第8章 第3話「呼びかけは、常に、途切れる」
二週間が、過ぎた。
毎朝、私は井戸端に通った。
ライナルとの演示と対話は、四回か、五回。
水魔法の精度は、わずかに、上がった。
水球の大きさのばらつきは、最初の朝の三割ほど、減った。
──だが、ライナルの精度には、程遠い。
風魔法も、一度、試した。
風は、もっと、難しかった。
ライナルが指先で、空気の流れの方向を、薄く、揺らした演示は、私には、形すら、見えなかった。
「毎朝、三年、続ければ、できる」
その言葉が、内側で、繰り返し、反芻された。
マチューは私が朝早く出かけるのを、最初は、冷やかした。
「お前、本当に、勉強熱心だな」
「ええ」
「先輩、優しいか」
「優しい、と思う」
「俺の、剣冠館の先輩、無口でな。挨拶も、頷くだけだ。羨ましいぜ**」
マチューは笑いながら、剣冠館の朝の演習へ走っていった。
ニコは食堂で、たまに、声をかけてきた。
「今朝も、井戸端?」
「ええ」
「どうだ、水魔法」
「……揺れる」
「揺れる、か」
ニコは少し、目を細めて、自分のテーブルに戻った。
ある日の夕食。
私は第三寮の食堂に、向かった。
マルク先輩と、応用科二年の同期、二人。
席に着くと、マルク先輩が私の方を、軽く、見た。
「テオ、先輩賢者と、会えたか」
「ええ、ライナル先輩と、お会いしました」
「ライナル・ベルクハイトか」
マルク先輩の口調は、家族の食卓のときとは、違っていた。
「俺」も「私」も、口にしなかった。
文末は、「だ」型で、平らに、響いた。
「あいつは、賢窓塔で、評判が、良い」
「ええ」
「実技は、学年トップ、らしい」
「ええ」
マルク先輩は、葡萄酒の水割りを、半分ほど、飲んだ。
「お前と、合いそうか」
私は少し、考えた。
「……ええ。面白い、方です」
「それは、何よりだ」
マルク先輩は短く頷いて、応用科二年の同期との会話に、戻った。
──深入りは、しない。
──公式の場の、兄。
家族の食卓で、笑いながら肩を叩いてくる兄とは、別の人のように、平らに、座っていた。
神月の末の、ある夕暮れだった。
私は中庭の井戸端で、ライナルを待っていた。
前日、ライナルが「明日の、夕暮れに、井戸端で、話そう」と言ったからだった。
朝の井戸端とは、違う光景だった。
西の空が、橙色に染まっていた。
井戸の水面に、夕焼けが、薄く、映った。
冬枯れの楡の木が、長い影を、石畳に、伸ばしていた。
応用科棟の方から、足音がした。
ライナルだった。
今日は、ひしゃくを、持っていなかった。
代わりに、両手に、温かい湯気の立つカップを、二つ、持っていた。
「おう、テオ」
「ライナル」
「茶、淹れてきた」
ライナルは私にカップを、一つ、手渡した。
「……お茶?」
「ベルジアの、薬草茶だ」
ライナルは自分のカップを、井戸の縁に、軽く、置いた。
「朝、革袋の、草を、煮出した」
──朝、革袋から、覗いていた、草。
──二週間前の、初めての朝の、あの葉。
カップの中の茶は、薄い黄緑色だった。
苦みのある、深い、香りが、立った。
私たちは井戸端の、低い石のベンチに、並んで座った。
今日は、演示は、なかった。
ライナルは茶を、ゆっくり、すすった。
私もカップを、両手で、持って、口をつけた。
苦かった。
だが、温かさが、指の先まで、ゆっくり、登っていった。
「お前、最近、井戸端の、水魔法、どうだ」
「……まだ、先輩のように、できません」
「だろうな」
ライナルは笑った。
「でも、ばらつきは、減ってる」
「分かりますか」
「俺、見てた」
私は、目を、上げた。
ライナルは井戸の方を、見ていた。
