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第14章 第1話「兄が、見た、もの」

霜月初旬の六日目の朝の鐘五つは、サヴリーニュ村の中央広場の、低い鐘の塔から、鳴った。


私は、客間の寝台から、起き上がった。


枕の下には、麻布の包みが、置かれたままだった。


昨夜、私は、麻布を、ひらいた。


そして、ふたたび、結び、枕の下に、戻した。


麻布の結び目に、指を、軽く、置いた。


四十六年前の、曽祖父の手の温度は、もう、戻っていなかった。


ただ、紙の重さだけが、麻布の中に、残っていた。


旅の鞄に、麻布の包みを、しまった。


寝台の下から、靴を、取り出した。


宿駅の二階の床は、来た時と、同じ場所で、わずかに、軋んだ。


8名は、村長の家の前に、整列した。


村長は、無精髭の顎を、軽く、引きながら、ヴァルニエ教授に、頭を、下げた。


「お役目、ご苦労さまでした」


ヴァルニエ教授は、低い声で、応えた。


「世話になった。村の、夜の音が、戻れば、わたしの仕事は、半分は、終わったことになる」


村長は、もう一度、頭を、下げた。


東街道の馬車に、私たちは、乗り込んだ。


行きと、同じ編成だった。


教師の馬車。


老師の馬車。


学生の馬車。


学生の馬車には、ライナル先輩、ジル、テレーズ先輩、そして、私が、乗った。


ライナル先輩は、窓の外の枯れた低木を、目で、追っていた。


テレーズ先輩は、剣の柄に、両手を、軽く、置いて、姿勢を、保っていた。


ジルは、革エプロンの帯の結び目を、もう一度、結び直していた。


馬車は、東街道の、白い地肌の道を、ゆっくり、進んだ。


帰り道の馬は、行きより、少しだけ、足の運びが、軽かった。


往きには、何が、待っているのか、馬は、知らない。


帰りには、もう、待っているものは、ない。


二日目の昼の鐘十二つが、街道筋の小さな村の塔から、聞こえた。


馬車は、街道の脇の、低い丘の影に、止まった。


御者が、馬に、水を、与えた。


私たちは、馬車を、降りて、低い石の上に、それぞれ、腰を、下ろした。


ジルが、私の隣に、来た。


革のパンを、半分に、割って、片方を、私の手に、押し付けた。


「……飯食え」


私は、受け取った。


「……ありがとう、ジル」


ジルは、自分のパンを、ひとくち、噛んだ。


しばらく、噛んでから、ジルは、言った。


「……で、お前、家に、帰るのか」


私は、頷いた。


「……はい、十日後に」


ライナル先輩が、低い石の上から、私を、見た。


砕けた敬語の、いつもの調子だった。


「お前、家族に、何を、話す」


私は、パンの端を、見つめながら、答えた。


「……まだ、決めていません」


ライナル先輩は、肩を、軽く、すくめた。


「そういうもんだ」


テレーズ先輩は、剣の柄の上に、両手を、置いたまま、黙っていた。


帰り道の、テレーズ先輩は、行きの時より、口数が、少なかった。


封印の本番で、霜の形を、保ったあとの、疲れだろう、と、私は、内側で、思った。


ジルが、テレーズ先輩の方を、見た。


「テレーズ先輩、肉、食えるか」


テレーズ先輩は、首を、軽く、横に、振った。


「……パンだけで、十分です。ありがとう、ジル」


ジルは、ふん、と、短く、息を、抜いて、自分のパンの続きを、噛んだ。


私は、窓の外の枯れた低木を、ひとつずつ、数えながら、内側で、確かめた。


何を、話すかは、家族の顔を、見てから、決めることだ。


霜月初旬の七日目の夕の鐘四つが、学府丘の鐘の塔から、聞こえた。


馬車は、リューヴェルの東門を、抜けて、学府丘の馬車回し場に、到着した。


学府丘の石畳の白さは、出立した日の朝と、ほぼ、同じだった。


8名は、馬車回し場で、それぞれの寮の方向に、別れた。


ヴァルニエ教授は、教師棟へ。


ヴァサール教官は、剣冠館へ。


カマール教官は、工炉院へ。


ロッタ老師とモローニュ老師は、客員寮へ。


ライナル先輩は、賢窓塔の上層階へ。


ジルは、工師塔へ。


テレーズ先輩は、剣冠館へ。


そして、私は、賢窓塔の、二階の、寮自室へ。


