エピローグ「最初の魂」
神月十五日の朝の鐘五つが、ヴァルメール家の北の鐘の塔から、鳴った。
私は寝台から起き上がった。
机の上のろうそくは燃え尽きていた。
夜のうちに自然に消えていた。
旅装の鞄の蓋は、開いたまま机の上にあった。
昨夜、私はそれを閉じなかった。
私は机の前に立った。
両手を鞄の中に入れた。
指の腹で、三つの隔の九つのものを順に確かめた。
ひとつ目の隔の、革の入れ物。麻布の中の祖父の手紙の三枚と、父の索引の写しと、母の便箋の写し。
ひとつ目の隔の、革の入れ物の上の、麻布の小袋。クララの押し葉の栞。
ひとつ目の隔の、いちばん上の、防寒着。
二つ目の隔の、奥の、ライナルの薄い革表紙の手帳と紹介状。
二つ目の隔の、手前の、空の革の包み。
三つ目の隔の、底の、新しい実験ノート。
三つ目の隔の、ノートの上の、革袋の旅費。
まだ、すべて、あった。
私は鞄の蓋を、両手でゆっくり閉じた。
革紐をふたつ結んだ。
結ばれた。
朝食の支度の音が、台所から聞こえた。
母が皿を置く音。
兄が井戸から戻る長靴の音。
クララが廊下を走る音。
食卓に五人が座った。
父アンリ。母エリザベート。兄マルク。妹クララ。私。
朝食は、いつものものだった。
パン。温いスープ。林檎の薄切り。北の山のチーズの薄片。
誰も、「最後の朝食だ」とは、言わなかった。
林檎の薄切りの断面の白さを、私は見ていた。
母が、塩の小皿を私の手元に置いた。
「テオ、塩を、少し」
私は頷いた。
林檎の薄切りに、塩をひとつまみ置いた。
口に運んだ。
クララが、私の方を見た。
両手でパンの耳を掴んでいた。
「お兄ちゃん」
「はい」
「今日、お神さまの、ところに、行くのね」
「はい、クララ」
「神月十五日だから」
「神月十五日だから」
クララは頷いた。
それから、パンの耳をふたつに割って、片方を私の皿の縁に置いた。
私はそれを、口に入れた。
塩の味が、まだ舌に残っていた。
朝食が終わった。
母が、私の旅装の鞄を玄関の壁にもたせかけた。
「大神殿は、徒歩で、いきなさい、テオ」
「はい、母さん」
「鞄は、置いて」
「はい」
家族は玄関で見送らなかった。
父は、書斎の頁をめくっていた。
母は、台所で皿を洗っていた。
兄は、井戸端で剣の素振りをしていた。
クララは、机に向かって字を書いていた。
私は一人で家を出た。
本通りの石畳は、神月十五日の朝の薄霧の中で、まだ冷たかった。
私の足音だけが、石畳に響いた。
旧市街と新市街の境界の坂を下った。
坂の途中で、私は一度立ち止まった。
坂の下に、アルセリア大神殿の鐘塔の影が見えた。
四基の鐘塔のうち、西側の二基がほかの二基より少し高かった。
私は見上げた。
鐘塔の上の空は、薄霧の中で、まだ青くなりきっていなかった。
中央祭壇広場の手前で、老神官が一人立っていた。
白い祭服。背の高さは、私と同じくらい。
老神官は、私の顔を見た。
「今日は、あなたの旅立ちの日と、聞いています」
私は、頷いた。
「賢者神の礼拝堂を、お使いください」
「ありがとうございます」
中央祭壇広場を、私は歩いた。
六角形の祭壇の周りに、六柱の神像が円環状に並んでいた。
北の、賢者神。北東の、魔導工師神。東の、武闘家神。南の、導師神。西の、魔剣士神。北西の、召喚士神。
私は、北の賢者神の像の方へ向かった。
賢者神の礼拝堂は、本殿の北側の放射状の付属堂の、いちばん奥にあった。
入り口の半円アーチをくぐった。
中は、薄明だった。
天井の梁から、わずかな光が、斜めに、落ちていた。
中央に、白大理石の、賢者神像。
書を抱えた立像。
書の頁が、半分めくれていた。
頁の奥に、星の紋が刻まれていた。
礼拝堂の中は、無人だった。
神官の介入はなかった。
私は、祭壇の前で膝をついた。
両手を、膝の上に置いた。
目を、閉じた。
額に、薄い温度が、滲んだ。
