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第9章 第3話「隠すのが、悪い」

鐘五つが、賢窓塔の中で、低く、鳴った。


起床の鐘。


私は、机に、突っ伏したまま、目を、覚ました。


寝ていなかった。


机に、突っ伏した姿勢のまま、数時間、目を、閉じていた。


寝台の方で、布のすれる音が、聞こえた。


マチューが、起き上がる音。


栗色の髪が、寝台の縁の上に、覗いた。


マチューの目が、私の方を、見た。


息を、呑む音が、聞こえた。


「お前、寝てないのか」


「……ええ」


「昨夜、何が、あったんだ」


「……今は、まだ、話せません」


マチューは、それ以上、聞かなかった。


私の煤の残るローブと、私の青白い顔を、もう一度、見た。


それから、寝台から、足を、下ろした。


「……了解した」


短く、応えた。


私は、机から、立ち上がった。


膝が、まだ、わずかに、震えていた。


机の上の、書きかけのアネットへの手紙を、見た。


封のないまま、五行。


そのまま、置いた。


寮の洗面所へ、向かった。


廊下を、歩いた。


朝の鐘五つの後の廊下は、まだ、しんとしていた。


他の寮生たちは、まだ、寝床にいた。


洗面所の鏡の前に、立った。


鏡に映る、私の顔は、青白かった。


目の下に、薄い、隈。


頬と、額に、煤が、薄く、残っていた。


ローブの胸元と、袖が、黒く、煤けていた。


焦げた紙片の、匂いが、ローブから、立っていた。


水を、両手で、掬った。


顔に、掛けた。


煤が、洗い落ちた。


水が、洗面台で、黒く、濁った。


二度、掬って、二度、洗った。


三度目で、水が、ほぼ、透明に、戻った。


ローブを、脱いだ。


煤の匂いと、焦げた紙片の匂いが、立った。


新しいローブを、寮の備え付けの戸棚から、出した。


着替えた。


右手の手のひらの、薄い赤みは、ほとんど、消えていた。


軽い火傷の跡だった。


二〇二号室に、戻った。


マチューは、自分の着替えを、終えていた。


「朝食、行くか」


「……いえ、まだ、行けません」


「そうか」


「鐘六つに、教授室に、行きます」


「……教授室か」


マチューは、それで、了解した。


それ以上、聞かなかった。


「じゃあ、俺は、先に、食堂、行くな」


「ええ」


マチューが、出て行った後、私は、しばらく、机の前に、座っていた。


机の上の、書きかけのアネットへの手紙。


煤の匂いが、私の体から、薄れていく時間。


新しいローブの、糊の匂い。


鐘六つが、賢窓塔の中で、低く、鳴った。


朝食と、講義開始の、鐘。


私は、立ち上がった。


寮を、出た。


中央広場には、新入生たちが、三系統に、分かれて、移動していた。


朝の風景。


四週間、毎朝、見てきた風景。


だが、今朝は、違っていた。


賢者専攻の同期、数名が、私に、気付いて、目を、伏せた。


ある者は、私から、目を、逸らした。


ある者は、隣の同期と、囁き合った。


──もう、知れ渡っているのか。


そう、内側で、確認した。


賢窓塔の警備魔法陣が、夜半過ぎに、反応した。


その信号は、剣冠館の警備詰所と、賢窓塔の主任教授室に、届いた。


朝までの数時間で、賢窓塔の中の、誰かが、誰かに、伝えた。


そして、朝食の前に、新入生の何人かは、それを、聞いた。


私は、賢窓塔の本塔の入口を、通った。


螺旋階段を、二階まで、登った。


四週間、毎朝、登っていた階段。


今朝は、段数を、数えなかった。


数える余裕は、なかった。


賢者専攻棟の廊下を、教授室の方へ、進んだ。


教授室の扉の前で、立ち止まった。


息を、整えた。


──頷きかねていた。


──ままだったのに、踏み出した。


そう、内側で、確認した。


私は、扉を、軽く、叩いた。


「入りなさい」


ヴァルニエ教授の声が、扉の向こうから、返ってきた。


扉を、開けた。


教授室は、約六メートル四方だった。


北向きの窓から、朝の光が、柔らかく、入っていた。


壁一面の、書架。


書架の本は、革表紙の、古いものから、新しい紙の表紙のものまで、混じっていた。


中央に、大きな机。


机の対面に、椅子が、二脚。


ヴァルニエ教授は、机の向こうに、座っていた。


白髪混じりの髪が、寝起きとは違って、整えられていた。


