第14章 第3話「四十八年前の、机」
鋼月下旬の二日目の朝の鐘五つが、賢窓塔の鐘の塔から、鳴った。
私は、寝台から、起き上がった。
机の上の麻布の包みは、ここ十日間、結ばれたまま、机の上に、置かれていた。
私は、麻布の包みを、旅の鞄に、しまった。
新しい実験ノートも、旅の鞄に、入れた。
寮自室の扉を、ふり返らずに、ひらいた。
階段の踊り場で、マチューが、寝間着のまま、両手を、軽く、振った。
「で、で、家族に、よろしく」
私は、頷いた。
「ありがとう、マチュー。十日後に、戻ります」
マチューの寝間着の襟元は、いつもより、少し、よれていた。
学府丘の馬車回し場で、私は、アルセリア行きの乗合馬車に、乗った。
馬車の中の客は、私の他に、四人だった。
ふたりは、商人。
ひとりは、神官の見習い。
もうひとりは、私と同じ歳ぐらいの、若い職人だった。
馬車は、街道を、ゆっくり、三日、進んだ。
二日目の夕方、街道筋の宿駅で、私は、麻布の包みに、指を、置いた。
宿駅の二階の床は、サヴリーニュ村の客間の床と、似た音で、軋んだ。
ただ、ここで軋む床の音は、東街道のものではなかった。
南西の、アルセリア街道の、別の音だった。
三日目の夕の鐘四つが、アルセリアの大鐘の塔から、聞こえた。
馬車は、アルセリア街道の終点の、北側の門前広場で、止まった。
私は、馬車を、降りた。
門前広場から、本通りまでは、徒歩で、半時ほどだった。
本通りの五本目の路地を、東に、曲がった。
低い石塀の上に、ヴァルメール家の屋根の、深い灰色の瓦が、見えた。
玄関の灯りは、灯っていた。
私は、扉の前で、しばらく、立ち止まった。
扉の取っ手の真鍮の冷たさは、出立した日の朝と、ほぼ、同じ冷たさだった。
扉を、軽く、押した。
中から、奥の廊下を、駆ける足音が、聞こえた。
そして、扉が、内側から、勢いよく、ひらかれた。
「お兄ちゃん!」
妹のクララだった。
クララの両腕が、私の腰の高さに、軽く、回された。
クララの頭の、つむじの位置は、私の胸の高さの、少し下にあった。
クララは、私の手を、両手で、握り直して、自分の胸の高さまで、引き上げた。
「クララ、字、もっと、書けるように、なった! あとで、見せる! いっぱい!」
私は、軽く、頷いた。
「……はい、見せてください、クララ」
クララは、にこっと、笑ってから、急に、両手を、ほどいた。
そして、両手を、自分の腰に、当てて、私を、上から下まで、ゆっくり、見た。
「少し、背が、伸びたね」
私は、もう一度、頷いた。
「……ただいま、クララ」
「お母さま、お兄ちゃん、帰ったよ!」
玄関の奥の廊下から、母の足音が、ゆっくり、聞こえてきた。
母エリザベートが、廊下の灯りの中に、現れた。
母の灰青色の瞳が、私の顔の高さに、ゆっくり、合った。
「おかえりなさい、テオ」
母の声は、いつもの、低く、柔らかい声だった。
しばらくして、母は、もう一度、小さな声で、付け加えた。
「わたくしの、ma bichette」
私は、頭を、軽く、下げた。
「……ただいま、お母さま」
クララが、私の旅の鞄を、両手で、引っ張った。
「お兄ちゃんの、部屋に、入れる!」
私は、旅の鞄の取っ手を、軽く、押さえた。
「自分で、持っていきますから、クララ」
クララは、口を、軽く、尖らせてから、頷いた。
「じゃあ、わたしが、お父さまに、お兄ちゃんが、帰ったって、伝えてくる」
そして、廊下の奥に、走っていった。
母は、玄関の灯りの下で、しばらく、私を、見ていた。
母は、何も、聞かなかった。
ただ、私の旅の鞄に、軽く、視線を、置いた。
母は、それが、何かを、知っていた。
「夕食は、お父さまが、戻られてからにしましょうね」
「はい、お母さま」
私の旧自室は、玄関から、廊下を、奥に、進んだ先の、左側の扉だった。
扉の前で、私は、しばらく、立ち止まった。
部屋の中は、私が、出立した日の朝と、ほぼ、同じだった。
机の上には、私が、十二歳の冬まで、使っていた古い実験ノートが、棚の上に、戻されていた。
寝台の上の毛布は、母の手で、洗い替えられて、新しいものに、なっていた。
私は、旅の鞄を、机の脇に、置いた。
麻布の包みを、旅の鞄から、取り出した。
机の上に、ふたたび、置いた。
