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第9章 第1話「酸素を、集める」

中庭の北側の井戸端に、私は座っていた。


夕焼けは、薄かった。


岳月初旬の夕暮れは、神月の冬の極みより、わずかに、長い。


井戸の縁に、ひしゃくは、置かれていなかった。


──いない人の、道具は、ない。


──当たり前のことだった。


ライナル先輩は、五日前から、不在だった。


応用科の現地実習。


行き先は、ベルジア方面。


期間は、一週間。


戻りまで、あと、二日。


数日前、井戸端ではなく、賢者専攻棟の廊下で、ライナル先輩は、私にそれを告げた。


「俺、明日から、ベルジア方面の、現地実習だ。一週間、戻らない」


「……はい」


「お前は、毎朝、井戸端で、続けてろよ」


「……はい」


そう言って、革袋を腰に、ライナル先輩は応用科棟の方へ去った。


──毎朝、井戸端で、続けてろ。


──短い、命令文のような、励まし。


──私は、その通りに、毎朝、来ていた。


毎朝の井戸端に、ライナル先輩はいなかった。


水球の精度は、わずかに、上がった。


大きさのばらつきは、約三割、減った。


形の循環は、球から円柱までは、滑らかに、なった。


平板で、まだ、崩れた。


水滴の等間隔は、三滴目までは、揃った。


四滴目から、ずれた。


──三年、毎朝、続ければ、できる。


──ライナル先輩は、そう、言った。


──私は、毎朝、続けている。


──だが、三年は、長い。


茶の苦みは、もう、口の中には、なかった。


夕暮れの井戸の水面に、橙色が、薄く、揺れた。


私は内側で、ひとつの問いを、口の手前まで、運んだ。


──毎朝、続けて、それで、ようやく。


──三年で、ようやく。


──その間、私は、何を、学ぶのか。


──ただ、待つだけか。


問いは、口には、出さなかった。


井戸の縁に、ひしゃくは、ない。


問いを、受け取る人は、ここには、いない。


中庭の楡の木が、長い影を、石畳に投げていた。


葉は、まだ、芽吹いていなかった。


岳月の早春の、痩せた枝の影が、私の足元まで、伸びていた。


夕暮れの鐘――鐘七つ――が、賢窓塔の中で、低く、鳴った。


夕食の前の鐘。


私は、立ち上がった。


ひしゃくの、ない井戸を、もう一度、見た。


寮へ、戻った。


第二寮の二〇二号室の戸を、開けた。


マチューは食堂で夕食中だった。


机の上に、書きかけのアネットへの手紙が、置いてあった。


二週間前から、五行のまま。


封は、しないままだった。


──今夜も、触らない。


私は、机に、座った。


寝台の足の方の棚に、新しい実験ノートが、置いてあった。


入学のときに、リューヴェルの書店で、買ったもの。


表紙は、深い藍色。


私はノートを、机の上に、開いた。


開いたのは、章末独白のページだった。


二週間前の夜に、井戸端でライナル先輩と別れて戻ってから、書いた六行。


最後の一行が、私の目の前に、あった。


「私は、まだ、頷きかねている」


私は、その一行を、指で、なぞった。


筆跡は、今夜の私のものより、わずかに、薄かった。


二週間で、薄れる墨ではない。


ただ、私の中で、薄れていた。


頁を、戻した。


六つの未解決事項のページが、開いた。


火、水、風、土、光、闇。


それぞれに、まだ、答えのない、問いが、書かれていた。


「水分子の、出所」


その項目の、空白の余白に、二週間前の夜、私は短く、書き足していた。


「先輩の、水と、私の、水は、同じ、水だった」


「だが、精度は、違った」


「経験で、上がる」


──書いたのは、私だった。


──だが、書いたときの私は、いま、ここには、いない。


──いまの私は、別の問いに、立っている。


さらに頁を、戻した。


「複合魔法は、学院で」