朝の演示の後、ライナルが、また、来ていたとは、私は、思っていなかった。
「毎朝、来てる?」
「たまに。お前が、一人で、続けてる、朝」
──そういう人だったのか。
──押し付けは、しない。
──だが、見てはいる。
私はカップを、両手で、持ったまま、しばらく、沈黙した。
茶を、もう一口、飲んだ。
苦みが、舌の奥に、残った。
「ライナル」
「おう、何でも」
「……ひとつ、聞いていい、ですか」
「おう」
私は、少し、息を、吐いた。
それから、訊いた。
「先輩は、賢者神の、声を、聞いたことが、ありますか」
ライナルは、目を、少し、見開いた。
それから、ゆっくり、頷いた。
「ある」
「俺もよ、賢者神の、声、聞いたことが、ある」
ライナルはカップを、井戸の縁に、置いた。
「けど、いつも、途切れる」
「ぷつりと、消える」
──途切れる。
──ぷつりと。
私の指は、カップの取っ手を、強く、握った。
茶の温度が、手のひらに、熱く、しみた。
「最初は、自分が、悪いんだと、思った」
ライナルは井戸の方を、見ていた。
「集中が、足りないとか、信仰が、足りないとか」
「けど、辺境の、野師の、爺さんが、言ったんだ」
「『神々の、呼びかけは、もともと、途切れるものだ』って」
「だから、声を、待つんじゃ、なくて、自分で、補う、んだ。経験で」
私は、内側で、衝撃を、受けた。
──同じだ。
──私も、同じだ。
産婆の腕の中、寝床の闇、台所の朝、母の歌、父の書斎の本の匂い。
何度か、私は、声に、似た、何か、を、聞いた。
そのたびに、声は、いつも、ぷつりと、消えた。
私はそれを、自分の幼さのせいだと、思っていた。
前世の意識が、神々の呼びかけを、捻じ曲げているのだと、思っていた。
辺境の野師の爺さんが、自分の弟子に、伝えた言葉が、私の幼い記憶の感触と、完全に、同じだった。
「……そう、ですか」
私は、それだけ、声に、出した。
短い、ためらいのある、相槌だった。
カップの中の茶は、もう、少し、ぬるくなっていた。
ライナルは私の方を、見た。
──察知された。
──「お前も、聞いたことが、あるのか」と、訊かれる寸前。
だが、ライナルは、訊かなかった。
茶を、もう一口、飲んでから、井戸の方へ、視線を戻した。
「お前も、聞いたことが、あるかも、しれない」
「でも、聞かない」
ライナルの声は、ゆっくり、低かった。
「賢者の、神託経験は、人に、話すもんじゃ、ない、らしいな」
「俺の、爺さんも、そう、言ってた」
──知っている。
──だが、追及しない。
──守ろうと、している。
私は、カップを、両手で、握り直した。
茶の温度は、もう、低くなっていた。
──呼びかけは、途切れる。
──けれども、補える。
夕焼けは、橙色から、赤に、深まっていた。
井戸の水面に、赤い揺らぎが、薄く、映った。
私は少し、沈黙してから、訊いた。
「ライナル」
「おう」
「神々の、声を、待つだけじゃ、足りない、と、思うか」
「……ええ」
「じゃあ、何で、補う」
私は、考えた。
──私の、補い方は、もう、決まっていた。
──三歳から、私は、書き続けてきた。
「観察、と、記録、です」
「ほう」
「実験ノートに、書く」
ライナルは笑った。
「良いな、それ」
「俺は、手で、覚える」
「お前は、書いて、覚える」
「やり方は、違うけど、補う、ところは、同じだ」
私は、深く、頷いた。
夕焼けは、赤から、紫に、移っていた。
楡の木の影は、もう、石畳に、見えなくなっていた。
鐘八つが、塔の中で、低く、鳴った。
夕食の時間。
ライナルはベンチから、立ち上がった。
「今日は、ここまで、だな」
「ええ」
「お前、面白いやつだ、テオ」
