第9章 第2話「火が、走った」
私は、真理の眼で、半球状の空間の中を、もう一度、見た。
酸素の濃度は、約四割五分。
まだ、上げられる。
風魔法の出力を、わずかに、強めた。
両手の指の間に、空気の動きが、わずかに、強く、感じられた。
窒素分子と、水蒸気が、さらに、外へ、押し出されていった。
換気口からの、わずかな新規空気の流れも、抑え込み続けた。
約五分が、経った。
私は、半球状の空間の中を、見た。
──約五割。
──約五割五分。
──約六割。
そう、内側で、計測した。
通常の、約三倍。
──集まった。
そう、内側で、確認した。
──ありえない、けれども、ある。
そう、続けた。
二週間前の井戸端で、ライナル先輩の水球の循環を見たときに、内側で響いた同じ言葉。
歓喜の反復だった。
唇の端が、わずかに、緩んだ。
夜更けの実験室で、誰にも見られない笑みだった。
右手を、紙片の上に、かざした。
左手は、風魔法の維持に、使い続けた。
火の種詠唱を、低く、唱えた。
「火よ、灯れ」
右手の手のひらの先に、淡い橙色の点が、現れた。
蝋燭の火の、半分ほどの大きさ。
私は、その点を、紙片に、軽く、触れさせた。
紙片に、火が、移った。
ここまでは、四週間前の朝、初めて火属性を試したときと、同じ手順だった。
──同じ、手順。
──同じ、火種。
──だが、空間が、違う。
そう、内側で、確認した。
紙片の燃焼が、始まった。
予想は、約一秒。
実際は、約〇・三秒。
紙片は、私の予想を、超えて、燃えた。
燃焼の炎は、橙から、白っぽい黄色へ、急速に、明るくなった。
炎の大きさが、紙片の大きさを、超えた。
紙片の上で、燃えるのではなく、紙片を超えて、空間そのものに、炎が、広がった。
私は、咄嗟に、《魔法解析》を、走らせた。
━━ 燃焼速度:予想の、三倍以上。
━━ 炎の領域:紙片の、外へ。
→ 風魔法の、出力を、落とす。
→ 水魔法で、上から、抑える。
✗ 解析、追いつかない。
──集まりすぎた。
──手から、抜けた。
歓喜の反復が、内側で、別の形に、反転した。
読点で繋いだ歓喜は、消えた。
句点で切られた恐怖が、その跡に、立った。
炎は、酸素濃縮空間の、全体に、広がった。
実験卓の上の、半球状の領域が、一瞬で、白っぽい黄色に、染まった。
熱が、私の顔まで、届いた。
ローブの胸元の生地が、わずかに、縮んだ。
私は、後退した。
一歩。
二歩。
炎が、酸素の流れに乗って、実験卓の端へ、広がった。
実験卓の石は、燃えなかった。
耐火の石。
だが、卓の端の三十センチ向こうに、私は、麻袋ではない別の物を、置いていた。
実験ノート。
実験ノートが、卓の端で、白っぽい黄色に、包まれた。
表紙の藍色が、橙色に、溶けた。
頁が、めくれながら、燃えた。
最初のページから、奥のページへ、火が、走った。
章末独白のページが、燃えた。
「私は、まだ、頷きかねている」
その文字が、灰になった。
六つの未解決事項のページが、燃えた。
火、水、風、土、光、闇。
それぞれの問いが、灰になった。
「複合魔法は、学院で」のページが、燃えた。
その下の「まだ、試さない」「もう少し、待つ」の文字が、灰になった。
私は、ノートを、救おうとして、右手を、伸ばした。
だが、炎が、私の右手の前で、揺れた。
熱が、強かった。
私は、手を、引いた。
引いた手のひらの皮膚が、わずかに、赤らんでいた。
──燃えても、頭の中には、ある。
完全記憶の声が、内側の隅で、一瞬だけ、走った。
だが、今、その認識を、噛みしめる余裕は、なかった。
炎が、卓の上で、なお、暴れていた。
私は、その認識を、内側の隅に、押しやった。
──消火が、先。
