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第1章 第1話「言葉が、通じない」

船が、港に、着いた。


南の海の色は、もう、私の足の下には、なかった。


代わりに、音が、あった。


人の声。荷車の音。鎖の軋み。海鳥の、鳴き声。


そのすべてが、私の知らない言葉で、できていた。


埠頭に、足を、下ろした。


板の上は、揺れなかった。


それなのに、私の身体は、まだ、揺れている気が、した。


何日も、船の上に、いたせいだった。


足を、一歩、踏み出すごとに、地面が、来るのが、わずかに、遅れた。


船の揺れの、記憶が、まだ、足の裏に、残っていた。


身体は、過ぎたことを、しばらく、覚えている。


頭よりも、ずっと、長く。


港都アルカリオ。


南海レヴァンタの、いちばん大きな港だと、船の中で、聞いた。


埠頭は、人で、埋まっていた。


亜麻の長衣。頭巾。革のサンダル。日に焼けた腕。


荷を担ぐ者。値を叫ぶ者。網を繕う者。


そのあいだを、私は、旅装の鞄を、抱えて、歩いた。


港には、いくつもの船が、舫われていた。


私の乗ってきた、三本帆柱の乗合船。それより、ずっと大きな、荷を積むための船。小さな、漁の舟。


荷が、次々と、陸へ、揚げられていた。


香辛料の袋。油の壺。色とりどりの、布の巻物。木箱に詰められた、何か。


それらが、人足の肩と、荷車に乗って、市場の方へ、流れていった。


私は、その流れを、目で、追った。


どこから来て、どこへ、行くのか。


何と、何が、交換されるのか。


港というのは、物と物とが、出会って、別れる、場所なのだ。


そう思うと、この喧騒にも、ひとつの、筋道が、見えた気が、した。


「サイー」


誰かが、私に、呼びかけた。


振り向くと、浅黒い顔の男が、何かを、差し出していた。


干した果実のようなものを、手のひらに、載せていた。


男は、続けて、何かを、言った。


速い、丸い、音の、連なりだった。


私には、ひとつも、聞き取れなかった。


船の上では、母の言葉の響きを、拾えた気が、した。


けれど、それは、遠くから、聞こえてくる、音だった。


いま、目の前で、私に向けて、放たれる言葉は、まるで、違った。


速さが、違った。


向けられる、という重さが、違った。


私は、首を、横に振った。


それしか、できなかった。


男は、肩を、すくめて、別の客の方へ、行った。


拾える、ということと、使える、ということは、違う。


私は、それを、埠頭の上で、最初に、学んだ。


周りの、誰もが、私の知らない言葉で、話していた。


私の知らない作法で、動いていた。


その中で、私は、ひとり、何も、できずに、立っていた。


故郷では、私は、賢者と、呼ばれた。


言葉を、知り、書物を、読む者として。


ここでは、私は、ただ、言葉の、通じない、子供だった。


心細さが、胸の奥で、揺れた。


けれど、私は、それを、押し込めた。


ここまで、来たのだ。


引き返す道は、もう、後ろには、なかった。


両替商の看板は、すぐに、見つかった。


天秤の絵が、描いてあった。


絵なら、言葉が、なくても、分かった。


私は、革袋から、フラン金貨を、出した。


台の上に、置いた。


両替商の老人は、それを、指で、つまんで、灯りに、かざした。


老人は、何かを、言いながら、別の金貨を、台に、並べた。


形が、違った。


刻まれた絵も、違った。


けれど、大きさは、ほとんど、同じだった。


レヴァンタ金貨。


南の港では、フラン金貨が、この名で、呼ばれる。


船の番人が、そう、言っていた。


重さは、同じ。


価値も、同じ。


ただ、名と、顔だけが、違う。


私は、並べられた金貨を、受け取った。


一枚、足りない気が、して、老人の顔を、見た。


老人は、両手を、広げて、肩を、すくめた。


両替の、手間賃なのだ、と、その仕草で、分かった。


言葉は、通じなかった。


けれど、仕草は、少しだけ、通じた。


港から、内陸へ、一筋、入った。


そこに、フランディア人街が、あった。


看板の文字が、読めた。


フランディア語だった。


故郷の、文字だった。


それだけのことで、肩の力が、少し、抜けた。


異国の音の海の中に、ひとつだけ、知っている島が、あった。


宿の戸を、押した。


帳場の男が、顔を、上げた。


「お泊まりかい」


フランディア語だった。


聞き取れた。


答えられた。


「はい。一部屋、お願いします」


たったそれだけの、やり取りが、ひどく、ありがたかった。


埠頭で、首を、横に振ることしか、できなかった、さっきと、比べて。


帳場の男は、宿帳に、私の名を、書かせた。


それから、鍵を、ひとつ、寄越した。


「南から来た客は、珍しいね。学院の子かい」


私は、頷いた。


嘘では、なかった。


「古い書物を、探しています」


「学者さんかい。この街にも、よく、来るよ。フランディアの学院から、古い物を、探しに」


「そう、なんですか」


「ああ。みんな、同じことを、言う。古い書物。古い証文。古い、何か」


帳場の男は、笑った。