二週間前、いや、四週間前。


リューヴェル到着の前夜、出立の前夜、アルセリアの自室で、私が書いた一行。


その下に、二週間前の夜、私は書き足していた。


「ここで、まだ、試さない」


「もう少し、待つ」


そう、書いた。


「まだ、試さない」


その文字の上で、私の指は、止まった。


筆跡は、まだ、はっきりしていた。


だが、内側で、薄れていた。


二週間前の夜、私はそれが薄れていることを、自覚した。


今夜は、もっと、薄れていた。


「もう少し、待つ」


私は、その頁を、開いたまま、しばらく、動かなかった。


──もう少しは、どれくらいか。


──待つ、は、何を、待つのか。


──先輩が、戻るまで。


──そう、答えた。


──だが、戻ったら、何が、変わるのか。


──戻っても、私の精度は、毎朝、わずかずつ、しか、上がらない。


──毎朝、わずかずつ。


──三年。


私は、指を、頁の上に、置いたまま、しばらく、動かなかった。


机の上の、書きかけのアネットへの手紙が、視界の隅で、白かった。


実験ノートの、章末独白の最終行「私は、まだ、頷きかねている」が、内側で、響いた。


──頷きかねていた。


──ままだ。


──頷きかねたまま、踏み出す。


私は、そう、決めた。


「今夜だけ、試す」


声には、しなかった。


唇だけが、ほんの少し、動いた。


──ライナル先輩が、戻る前に、一度、自分の、理屈を、試してみたい。


──成功すれば、先輩に、報告できる。


──失敗すれば、口に、出さない。


そう、考えた。


甘い見通しだということを、私は、まだ、知らなかった。


私は、頁を、繰った。


実験ノートの、入学時に書き写した、学院規則のページを、開いた。


「賢者専攻実験室の、小実験室四号は、夜間(鐘十一つ〜鐘四つ)、賢者専攻の在籍者が、自由に使用できる」


「事前申請は、不要」


「ただし、危険を伴う実験は、教員の立ち会いを、推奨」


「推奨」


その二文字の上で、私の指は、止まった。


──推奨であって、必須ではない。


──必須ではないから、自分の判断で、いい。


──自分の判断で、いい、と、私は、判断した。


机の引き出しを、開けた。


小さな麻袋を、出した。


中身は、燧石、紙片、麻紐の切れ端。


寮の備え付け倉庫から、実験ノートを取りに行く道中で、借りたもの。


火種は、紙片。


火付けの予備として、燧石。


固定の必要があれば、麻紐。


それだけ。


──触媒は、使わない。


──素手の魔法で、十分だ。


──真理の眼が、見ている。


──分子の動きが、見える。


──私は、見える人間だ。


実験ノートを、閉じた。


机の隅に、置いた。


書きかけのアネットへの手紙の、向かいに。


二つの紙片が、机の上で、向き合っていた。


鐘十つが、賢窓塔の中で、低く、鳴った。


消灯の鐘。


寮の廊下のランプの音が、静かに、止まった。


戸が、開いた。


マチューが戻ってきた。


「お前、もう寝るのか」


「……いえ、もう少し、書き物が、ある」


「ふうん」


マチューは欠伸を噛んで、寝台に座った。


「俺は、寝るぞ」


「ええ」


「おやすみ」


「おやすみなさい」


マチューは寝台に横になり、毛布を引き寄せて、目を閉じた。


数分で、寝息が、聞こえ始めた。


私は、机の前で、しばらく、動かなかった。


マチューの寝息が、規則的に、続いた。


岳月の早春の夜は、まだ、冷たい。


窓の外で、夜風が、微かに、唸った。


私は、麻袋を、肩に掛けた。


実験ノートは、机の上に、残した。


戸を、静かに、開けた。


廊下に、出た。


寮の廊下のランプは、消灯時刻後は、最小限の明かりだけが、灯っていた。


橙色の、淡い、揺らぎ。


私は、階段を、二階から、一階へ、下りた。


二週間、毎朝、登っていた階段を、夜、下りた。