ローブも、正装の、深い藍色だった。


机の横の椅子に、ヴァサール教官が、座っていた。


剣冠館の実戦着のまま。


腰に、磨かれた短剣。


姿勢を、正していた。


私が、入ると、教官は、私の目を、見た。


軽く、頷いた。


「ヴァルメール君、座りなさい」


ヴァルニエ教授が、机の対面の、椅子を、指した。


私は、椅子に、座った。


教授は、机の上で、両手を、組んだ。


「ヴァサール教官から、現場の、確認の、報告は、受けた」


教官の方へ、視線を、向けた。


「ヴァサール教官、簡潔に、頼む」


「了解しました」


教官は、姿勢を、正したまま、応えた。


「実験室四号は、半壊」


「実験卓は、無事」


「壁の棚の、容器の一部が、熱で、ひび割れ」


「換気口の周辺が、煤で、黒くなっている」


「実験ノートは、ほぼ、完全に、焼失」


短く、事実のみだった。


私は、両手を、膝の上に、置いて、頷いた。


教授は、私の方へ、視線を、戻した。


「ヴァルメール君」


「……はい」


「昨夜の、実験の、目的は、何だった」


私は、しばらく、沈黙した。


応えるのに、勇気が、要った。


「……父の、書架にあった、書物に、燃焼の、加速の、記述があり、魔法で、再現できるか、試したかった、です」


教授の白髪混じりの眉が、わずかに、上がった。


だが、教授は、追及しなかった。


「続けなさい」


短く、応えた。


私は、その短さに、わずかに、救われた。


私は、順を、追って、実験の手順を、報告した。


「燃えやすい、粒子の、集め方を、試みました」


「風魔法で、空間に、集めました」


「真理の眼で、密度を、確認しました」


「約二倍に、上げました」


「さらに、約三倍に、上げました」


「火の種を、紙片に、移しました」


「燃焼の速度が、私の、予想を、超えました」


「消火を、試みましたが、両手の、同時操作が、難しかったです」


「戸口の、水甕と、砂袋で、半分まで、消しました」


「そこで、ヴァサール教官が、到着されました」


事実のみ、隠さず、報告した。


「酸素」という語は、出さなかった。


教授は、私の報告を、聞き終わった。


机の上で、両手を、組んだまま、しばらく、沈黙した。


「事前申請は、しなかった、な」


「……はい」


「教員の立ち会いも、求めなかった、な」


「……はい」


「それは、なぜか」


私は、しばらく、沈黙した。


応えに、整理を、要した。


「……夜間の自由使用が、認められていたから、です」


「規則を、読んだか」


「……読みました」


「『推奨』の文字も、読んだか」


「……読みました」


「だが、推奨は、必須ではないと、判断したか」


「……はい」


私は、自分の傲慢を、口に、出した。


教授は、それを、淡々と、受け止めた。


机の上の、自分の手を、見た。


しばらく、沈黙した。


約十秒の、沈黙。


それから、ゆっくり、顔を、上げた。


ヴァサール教官の方へ、目で、合図した。


ヴァサール教官は、姿勢を、正したまま、私の目を、見た。


「ヴァルメール」


「……はい」


「君の、理屈は、正しい」


私は、わずかに、驚いた。


教官は、続けた。


「だが、魔法は、理屈だけでは、動かない」


教官は、もう一度、続けた。


「君は、まだ、魔法を、君の世界の、理屈で、見ている」


私は、両手を、膝の上で、握った。


「……はい」


短く、応えた。


反論は、しなかった。


──前世の、世界の、理屈で、見ていた。


そう、内側で、認めた。


教官は、机の上で、両手を、組んだ。


口調が、わずかに、柔らかくなった。


「俺も、君と、同じ歳の頃に、似たような、失敗を、した」


私は、教官の方を、見た。


「北海ノルディアの、境界警備の、時代だ」


教官は、机の上の、自分の手を、見ながら、話した。


「夜間、哨戒に、出て、地形を、自分の知識で、判断して、進んだ」


「霧の中で、味方を、見失った」


「先輩に、無線で、呼ばれて、ようやく、戻れた」


「ただ、現場は、戦場だから、失敗は、命に、関わった」


「学院の、実験室で、失敗できるのは、君の、幸運だ」


教官は、私の方へ、視線を、戻した。


「剣も、魔法も、扱うのは、生身の、人間だ」


「だから、止まる、時を、知れ」


「手を、出す前に、引く時を、決めておけ」