そう、自分に、言い聞かせた。
私は、慌てて、左手の風魔法を、弱めた。
だが、酸素は、空間に、留まっていた。
風魔法を、弱めても、抜けなかった。
濃縮された酸素は、自分の重さで、半球状の空間に、留まり続けた。
燃焼は、続いた。
水の種詠唱を、低く、唱えた。
「水よ、来れ」
両手の手のひらに、水球が、現れた。
直径約十センチ。
私は、水球を、卓に、放った。
水球が、炎に、当たった。
炎の一部が、消えた。
蒸気が、立った。
だが、酸素の濃縮空間で、新しい炎が、別の場所に、生まれた。
水球の量が、足りなかった。
私は、もう一度、水球を、出そうとした。
だが、両手で同時に、風魔法の弱化と、水魔法の発動を、するのは、難しかった。
十歳の私の魔力量では、両手が、別々に、まとまった魔法を、出せなかった。
水球が、安定しなかった。
二度目の水球は、卓の上に、放たれる前に、私の手のひらで、崩れた。
水が、私のローブに、こぼれた。
──駄目だ。
──追いつかない。
──水じゃ、足りない。
──足りない。間に合わない。
そう、内側で、認めた。
私の視線が、戸口の方へ、走った。
戸口の脇に、消火用の水甕と、砂袋が、置かれていた。
「完全には、信頼していなかった」もの。
──水甕は、満杯か。
──砂袋は、新しいか。
──確かめなかった。
──だが、今、それしか、ない。
私は、戸口へ、駆けた。
三歩。
水甕の前に、立った。
両手で、水甕を、持ち上げた。
重い。
水位は、満杯だった。
私は、水甕を、両手で、抱えたまま、実験卓の方へ、戻った。
二歩。
水甕を、実験卓に、傾けた。
水が、卓の上に、ぶちまけられた。
水が、炎に、ぶつかった。
蒸気が、白く、立った。
炎の半分が、消えた。
実験卓の上が、水と、灰と、煤で、黒い泥のように、なった。
だが、まだ、炎が、残っていた。
卓の端で、残った酸素を喰らって、燃え続けていた。
私は、戸口へ、戻った。
砂袋を、両手で、持ち上げた。
砂袋は、思ったよりも、重かった。
軽そうに見えたのは、私の見方が、甘かったからだった。
私は、砂袋を、両手で、抱えたまま、実験卓へ、戻った。
砂袋の口を、解いた。
砂を、卓の上に、撒いた。
砂が、残った炎の上に、降り注いだ。
炎の、さらに半分が、消えた。
実験卓の上が、水と、灰と、煤と、砂で、覆われた。
だが、まだ、小さな炎が、卓の端で、揺れていた。
砂袋の中の砂は、もう、ほとんど、残っていなかった。
──足りない。
そう、内側で、認めた。
私は、卓の前で、肩で、息をしていた。
ローブの胸元と、袖が、煤で、黒くなっていた。
顔も、煤で、黒くなっていることを、皮膚の感覚で、私は、知った。
そのとき、戸の外で、足音が、聞こえた。
速い、足音だった。
複数ではない、一人の足音だった。
廊下を、奥へ、駆けてくる音。
戸が、外側から、勢いよく、開いた。
戸口に、人が、立っていた。
剣冠館の、実戦着。
革と布の、頑丈な仕立て。
腰に、磨かれた短剣。
中背だが、筋肉質。
姿勢が、良い。
短く刈った金髪。
無精髭の、剃り跡。
鋭い、藍色の瞳。
私は、その人を、知らなかった。
だが、誰であるかは、内側で、瞬時に、了解した。
──剣冠館の、教官。
──警備魔法陣の、信号で、来た人。
そう、内側で、確認した。
教官の藍色の瞳が、実験室の中を、瞬時に、見渡した。
実験卓の、水と、灰と、煤と、砂。
卓の端の、残った炎。
戸口の、空になった水甕。
私のローブの、煤。
その全てを、教官は、一瞬で、把握した。
「ヴァルメール、下がれ」
短く、命令された。
「戸口の脇に、座れ」
私は、戸口の脇に、後退した。
「動くな」
私は、その場に、座った。