「……ありがとうございます」
ライナルは、何も言わずに、笑った。
井戸の縁に、空のカップを、軽く、置いた。
そして、応用科棟の方へ、歩き出した。
私は一人、井戸端に、残った。
カップを、両手で、持ったまま、井戸の水面を、見ていた。
夕焼けは、紫から、藍へ、移ろうとしていた。
茶の温度は、もう、ほとんど、冷えていた。
──呼びかけは、常に、途切れる。
──経験で、補える。
──観察と、記録で、補える。
──先輩は、手で、覚えた。
──私は、書いて、覚える。
私はカップを、井戸の縁から、取った。
立ち上がって、第二寮の方へ、歩き出した。
寮の入口を、入った。
石造の階段を、二階まで、登った。
二〇二号室。
マチューは、食堂で、夕食中だった。
私はまだ、夕食を、食べていなかった。
──夕食より、書きたいことが、ある。
机の隅に、書きかけの、アネットへの手紙が、置いてあった。
二週間前に、五行で、書き止めたまま。
封は、しないままだった。
──今夜は、触らない。
私は実験ノートを、開いた。
六つの未解決事項の、ページを、開いた。
火、水、風、土、光、闇。
それぞれに、まだ、答えのない、問いが、書かれていた。
「水分子の、出所」
その項目の、空白の余白に、私は短く、書き足した。
「先輩の、水と、私の、水は、同じ、水だった」
「だが、精度は、違った」
「経験で、上がる」
次の白紙のページを、開いた。
表題は、付けなかった。
私は、筆を、取った。
少し、考えた。
それから、書いた。
「知識は、道具に、過ぎない」
「現地で、積まれた、経験には、別の、価値が、ある」
「水は、同じ、水だった」
「だが、先輩の、水は、私の、水とは、違った」
「経験で、精度を、上げる――先輩は、そう言った」
「私は、まだ、頷きかねている」
私は筆を、置いた。
ページを、戻した。
六つの未解決事項の前のページに、五日前の朝、私が書いた一行があった。
「複合魔法は、学院で」
二週間前、出立の前夜、自室で書いた一行。
ここで、まだ、試さない。
もう少し、待つ。
そう、書いた。
私は、その一行を、指で、なぞった。
「まだ、試さない」の文字は、いま、私の内側で、わずかに、薄れていた。
「もう少し、待つ」だけが、はっきり、残っていた。
──だが、もう少し、後で、いい。
私は内側で、確認した。
「先輩のように、毎朝、続けてから、試そう」
「だが、続けてからでも、なくてもいい」
「……それは、まだ、決めない」
筆を、置いた。
実験ノートを、閉じた。
机の引き出しを、開けた。
書きかけの、アネットへの手紙が、五行のまま、入っていた。
「アネット様」
「リューヴェルに、着きました」
「入学式は、長く、しかし、興味深い、ものでした」
「塔は、問い、館は、応え、炉は、形にする、と、学院長は、訓示しました」
「……あなたの、古本屋の、書架の、静けさが、ここでは、街路の、議論の、声の、中に、ありました」
私は、手紙を、もう一度、見た。
封は、しなかった。
引き出しを、閉じた。
窓辺に、立った。
夜の霧が、薄く、立っていた。
ヴァル川の中州の、双子尖塔は、霧の上に、薄く、浮かんでいた。
──双子尖塔は、そこに、ある。
──先輩の、水も、そこに、あった。
──私の、水は、まだ、追いつかない。
──けれども、追いつく方向は、見えた。
私は窓辺から、寝台に、戻った。
横になった。
天井の梁が、暗闇の中で、薄く、見えた。
茶の苦みが、まだ、口の中に、残っていた。
私は、目を、閉じた。
鐘九つが、塔の中で、低く、鳴った。
消灯の鐘。
寮の廊下の、ランプの音が、静かに、止まった。