額の表面の、皮膚ではない、その奥の、もうひとつ薄い層が、温かかった。
ふだんの体温とは、違う種類の、温かさだった。
外から、差し込まれた、というのとも、違う。
内側から、滲み出てきた、というのとも、違う。
膝の上で、両手の指先が、わずかに、震えた。
震えは、寒さからではなかった。
額の温度に、身体が、応えていた。
目を、閉じていても、視野の上端に、淡い明るさが、感じられた。
私の額が、淡く、光っているのを、目を閉じても、感じた。
その光は、白銀と、淡い金が、混ざっていた。
色を、目で見たのではない。
色の感触として、私の内側で、それは、置かれた。
周囲の音が、遠ざかった。
中央祭壇広場の参拝者の足音が、遠ざかった。
老神官の祭服の擦れる音が、遠ざかった。
鐘塔の影の中の、風の音が、遠ざかった。
長い、沈黙が、あった。
声が、届いた。
『——南へ行け。お前は最初の魂』
声の質感は、痩せていた。
遠くから、絞り出された、という感触が、あった。
ふだんの呼吸の中の、薄い気配ではなく、空気そのものの、わずかな歪みのような形で、その言葉は、私の内側に、置かれた。
南へ行け。
お前は最初の魂。
私の唇は、動かなかった。
私の指は、動かなかった。
膝の上の両手は、まだ、膝の上にあった。
長い、沈黙が、続いた。
二言目が、届いた。
『最後の魂が、いずれお前を呼ぶ』
最後の魂。
私の内側で、最初の言葉が、一瞬、揺れた。
最初の魂と、最後の魂。
最初の、とは、何だろう。
最後の魂、とは、誰のことだろう。
より長い、沈黙が、続いた。
沈黙の中で、声の質感が、さらに、薄くなった。
途切れの予兆が、混ざった。
『……ソフォンより、感謝を』
三言目の、最後の四音だけが、白く、輝いた。
ソフォン。
その固有名を、私は、十歳の神月十五日の朝に、神官の祈祷詩の中で、耳にしたことが、あった。
賢者神の名は、ソフォン、と、いうのか。
私の内側で、それが、初めて、結ばれた。
疲れているのか。
一瞬だけ、私は、そう、受け取った。
確信は、持たなかった。
私は、目を、開けた。
指の腹で、額に、触れた。
熱は、内側に、あった。
外側の皮膚には、何も、残っていなかった。
人差し指の腹で、左右の眉の中点よりやや上の、額の中央の、その一点だけを、私は、確かめた。
そこに、何かが、あった、と、私は、思った。
そして、もう、無かった、と、私は、思った。
鏡はなかった。目撃者もいなかった。
私は、一人で、それを、受けた。
膝の上で、両手を、組み直した。
深く、頭を、下げた。
額が、膝の手前の、石の床の冷たさに、近づいた。
私は、声に出さずに、唇の形だけで、告げた。
「——南へ、行きます」
額の温度が、ゆっくり、引いていった。
立ち上がった。
賢者神像の、書の頁の奥の、星の紋が、薄明の中で、わずかに、光っているように、見えた。
目の端に、それは、あった。
私は、それを、確かめなかった。
確かめずに、礼拝堂を、出た。
中央祭壇広場で、老神官に、もう一度、礼を、した。
老神官は、何も、言わなかった。
祈りの内容は、問わないのが、大神殿の作法だった。
私は、本殿の正面の階段を、降りた。
階段の石の冷たさが、足の裏に、戻ってきた。
旧市街と新市街の境界の坂を、登り返した。
来たときよりも、足取りは、軽くなかった。
軽くないのは、額の温度の、余韻のせいだった。
額の温度は、もう、引いていた。
だが、「ソフォン」という固有名は、まだ、内側に、あった。
それは、私が、十歳の朝に耳にしたときよりも、はっきりとした輪郭で、内側に、染みていた。
家に戻った。
玄関の壁の旅装の鞄を、手に取った。
革紐の結び目を、指の腹で確かめた。
ふたつとも、結ばれたままだった。
私は振り返らずに家を出た。
東街道の馬車回しの場に、家族が立っていた。
父アンリ。母エリザベート。兄マルク。妹クララ。
