第15章 第1話「四十六年前の、まなざし」
霜月下旬の三日目の朝の鐘六つは、アルセリアの本通りの、まだ薄い霧の中から鳴った。
私は寝台から起き上がった。
父の書斎の戸を軽くたたく音が、廊下の奥から聞こえた。
「テオ、来てくれ」
私は頷いた。
「はい、お父さま」
寝間着の上に上着をかけた。
階下の台所からは、母の鶏の出汁の薄い匂いが、廊下まで上がってきていた。
書斎の戸をひらいた。
机の上には、昨夜と同じ位置に、祖父の手紙の、三枚目が、まだ、麻布の上に、広げられていた。
父アンリは、机の前ではなく、書斎の奥の壁の、前に、立っていた。
壁には、一枚の絵が、布で、覆われていた。
私は机の手前で足を止めた。
布の下の絵の輪郭は、薄い四角だった。
横の幅は、私の肩の幅ふたつ分くらい。
縦の高さは、私の身丈の半分ほどだった。
父は振り返らずに、布の端をつまんだ。
「見せたい物が、ある」
「昨夜、言った物だ」
「今、見せる」
父はゆっくり布を引き下ろした。
布は肩から滑り落ちて、床の上にゆっくり落ちた。
絵は、朝の薄い光の中で浮かび上がった。
私は絵の前で立っていた。
絵の中の人は、書架の脇に立っていた。
背景は、父の書斎の、書架の二段目だった。
書架の段の高さも、書架の縁の彫りも、私がいま立っている書斎の書架と、同じ形だった。
絵の中の人は、四十代の男だった。
髪は、短い。色は、薄い茶。
目元は、わずかに、下がっていた。
私が、毎日、見ている、父アンリの、目元と、似ていた。
それよりも、もっと、似ていたのは——口元だった。
父が、何かを、言わずに、考え込む時の、口の閉じ方が、絵の中の人の、口元に、あった。
この人は、私の、父の、祖父だ。
つまり、私の、曽祖父——エミール・ヴァルメール、だ。
絵の中のエミールは、左手に、羊皮紙の束を、持っていた。
束は、五枚か、六枚ほど。
右手は、絵の中で、脇に、下ろされていた。
右手の指は、何かを、握っていないが、わずかに、丸まっていた。
書き物の途中で、ペンを、置いたばかりの、形だった。
父は、絵の前で、わずかに、振り返った。
「四十六年前の、絵だ」
「描かせたのは、エミール本人だ」
「画家は、エミールの、古い友人だった」
「絵は、エミールが、消えた後、私の祖父——ジュリアン——が、布で、覆って、書斎の奥の壁に、置いた」
「私が、書斎を、継いだ時にも、布は、外さなかった」
「お前にも、これまでは、見せなかった」
「だが、昨夜、私は、決めた」
「いま、外す」
私は、絵の中の、エミールの、目元を、もう一度、見た。
絵の中のエミールは、こちらを、見ていない。
視線は、書架の、二段目の、奥の、何かに、向いていた。
四十六年前の、エミールが、見ていたもの。
私は、それが、何だったかを、知らない。
私は、内側で、確かめた。
この人が、四十六年前、ここから、出ていった。
私は、神月十五日の翌朝、ここから、出ていく。
廊下の奥で、足音がひとつ止まった。
書斎の戸口に、母エリザベートが立っていた。
母は、台所から来た手のままだった。
エプロンは外していなかった。
両手は、エプロンの腹のあたりで軽く組まれていた。
「……テオ」
母の声は、低かった。
震えは、なかった。
ただ、わずかに、低いだけだった。
「昨夜、聞きました」
母は、書斎の中に、入らずに、戸口で、立っていた。
「お父さまから、聞きました」
「南へ、行きなさい、テオ」
私は、息を、ひとつ、深く、吸った。
「……はい、お母さま」
私の声は、思ったよりも、薄かった。
だが、揺れて、いなかった。
母は、戸口で、わずかに、頷いた。
エプロンの腹の手は、まだ、組まれたままだった。
母「お父さまには、お父さまの、書くものがあります」
「わたくしには、わたくしの、整えるものがあります」
「お前には、お前の、伝えるものがあります」
「三つの、別の手で、ひとつの、出立を、揃えます」
私は、心の中で、もう一度、母の言葉を、追った。
母は、わたくしのことを、決めて、来た。
昨夜のうちに、決めて、いた。
父は、絵の前から、机のほうへ、ゆっくり、戻ってきた。
机の上の、麻布の三枚目に、軽く、両手の指を、置いた。
父「学院の、休学届けは、私が、書く」
「私が、副司書長として、書く」
「学院長宛と、ヴァルニエ教授宛の、二通を、私が、用意する」
「お前は、ヴァルニエ教授には、自分の言葉で、伝えなさい」
「教授室で、口頭で」
「私の書面とは、別に」
「それから、ライナル先輩にも、お前から、伝えなさい」
「先輩は、お前から、聞きたいだろう」
私は、頷いた。
「……はい、お父さま」
母は、戸口の場所で、続けた。
「わたくしは、お前の、旅装を、整えます」
「急がないで、テオ」
「神月の前までに、揃えれば、間に合います」
「馬車の手配は、お父さまが、ベルジア経由の、最初の宿駅まで、書きます」