膝が、自分の意志ではなく、自然に、折れた。
教官は、実験卓の前に、進んだ。
両手を、卓の上に、かざした。
詠唱は、短く、強かった。
「鎮まれ、霜の、息」
実験卓の上の、残った炎が、急速に、冷えた。
白っぽい黄色から、橙へ、橙から、赤へ、赤から、暗い炭の色へ。
数秒で、炎は、消えた。
煙だけが、白く、立った。
教官は、両手を、卓の上に、かざしたまま、もう一度、詠唱した。
詠唱は、別のものだった。
風の流れの、再配置。
濃縮された酸素が、半球状の空間から、解放された。
換気口へ、流れていった。
数十秒で、実験室の中の空気の比率が、自然に、戻った。
教官は、両手を、下ろした。
振り返って、私を、見た。
「怪我は」
「……ありません」
「立てるか」
「……はい」
「まだ、立つな」
教官は、戸口の方へ、視線を、向けた。
廊下から、別の足音が、聞こえてきた。
戸口に、もう一人、立った。
寝間着の上に、ローブを、羽織っただけの、年配の男性。
白髪混じりの髪が、寝起きで、乱れていた。
賢者専攻棟の、教授室の、主。
ヴァルニエ教授。
教授は、実験室の中を、見渡した。
口調は、寝起きとは思えないほど、平静だった。
「ヴァサール教官、状況は」
「鎮火、完了」
ヴァサール教官は、短く、応えた。
「怪我人、なし」
「実験室、半壊」
教授は、実験室の中を、もう一度、見渡した。
実験卓の上の、水と、灰と、煤と、砂と、燃え尽きた紙片の、灰。
壁の棚の、容器の一部に、熱で、ひびが入っていた。
天井の、換気口の周辺が、煤で、黒くなっていた。
戸口の脇の、空になった水甕。
砂が、ほとんど、残っていない砂袋。
教授は、私の前に、進んだ。
しゃがんだ。
目線を、私の目線に、合わせた。
「ヴァルメール君」
「……はい」
「怪我は、ないか」
「……ありません」
「それは、何より、だ」
教授は、短く、頷いた。
私は、戸口の脇に、座ったまま、卓の上を、見ていた。
実験ノートの、燃え尽きた頁の、灰。
藍色の表紙の、焦げた断片。
入学からの、私の、思索の、全て。
最初のページから、最後のページまで。
全部、灰になっていた。
──入学からの、私の、思索が。
──全部、燃えた。
──章末独白も、六つの未解決事項も、複合魔法は学院で、も、全部。
そう、内側で、確認した。
完全記憶の声が、もう一度、走った。
──だが、頭の中には、ある。
──全部、覚えている。
私は、その声を、聞いた。
だが、まだ、それを、どう扱うか、決められなかった。
──ある、けれど、書き写すべきなのか。
──それとも、書き写さずに、新しく、書くべきなのか。
そう、内側で、問うた。
答えは、出なかった。
──この問いは、自室に戻ってから、決める。
そう、内側で、保留した。
そして、別の感じが、私の内側を、走った。
──自分が、生きている。
──手のひらの、赤みは、軽い火傷で済んだ。
──顔も、煤で黒いだけだ。
──ローブは、焦げたが、皮膚には、達していない。
──生きている。
そう、確認した。
その確認の直後、罪悪感が、来た。
──生きている、ことに、安堵している、場合じゃ、ない。
──実験室を、半壊させた。
──ライナル先輩の、信頼を、裏切った。
──マルク兄に、知られる。
──父アンリに、知られる。
ヴァルニエ教授が、ヴァサール教官の方へ、向いた。
「ヴァサール教官、ヴァルメール君を、寮まで、送ってくれるか」
「了解しました」
「明朝、改めて、教授室で、話す」
「鐘六つに、来るように、と、伝えてくれ」
「了解しました」
ヴァサール教官が、私の前に、立った。
「ヴァルメール、立てるか」
「……はい」
私は、ゆっくり、立ち上がった。