それから、声を、少し、低くした。


「だが、坊や。この街で、古い物を、探すなら、気を、つけな」


「何を、ですか」


「古い物には、古い値が、つく。そして、古い物の値は、言葉で、決まる。言葉の、できない者は、足元を、見られるよ」


私は、その言葉を、内側に、留めた。


言葉の、できない者は、足元を、見られる。


埠頭で、首を、横に振ることしか、できなかった、私のことだった。


帳場の男は、少し、考えてから、言った。


「古い書物と、古い証文なら、古き市場の、奥だ。ベン・サドゥール商会ってのが、ある。書物商の、奥に、文書館を、構えてる」


私は、その名を、内側に、留めた。


ベン・サドゥール商会。


曽祖父の手紙が、告げた、答えの、ある場所かもしれなかった。


だが、今日は、行かなかった。


身体が、まだ、揺れていた。


異国の言葉に、半日、もまれて、頭が、疲れていた。


部屋は、狭かった。


寝台と、机と、水差しが、ひとつずつ。


窓から、市場の、ざわめきが、聞こえた。


私は、旅装の鞄を、机の上に、置いた。


革紐を、ほどいた。


中から、新しい実験ノートを、取り出した。


頁を、開いた。


船の上で書いた一行が、あった。


賢者神の声が、出立の朝から、遠い。


私は、その下に、何も、書き足さなかった。


まだ、書くことが、なかった。


ペン先を、仕舞った。


夕餉が、出た。


羊の肉を、香辛料で、煮込んだものだった。


口に、入れた。


舌が、熱くなった。


故郷の、いちばん辛い料理よりも、なお、辛かった。


香りも、強かった。


私は、水差しの水を、飲んだ。


それでも、舌の熱は、すぐには、引かなかった。


辛い、と、私は、思った。


けれど、まずくは、なかった。


知らない味、というだけだった。


知らない、というのは、まずい、とは、違う。


窓の外で、市場の灯りが、ともりはじめた。


茶寮の、低い灯り。露店の、油の炎。


夜になっても、声は、やまなかった。


故郷の街は、鐘が、十、鳴れば、眠りに、ついた。


この街は、夜のほうが、息を、しているようだった。


私は、窓辺に、立った。


異国の夜の音を、しばらく、聞いていた。


聞き取れない言葉も、灯りの下で、聞くと、不思議と、こわくは、なかった。


翌朝。


身体の揺れは、止まっていた。


私は、宿を、出た。


帳場の男の言った、古き市場へ、向かった。


古き市場は、迷路だった。


石畳の路地が、何本も、枝分かれしていた。


頭の上には、布の日除けが、渡してあった。


その下を、光が、まだら模様に、なって、落ちていた。


匂いが、層に、なっていた。


香辛料。乾いた果実。なめした革。古い紙。


一歩ごとに、匂いが、入れ替わった。


露店が、軒を、連ねていた。


香辛料を、山に、積んだ店。乾いた果実を、籠に、盛った店。


なめした革を、吊るした店。色硝子の、玉を、並べた店。


私は、どの店の前でも、足を、止めたく、なった。


知らない物が、多すぎた。


ひとつひとつを、確かめたい、という気持ちが、胸の奥で、騒いだ。


前の生で、私は、こういう気持ちを、よく、知っていた。


知らない物の前で、立ち止まる。


なぜ、と、問う。


それは、学ぶ者の、いちばん最初の、衝動だった。


その衝動だけは、海を越えても、変わらなかった。


人々は、立ち止まっては、品を、手に取り、店主と、何かを、言い合っていた。


布を、広げて、光に、すかす女。香辛料を、指で、つまんで、匂いを、かぐ男。


子供が、果実の、籠の間を、走り抜けた。店主が、笑いながら、何かを、叫んだ。


市場は、生きていた。


故郷の、静かな、書庫とは、何もかもが、違った。


それでも、私は、この、騒がしさを、嫌いでは、なかった。


声も、層に、なっていた。


呼び込みの声。値切りの声。笑い声。祈りの、ような、低い声。


どこかの店先で、客と、店主が、声を、荒げて、いた。


言い合って、いるように、聞こえた。


けれど、最後は、二人とも、笑った。


争いでは、なかった。値切りも、この街では、遊びの、ひとつ、なのかもしれなかった。


そのほとんどが、通商語だった。


私は、その音の中を、歩いた。


聞き取ろうと、するのを、やめた。


聞き取れない、と、認めたら、かえって、楽に、なった。


そうして、力を、抜いて、歩いていると。


音の流れの中に、ひとつ、聞き覚えのある、響きが、混じった。


数を、数える、音だった。


幼い日、母が、私の指を、折りながら、数えてくれた、あの響きだった。


ひとつ。ふたつ。みっつ。


故郷の言葉では、なかった。


母が、ときどき、使った、もうひとつの言葉だった。


忘れて、いた。


いや、忘れて、いたのでは、なかった。


聞き流して、いたのだ。幼い日に。意味も、知らずに。


ただ、母の声の、響きとして。


その響きが、いま、異国の市場の、雑踏の中から、私の耳に、まっすぐ、届いた。


私は、足を、止めた。


その響きの、する方を、見た。


古い書物を、積んだ、露店が、あった。

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