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第14章 第2話「ありがとう」

霜月中旬の四日目の、午後の鐘三つが、賢窓塔の中庭の鐘の塔から、鳴った。


私は、選択科目の古代語綴字概論の教室の、いちばん奥の扉から、ひとり、ぬけた。


ロッタ老師は、私の背中を、見て、何も、言わなかった。


私が、ぬけることを、知っていた、ような気がした。


賢窓塔の中庭を、横切った。


中庭の石畳は、晩秋の白い空の光を、薄く、反射していた。


私は、地階の入口の、低い扉まで、歩いた。


地階への階段は、十二段だった。


ひと段ずつ、私の足は、白い石の温度を、確かめた。


階段の壁の灯りは、明るくは、なかった。


ただ、足元の段が、見えるだけの、低い灯りだった。


階段を、降りきった先に、低い扉が、ふたつ、並んでいた。


左は、地下書庫。


右は、祈祷室。


私は、右の扉の前で、しばらく、立ち止まった。


扉の上には、装飾の、ない、簡素な、木の表札が、掛かっていた。


「祈祷室」


表札の上には、賢者神の象徴の、簡素な紋様が、薄く、彫られていた。


私は、右の扉を、軽く、押した。


扉は、音もなく、ひらいた。


中は、薄暗かった。


仕切りが、三つ、奥の壁に沿って、並んでいた。


ひとつずつの仕切りは、両膝をついた信徒の、上半身が、ぎりぎり、収まる広さだった。


左の仕切りも、右の仕切りも、誰も、いなかった。


中央の仕切りも、空いていた。


私は、中央の仕切りの前で、靴を、ぬいだ。


そのまま、仕切りの中に、入った。


仕切りの中の床は、薄い藁の敷物だった。


藁の表面は、私の膝より、少しだけ、冷たかった。


両膝を、ついた。


両手を、胸の前で、合わせた。


額を、わずかに、下げた。


神官に、教わった、所作の通りだった。


ただ、私の所作は、ぎこちなかった。


両肘の角度も、胸の前の手の高さも、まだ、私の身体には、馴染んでいなかった。


しばらく、合わせた手の中の、自分の指の温度を、感じていた。


私の指は、わずかに、震えていた。


震えの理由は、寒さでは、なかった。


額の下の、神紋は、温度を、上げていなかった。


ただ、これから、温度を、上げる前の、薄い予感が、額の下に、あった。


私は、内側で、ひとつ、短く、願った。


聞こえてください。


はっきりとした、祈りの言葉では、なかった。


ただ、内側で、一度だけ、押し出した、短い、言葉だった。


鐘ひとつぶんの、沈黙が、流れた。


仕切りの中の藁の表面は、私の膝の温度で、わずかに、温まっていた。


額の下の神紋は、温度を、ほんの少しだけ、上げ始めていた。


その、薄い温度の中で、ひとつの音節が、届いた。


「……ありがとう……」


前の音節は、途切れていた。


後の音節も、途切れていた。


ただ、その一語だけが、明瞭に、私の内側の、耳の奥に、置かれた。


声の質感は、低かった。


そして、わずかに、震えていた。


私は、両膝を、ついたまま、しばらく、動かなかった。


合わせた手の、内側の温度は、変わらなかった。


額の下の神紋の温度は、ゆっくり、戻り始めていた。


私は、内側で、その震えの理由を、ひとつずつ、並べてみた。


老いか、疲弊か、距離か、それとも、私の、解釈の歪みか。


どの理由も、確信は、持てなかった。


四つの理由は、四つとも、可能性のひとつとして、内側で、横並びになっていた。


それから、もうひとつ、別の言葉が、内側で、立ち上がった。


神々は、弱っているのか。


私は、その言葉を、内側で、一度だけ、口の中で、転がした。


そして、すぐに、自分で、否定した。


いや、確信は、ない。


私の、解釈の歪みかも、しれない。


私は、額を、もう一度、わずかに、下げた。


合わせた手を、もう一度、胸の前で、確かめた。


そのまま、しばらく、両膝の温度の中に、いた。


仕切りの中の、薄い闇は、私の合わせた手の内側の温度と、ほぼ、同じ温度だった。


私は、両手を、ゆっくり、膝の上に、降ろした。


立ち上がる前に、もう一度、内側で、確かめた。


聞こえた。


そして、前後は、途切れていた。


その二つは、両方とも、起きたことだ。


立ち上がった。


藁の敷物の上に、私の膝の跡が、薄く、残っていた。


靴を、履いた。


祈祷室の扉を、軽く、ひらいて、外に、出た。


地階の廊下を、ゆっくり、歩いた。


階段の十二段を、ひと段ずつ、登った。


中庭の白い空の光が、階段の上の方から、薄く、降りてきた。


中庭に、出た瞬間、額の下の神紋の温度は、ほぼ、戻っていた。


ほぼ、というのは、ほんの少しだけ、戻りきっていない、ということだった。


