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第8章 第2話「経験で、精度を、上げる」

翌朝、私は朝食を、いつもより早く、終えた。


パンをかじりながら、葡萄酒の水割りを半分も飲まずに、席を立った。


向かいでマチューが、目を丸くした。


「お、おい、何を急いでるんだ」


「先輩と、井戸端で、約束」


「もう、約束、できたのか。早いな」


「ええ」


「俺、夕方、聞かせろよ」


「ええ」


寮を出ると、空はまだ薄い灰色だった。


冬の朝の、冷たく澄んだ空気。


私は寮区の通路を抜け、中央広場を斜めに横切った。


中央広場には、剣冠館の方へ走っていく上級生の姿が、二人見えた。


私はその逆、賢窓塔の方角へ歩いた。


賢窓塔と剣冠館の間に、中庭がある。


新入生はあまり立ち入らない、地味な場所。


中庭の北側に、井戸があった。


学院の創設時から使われている、古い井戸。


石造の縁が、長年の手で磨かれて、丸くなっている。


井戸の周りに、低い石のベンチが数脚。


冬枯れの楡の木が、長い影を石畳に投げていた。


私はベンチに座って、待った。


朝の鐘は、まだ六つの半を鳴らしていなかった。


──毎朝、見ていた中庭。


──だが、井戸の前で、座ったのは、初めてだった。


石のベンチは冷たく、ローブの裾を通して、足の裏まで、冷気が登った。


応用科棟の方角から、足音がした。


ライナルだった。


今朝のローブは、袖をさらにまくっていた。


腕の皮の厚さが、肘の少し上まで、見えた。


右手に、小さな木のひしゃくを持っていた。


薪割り場でよく見る、素朴な道具。


「おう、テオ。早いな」


「ライナル」


私は立ち上がろうとして、ライナルが手で止めた。


「いいよ、座ってろ」


ライナルは井戸の縁にひしゃくを置いて、私の隣のベンチに座った。


「昨日、お前は、魔法は、科学だ、と、言ったな」


「ええ」


「それで、合ってる」


ライナルは井戸の方を見た。


「俺も、そう、思う」


私は少し、驚いた。


──同意、するのか。


二週間、私は誰にも、自分の確信を、声に出して言わなかった。


兄マルク先輩には、まだ。


マチューにも、ニコにも。


ヴァルニエ教授の前でも、私はノートに書き写すだけだった。


声に出した最初の相手は、辺境出身の経験派賢者だった。


その相手が、私の確信を、否定しなかった。


「でも、続きが、ある」


ライナルは静かに言った。


「今日は、それを、見せる」


私は深く頷いた。


ライナルは井戸の縁から立ち上がって、私の前に立った。


ローブの裾を払って、右手を、井戸の上に、ゆっくり、かざした。


「それは正しい」


ライナルは私の方を見た。


「だが、科学では、割り切れない、領域が、ある」


「それを、知ったとき、本当の、賢者に、なる」


──核を、突かれた。


──私の確信の、外側に、何かが、ある。


私は喉が、少し、乾いた。


ライナルは井戸の上で、右手を、軽く、振った。


水球が、手のひらの上に、現れた。


直径は、三センチほど。


完全な球形。


「これを、三回、出す」


一回目。


水球は手のひらの中央に、現れて、約三秒間、保持された後、ゆっくり、井戸の口へ落ちた。


二回目。


同じ位置、同じ大きさ、同じ三秒。


三回目。


──同じだ。


私は《真理の眼》を、発動した。


水球の構造を、目で辿った。


水分子の密度、温度、表面張力。


三回とも、ほぼ、同じだった。


「お前も、やってみろよ」


私はベンチを降り、ライナルの隣に立った。


井戸の縁を、両手で軽く押さえてから、右手を上に、かざした。


水球を、出した。


水属性の感覚は、アルセリアの自室で、初めて六属性を試した、あの朝に、もう、知っている。


体の中で、水だけは、最初から、私の中に、いた気がした、あの感触。


一回目。


直径、約三センチ。


ほぼ、同じ位置。


──できた。


二回目。


直径、約三・五センチ。


位置が、わずかに、右に、ずれた。


──大きい。


三回目。


直径、約二・七センチ。


保持時間が、二秒で、終わった。


──小さい。


私は眉を、寄せた。


「気付いたか」


ライナルの声は、静かだった。


「ええ。大きさが、ばらつきました」


「そうだ」


ライナルは笑った。


「で、これが、面白いんだ」


「俺は、三年前は、お前と、同じだった」


「三年前、ですか」


「ベルジアで、井戸の水量を、毎朝、汲んでたんだ」


ライナルは、井戸の縁に置いたひしゃくを、軽く、指で叩いた。


「ひしゃくで」


「朝、同じ量を、汲む。それが、家畜の水だ。多すぎれば、桶があふれる。少なすぎれば、家畜が、足りない」


「そのうち、目で、量が、わかるように、なった」


「で、ある日、魔法で、同じことを、やってみたら、できた」


──三年。


──毎朝。


──同じこと。


「次は、形だ」


ライナルは右手を、また、井戸の上に、かざした。


水球が、出た。


それから、水球は、ゆっくり、円柱に、変わった。


球の表面が、上下に伸びて、円柱の形になった。


円柱は、滑らかに、平板に、変わった。


平板から、また、球に、戻った。


