第15章 第2話「井戸の、二つの杯」
神月初旬の二日目の昼の鐘三つは、賢窓塔の鐘の塔から、馬車回し場の縁石の上に薄く降りてきた。
私はアルセリア街道の終点で、馬車を降りた。
学府丘の坂を、ゆっくり上った。
旅装の鞄の革の帯は、肩の同じ位置にまた軽く食い込んだ。
賢窓塔の寮の、四階の自室の戸をひらいた。
窓辺で、マチューがペンを握ったまま振り返った。
寝間着ではなく、午後の制服を着ていた。
机の上には、書きかけの便箋が一枚置かれていた。
「で、で、で」
「戻ってきたんだな」
私は旅装の鞄を、机の脇に置いた。
「……いえ、マチュー」
「お別れに、戻りました」
マチューはペンを置いた。
便箋の上に、わずかに青いインクのしずくが落ちた。
「えっ」
マチューはそれからしばらく、私を見つめた。
口の端は、笑いの形を作りかけて、すぐに戻った。
「……そっか」
「そっか」
「お前、ほんとに、行くんだな」
「でも、お前、生きて、行くなら、いいんだ」
私は内側で確かめた。
マチューは、出迎えの言葉も別れの言葉も、同じ口癖の最後の一語だけを変えて置いていた。
「ありがとう、マチュー」
「明日、教授に、休学届けを、出します」
「五日後の朝に、ここを、出ます」
マチューは、頷いた。
「で、で、お前の机は」
「俺が、しばらく、預かる」
「……はい、マチュー」
神月初旬の三日目の朝の鐘八つは、賢窓塔の主任教授室の扉の手前まで、低く届いた。
私は扉を軽くたたいた。
「テオ・ヴァルメールです」
「入りなさい」
ヴァルニエ教授は、机の向こうで書面に目を落としていた。
私が入ると、書面を机の脇に置いて、頭を上げた。
私は机の手前で、父アンリの革の包みを、両手で机の上に置いた。
「……父からの、書面です」
「学院長宛と、教授宛の、二通です」
私はそれから、革の包みの結びを解かずに、自分の言葉で伝えた。
「私は、休学届けを、出します」
「神月十五日の翌朝、リューヴェルを、出ます」
「南へ、向かいます」
教授は、革の包みの結び目に、手を置いた。
そして、結び目を解かずに、しばらく私を見つめた。
「……君は、行くんだな」
「……はい、ヴァルニエ教授」
教授は頷いた。
そして、机の上の革の包みを、両手で軽く押した。
押した手は、すぐに引いた。
「今、君に、ひとつだけ、伝えておく」
教授の声は、いつもの講義の時の声よりも、わずかに低かった。
「神月十五日生まれは、過去千年で、ほとんど、例がない」
私は、内側で、その語を、もう一度、追った。
過去千年で——ほとんど。
「ほとんど」というのは、「まったく」ではない。
完全に、ゼロでは、ないのか。
過去千年に、もう一人くらい、いたのか。
「……それは、何を、意味するのですか」
教授は、机の縁の木の継ぎ目の線を、しばらく見ていた。
そして、机の縁から視線を、私の顔に戻した。
「……分からない」
「学院の口伝で、私は、その語を、教わった」
「だが、その意味は、教わっていない」
「私には、分からない」
「だが、君が、行くなら、その意味を、いつか、君が、見つけてくるかもしれない」
私は、内側で、確かめた。
教授は、答えを、持っていない。
教授は、答えを、持っていないことを、自分で、認めて、置いた。
「分からない」を、口に、出した。
私は、その言葉を、忘れない。
机の上の片隅には、私が見覚えのある一束の写しが、まだ置かれていた。
学院の地下書庫から上がってきた、古文書の写し。
私が半年以上前に、ここで初めて開いた束だった。
教授は、写しの束に軽く視線を移した。
「この束は、ここに、置いておく」
「君が、戻ってきた時に、続きを、解く時が、来るだろう」
「私は、そう、思っている」
「……はい、ヴァルニエ教授」
教授は、机の上の革の包みの結び目を、ようやく解き始めた。
私は教授室を退室した。