私は、深く、頷いた。


教官の若い頃の失敗の話は、私の孤独感を、わずかに、和らげた。


私一人ではない。


教官にも、同じ歳の頃が、あった。


その歳の頃に、似たような失敗を、した。


ただ、教官の場合は、戦場だった。


ヴァルニエ教授は、ヴァサール教官に、短く、礼を、述べた。


「ヴァサール教官、ありがとう」


それから、私の方へ、向き直った。


「ヴァルメール君」


「……はい」


「処分を、伝える」


「第一、実験室四号の、修繕費は、学院が、負担する」


私は、わずかに、息を、呑んだ。


家への請求は、ない。


──マルクが、心配する、額には、ならない。


──父アンリも、家計の負担で、苦しむことは、ない。


そう、内側で、確認した。


「第二、君が、賢者専攻実験室を、夜間に、単独で、使用することを、三ヶ月間、禁じる」


「第三、保護観察」


「今後、三ヶ月、私が、君の、魔法実験を、事前に、確認する」


「第四、君の、両親に、私から、報告書を、送る」


私は、息を、呑んだ。


「ただし、報告書は、事実のみを、書く」


教授は、続けた。


「処分の、内容と、現場の、確認の結果のみ」


「君が、何を、考えて、実験したかは、書かない」


「それは、君が、自分で、両親に、書きなさい」


私は、両手を、膝の上で、強く、握った。


「……はい」


短く、応えた。


──自分から、父アンリに、書く、と、決めていた。


──だが、教授から、命じられて、書くのは、別だ。


そう、内側で、感じた。


教授の言葉は、私の決意を、否定するものではなかった。


ただ、命じる、という形を、取った。


それで、私の責任の重みが、わずかに、増した。


「以上だ」


教授は、椅子の背に、もたれた。


「昼食までに、自分の寮に、戻りなさい」


「今日の、講義は、出席を、免除する」


「……ありがとうございます」


私は、立ち上がった。


ヴァサール教官も、立ち上がった。


「ヴァルメール」


教官が、私を、呼んだ。


「……はい」


「昨夜、寝てないだろ」


「……はい」


「昼間、寝ろ」


「……はい」


「眠れない、ことに、罪悪感を、持つな」


教官は、短く、頷いた。


私も、頷いた。


教授室を、出た。


賢窓塔の螺旋階段を、下りた。


中央広場を、横切った。


寮区の方へ、向かった。


朝食を、まだ、食べていなかった。


寮の食堂へ、向かった。


朝の食堂は、新入生で、賑わっていた。


私が、戸口を、入ると、数人が、目を、伏せた。


ジルが、剣冠館の同期、二人と、別のテーブルに、座っていた。


ジルの目が、私を、捉えた。


だが、ジルは、すぐには、立ち上がらなかった。


私は、パンと、卵と、葡萄酒の水割りを、盆に、載せた。


空いている席を、探した。


マチューは、まだ、食堂にいた。


私の方へ、手を、上げた。


私は、マチューの隣の席に、座った。


「お前、生きてたか」


マチューは、冗談めかして、言った。


だが、口調の奥に、本気の、安堵が、混じっていた。


「……ええ」


私は、短く、応えた。


「……ええ、すまない、マチュー」


私は、続けた。


「俺に、謝るな」


マチューは、笑った。


「俺の、隣に、座れ」


「今日は、パンが、固い」


私は、マチューの隣で、固いパンを、噛んだ。


しばらく、食べた。


マチューと、私の間で、会話は、なかった。


マチューの人懐っこさは、沈黙にも、馴染んだ。


私の孤独感が、わずかに、緩んだ。


そのとき、別のテーブルから、ジルが、立ち上がった。


剣冠館の同期、二人に、何か、短く、告げた。


それから、私のテーブルへ、近づいた。


少し、迷うような歩き方で、近づき、私の前で、立ち止まった。


「ヴァルメール、お前」


「……ジル」


「昨夜の、話、聞いた」


「……ええ」


ジルは、両手を、腰の脇で、握った。


職人の手だった。


爪の縁に、わずかに、鍛冶の燻し跡が、残っていた。


「俺の系統だったら、まず、工房長に、聞きに来る」


「素材も、技術も、まず、相談する」


「お前ら、賢者は、自分で全部、やろうとしすぎる」


私は、ジルの言葉を、しばらく、噛んだ。


「……確かに、相談、しませんでした」


ジルの方が、年上だった。


私は、敬語で、応えた。