賢窓塔の正面玄関に、私が、足を、踏み入れた瞬間、二階の階段の踊り場から、勢いよく、誰かが、降りてきた。


マチューだった。


「おかえり!」


マチューは、階段の途中で、止まらずに、玄関まで、走り、私の旅の鞄の取っ手を、両手で、握って、持ち上げた。


「で、で、どうだった」


私は、マチューの目を、見た。


マチューの顔は、出立した日の朝と、同じ、丸い目と、丸い口元だった。


「……ただいま、マチュー。封印は、ひとまず、完了しました」


「ひとまず、って、つまり、完璧じゃ、なかったってこと?」


「……完璧では、ありませんでした」


マチューは、しばらく、私の顔を、見つめてから、軽く、頷いた。


「そっか」


「でも、お前、生きて、戻ったから、いいんだ」


マチューは、私の旅の鞄を、両手で、持ったまま、寮自室まで、階段を、登った。


私は、マチューの後ろを、ゆっくり、登った。


寮自室の扉を、マチューが、開けた。


机の上は、出立した日の朝と、同じ、空白の状態だった。


私は、旅の鞄を、机の脇の、椅子の上に、置いた。


麻布の包みを、旅の鞄から、取り出した。


引き出しの二段目を、私は、開けなかった。


代わりに、麻布の包みを、机の上に、置いた。


そのまま、結ばずに、置いた。


マチューが、机の上の麻布を、見た。


「……それ、なに」


私は、麻布の結び目を、ふたたび、結んだ。


「家から、持ってきた、ものです」


「ふーん」


マチューは、深く、問わなかった。


それが、マチューの、いつもの、聞き方だった。


その夜、私は、新しい実験ノートを、机の上に、置いた。


最後の頁を、開いた。


最後の頁には、サヴリーニュ村の客間で、私が、書いた三行が、書かれていた。


南へ。


そうかもしれない。


だが、まだ、私は、自分の答えを、聞いていない。


私は、その三行を、もう一度、目で、読んだ。


ペンを、手に、取った。


三行の下に、空白行を、ひとつ、置いた。


そして、新しい一行を、書いた。


「だが、聞こうと、することは、できる」


ペンを、置いた。


机のろうそくは、まだ、灯っていた。


私は、机の上の麻布の包みに、もう一度、指を、置いた。


明日では、ない。


だが、近いうちに、私は、祈祷室に、行ってみる。


翌朝の鐘八つが、賢窓塔の鐘の塔から、鳴った。


私は、ヴァルニエ教授の主任教授室の、扉の前に、立っていた。


中から、低い、複数の話し声が、聞こえていた。


扉を、軽く、叩いた。


「入りなさい」


ヴァルニエ教授の声だった。


私は、扉を、開けた。


部屋の中には、ヴァルニエ教授、ヴァサール教官、カマール教官、ライナル先輩、ジルが、すでに、揃っていた。


机の上には、白い大きな紙が、広げられていた。


紙の上には、ヴァルニエ教授の細い筆跡で、いくつかの矢印と、丸が、引かれていた。


「来たな、テオ」


ヴァサール教官が、短く、言った。


「席に、つきなさい」


ヴァルニエ教授が、机の端の、空いている椅子を、目で、示した。


私は、椅子に、座った。


ヴァルニエ教授が、紙の上の矢印を、指で、軽く、押さえながら、言った。


「現場の、解析結果を、君から、ひとつずつ、聞きたい」


「順番は、君の好きな順で、構わない」


私は、紙の上の矢印を、目で、追いながら、ひとつずつ、述べていった。


銘文の完全形が、ノアン・モルテ・ファルナ、と、読めたこと。


ノアンが、六、と、確定したこと。


ファルナが、在る、または、存す、と、確定したこと。


他にも、解明した事項は、いくつかあった。


だが、いちばん、私が、現場で、知ったことは、別のところに、ありました。


カマール教官が、紙の上の、私の指の動きを、追いながら、低い声で、確認した。


「陣の素材は、内周が銅、外周が鉄、で、合っていたか」


「……はい、合っていました」


「観察強度は、半呼吸ぶん、上げて、十分だったか」


「……十分でした」


カマール教官は、軽く、頷いた。


ヴァルニエ教授は、私の話を、最後まで、聞いてから、ひとつ、短く、息を、抜いた。


「それで、君は、現場で、何を、知った」