その夜の鐘八つは、賢窓塔の中庭の、井戸の上の瓦屋根の縁を、薄く撫でて通り過ぎた。
中庭の井戸端の縁石の上に、ふたつの木の杯が置かれていた。
両方の杯の中には、井戸の新しく汲まれた水が満たされていた。
杯の口の縁の高さは、揃っていた。
縁石の東の端に、ライナル先輩が座っていた。
夜気の中で、薄手の上着の襟を立てていた。
「で、お前」
「本当に、行くのか」
私は井戸端のライナルの前まで歩いて、立ち止まった。
「……はい」
ライナルは頷いた。
頷きは、いつもの講義の後の井戸端の頷きと、同じ角度だった。
「じゃあ、これだ」
ライナルは、上着の内側の内ポケットから、薄い革表紙の手帳を取り出した。
手帳は、私の手のひらの半分ほどの大きさだった。
革の表紙は使い込まれて、角がわずかに丸まっていた。
「俺の生家への、紹介状だ」
「ベルジアの、北西の、辺境の、雪深い、村だ」
「俺の親父の名前と、母親の名前と、何の家か、書いてある」
「もし、ベルジアで、雪に、捕まったら、寄れ」
私は手帳を、両手で受け取った。
革の表紙の温度は、ライナルの内ポケットの温度のまま、残っていた。
「……ありがとうございます、ライナル先輩」
ライナルは、片方の眉を、わずかに上げた。
「……ライナル、で、いい」
私は頷いた。
「……ありがとうございます、ライナル」
ライナルは、井戸端の縁石の東の端から、わずかに腰をずらした。
私は、その隣の空いた縁石の上に座った。
縁石の石の冷たさが、寝間着の上の薄手の上着ひとつぶんを通して、伝わってきた。
縁石の上のふたつの杯の、片方をライナルが取った。
もう片方を、私が取った。
二人でひとつずつ、井戸の水を飲んだ。
ライナルは杯の縁を、ゆっくり口から離した。
「俺は、お前が、行く、と、知っている」
私は井戸の水を、口の中で少しの間置いてから、飲み込んだ。
「……ライナル」
「私も、覚えています」
ライナルは頷いた。
「……そういうこともある」
神月初旬の三日目の翌朝の鐘六つから、神月初旬の七日目の朝の鐘七つまで、私は五日間、学府丘の練習場で兄マルクの前に立った。
学府丘の練習場は、賢窓塔の北側の、低い坂の下の平らな砂地だった。
朝の早い時間は、まだ剣冠館の本科生たちが来る前の、空いた時間だった。
マルクは家庭の口調のまま、最初の朝に言った。
「俺は、剣冠館の生徒じゃない」
「だから、お前に、剣の、奥のことは、教えない」
「奥のことは、剣冠館の、ちゃんとした先生に、習え」
「俺が、お前に、見せるのは、最初の、三つだけだ」
私は頷いた。
「……はい、お兄さま」
マルクは、貸し剣の一本を、私に握らせた。
剣の柄の革は、何人もの手で使い込まれて、艶を失っていた。
剣の重さは、私の腕の片方の力でぎりぎり支えられる重さだった。
「握れ」
私は、剣の柄を両手で握った。
腕は、すぐに震え始めた。
剣の重さは、腕の片方では支えられなかった。
「降ろせ」
私は剣を、頭の上からまっすぐ下へ振り下ろした。
剣先は、腰で止めるはずが、勢いで膝の手前まで流れた。
「ちがう」
「剣先を、見るな」
「腰の、骨の、内側で、止めろ」
私はもう一度、剣を上げて降ろした。
今度は、膝には行かなかった。
代わりに、剣先は、腰よりもずっと上で止まった。
腕が、急に固まってしまった。
「膝、緩めろ」
「力、抜け」
マルクは、私の左の膝の裏に、自分の人差し指を軽く当てた。
膝の関節が、わずかにゆるんだ。
剣の重さは、その瞬間に、腕から腰へ移った。
剣先は、腰の高さのわずかに上で、止まるようになった。
マルクは、五十回繰り返させた。
五十回の最後の頃には、私の左手の肘の内側の皮が、薄く剥けていた。
剣の柄の革は、最初よりもわずかに、汗で艶を戻していた。
「……まあ、そんなもんだ」
二日目は、戻しを加えた。