「だろ」


ジルは、短く、応えた。


「で、生きてんなら、いいんだ」


「飯食え」


そう言って、ジルは、自分のテーブルに、戻った。


短い、対話だった。


入学初週の、初対面のときの、距離感から、わずかに、縮まった瞬間だった。


マチューが、固いパンを、噛みながら、私に、囁いた。


「ジル、お前のこと、心配してたんだぞ」


「……そうですか」


「鍛冶屋三代目だ」


「ぶっきらぼうだけど、悪い奴じゃ、ない」


「……ええ」


食事を、終えた。


マチューと、私は、食堂を、出た。


廊下で、ニコ・モロワが、私を、呼び止めた。


導師専攻のローブの、新入生。


近所の幼馴染。


「テオ」


「……ニコ」


「怪我は、なかったか」


「……ええ。ありがとう、ニコ」


「良かった」


ニコは、それで、頷いて、去った。


短い、心配。


四週間前の出立の朝、中央広場で別れたときの、ニコの優しさと、同じものだった。


マチューは、自習室に、行く、と言った。


「お前、寝ろよ」


「……ええ」


「じゃあな」


マチューは、笑って、寮を、出た。


二〇二号室の戸を、開けた。


机の上に、封のついた手紙が、置かれていた。


封蝋に、ヴァルメール家の紋章が、押されていた。


葡萄の蔓と、書物の表紙の、組み合わせ。


私は、机の前に、座った。


手紙を、取った。


封を、開いた。


筆跡は、マルクのものだった。


短かった。


「テオ。


話、聞いた。


失敗は、悪くない。


隠すのが、悪い。


ちゃんと、書いておけ。


マルク」


私は、手紙を、もう一度、読んだ。


「失敗は、悪くない」


「隠すのが、悪い」


二行目と、三行目が、内側で、響いた。


「ちゃんと、書いておけ」


三行目の末が、ヴァルニエ教授の「自分で、両親に、書きなさい」と、重なった。


マルクは、知っていた。


教授の報告書は、まだ、家には届いていない。


マルクは、独自に、ヴァサール教官か、賢窓塔の知り合いから、聞いたのだろう。


応用科の二年は、賢窓塔の中で、情報を、共有する繋がりが、ある。


マチューが、戻る気配は、なかった。


寮の二階の廊下は、しんとしていた。


私は、机の引き出しを、開けた。


新しい、白紙の冊子を、出した。


入学のときに、書店で、複数買ったうちの、二冊目。


表紙は、深い藍色。


燃え尽きた、旧ノートと、同じ色。


書店で、同じ色を、二冊、選んだ。


私は、新しい冊子を、机の上に、置いた。


両手を、その上に、軽く、置いた。


目を、閉じた。


《完全記憶》の声が、戻ってきた。


──頭の中に、ある。


──全部、覚えている。


燃え尽きた、旧ノートの、全ページが、私の内側で、鮮明に、再生された。


初めて「水の渦」を書いた日のページ。


化学実験失敗の、家族の叱責の記録。


神月の前夜祭の、街路の観察。


神託の儀の、ソフォンの3度の途切れ。


六属性の初体験の、わくわくの五箇所。


リューヴェル到着の、双子尖塔の初見。


井戸端30滴と、神託の途切れの告白。


章末独白の、最終行「私は、まだ、頷きかねている」。


六つの未解決事項のページ。


「複合魔法は、学院で」の一行。


全部、あった。


私は、目を、開けた。


新しい白紙の冊子を、見た。


藍色の表紙が、机の上で、静かだった。


「書き写すこと、も、できる」


そう、内側で、確認した。


「全部、覚えているから、一字一句、再現できる」


だが、決めた。


「書き写さない」


決断の根拠を、内側で、整理した。


──書き写すことは、過去の、私を、温存することだ。


──温存して、何になる。


──燃えた、けれども、頭の中には、ある、というだけで、十分だ。


──今夜の、失敗を、最初のページに、書く。


──過去の、章末独白を、書き写すのではなく、今夜の、章末独白を、新しく、書く。


マルクの手紙を、もう一度、見た。


「ちゃんと、書いておけ」


「過去を、再現せよ」ではない、と、内側で、確認した。


「今夜の、失敗を、隠さずに、書け」だ。


そう、読んだ。


そして、もう一つの、重い、自覚を、抱えた。


──忘却の、不能は、書き写さない、という選択を、より重くする。


──書き写さなければ、忘れる、わけでも、ない。


──ずっと、頭の中に、残る。