私は、紙の上の矢印を、見たまま、答えた。


「……私は、銘文を、読みました」


「だが、銘文を、読めただけでは、封印は、できませんでした」


「自分一人では、絶対に、解けない、問題が、ある、ということを、私は、現場で、知りました」


ヴァルニエ教授は、無言で、頷いた。


ライナル先輩が、机の縁に、軽く、肘を、置いた。


ジルは、革エプロンの帯の結び目に、視線を、落としていた。


ヴァサール教官が、短く、言った。


「それを、口に、出せたか」


私は、頷いた。


「……はい」


「よし」


ヴァサール教官の、よし、は、低く、短かった。


ヴァサール教官は、それ以上、何も、言わなかった。


報告会は、鐘ひとつぶんで、終わった。


ヴァルニエ教授は、机の上の紙を、丁寧に、巻いた。


「君たちの、十日間の、休息を、許可する」


「家族と、過ごしなさい」


「次の手順は、十日後、また、ここで、組む」


私は、教授室を、出た。


廊下の窓の外は、晩秋の白い空だった。


私は、廊下の、いちばん端の窓まで、歩いて、しばらく、空を、見上げた。


その日の夜の鐘八つが、賢窓塔の食堂の天井の梁に、響いた。


私は、食堂の入口で、立ち止まった。


食堂の隅の席に、見覚えのある、後ろ姿が、座っていた。


黒い髪の、整わない短さ。


肩の幅は、出立した日の朝の、私の記憶より、わずかに、広かった。


兄マルクだった。


私は、食堂の中を、ゆっくり、横切った。


兄マルクの席の、隣の椅子の前で、立ち止まった。


兄は、雑穀の粥を、ひとさじずつ、食べていた。


兄は、私の足音に、顔を、上げた。


兄は、しばらく、私の顔を、見つめていた。


私の額の高さは、兄の肩の下までしか、まだ、届かなかった。


兄が、言った。


「お前、痩せたな」


私は、自分の手の甲を、見た。


サヴリーニュ村の客間で、毎朝、確かめた手の甲の血色は、出立した日の朝と、ほぼ、同じだった。


「……いえ、たぶん、痩せていません」


兄は、ひとさじを、口に、運んでから、もう一度、私の顔を、見た。


「じゃあ、何が、変わった」


私は、隣の椅子に、座った。


食堂の天井の梁の影が、机の上に、長く、伸びていた。


私は、ひとつ、息を、置いてから、答えた。


「……自分のことが、少し、見えるように、なりました」


兄は、ひとさじを、もう一度、口に、運んだ。


「そうか」


兄は、それ以上、何も、聞かなかった。


しばらくの沈黙の後で、兄は、低い声で、もう一度、口を、開いた。


「……お前は、変わった。試練の前と後で」


兄は、その一言の後、粥の続きを、食べた。


私は、自分の粥を、運んでくる時間まで、隣の椅子に、座って、待った。


兄と、私は、しばらく、沈黙で、食べた。


私の右側の、兄の肩の高さは、私の額より、少しだけ、高かった。


私の左側の、食堂の窓の外は、晩秋の夜の青さだった。


兄は、粥を、食べ終わると、椅子から、立ち上がった。


「俺は、戻る」


「明日の朝、補助術の、演習の、朝練がある」


私は、頷いた。


「……お疲れさまです、兄さん」


兄は、私の頭に、軽く、片手を、置いた。


私の頭の、つむじの少し上の高さに、兄の手の重さが、置かれた。


そして、兄は、食堂を、出ていった。


私は、自分の粥を、最後まで、食べた。


兄が、置いていった手の重さは、まだ、消えていなかった。


寮自室に、戻った。


机の上には、新しい実験ノートが、開かれたままだった。


最後の頁の、最後の行に、書いた一行が、ろうそくの光の中で、薄く、見えた。


「だが、聞こうと、することは、できる」


私は、ペンを、もう一度、手に、取らなかった。


ノートを、閉じた。


机のろうそくを、消した。


寝台に、横になった。


兄に、変わったと、言われる、ということが、起きた。


その事実を、私は、内側で、もう一度、確かめた。


聞こうと、することは、できる。


明日では、ない。


私は、近いうちに、祈祷室に、行く。

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