第13章 第3話「六なる手によりて」
霜月初旬の四日目の朝の鐘五つは、サヴリーニュ村の中央広場の、低い鐘の塔から、鳴った。
8名は、村長の家の客間で、最後の確認を、した。
机の上の、大きな紙の、五つの円と、ひとつの矢印は、昨夜の燈火の中で、すでに、八つの矢印に、増えていた。
ヴァルニエ教授が、紙の前に、立った。
「それぞれの、持ち場を、もう一度」
「ジルと、カマール教官、観察陣の、再構築」
「ヴァサール教官と、テレーズ先輩、物理的固定」
「モローニュ老師、契約による、拘束」
「ロッタ老師、素材鑑定の、継続」
「ライナル先輩、現場勘と、安全動線」
「テオ、解析と、銘文照合と、繋ぎの合図」
「私、統合判断と、宣言」
教授は、八つの円を、順に、指で、押さえた。
「八つの手が、揃って、初めて、再封印は、成立する」
「ひとつでも、欠けたら、止める」
「全員、これで、いいか」
ライナル先輩が、頷いた。
ジルが、革帯の小石と工具袋の鉄棒を、軽く、押さえてから、頷いた。
ロッタ老師が、薬瓶のベルトを、確かめてから、頷いた。
カマール教官が、頷いた。
モローニュ老師が、籠の中の霧の鼠を、軽く、撫でてから、頷いた。
テレーズ先輩が、頷いた。
ヴァサール教官が、頷いた。
私は、最後に、頷いた。
「……はい、教授」
8名は、客間を、出た。
丘の南斜面の細い道を、列を、組んで、登った。
順序は、前日と、同じ。
ライナルが、先頭。
テレーズが、次。
ジル、テオ、カマール、ロッタ、モローニュ。
ヴァサール教官と、ヴァルニエ教授が、最後尾。
足元の苔の、湿り方は、前日と、わずかに、違った。
前日の四十分の徒歩で、苔の上に、八人の足跡が、薄く、残っていた。
足跡を、踏みながら、私たちは、登った。
丘陵中腹の窪地に、四十分で、着いた。
前日と、同じ時間。
ただし、それぞれの、持ち場への動線が、すでに、決まっていた。
迷いは、なかった。
ジルとカマール教官が、最初に、観察陣の再構築に、入った。
前日と同じ、内周の白い小石の十二位置、外周の鉄棒の十二位置。
内周の銅線と、外周の鉄線が、円の中央で、結ばれた。
二重の陣が、完成した。
ヴァサール教官とテレーズ先輩が、祠の四辺に、戦術陣の小杭を、打った。
東の杭、南の杭、西の杭、北の杭。
四本の杭は、磨かれた鉄製で、剣冠館の応用科の、戦術陣の規格、と教官が、説明した。
「杭の高さは、地表から、指の幅四つぶん」
「杭の向きは、すべて、中央の窪みを、指す」
ヴァサールが、自分の短剣を、抜いた。
短剣の先端で、四本の杭の頭を、ひとつずつ、軽く、突いた。
東、南、西、北、の順で。
「留まる、形を、保つ」
教官が、低い声で、唱えた。
四本の杭の周りに、薄い、霜色の輪郭が、立ち上がった。
戦術陣の小杭は、祠の四辺で、地面に、固定された。
モローニュ老師が、二重の陣の、外側の縁に、近付いた。
藍の祭服の袖から、籠を、取り出した。
籠の中の、灰色の毛玉のような契約獣を、自分の手の平に、乗せた。
「眠りなさい、もう一度、深く」
低い声で、唱えた。
霧の鼠は、しばらく、老師の手の平で、まどろんだ。
それから、青い気の窪みの方向に、わずかに、向きを、変えた。
老師は、霧の鼠を、地面に、降ろした。
霧の鼠は、青い気の窪みの、方向に、ゆっくり、歩いた。
二重の陣の、内周の小石の手前で、止まった。
そこで、丸まった。
「契約は、これで、成立しました」
モローニュ老師が、ヴァルニエ教授に、頷いた。
ロッタ老師が、自分の薬瓶のベルトから、新しい麻布を、二重に、取り出した。
崩れた壁の石片を、もうひとつ、拾い上げた。