「その先は、お前が、現地で、選びなさい」
「防寒着は、いちばん上に、入れます」
「お前は、雪の道を、知らないから」
私は、内側で、確かめた。
母は、わたくしの旅路の、最初の数日を、もう、想像していた。
父は、頷いた。
母も、頷いた。
二人の頷きは、別の角度から、書斎の中で、重なった。
書斎の戸口の母の後ろから、台所の方角に、皿の触れる、低い音が、聞こえた。
クララが、母の代わりに、朝食の支度を、見ている、音だった。
私は、絵の中の、エミールの、左手の、羊皮紙の束を、もう一度、見た。
四十六年前のエミールも、紙の束を、持って、ここから、出ていった。
私も、紙の束を、持って、ここから、出ていく。
その紙の束は、ある意味で、エミールが、置いていったものだった。
書斎の朝は、それで、終わった。
霜月下旬の五日目の朝の鐘六つが、ヴァルメール家の玄関の上の低い鐘から鳴った。
私は玄関の上がり框で、旅装の鞄を足元に置いた。
鞄は、革表紙の、肩掛けの、二段の隔だった。
母は玄関の中で、エプロンを外していた。
両手はもう組まれていなかった。
旅装の鞄を、わたくしのほうへ軽く押した。
母「鞄の中身は、確かめました」
「防寒着は、いちばん上です」
「実験ノートは、いちばん下です」
「祖父の、麻布の包みは、ひとつ目の隔の、いちばん深い場所に、入れました」
私は、頷いた。
「……ありがとうございます、お母さま」
そのとき、台所の方角から、軽い、駆け足の音が、聞こえた。
クララが、廊下の角から、現れた。
寝間着の上に、毛糸の上着を、羽織っていた。
髪は、片方だけ、結われていた。
もう片方は、寝起きのままで、肩の上に、下りていた。
クララは、玄関の上がり框の前まで、駆けてきて、止まった。
両手は、背中の後ろに、隠されていた。
「お兄ちゃん」
「これ、つくった」
クララは、背中の後ろの手を前に出した。
両手で麻布の小さな袋を差し出した。
「……秋の、葉っぱ、を、押した」
「しおり」
「……これ、本に、はさんで」
「読書院の、お先生から、教わったの」
「いっぱい、はさめるよ」
私は麻布の袋の口を、軽くひらいた。
中には、薄く透けた紅葉と銀杏の葉と薄い色の桜葉が、何枚も平らに重なって押されていた。
葉の縁は、まだ少ししっとりしていた。
「……ありがとう、クララ」
「大事に、はさみます」
クララは、片方の手を毛糸の上着の袖の中に引っ込めて頷いた。
そして、玄関の上がり框から一歩引いた。
母は麻布の袋を、わたくしの旅装の鞄のひとつ目の隔の、いちばん上に入れた。
防寒着の上に軽く置いた。
「いちばん、取り出しやすい場所、です」
父は、玄関の中の廊下の奥に立っていた。
書面の入った革の包みを、片手に持っていた。
父は玄関の方へゆっくり歩いてきた。
革の包みを、私の旅装の鞄の二段目の隔の、奥に入れた。
「学院長宛と、ヴァルニエ教授宛の、二通だ」
「お前から、教授に、直接、口頭で、伝えてから、書面を、渡しなさい」
「ライナル先輩への、私の言葉は、書面では、書かない」
「お前が、お前の言葉で、伝えなさい」
「先輩は、お前の、言葉を、聞きたいだろう」
私は頷いた。
「……はい、お父さま」
私は旅装の鞄を肩にかけた。
肩の片方に、革の帯が軽く食い込んだ。
玄関の戸をひらいた。
本通りの朝の霜が、薄く地面の石畳の縁の溝に、白く残っていた。
私は玄関の前の、上がり框の縁石の上で立ち止まり、振り返った。
父は、玄関の中の上がり框のすぐ手前に立っていた。
その隣に、母が立っていた。
母はエプロンをもう外して、肩に薄手の毛糸の肩掛けを軽く巻いていた。
クララは、母の毛糸の肩掛けの端を、片手で軽くつまんでいた。
「行ってきます」
私の声は、本通りの朝の霧の中に入って、すぐに消えた。
父は、頷くだけだった。
「気をつけて」とは、言わなかった。
「戻ってきなさい」とも、言わなかった。
ただ、頷くだけだった。
母は、玄関の戸の、敷居を、跨いで、本通りの石畳の上に、出てきた。
そして、私の歩く方角へ、ゆっくり、十歩、進んで、立ち止まった。
「急がないで、テオ」
母は、十歩先の、石畳の上で、振り返らずに、言った。
「わたくしは、ここに、います」
クララは、母の毛糸の肩掛けの端を、玄関の中でまだつまんでいた。
母が十歩前に出た時、クララの手は、肩掛けの端を離した。
私は、本通りの馬車回し場のほうへ歩き始めた。
母の十歩先の石畳の上から、わたくしのほうへ視線が向いているのが、背中でわかった。
私は振り返らなかった。
本通りの五本目の角まで歩いて、それから初めて、内側で、確かめた。
母は、玄関の十歩先で、立ち止まった。
父は、玄関の中で、頷くだけだった。
クララは、玄関の上がり框で、麻布の袋を、差し出した。
家族の、見送り方は、それぞれ、違っていた。