足音は、立てなかった。


足の裏の、革底が、石段の冷たさを、伝えた。


寮の入口を、出た。


寮区の通路は、月光に、薄く、照らされていた。


岳月の上弦の月が、賢窓塔の双子の屋根の、向こうに、薄く、浮いていた。


風が、首筋に、冷たかった。


ローブの襟を、立てた。


私は、中央広場を、横切った。


広場には、誰も、いなかった。


中央の噴水は、夜は、止められていた。


月光が、石畳に、薄く、伸びていた。


賢窓塔の本塔の入口を、私は、通り過ぎた。


本塔ではなく、隣の渡り廊下を、進んだ。


渡り廊下は、屋根のついた、石造の短い通路。


本塔と、低層棟を、繋いでいる。


低層棟は、一階建ての、横長の建物。


賢者専攻の実験室が、五つ並んでいた。


入口の戸は、施錠されていなかった。


夜間自由使用のため、戸は、夜も、開いていた。


私は、戸を、引いた。


低層棟の廊下に、入った。


廊下のランプは、消灯時刻後は、最小限の明かりだけが、灯っていた。


橙色の、淡い、揺らぎが、十メートルごとに、一つ。


廊下の奥に、戸が、五つ並んでいた。


小実験室一号から、五号まで。


四号は、最も奥。


私は、廊下を、進んだ。


足音は、立てなかった。


足の裏の、革底が、石床の冷たさを、伝えた。


小実験室四号の戸の前に、立った。


戸は、木製。


取っ手は、鉄製。


冷たい。


私は、取っ手に、手を、掛けた。


息を、整えた。


戸を、引いた。


深夜の、賢窓塔は、しんとしていた。


戸の向こうの、実験室四号も、しんとしていた。


──この空間は、いま、私のものだ。


そう、感じた。


その感じは、わずかに、温かかった。


夜更けに、誰にも知られず、自分の理屈を、試す。


その感じを、私は、心の奥で、噛んだ。


実験室四号は、約五メートル四方だった。


石造の床。


壁は、耐火・耐魔法の壁。


厚さは、約三十センチ。


壁の内側には、耐熱結界の魔法陣が、薄く、彫られていた。


魔法陣の線は、淡い、青みがかった銀色。


普段は、見えない。


《真理の眼》を、わずかに、開くと、見えた。


──結界は、生きている。


──ここで、何かが、燃えても、外には、出ない。


──壁が、止める。


そう、内側で、確認した。


実験卓は、中央に、一つ。


石製。


幅は、約二メートル。


高さは、約一メートル。


天井に、換気口が、四箇所。


直径は、約二十センチ。


外気と、連結していた。


壁の棚に、各種の容器と、触媒が、並んでいた。


私は、棚には、触らなかった。


戸口の脇に、消火用の水甕と、砂袋が、置かれていた。


水甕は、土製。


口の直径は、約四十センチ。


水位は、見ていなかった。


砂袋は、麻布製。


軽そうに、見えた。


──水甕は、満杯か。


──砂袋は、新しいか。


──確かめなかった。


──自分の、真理の眼があるから、大丈夫だ。


──そう、考えた。


実験卓の上の、魔法灯を、私は、点けた。


短い詠唱。


「灯よ、点れ」


魔法灯が、淡い橙色で、灯った。


実験卓の上だけが、明るくなった。


周辺は、薄暗いままだった。


私は、戸を、内側から、閉じた。


戸の閂を、下ろした。


麻袋から、紙片を、一枚、出した。


約五センチ四方。


実験卓の中央に、置いた。


燧石と、麻紐は、念のため、卓の端に、置いた。


麻袋は、戸口の脇に、置いた。


実験卓の前に、立った。


両手を、卓の上に、かざした。


鐘十一つが、賢窓塔の中で、低く、鳴った。


夜半過ぎ。


寮では、ほぼ全ての学生が、寝ている時刻。


低層棟は、しんとしていた。


──ここに、私が、いる。


──ここに、紙片が、ある。


──ここに、空気が、ある。


──空気の中に、燃えやすい、粒子が、ある。


──集める。