拡大鏡で、石片の結晶の組み変わりを、観察した。
「結晶の、向きは、屈折点を、中心に、放射状」
「ふぅむ、確認した」
ロッタは、頷いた。
ライナル先輩は、窪地の縁を、ひと巡り、した。
足元の苔の、湿り気を、もう一度、確かめた。
「抜け道は、南東の縁の、地表下、半身ほど」
「前日と、同じ位置」
「移動は、していない」
ライナルは、頷いた。
ヴァルニエ教授は、手帳を、開いた。
手帳に、四つの観察結果を、ゆっくり、写した。
「準備が、整った」
「テオ、入れ」
私は、内周の北の小石を、跨いだ。
外周の鉄線を、跨いだ。
二重の陣の中央で、銅線の結び目の、半歩、手前に、立った。
深呼吸を、三つ、した。
胸の中の、空気が、前日よりも、わずかに、重く、入ってきた。
戦術陣の小杭の、霜色の輪郭が、四辺で、薄く、立ち上がっているぶん。
私は、真理の眼を、意図的に、発動した。
祠の三段の石組みの上に、淡い、線が、見えた。
前日と、同じ屈折点。
最下段の中央の窪み。
青い気の残りが、立ち上り、横に、引かれていた。
私は、目を、もう少し、深く、開けた。
最下段の石組みの、内側の面の、銘文が、淡く、浮き上がった。
ノアン・モルテ・ファルナ。
完全形が、前日と、同じ位置で、見えた。
完全記憶が、勝手に、祖父の三枚目の、中ほどの連鎖を、呼び出した。
ノアン・モルテ・ファルナ・エ・イシュタル・コーレ・ノ・テラム。
二つの並びが、頭の中で、重なった。
前日と、同じ。
ただし、今日は、もうひとつ、内側で、確かめた。
「祖父の三枚目に、書かれていたのは、この装置だ」
「祖父は、これを、知っていた」
書かれていた、と、書いたが、それは、私の言葉ではなかった。
四十六年前の、曽祖父エミールの、肉筆の運びが、私の中で、ふたたび、引き出された。
完全記憶は、エミールの筆跡を、四十六年前のまま、保存していた。
その筆跡が、目の前の、千年前の銘文の字形と、同じ系統だった。
四十六年前の夜と、千年前の銘文の、間を、私の中で、糸が、繋いだ。
繋いだ瞬間、内側で、別の声が、続いた。
「だが、私一人では、繋いだだけで、止まる」
私は、銘文の意訳を、声に、出した。
「六なる手によりて、再び、保たれて、ある」
二重の陣の中央の、銅線の結び目が、わずかに、震えた。
ジルが、外周の鉄線に、魔力を、ゆっくり、流し始めた。
カマール教官が、鉄線の太さを、半呼吸ごとに、確認した。
「陣の、線の、太さを、半呼吸ぶん、調整しろ」
「……了解」
ジルは、鉄線の張りを、わずかに、緩めた。
ヴァルニエ教授は、机の上の紙の上で、新しい矢印を、ひとつ、引いた。
矢印の先は、屈折点を、指していた。
ヴァサール教官が、自分の短剣で、四本の戦術陣の小杭の頭を、もう一度、ひとつずつ、軽く、突いた。
東、南、西、北、の順で。
突きの間に、テレーズ先輩が、低い声で、唱えた。
「留まれ、霜の、形」
四本の杭の周りの、霜色の輪郭が、わずかに、濃くなった。
戦術陣が、屈折点を、四辺から、押さえた。
モローニュ老師が、地面に、丸まった霧の鼠の、方向を、見た。
霧の鼠は、青い気の窪みの方向に、向き直したまま、目を、閉じていた。
老師が、低い声で、唱えた。
「眠りなさい、もう一度、深く」
霧の鼠の毛が、わずかに、揺れた。
青い気の窪みの、薄い気が、霧の鼠の毛の中に、ゆっくり、流れ込んでいった。
ロッタ老師が、拡大鏡で、石片の結晶の組み変わりを、見続けた。
「……結晶が、戻り始めた」
「だが、完全には、戻らない」
「屈折点の、外側の縁から、内側に、向かって、わずかに、戻っている」