──過去の、私の章末独白「私は、まだ、頷きかねている」が、頭の中で、ずっと、響き続ける。


──書き写さないことは、それを、消すことでは、ない。


──ただ、新しい紙に、書かない、というだけだ。


その自覚を、抱えたまま、私は、新しい冊子の、最初のページを、開いた。


筆を、取った。


少し、考えた。


書き始めた。


「入学から、約一ヶ月。岳月初旬。


最初の、失敗」


表題ではない。


ただの、見出しだった。


私は、その下に、続けた。


「燃えやすい、粒子を、空間に、集めた」


「風魔法で、約三倍の、濃度に、上げた」


「火種を、紙片に、移した」


「燃焼速度が、私の、予想を、超えた」


「消火を、試みたが、両手の、同時操作が、難しかった」


「水甕と、砂袋で、半分まで、消した」


「残りは、ヴァサール教官が、消した」


事実のみ。


隠さず。


最初のページの、最後に、自分の自覚を、書いた。


「事前申請を、しなかった。教員の立ち会いも、求めなかった」


「『推奨』を、必須では、ないと、判断した」


「自分の、真理の眼を、過信した」


「戸口の、水甕と、砂袋を、信頼していなかった」


「両手の、同時操作の、限界を、知らなかった」


「前世の、博士課程の、実験前の、三点チェックを、知っていたのに、省略した」


筆を、置いた。


新しい白紙のページを、開いた。


表題は、付けなかった。


少し、考えた。


書いた。


「私は、頷きかねていた」


「ままだったのに、踏み出した」


「そのことが、悪かった」


「経験を、待たずに、理屈で、急いだ」


「前世の、知識は、思考の、道具に、過ぎない」


「万能薬では、なかった」


筆を、置いた。


ページの上で、墨が、薄く、乾いていった。


私は、しばらく、何も、書かなかった。


呼吸を、整えた。


もう一度、筆を、取った。


三行、書き足した。


「真理の眼で、見た、分子の、比率は、正確だった」


「集めた、ことは、できた」


「間違ったのは、その先の、見積もりだった」


筆を、置いた。


しばらく、ページを、見た。


それから、もう一度、筆を、取った。


二行、書き足した。


「だが、魔法は、科学だ、という、信念は、まだ、私の中に、ある」


「否定されたのは、信念ではなく、運用だった」


筆を、置いた。


私は、立ち上がった。


机の引き出しから、別の、白紙の、一枚の紙片を、出した。


実験ノートではない、便箋。


書店で、入学のときに、買ったもの。


母エリザベートが、リューヴェルへの出立の前夜に、私の麻袋に、入れてくれた便箋。


便箋を、机の上に、置いた。


筆を、取った。


少し、考えた。


書き始めた。


「父上。


リューヴェルで、最初の、失敗を、しました」


一行で、止めた。


続きは、書かなかった。


──続きは、明日、書く。


そう、内側で、決めた。


今日は、もう、書けなかった。


筆を、置いた。


便箋を、机の上に、置いた。


書きかけのアネットへの手紙が、その隣に、あった。


封のないまま、五行。


書き始めの、父への手紙が、その隣に、あった。


封のないまま、一行。


机の上で、書きかけが、二つ、並んだ。


新しい実験ノートは、机の中央に、開かれたままだった。


最初のページに、失敗の記録。


二ページ目に、章末独白の、本文六行。


その下に、信念の維持の、二行。


私は、椅子から、立ち上がった。


窓辺に、進んだ。


岳月の早春の、昼前の、リューヴェル。


ヴァル川の、中州の、双子尖塔が、薄い霧の上に、浮いていた。


──双子尖塔は、そこに、ある。


──先輩の、井戸端も、そこに、ある。


──だが、ライナル先輩は、まだ、ベルジア方面。


──戻ってきたら、私は、何を、報告するか。


そう、内側で、問うた。


答えは、出なかった。


鐘十二つが、賢窓塔の中で、低く、鳴った。


正午の鐘。


学院の、昼食の時間。


マチューは、まだ、戻っていなかった。


私は、窓辺から、机に、戻った。


寝台には、まだ、横にならなかった。


机の前に、座ったまま、書きかけの父への手紙の、一行を、もう一度、見た。


「父上。リューヴェルで、最初の、失敗を、しました」

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