ほんの少しだけ、というのは、私の指の幅の、半分ぶんに、満たない量だった。


私は、中庭の石畳を、横切って、賢窓塔の二階の、寮自室まで、戻った。


寮自室の机の上には、麻布の包みが、置かれたままだった。


私は、麻布の包みには、指を、置かなかった。


新しい実験ノートを、開いた。


最後の頁の、最後の行の下に、空白行を、ひとつ、置いた。


そして、新しい三行を、書いた。


「今日、私は、ありがとう、を、聞いた」


「前後は、途切れていた」


「だが、ありがとう、だけは、明瞭だった」


ペンを、置いた。


三行を、もう一度、目で、読んだ。


書いてある三行の、どれにも、感想は、書かれていなかった。


事実だけが、三行、並んでいた。


夕の鐘四つが、賢窓塔の鐘の塔から、鳴った。


夜の鐘八つの後、私は、寮の三階の、自習室に、降りた。


自習室は、寮生の共有の、小さな部屋だった。


机は、四つ。


椅子は、八つ。


自習室の、入口に近い机に、隣室のイリヤが、ひとりで、座っていた。


イリヤは、聖教国の、薄い祈祷服の、白い襟元を、学院の制服の襟の下に、覗かせていた。


イリヤの机の上には、聖典の写しの羊皮紙と、細いペンと、聖教国の独特の青いインク壺が、置かれていた。


イリヤは、私の足音に、顔を、上げた。


色白の頬の上の、青い瞳が、ゆっくり、私を、見た。


「……あ、テオ」


イリヤの、フランディア語には、ルシア訛りの、わずかに、長い母音が、混じっていた。


私は、イリヤの机の、向かいの椅子に、座った。


私の机の上には、何も、置かなかった。


イリヤは、ペンを、軽く、置いて、私を、見た。


「……何か、ありましたか」


イリヤの問いの形は、いつも、丁寧だった。


私は、しばらく、机の上の自分の手を、見つめてから、答えた。


「……イリヤ」


「……はい、テオ」


「神々の声は、どのように、聞こえますか」


イリヤは、ペンを、置いたまま、しばらく、考えた。


イリヤの両手は、机の上で、左右の指先を、軽く、合わせていた。


「……はい、それは、恩寵の話ですね」


イリヤの、口癖だった。


イリヤは、しばらく、青い瞳を、自分の指先に、落としてから、ゆっくり、続けた。


「私たちには、いつも、途切れて、聞こえます」


「中央ルシアでは、それを、神の謙抑、と言います」


私は、イリヤの言葉を、内側で、もう一度、繰り返した。


神の謙抑。


イリヤは、視線を、ゆっくり、私の方に、戻した。


「神々は、私たちに、全てを、語らない」


「それは、神々が、私たちを、信頼している、印です」


イリヤの声は、自習室の、低い天井の下で、低く、流れた。


イリヤの説明には、押し付ける響きは、なかった。


ただ、自分の信仰の中で、自分が、納得していることを、私に、伝えていた。


私は、内側で、ふたつの言葉が、並ぶのを、感じた。


神の謙抑。


神々の、弱り。


ふたつは、両方とも、私の祈祷室での、ありがとう、の経験を、説明する、ことが、できた。


どちらが、正しいか。


私には、まだ、決められなかった。


私は、机の上の自分の手の甲を、軽く、見た。


「……ありがとうございます、イリヤ」


イリヤは、ペンを、もう一度、手に、取った。


そして、青いインク壺の縁で、ペン先を、軽く、整えてから、私を、見た。


「……いえ」


「あなたの聞いたものが、何だったかは、あなたが、決めること、です」


イリヤは、それ以上、聞かなかった。


イリヤは、自分の聖典の写しの続きに、ペンを、戻した。


私は、しばらく、イリヤのペン先が、青いインクで、薄い字を、引いていくのを、見ていた。


イリヤの字は、私の知らない、聖教国の、丸い字形だった。


そのひと字、ひと字の運びは、ゆっくり、慎重だった。


しばらくして、私は、椅子から、立ち上がった。


「……失礼します、イリヤ」


「はい、おやすみなさい、テオ」


寮自室に、戻った。


机の上の、新しい実験ノートを、もう一度、開いた。


最後の頁の三行の下に、私は、もう一行、加えた。


「確信は、持たない。だが、忘れない」


ペンを、置いた。


ろうそくの炎は、わずかに、揺れた。


私は、机の上の麻布の包みに、もう一度、指を、置いた。


麻布の中の、紙の重さは、出立した日の朝と、同じ重さだった。


寝台に、横になる前に、私は、内側で、もう一度、確かめた。


祈祷室の、額の温度は、戻っていた。


私の手元の、ノートには、四行が、書かれていた。


イリヤは、言った。


「あなたの聞いたものが、何だったかは、あなたが、決めること、です」


私は、まだ、決めない。


忘れない、ということだけが、残った。

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