ライナル先輩が、列の中央付近で、ジルの陣の線の上を、見た。
ジルの右足の踵が、内周の銅線の上に、わずかに、寄っていた。
「ジル、右に、半歩、寄れ」
「……了解」
ジルは、右に、半歩、寄った。
ライナルは、頷いた。
「よし」
私は、二重の陣の中央で、声を、出した。
「ノアン・モルテ・ファルナ」
「六なる手によりて、再び、保たれて、ある」
声を、出した瞬間、青い気の窪みの、立ち上りが、わずかに、薄くなり始めた。
完全には、消えなかった。
ただ、薄く、なっていった。
封印は、もうすぐ、終わる。
私は、二重の陣の中央で、そう、思った。
その時だった。
祠の最下段の石組みの、継ぎ目の、奥で、金属の、擦れる音が、した。
薄く、硬く、何かが、擦れた。
私は、その音を、二重の陣の中央で、聞いた。
封印が、終わりに、近付いた、ちょうど、その時に。
金属の、擦れる音は、一度では、終わらなかった。
二度、三度と、続いた。
薄く、硬く、石の継ぎ目の奥から、何かが、爪を、立てるように。
8名の動きが、止まった。
ジルが、外周の鉄線の前で、首を、ひねった。
「……おい、これ、聞こえてんの、俺だけか」
テレーズ先輩が、短剣の柄に、親指を、当てた。
「……聞こえます、ジルさん」
モローニュ老師の籠の中で、霧の鼠が、わずかに、震えた。
ロッタ老師が、薬瓶のベルトを、腰で、確かめた。
「ふぅむ、お前さぁん、これは、まずいやつだ」
…………。
…………。
祠の最下段の石組みの、継ぎ目の間から、金属が、這い出た。
一体。
二体。
三体。
四つ脚で、胴に、魔導刻印の走る、半機械の生き物だった。
一体は、鉛色の、蜘蛛のかたち。
一体は、鋼色の、蛇のかたち。
一体は、青銅の、蟹のかたち。
どれも、私の腰の高さ、ほどだった。
鉛色の蜘蛛のかたちが、四つの脚を、石の上に、立てた。
脚の先が、石を、叩く音は、乾いて、硬かった。
鋼色の蛇のかたちが、胴を、低く、うねらせた。
青銅の蟹のかたちが、両の鋏を、一度だけ、開いて、閉じた。
三体の胴の、魔導刻印が、同じ青さで、ひとつずつ、灯っていった。
祠の青い気と、同じ、青さだった。
ロッタ老師が、薬瓶のベルトを、もう一度、確かめた。
カマール教官が、工具袋の口を、握った。
8名の中で、誰も、まだ、声を、出していなかった。
ライナル先輩が、最初に、動いた。
「全員、陣の、外周まで、下がれ」
「テオは、中央で、動くな」
私は、二重の陣の中央で、動かなかった。
私は《真理の眼》を、発動した。
━━ 三体。形状、機械生物。
→ 動きの順序、解析中。
✗ 間に合わない。
三体の輪郭は、見えた。
だが、どれが、先に、動くのかが、見えなかった。
「……まだ、読めません」
私は、声を、出さざるを、得なかった。
蜘蛛のかたちが、テレーズ先輩の方向に、跳ねた。
テレーズ先輩は、短剣を、構えた。
蜘蛛のかたちの、胴に、刃を、入れた。
刃は、表面の金属質の殻の上を、滑った。
関節の位置が、分からないまま、だった。
蜘蛛が、テレーズ先輩の足元に、もう一度、跳ねた。
テレーズ先輩は、半歩、退いた。
短剣の切っ先は、まだ、殻の上を、探していた。
私は、二重の陣の中央で、焦った。
私の眼は、三体の輪郭を、なぞるだけで、関節の隙の、一点を、捉えられずにいた。
形は、見える。
だが、どこを、突けば、止まるのかが、見えない。
カマール教官が、工具袋を、肩で、押さえ直した。
「テオ、解析を、急げ」
「だが、焦るな」
ジルが、外周の鉄線を、両手で、握った。
「……ふん」
私は、二重の陣の中央で、もう一度、目を、開けた。
今度は、《魔法解析》を、併せた。