降ろしよりも、ずっと難しかった。
剣の重さが、戻しの時に腕の別の場所にかかった。
三日目は、三つをゆっくり繋いだ。
四日目は、速度を上げた。
五日目の朝、私は五十回を、止まらずに続けることができた。
五日目の最後の繰り返しが終わった時、マルクは、私の左手の肘の皮の、わずかに剥けた場所に目を落とした。
「お前」
「続けろ」
「毎朝、五十回」
「それだけ、続けたら、剣は、お前の、八つ目の手、になる」
私は、剣の柄を両手で握ったまま、息を深く吸って吐いた。
兄は、八つ目の手という語を、知らずに、いま、置いた。
兄は、私が現場で銘文の前で、自分が八つ目の手だ、と内側で確かめたことを、知らない。
だが、兄はその語を知らずに、ここに置いた。
「……はい、お兄さま」
「毎朝、五十回。続けます」
神月初旬の七日目の夜の鐘八つは、賢窓塔の三階の寮の自習室の、窓の縁を、低く撫でて通り過ぎた。
自習室の奥の机に、ジルがひとりで座っていた。
机の上には、書架から借りた工炉院の鍛冶の手引きが、一冊開かれていた。
「……で、お前」
「行くんだな」
「……はい、ジル」
ジルは頁をめくらずに、本の上で両手の指を軽く組んだ。
「俺は」
「ここに、残る」
「当たり前だが、家業の鍛冶屋を、継ぐ」
「お前が、もし、戻ってきたら」
「俺の店に、寄れ」
私は、ジルの机の前で頷いた。
「……必ず、寄ります」
ジルは頁をめくらないままで、私の顔を見ずに続けた。
「お前の、解いた、銘文のことは」
「俺の店の、炉の、奥の壁に、書いておく」
「お前と、俺が、繋がる場所は、そこに、ある」
「……ありがとう、ジル」
ジルは頁をめくった。
頁の音は、自習室の静かな空気の中で、はっきり聞こえた。
私は自習室を出て、隣の小さな祈祷の間の戸をひらいた。
祈祷の間の奥の低い椅子に、イリヤが座っていた。
膝の上には、聖典の写しがひらかれていた。
ろうそくは、一本だけ灯っていた。
「……テオ」
「あなたが、聞いた、ありがとう、を、忘れずに」
「それは、あなたの、ものです」
私は、祈祷の間の入り口の敷居の手前で、立っていた。
入らずに、戸をひらいたままで聞いた。
「……はい、イリヤ」
「あなたの、神の謙抑も、忘れずに、持ちます」
イリヤは頷いた。
頷きの後、聖典の写しの頁の続きに、視線を戻した。
「私は、ここで、いつも通り、聞いています」
私は頷いた。
「……はい、イリヤ」
私は、祈祷の間の戸を、静かに閉じた。
神月初旬の九日目の朝の鐘六つが、賢窓塔の正門の前の、石畳の縁の溝の中で薄く響いた。
正門の手前の石畳の上に、五人が立っていた。
マチュー、ジル、イリヤ、ライナル、テレーズ先輩。
ヴァサール教官の姿はなかった。
教官は、前の晩に訓練科の宿直に入っていた。
私は、ヴァサールの仮眠を起こしてまで別れを告げない、と決めていた。
私は、正門の手前で五人の前に立った。
肩には、革の帯の旅装の鞄。
帯の食い込む位置は、最初の朝と同じだった。
私は、深く頭を下げた。
「……行ってきます」
マチューが両手を軽く振った。
ジルは頷いた。
イリヤは、両手を胸の前で軽く合わせた。
ライナルは、片方の眉をわずかに上げた。
テレーズ先輩は、わたくしの肩の革の帯の食い込み方を、目で確かめた。
「では、参ります」
私は振り返らずに、馬車回し場のほうへ歩き始めた。
学府丘の坂の下の馬車回し場までの坂の道は、来た時と同じ道だった。
ただ、行く方向が逆だった。
坂の途中で、私は初めて、内側で、確かめた。
ライナルの、薄い、革表紙の手帳は、旅装の鞄の、二つ目の隔の中に、入れた。
ヴァルニエ教授の、過去千年で、ほとんど、という語は、私の内側で、まだ、答えを、待っていた。
ジルの、家業の鍛冶屋は、ここに、残る。
イリヤの、神の謙抑は、私の内側で、神々の、弱りと、並んで、座っていた。