──球、円柱、平板、球。


──滑らかに、循環する。


私は真理の眼で、水球の構造を、追った。


水分子の結合状態は、保たれていた。


質量保存則は、守られていた。


だが、表面張力の制御が、私には、追えなかった。


「お前も、やってみろ」


私は右手を、井戸の上に、かざした。


水球を、出した。


球までは、できる。


円柱に、変えようとした。


──水が、崩れた。


水は球の形を保てず、ばらけて、井戸の口へ、落ちた。


「急がないで、いい」


ライナルは静かに言った。


「球を、保ったまま、円柱の、形を、思い浮かべる。ただ、思い浮かべるんじゃなくて、手のひらに、円柱が、乗ってる感じだ」


私はもう一度、水球を出した。


円柱の形を、頭の中で、置いた。


──手のひらに、乗っている。


円柱までは、行った。


平板に、変えようとして、また、崩れた。


私はベンチに、軽く、もたれた。


「ライナル」


「おう」


「球から、円柱への、移行のとき、表面張力を、どう、保っているんですか」


ライナルは少し、考えた。


──考えてから、答えた。


「経験だ。理屈じゃ、ない」


直後に、補足は、なかった。


ライナルは私の方を見て、ただ、笑った。


軽く息を吐いて、井戸の縁に、もう一度、もたれた。


──説明が、できない、わけではない、はずだ。


私は内側で、反発した。


──表面張力は、温度と、水分子の、結合エネルギーで、決まる。


──三年、毎朝、繰り返したなら、ライナルの体には、ある幅が、できている。


──その幅を、言葉に、できないだけ、なのだ。


だが、私は口には、出さなかった。


ライナル先輩は、まだ、私に、何かを、見せようと、している。


「最後だ」


ライナルは右手を、井戸の上に、かざした。


「水滴を、三十、等間隔で、井戸に、落とす」


右手の指先から、水滴が、一滴、井戸へ、落ちた。


二滴目。


三滴目。


四滴目。


──完全に、等間隔だった。


私は真理の眼で、時間を、数えた。


約〇・四秒、間隔。


誤差は、〇・〇二秒以内。


三十滴目まで、間隔は、揺れなかった。


井戸の水面に、規則的な波紋が、円を描いて、広がった。


私の番だった。


右手を、井戸の上に、かざした。


一滴目。


二滴目。


──ここまでは、揃った。


三滴目。


間隔が、わずかに、早まった。


四滴目。


今度は、遅れた。


五滴目で、明らかに、乱れた。


六滴目で、私は、止めた。


「……無理です」


「今は、な」


ライナルは笑った。


「毎朝、三年、続ければ、できる」


「三年」


「そうだ。三年で、ここまで来る。お前なら、もっと、早いかも、しれない」


ライナルは私の肩を、軽く、叩いた。


──ありえない、けれども、ある。


──ここでも、ある。


六歳の朝、自室で、初めて六属性を試した、あの数週間に、私は同じ言葉を、頭の中で、繰り返した。


水球が、球から円柱、円柱から平板へ、滑らかに、移る。


水滴が、三十、完全に、等間隔で、落ちる。


その精度は、辺境の井戸端で、三年、毎朝、繰り返されて、できあがった。


──ありえない、けれども、ある。


──井戸端の、ここでも、ある。


ライナルは井戸の縁に、私の隣で、座り直した。


ベンチが、軽く、軋んだ。


「で、お前、魔法は、科学だ、って、言ったろ」


「ええ」


「俺は、こう、思う」


ライナルは井戸の水面を、見た。


「魔法の、根本は、科学だ」


「だが、精度は、経験で、決まる」


「理屈で、説明できる、ことと、手で、できる、ことは、別なんだ」


私は、その言葉を、頭の中で、反芻した。


──理屈で、説明できる、ことと、手で、できる、ことは、別。


──別、なのか。


──いや。


──別の言い方、なのかも、しれない。


──だが、理屈を、深めれば、手も、追いつくはずだ。


前世の博士課程で、私は何度も、理論と実験の、ずれを、見てきた。


最終的には、理論が、勝った。


実験技術の進歩が、追いついた。


学院でも、同じはずだ。


ただ。


──私は、口には、出さなかった。


二週間、声に出さずに、観察してきた。


今朝、初めて声に出した相手にすら、すべては、出さなかった。


朝の鐘七つが、塔の中で、低く、鳴った。


魔法概論の講義開始の鐘。


ライナルは立ち上がった。


ひしゃくを、井戸の縁から、取った。


「今日は、ここまで、だな」


「ええ」


「講義、遅れるなよ」


「ありがとうございました、ライナル」


「ライナル、で、いい、って言ったろ」


ライナルは笑い、応用科棟の方角へ、歩き出した。


ひしゃくが、ローブの裾と、軽く、ぶつかる音を、私は背中で、聞いた。


私は井戸の縁で、もう少しだけ、座っていた。


水面が、まだ、波紋を残していた。


三十の、規則的な波紋が、円を、描いていた。


──経験で、精度を、上げる、と、先輩は、言った。


──だが、私は、理屈を、深めたい。


──……それは、同じことの、別の言い方、なのか。


私はベンチから、立ち上がった。


賢窓塔の方へ、歩き出した。


朝の鐘七つは、もう、止んでいた。

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