結ばずに、置いた。
しばらくして、玄関の方から、父の足音が、聞こえてきた。
父アンリは、図書館から、戻ってきていた。
夕食は、四人で、食卓を、囲んだ。
父と、母と、クララと、私だった。
食卓の上には、雑穀のパンと、白い豆の煮物と、薄い肉のスープと、林檎の薄切りが、並んでいた。
父は、私に、現場の話を、聞かなかった。
代わりに、父は、クララの読書院の話を、私に、語った。
「クララは、最近、字の練習が、上達した」
「先生から、お褒めの言葉を、いただいた」
クララは、テーブルの下で、私の足に、軽く、自分の足を、ぶつけた。
「お父さまの、言いすぎ」
母が、薄く、笑った。
父の問いかけ型の口調は、今夜は、ゆっくりだった。
私の顔を、まっすぐ、見ない代わりに、父は、林檎の薄切りを、ひとつずつ、自分の皿から、私の皿に、移した。
夕食の後、クララが、台所で、母を、手伝った。
母は、皿を、洗いながら、クララに、薄い声で、何かを、教えていた。
父は、食卓から、立ち上がった。
そして、私の方を、ふり返らずに、短く、言った。
「書斎に、来てくれ」
私は、頷いた。
旅の鞄から、麻布の包みを、取り出した。
そして、書斎の方に、父の後ろを、ゆっくり、ついていった。
父の書斎の扉は、廊下の、いちばん奥の、右側だった。
父は、扉を、開けて、私を、先に、中に、通した。
書斎の中には、左右の壁いっぱいに、書架が、立っていた。
書架の中ほどから上は、家系の蔵書の、深い背表紙だった。
書架の下段は、父の図書館の仕事で、持ち帰った書物だった。
書斎の中央には、父の机が、あった。
机の上には、ランプが、ひとつ、灯っていた。
しばらくして、母が、書斎の扉を、ひらいた。
母は、便箋を、両手で、抱えていた。
母は、何も、言わずに、書斎の隅の、小机の上に、便箋を、置いた。
そして、父の机の、隣の椅子に、ゆっくり、座った。
三人が、揃った。
父は、書架の二段目に、両手で、軽く、触れた。
そして、薄い革表紙の手帳を、ひとつ、取り出した。
手帳の表紙には、何も、書かれていなかった。
父は、手帳を、机の上に、置いた。
私は、麻布の包みを、机の中央に、ひらいた。
四十八年前の、曽祖父エミールの筆跡の、三枚目が、机の中央に、横向きに、寝た。
母は、便箋を、小机から、自分の膝の上に、移した。
父は、手帳の、最初の頁を、ひらいた。
そして、低い声で、言った。
「初代の頁だ」
「曽祖父エミールが、わが祖父ジュリアンに、口伝で、残したものを、ジュリアンが、書き写した」
父は、頁の上の、いちばん上の行を、指で、軽く、押さえた。
「ノアン、は、六」
「これは、お前が、すでに、知っている」
私は、頷いた。
父の指は、頁の上を、ゆっくり、降りた。
「ソル、は、南」
「オリス、は、答え」
「イテ、は、行け」
「テ、は、そこに」
「マグナ、は、大いなる」
父は、五語を、ひとつずつ、机の上の手紙の方を、見ながら、述べた。
私は、内側で、完全記憶を、ひらいた。
図書館棟の地下書庫で、初めて、字形を、保存した、あの夜の、手紙の第3層の冒頭が、内側で、ひらいた。
そして、もう一度、内側で、字形の上に、父の五語を、重ねた。
母が、便箋を、ひらいた。
母の便箋には、母の細い筆跡で、いくつかの語が、書かれていた。
「ファル、と、ファルナは、姉妹語の、最古層の、別形です」
母の声は、低く、ゆっくり、流れた。
「ファルナは、在る、または、存す」
「ファルは、集いの、場」
母は、自分の便箋の、いちばん下の行を、指で、軽く、押さえた。
「レヴァンタ語の、falla、という語に、似ています」
「市場、という意味で、いまも、使われています」
「ただ、古代語の、ファル、は、もう少し、広い意味で、用いられた、と、わたくしの、死語学のノートに、書いてあります」
私は、内側で、母の二語を、父の五語の上に、重ねた。
そして、もう一度、内側の手紙の、第3層の冒頭を、ひらいた。
第3層の冒頭の一文は、こう、書かれていた。
ソル・エ・イテ。
レヴ・ファル・ノ・オリス・エ・テ。
私は、内側で、ひとつずつ、置き換えた。
ソル、は、南。
エ、は、と、または、そして。
イテ、は、行け。
レヴ、は、古き。
ファル、は、市場、または、集いの場。