三体の、関節の隙が、淡く、浮き上がった。
胴の魔導刻印の、起動の順序が、青く、流れた。
刻印は、胴を、繋いで、走っていたが、関節の継ぎ目で、一度、途切れていた。
途切れた、その隙が、防御の、薄い場所だった。
━━ 蜘蛛のかたち。左前脚の関節、隙、指の幅、ひとつぶん。
━━ 蛇のかたち。胴の中央、魔導刻印、青、第三節。
━━ 蟹のかたち。両の鋏、同時、振りかぶり、半呼吸後。
→ 三体、同時に、押さえる。
⇒ 順序は、蜘蛛、蛇、蟹。
私は、声を、出した。
「テレーズ先輩、蜘蛛の、左前脚、関節、指の幅、ひとつぶん、左です」
「……了解です」
テレーズ先輩の短剣が、蜘蛛のかたちの、左前脚の関節に、入った。
正確に、入った。
蜘蛛のかたちが、脚の途中で、止まった。
一体目の機構が、機能を、止めた。
私は、ひとつ、息を、吐いた。
見えれば、止まる。
私の眼が、見たものを、テレーズ先輩の、短剣が、形に、した。
「モローニュ老師、蛇の、胴の中央、第三節が、起動準備に、入っています」
モローニュ老師が、首の鈴を、指の腹で、押さえた。
籠の中の霧の鼠を、手の平に、乗せた。
地面に、降ろした。
霧の鼠は、蛇のかたちの方向に、低く、歩いた。
蛇のかたちの魔導刻印に、低く、応えるように、丸まった。
蛇のかたちの胴の、第三節の青さが、わずかに、鈍った。
「契約は、対等な、約束です」
モローニュ老師が、低く、唱えた。
「お前を、壊すのでは、ない。お前を、眠らせるのです」
私は、二重の陣の中央で、ひとつ、理解した。
この機構は、私たちを、襲っているのでは、なかった。
封印が、成りかけた、その時に、眠りを、拒んで、起きただけだった。
眠るまいと、する、何かを、もう一度、眠らせる。
それが、今、八人で、している、ことだった。
「ジル、蟹の、両の鋏、じきに、振りかぶります」
ジルが、外周の鉄線を、両手で、蟹のかたちの、両側に、巻きつけた。
鉄線は、蟹のかたちの、青銅の脚に、二重に、巻きついた。
ジルの手のひらの、革帯の小石が、鉄線の張りを、支えていた。
鉄線の張りが、わずかに、緩んだ。
カマール教官が、ジルの手元を、見た。
「ジル、指の幅、ひとつぶん、戻せ」
「……了解、教官」
ジルは、鉄線の張りを、指の幅、ひとつぶん、戻した。
それから、ジルは、小さく、続けた。
「……ちっ、的確すぎんだろ」
聞こえるか、聞こえないか、ほどの、音量だった。
ジルの、革エプロンの帯を、押さえた手が、わずかに、止まっていた。
ジルが、教官の指示の、的確さを、噛みしめているのだ、と、私には、見えた。
三体のうち、二体が、止まりかけた、その時だった。
蟹のかたちの、両の鋏の、振りかぶりが、私の読みより、半呼吸、早かった。
鋏が、ジルの鉄線を、振り解いた。
✗ 蟹の振りかぶり、半呼吸、速い。
✗ 計算、ずれた。
→ 立て直す。
「……っち」
ジルが、舌を、打った。
ヴァサール教官が、自分の短剣を、抜いた。
「鎮まれ、霜の、息」
教官の《鎮まれ、霜の、息》が、蟹のかたちの、鋏の付け根の放電を、上から、押さえ込んだ。
蟹のかたちの、鋏の付け根から、青い火花が、散っていた。
火花は、教官の霜色の気の下で、ひとつずつ、消えた。
「テオ、もう一度、見ろ」
「落ち着け」
教官の声は、喉の、奥から、出てきた、低い、ひとつだった。
私は、二重の陣の中央で、内側で、確かめた。
「……指の幅、ふたつぶん、計算を、ずらしていた」
指先が、冷えていた。
冷えは、内側を、伝って、手のひらまで、来ていた。
《完全記憶》が、勝手に、別の夜を、引き出した。
焼けたノートの、煤の、手のひらの感触。