四人とも、薄霧の中で、息が白かった。
馬車は乗合馬車だった。
御者が、手綱を肩に掛けて、煙草の火を消していた。
他の客は三人だった。
ふたりは、商人。一人は、修行僧。
父アンリが、私の前に、立った。
何も、言わなかった。
私の肩に、手を、一度だけ、置いた。
すぐ、離した。
それで、終わった。
兄マルクが、私の前に、立った。
家庭の口調で、短く、言った。
「お前の、八つ目の手を、信じる」
私は、頷いた。
「ありがとう、兄さん」
母エリザベートが、馬車の窓の、すぐ脇に、立った。
私が、馬車に、乗り込んだ後で、母は、窓越しに、私の方を、見た。
唇が、動いた。
音は、出さなかった。
唇の形だけで、母は、レヴァンタ語の二言を、告げた。
幼い私を、母が、呼んでいた頃の、二言だった。
——Ma bichette。
私の中で、それは、聞こえた音ではなく、唇の形として、受け取られた。
クララが、母の脇に、立った。
馬車の窓に、小さな手のひらを、押し当てた。
ガラスの、内側から、私は、その小ささを、確かめた。
クララは、泣いていなかった。
手のひらが、離れた後、ガラスに、薄い曇りが、残った。
私は、それに、指を、触れなかった。
御者が、御者台に、座り直した。
「東街道。次の駅は、ヴェルセ。その先で、南東街道に、折ります」
馬車が、動き出した。
馬車の車輪が、石畳から砂利の道へ踏み出した。
足元の質感の最初の段差が、馬車の床をわずかに揺らした。
私は、振り返らなかった。
窓の外の景色が、ゆっくり流れた。
旧市街の建物の瓦の色が、新市街の屋根の色に混ざった。
その奥に、大神殿の鐘塔の影が見えた。
その奥に、ヴァルメール家の北の鐘の塔が見えた。
その奥は、もう見えなかった。
馬車の中の三人の他の客は、それぞれの目的地で、降りていった。
ヴェルセの駅で、商人ふたり。
ヴェルセの駅から半刻先の小さな集落で、修行僧ひとり。
南東街道への折りの、最初の小集落で、馬車は、一度、停まった。
新しい客は、乗らなかった。
私だけが、馬車の中に、残った。
膝の上の旅装の鞄は、ふだんよりも重かった。
中の九つのものは、私が二日かけて整えたものだった。
母が、防寒着を整え直した。
父が、革袋の口を革紐でふたつ結び直した。
兄が、剣の手ほどきの最後の朝に、構えの三つの型を、私の指の関節に、もう一度、教えた。
クララが、押し葉の栞を麻布の小袋に入れ替えた。
ライナル先輩が、紹介状を薄い革表紙の手帳に挟み直した。
九つのものの、ひとつひとつに、誰かの手の、最後の所作が、残っていた。
それは、私が、一人ではない、ということだった。
私は、旅装の鞄の革紐をほどいた。
ひとつ目の革紐をほどいた。
ふたつ目の革紐をほどいた。
蓋を開けた。
三つ目の隔の底から、新しい実験ノートを取り出した。
ノートの最初の頁には、神月の前夜に書いた一行が、あった。
——だが、聞こうと、することは、できる。
私は次の頁を開いた。
ペン先を取り出した。
インク壺は持っていなかった。
ペン先のまだ薄く残っていたインクの跡で、書こうと思った。
馬車の振動で、ペン先が揺れた。
私は一度、ペン先を止めた。
深く、息を吸った。
吐いた。
書いた。
世界には、謎がある。
私は、それを、解きに行く。
一人では解けない、と知った上で
書き終えた。
「一人では解けない」のあとに、読点を、ひとつ、置いた。
「知った上で」の後に、句点は、打たなかった。
そこで、文を、終えることが、できなかった。
ペン先を、仕舞った。
ノートの頁を、閉じなかった。
馬車の窓の外、南東街道の遠くで、空の色が、わずかに、違って、見えた。
青ではなく、青の、奥に、薄い、別の色が、混ざっていた。
私は、まだ、それが、何の色なのか、分からなかった。
馬車の車輪が、土の道を、踏み続けた。
遠くに、空の色が、わずかに、違う。