そう、内側で、確認した。


「燃えやすい、粒子」


口にはしなかった。


──酸素。


──O2。


──燃焼の促進。


これらの語は、内側だけで、響いた。


外側では、使わない。


実験ノートに書くときも、同様にする。


「燃えやすい、粒子の、集め方」と、書く。


それで、十分だった。


──前世の用語を、外側に、出す必要は、ない。


──分かる人は、私しかいない。


──分かる必要も、ない。


私は、息を、整えた。


両手を、卓の上に、かざした。


風の種詠唱を、低く、唱えた。


「風よ、集まれ」


風魔法が、発動した。


両手の指の間に、空気の動きが、薄く、感じられた。


空気が、実験卓の上に、緩やかに、集まり始めた。


実験卓の上の、半径約三十センチの、半球状の空間。


そこに、空気が、寄っていく。


私は、真理の眼を、発動した。


視界に、分子レベルの構造が、薄く、重なった。


無数の、小さな、点。


ほとんどが、二つで対をなしている。


窒素分子と、酸素分子。


そのほかに、微量の、水蒸気と、別の粒子。


──約七割八分が、窒素。


──約二割一分が、酸素。


──残りが、その他。


そう、内側で、計測した。


前世の地球大気と、ほぼ、同じ。


私は、風魔法の方向を、微調整した。


窒素分子を、実験卓の外へ、押し出す。


酸素分子を、半球状の空間に、留める。


押し出す力と、留める力を、両手で、別々に、操る。


これは、繊細な操作だった。


両手が、別々の意志を、要求する。


──集中だ。


──呼吸を、整えろ。


──手を、動かすな。


──意志だけで、操れ。


約五分が、経った。


私は、真理の眼で、半球状の空間の中を、見た。


窒素分子の比率が、下がっていた。


酸素分子の比率が、上がっていた。


──約四割。


──約四割二分。


そう、内側で、計測した。


通常の、約二倍。


息を、止めた。


私は、その瞬間、内側で、わずかに、震えた。


──集まっている。


──理屈通りに、集まっている。


──真理の眼が、見ている。


──分子の動きが、私の意志に、応えている。


──私の、理屈は、正しい。


──ここから、火種を、入れれば、燃焼の速度は、酸素濃度に、比例する。


──三倍程度の、速度に、なる、はずだ。


──紙片の燃焼時間が、約三秒から、一秒以下に、短縮される、はずだ。


そう、内側で、計算した。


「これは、いける」


声には、しなかった。


唇だけが、ほんの少し、動いた。


両手を、卓の上に、かざしたまま、私は、立っていた。


紙片は、卓の中央に、置かれたままだった。


火種は、まだ、入れていない。


──燃えやすい、粒子が、ここに、集まっている。


──もう少し、増やせば。


──火種が、爆発的に、燃え上がる、はずだ。


そう、考えた。


外気の換気口から、新しい空気が、わずかに、入ってきていた。


私は、その流れも、風魔法で、抑え込んだ。


両手の負担が、わずかに、増した。


──大丈夫。


──まだ、もつ。


──もう少し。


そう、自分に、言い聞かせた。


夜半過ぎの実験室で、私は、両手を、卓の上に、かざしたまま、立っていた。


魔法灯の橙色の光が、卓の上に、薄く、揺れていた。


紙片の白さが、その光の中に、浮いていた。


紙片の上の、半球状の空間は、目には、見えなかった。


だが、私の真理の眼には、見えていた。


──酸素の、密度。


──約四割五分。


──まだ、上げられる。


私は、まだ、火を、入れていなかった。


火を、入れる前に、止まらなかった。


止まる時を、決めていなかった。


──あと、少し。


──あと、少しだけ。


そう、内側で、繰り返した。

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