あの夜も、私は、火を、見ていた。
見えていたのに、止められなかった。
冷えの底の温度が、あの夜と、同じだった。
見えているのに、間に合わない。
その感覚は、二度目だった。
だが、今夜は、私の、後ろに、七つの手が、あった。
ライナル先輩が、列の中央付近から、私の方を、見ずに、言った。
「テオ、お前は、お前の仕事を、続けろ」
私は、もう一度、蟹のかたちの、鋏の周期を、見た。
━━ 蟹、振りかぶり、周期、補正。
→ ロッタ老師、関節の物質。
「ロッタ老師、蟹の、鋏の、関節が、開いた、わずかな、間に」
「お前さぁん、これ、使え」
ロッタ老師が、薬瓶のベルトから、試薬を、二本、テレーズ先輩に、渡した。
「蟹の、青銅は、この二本で、緩む。鋏の、関節に、塗れ。じきに、効く」
「……了解です」
テレーズ先輩は、試薬を、鋏の関節に、塗った。
短剣の柄に、親指を、当て直してから、半歩、下がった。
蟹の、両の鋏の動きが、ふっと、遅れた。
ライナル先輩の《補充弾道計算》が、蟹のかたちの、跳躍の弧を、半分に、削った。
蟹は、窪地の縁まで、跳べなかった。
三体が、押さえ込まれた。
モローニュ老師が、青い気の窪みに、霧の鼠を、もう一度、向けた。
「眠りなさい、もう一度、深く」
三体の胴の、魔導刻印が、青から、灰色に、薄れていった。
脚の動きが、順に、緩んでいった。
蜘蛛のかたちが、最初に、脚を、畳んだ。
蛇のかたちが、胴を、低く、伸ばした。
蟹のかたちが、両の鋏を、ゆっくり、閉じた。
三体は、石の継ぎ目の間に、戻っていった。
来た時とは、逆の、順で。
霧の鼠は、最後まで、青い気の窪みの、手前で、丸まっていた。
モローニュ老師が、籠を、開けて、待っていた。
青い気の窪みの、立ち上りが、薄くなった。
完全には、消えなかった。
ただ、薄く、なった。
ヴァルニエ教授が、机の上の紙の上で、最後の矢印を、引いた。
「再封印、完了」
八つの肺が、同時に、開いた。
ジルが、短く、息を、吐いた。
「……ふん」
テレーズ先輩が、短剣を、革のシースに、納めた。
「……形は、保てました」
ロッタ老師が、拡大鏡を、薬瓶のベルトに、戻した。
「ふぅむ、まあ、いいだろう」
ヴァサール教官が、私の方に、来た。
「よく、やった」
「……はい、教官」
「お前の解析が、なければ、封印に、もっと、時間が、かかった」
「……」
「よく、やった」
教官は、それだけ、言って、戦術陣の小杭の方に、戻った。
二重の陣を、ジルとカマール教官が、ゆっくり、巻き戻した。
戦術陣の小杭を、ヴァサール教官とテレーズ先輩が、抜いた。
霧の鼠を、モローニュ老師が、籠に、戻した。
石片を、ロッタ老師が、麻布に、二重に、包んだ。
地形図に、ライナル先輩が、新しい矢印を、書き足した。
ヴァルニエ教授が、手帳を、閉じた。
私は、旅の鞄の中の麻布の包みに、指を、軽く、置いた。
包みは、行きと、同じ位置で、横向きに、寝ていた。
ただ、私の感じる、重さが、変わっていた。
陣の中央で、指先は、まだ、冷えていた。
冷えの中に、何かが、まだ、残っていた。
何が、残っているのかを、私は、まだ、言葉に、できなかった。
ただ、それは、煤の温度に、似ていた。
そして、煤の温度よりも、ほんの少し、温かかった。
8名は、丘の南斜面の細い道を、ゆっくり、降りた。
村に、降りる。
今夜、ジルが、私の隣に、来る、はずだった。
夕の鐘四つの、少し前に、8名は、サヴリーニュ村の入口に、戻った。
村長が、村の入口で、待っていた。
「……お早い、お戻りで」
「今夜は、お世話に、なります」
「明朝、出立、いたします」