ノ、は、の。
オリス、は、答え。
エ、は、と、または、そして。
テ、は、そこに。
最初の三語の意訳。
南へ、行け。
次の五語の意訳。
古き、市場の、答えが、そこに(在る)。
私は、内側で、もう一度、確かめた。
四十八年前の曽祖父の筆跡の、字形の傾きは、ひとつも、変わっていなかった。
ただ、字形の意味だけが、私の内側で、初めて、立ち上がっていた。
私は、机の上の手紙の、第3層の冒頭の一文に、自分の指を、軽く、置いた。
そして、低い声で、口に、出した。
「南へ、行け」
「古き、市場の、答えが、そこに」
父は、無言で、頷いた。
母は、自分の便箋を、軽く、閉じた。
しばらくして、父は、机の上の、ランプの炎を、目で、追ってから、ひとつ、短く、息を、抜いた。
「テオ」
「はい、お父さま」
父は、机の上の手紙には、視線を、戻さなかった。
代わりに、自分の手の甲を、ランプの光の中で、しばらく、見ていた。
「祖父——」
父の言葉は、そこで、いちど、止まった。
そして、もう一度、ゆっくり、続けた。
「正確には、曽祖父エミール、と言うべきだろう」
「お前が、これまで、祖父と、呼んできたのは、わが祖父ジュリアンの、その、父だ」
私は、頷いた。
内側で、家系の四代の順序を、もう一度、確かめた。
高祖父オーギュスト。
曽祖父エミール。
祖父ジュリアン。
父アンリ。
そして、私。
父は、もう一度、自分の手の甲を、見つめた。
そして、低い声で、続けた。
「曽祖父エミールは、前文明研究者だった」
「家系の禁忌として、隠してきた」
「だが、お前なら、知るべきだろう」
父の声には、強い力は、こもっていなかった。
ただ、低く、平らだった。
長く、自分の中に、抱えてきたものを、長い時間をかけて、平らに、ならしてから、口に出した声だった。
母は、椅子から、軽く、身を、起こした。
そして、机の上の、父の手の甲に、自分の手を、ふわりと、重ねた。
母は、何も、言わなかった。
父は、母の手の温度を、自分の手の甲で、しばらく、確かめてから、ひとつ、頷いた。
私は、麻布の中の、三枚目の手紙の、四十八年前の筆跡を、もう一度、見た。
そして、机そのものを、ゆっくり、見た。
この机は、父の書斎の机だった。
ただ、机の脚の、四本の継ぎ目の作りは、私の知る、現代の家具のものとは、少し、違っていた。
机の天板の、角の磨きの丸さは、四十年以上の使い込みの、形だった。
「お父さま」
「うん」
「この机は」
「曽祖父エミールが、使っていた机だ」
「わたしが、副司書長になった年に、この書斎を、整理した時、書架の奥の、覆い布の下から、出てきた」
「四十八年、書架の奥に、寝ていたものだ」
私は、内側で、机そのものに、ひとつの感覚を、置いた。
四十八年前の、曽祖父の手の温度は、ずっと、この机の、天板の下に、残っていた。
そして、今夜、その同じ天板の上に、私の手が、置かれていた。
四十八年前の、曽祖父の、ペンを握った手の温度と、今夜の、私の手の温度が、机の天板を、ひとつにしていた。
机の上の、麻布の中の、紙の温度も、机の上で、私の体温と、ゆっくり、ひとつに、なっていた。
父は、しばらくして、もう一度、口を、開いた。
「テオ」
「はい、お父さま」
「いずれ、見せる物が、ある」
「今夜では、ない」
「だが、近いうちに、お前に、見せる」
父の声には、その物が、何かを、説明する響きは、なかった。
ただ、見せる、という事実だけが、低く、置かれた。
私は、頷いた。
「……はい、お父さま」
書斎の灯りは、母の便箋の、白さを、薄く、照らしていた。
私は、机の上の手紙の、第3層の冒頭の一文を、もう一度、目で、追った。
南へ、行け。
古き、市場の、答えが、そこに。
内側で、ひとつの言葉が、自然に、立ち上がってきた。
押し出すのでも、なかった。
確かめるのでも、なかった。
ただ、自然に、内側で、立ち上がった。
南へ、行きたい。
私は、その言葉を、口には、出さなかった。
ただ、内側で、一度だけ、確かめた。
父は、無言で、頷いた。
母は、何も、言わずに、机の上の、もうひとつのろうそくを、灯した。
ふたつ目の炎が、机の上の手紙の、四十八年前の筆跡を、もう少し、明るく、照らした。




