気のせい、だろうか。


私は、目を、開けた。


そして、旅装の鞄から、新しい実験ノートを、取り出した。


最初の頁には、故郷を発つ前の夜に書いた、一行が、あった。


——だが、聞こうと、することは、できる。


その次の頁には、馬車の中で書いた、三行が、あった。


——世界には、謎がある。


——私は、それを、解きに行く。


——一人では、解けない、と、知った上で。


私は、その三行を、一度だけ、読み返した。


そして、次の頁を、開いた。


ペン先を、取り出した。


インク壺は、まだ、持っていなかった。南の港で、買い足すつもりだった。ペン先に、薄く、残ったインクの跡で、書こうと、思った。


船の揺れで、ペン先が、震えた。


私は、一度、手を、止めた。


深く、息を、吸った。


吐いた。


書いた。


賢者神の声が、出立の朝から、遠い。


気のせい、だろうか。


記録しておく。確かめる術は、まだ、ない。


書き終えた。


私は、ペン先を、仕舞った。


けれど、頁は、閉じなかった。


閉じてしまえば、その遠さが、確かなものに、なってしまう気が、した。


風が、頁を、めくろうとした。


私は、手のひらで、軽く、押さえた。


甲板の、片隅で、商人たちが、話していた。


通商語の、丸い響きの、合間に、フランディア語の単語が、ときどき、挟まった。


私は、その挟まった単語を、拾った。


「——南の、砂の国」


「——古い、召喚術」


「——契約者の、末裔」


「——あの家系は、まだ、続いている、というぞ」


私の内側で、ふたつの語が、小さく、引っかかった。


契約。


召喚。


私は、その方角を、見なかった。


聞き耳を、立てている、と、悟られたく、なかった。


ただ、耳だけが、その断片を、拾い続けた。


南の砂の国に、古い召喚術を継ぐ家系が、ある。


契約者の、末裔が、いる。


それは、私の、行き先とは、関係のない、噂だった。


私の当面の目的は、南海の、古き市場だった。そこに、答えがある、と、曽祖父の手紙が、告げていた。


四十六年前に、家を出たまま、戻らなかった、曽祖父の手紙が。


けれど。


契約者、という言葉は、内側の、ノートの隅に、置かれた。


すぐに、消えはしなかった。


私は、それを、無理に、消そうとも、しなかった。


時が、過ぎた。


船は、南へ、南へ、進んだ。


陽の高さが、変わった。風の湿り気が、変わった。


そして、海の色が、変わっていった。


私は、舳先の、近くまで、歩いた。


手すりを、掴んだ。


故郷の、灰がかった青は、もう、後ろに、あった。


その青は、低い雲と、冷たい湿りの、色だった。


私の前には、別の青が、広がりつつあった。


濃く、深く、ひと刻ごとに、その色は、増していった。


境目は、どこにも、なかった。ただ、ふと振り返ったときに、後ろの海と、前の海が、もう、別の色になっているのだと、そう、気づくだけだった。


陽の光が、その青の、表面で、砕けて、光った。


故郷の海の、鈍い光では、なかった。


もっと、乾いて、もっと、明るい、光だった。


空の色も、変わっていた。


フランディアの、薄い、水色は、もう、なかった。


頭の上には、乾いた、高い、青が、あった。


南から、風が、吹いた。


その風は、故郷の風と、温度が、違った。


少しだけ、暖かく。少しだけ、乾いて。


私は、その風を、胸の奥まで、吸い込んだ。


まだ、南海レヴァンタは、見えなかった。


港都の影も、古き市場も、何も、見えなかった。


南の、砂の国。古い、召喚術。契約者の、末裔。


さっき耳が、拾った言葉が、南の風の中で、もう一度、ほどけた。


その国は、この海の、ずっと先に、あるのだろうか。


私は、手すりに、両手を、置いた。


そして、前を、見た。


南の海は、故郷の海と、違う色を、していた。

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