ヴァルニエ教授が、答えた。
夕食は、虹月の初旬と、同じ、羊の薄切りと、丘の麓の野菜の煮込みだった。
香草の匂いも、同じだった。
ただし、今夜は、客間の燈火が、ふだんよりも、わずかに、明るく、感じた。
8名が、揃って、ひとつの卓に、座っていたぶん。
夕食の後、ジルが、私の隣に、座った。
革エプロンの帯を、軽く、押さえながら。
「お前の、解析、無かったら、俺の陣、空回りだった」
私は、ジルの方を、見た。
ジルの目は、卓の上の、空のカップを、見ていた。
「……ジルの陣が、無かったら、私の解析は、空中で、止まっていました」
「……ふん」
ジルは、しばらく、沈黙してから、続けた。
「……どうやった、その、銘文の、読み方」
「……家族の手紙の、写しを、何度も、重ねました」
「……家族か」
ジルは、卓の上の、自分の手の指の、爪を、見た。
「……俺は、家業の鍛冶屋の、手の動きを、何度も、なぞった」
「同じだな」
「……同じ、ですね」
二人は、しばらく、沈黙した。
卓の上の、空のカップに、燈火が、わずかに、揺れていた。
ジルの目は、卓の上を、見ていたが、その視線の中に、嫉妬と、尊敬が、混ざっていた。
私は、ジルの視線を、内側で、受け止めた。
ジルは、それだけ、言って、自分の客間に、戻った。
ろうそくが、客間の中で、ひとつずつ、消えていった。
ヴァサール教官が、最初。
ヴァルニエ教授が、次。
カマール教官、モローニュ老師、ロッタ老師、テレーズ先輩、の順で。
ライナル先輩が、最後だった。
ライナル先輩は、客間の出口で、私の方を、振り返った。
「テオ、明日の朝、井戸端に、来い」
「……はい、ライナル先輩」
ライナルは、それだけ、言って、自分の客間に、戻った。
朝の鐘五つは、霜月初旬の五日目の朝に、サヴリーニュ村の中央広場の、低い鐘の塔から、鳴った。
私は、村の中央広場の井戸端に、立った。
ライナル先輩は、井戸の縁に、空のカップを、軽く、置いた。
「お前、今回、よく、頑張った」
「……ありがとうございます、ライナル先輩」
ライナルは、井戸の縁の、自分の指の腹で、石の冷たさを、軽く、確かめた。
「だが、お前、今、一番、何を、思ってる」
「……一人では、絶対に、解けない、問題が、ある」
ライナルは、しばらく、沈黙してから、頷いた。
「そうだな」
「だから、賢者だけが、いる、世界では、ない、んだ」
「……はい」
ライナルは、井戸の縁の、空のカップを、もう一度、軽く、押さえた。
「お前、卒業まで、まだ、二年、ある」
「俺は、結月の末で、卒業だ」
「お前と、学院で、すれ違う期間は、もう、長くない」
「……はい、先輩」
ライナルは、続けた。
「もし、お前が、南へ、行くなら、ベルジアを、通れ」
「俺の家族に、手紙を、書いておく」
「ベルジアの、麦の畑の脇の、宿駅に、俺の母の従妹が、いる」
「手紙を、見せれば、一夜の宿は、貸してくれる」
私は、ライナル先輩の方を、見た。
「……南へ、行く、と、まだ、決めていません」
「そうだろうな」
「だが、お前は、おそらく、行く」
「……ライナル先輩」
「俺は、お前を、見てきた」
「お前は、一人では、絶対に、解けない、問題に、出会った」
「お前は、その問題を、一人で、抱えて、学院に、残る、男じゃ、ない」
私は、井戸の縁の、自分の指の腹で、石の冷たさを、確かめた。
石は、晩秋の朝の冷気で、わずかに、湿っていた。
「……まだ、決めていません」
「それでいい」
「決める時に、ベルジアを、思い出せ」
「……はい」
ライナル先輩は、井戸の縁の、空のカップを、自分の手に、取った。
カップを、井戸の水で、満たした。