膝が、震えていた。
ヴァサール教官は、私の肩に、軽く、手を、置いた。
「まず、寮に、戻れ」
「今夜は、考えるな」
「明朝、教授室、だ」
私は、麻袋を、戸口の脇から、拾った。
中には、未使用の燧石と、麻紐の切れ端だけが、残っていた。
それを、肩に、掛けた。
ヴァサール教官が、戸口を、先に、出た。
私は、その後ろに、続いた。
実験室を、出た。
廊下の魔法灯が、淡い、橙色で、照らしていた。
ヴァサール教官は、廊下を、私の歩幅に、合わせて、ゆっくり、歩いた。
足音は、規則的だった。
廊下の奥から、入口へ、戻る道。
低層棟を、出た。
渡り廊下を、進んだ。
賢窓塔の本塔の入口を、通り過ぎた。
中央広場を、横切った。
月が、岳月の上弦から、わずかに、傾いていた。
月の位置から、私は、内側で、時刻を、推定した。
──鐘十二つ、過ぎ。
──実験開始から、約一時間。
ヴァサール教官は、中央広場の中ほどで、立ち止まった。
私も、立ち止まった。
教官は、空を、見上げた。
私も、見上げた。
岳月の上弦の月が、賢窓塔の双子の屋根の、東に、傾いていた。
「ヴァルメール」
「……はい」
「今夜は、寝ろ」
「……はい」
「明朝、話す」
「……はい」
短い、対話だった。
教官は、それ以上、何も、言わなかった。
私も、何も、言わなかった。
ただ、月を、見上げていた。
風が、首筋に、冷たかった。
岳月の早春の夜の、風だった。
寮の入口で、教官は、立ち止まった。
「ここから、自分で、戻れるな」
「……はい」
「じゃあ、明朝、鐘六つに、教授室で」
「……はい」
教官は、振り返って、剣冠館の方へ、去った。
教官の背中が、暗闇に、消えた。
寮の入口を、入った。
廊下の魔法灯が、最小限の明かりで、灯っていた。
階段を、二階まで、登った。
足の裏が、煤の砂粒で、わずかに、軋んだ。
鐘八つが、賢窓塔の中で、低く、鳴った。
深夜。
私は、二〇二号室の戸の前に、立った。
戸を、静かに、開けた。
マチューは、寝息を、立てていた。
規則的な、静かな寝息。
私の、夜の外出を、知らない寝息。
私は、自分の寝台ではなく、机に、座った。
椅子に、座るというより、椅子の上に、自分の体を、降ろした、という感じだった。
膝が、まだ、わずかに、震えていた。
机の上には、書きかけのアネットへの手紙が、置いてあった。
封のないまま、五行で、書き止められたまま。
机の上には、もう、実験ノートは、なかった。
燃え尽きた。
私は、両手を、机の上に、置いた。
手のひらが、煤で、黒かった。
右の手のひらの皮膚が、薄く、赤らんでいた。
軽い火傷だった。
明朝には、ほとんど、消えるだろう。
ローブから、焦げた紙片の、匂いが、立っていた。
私は、机の上の、書きかけのアネットへの手紙を、見た。
「……あなたの、古本屋の、書架の、静けさが、ここでは、街路の、議論の、声の、中に、ありました」
二週間前に書いた、五行目。
封は、しないままだった。
──今夜は、触らない。
そう、内側で、確認した。
──今夜は、書ける、ことが、ない。
実験ノートは、ない。
書く紙が、ない。
書く紙を、引き出しから、出す気力も、ない。
私は、両手を、机の上に、置いたまま、目を、閉じた。
完全記憶の声が、また、走った。
──頭の中には、ある。
──全部、覚えている。
私は、その声を、聞いた。
聞いただけだった。
明朝、鐘六つに、教授室。
ヴァサール教官の言葉が、内側で、響いた。
──明朝。
──鐘六つ。
──教授室。
私は、まだ、寝ていなかった。
机の前で、両手を、机の上に、置いたまま、目を、閉じていた。
岳月の早春の夜の、冷たい風が、窓の外で、微かに、唸っていた。