ひとくち、飲んだ。
それから、カップを、私の方に、差し出した。
私は、カップを、受け取った。
井戸の水を、ひとくち、飲んだ。
晩秋の朝の井戸の水は、虹月の初旬よりも、わずかに、冷たかった。
私は、ライナル先輩に、カップを、返した。
ライナル先輩は、カップを、井戸の縁に、戻した。
「戻ろう」
「……はい」
8名は、村の客間で、最後の荷造りを、した。
旅の鞄の口を、ひとつずつ、確かめた。
ヴァルニエ教授が、村長に、礼を、述べた。
村長は、深く、礼を、返した。
「……またの、お越しを」
「おそらく、霜月の、半ばに、もう一度、参ります」
「……承知しました、教授」
馬車は、霜月の初旬の、薄い陽の下で、サヴリーニュ村を、後にした。
東街道を、登った。
午前の鐘の刻に、丘陵地帯の入口を、抜けた。
午後の鐘の刻に、ヴァル川支流の橋を、渡った。
夜の鐘の刻に、街道筋の宿駅に、入った。
宿駅の床は、行きの五日前と、同じ場所で、わずかに、軋んだ。
私は、寝床の上に、座った。
旅の鞄の中の麻布の包みを、寝床の枕の下に、移した。
ろうそくの炎を、消す前に、私は、新しい実験ノートを、開いた。
新しい頁を、開いた。
頁の上に、私は、書いた。
祠の中央の、青い気は、薄くなっていた。
完全には、消えなかった。
だが、消えていなくても、眠りは、戻った。
ノアンは、六。
ファルナは、保たれて、ある。
モルテは、まだ、読めない。
麻布の三枚目を、今夜、ふたたび、開く。
ペンを、止めた。
指先は、まだ、冷えていた。
陣の中央で、冷えた指先は、村に降りても、夜になっても、まだ、戻っていなかった。
冷えの底の温度は、焼けたノートの夜の、煤の温度と、同じだった。
私は、内側で、確かめた。
「私は、銘文を、読めた」
「だが、銘文を、読めただけでは、封印は、できなかった」
「ジルが、線を、引いた」
「テレーズ先輩が、形を、保った」
「モローニュ老師が、眠らせた」
「ヴァサール教官が、放電を、押さえた」
「ロッタ老師が、物質を、見極めた」
「ライナル先輩が、跳躍を、削った」
「ヴァルニエ教授が、矢印を、引いた」
「七つの手が、揃って、初めて、封印は、成立した」
「私の手は、その、八つ目だった」
祖父の言葉は、今夜、私に、繋がった。
繋いだのは、私一人ではなかった。
七つの手が、揃って、初めて、繋がった。
南へ。
そうかもしれない。
まだ、私は、自分の答えを、聞いていない。
書き終えて、ペンを、置いた。
実験ノートを、閉じた。
旅の鞄の中の麻布の包みを、寝床の枕の下から、膝の上に、移した。
麻布の結び目を、ゆっくり、ほどいた。
羊皮紙の三枚目が、麻布の中で、横向きに、寝ていた。
四十六年前の、曽祖父エミールの筆跡。
肉筆の、やや右下がりの、小ぶりに密な、運び方。
私は、羊皮紙の三枚目を、麻布の中から、ゆっくり、取り出した。
両手で、胸の前に、抱えた。
「……開いた」
声には、出さなかった。
内側で、一度だけ、確かめた。
ろうそくを、消した。
宿駅の客間の闇の中で、私は、目を、閉じた。
私の膝の上の、羊皮紙の三枚目は、闇の中で、私の体温と、わずかに、同じ温度になり始めていた。
四十六年前の、曽祖父の手の温度と、今夜の、私の手の温度が、麻布の中で、ひとつになる、ということだった。
夜の街道筋の、虫の声は、行きの五日前と、ほぼ同じ高さで、続いていた。
ただ、今夜は、虫の声の合間の、低い別の音が、わずかに、聞こえなくなっていた。
その別の音が、何の音だったのかも、私には、まだ、分からなかった。
私は、虫の声を、ひとつずつ、数えながら、眠りに、入った。




