第8章 第1話「賢窓塔の、ある朝」
私は朝の鐘で目を覚ました。
鐘は五つ、低く響いた。
午前五時半。
入学から二週間目の、十四日目の朝だった。
──ふだんの朝と、同じ鐘。
──だが、今朝は、ふだんとは、違う。
寝台の奥で、マチューが半身を起こした。
栗色の髪は寝乱れていたが、目だけは覚めていた。
「お、起きたか、テオ」
「ええ」
「今日、先輩賢者の、初顔合わせ、だっけ」
「ええ」
マチューは欠伸を噛み殺してから、寝台から足を下ろした。
「緊張、してるか」
「……少し」
「ま、お前なら、大丈夫だろ」
マチューは笑いながら、衣装箱の上に投げてあった制服を取った。
私も制服に手を伸ばした。
──私の服に、なってきた。
入学初日の朝に鏡の前で「この服は、私の服では、まだ、ない」と思った感触は、二週間でだいぶ薄れていた。
賢者専攻の徽章は、左胸の同じ位置に、毎朝、同じ角度で留まる。
書物と星の紋様も、見慣れた形になった。
寮の食堂は、いつもの朝と同じだった。
長いテーブルが三列。
寮生がまばらに座って、パンを千切ったり、スープを啜ったりしていた。
私はパンと卵、葡萄酒の水割りを取って、隅のテーブルに座った。
マチューが向かいに座った。
「食堂、人、少ないな」
「他はもう、出たんだろう」
「お前と俺が、寝坊組ってわけじゃないだろうな」
私は首を振った。
入口の方から、ニコの声がした。
「テオ」
ニコは食堂に入ってきて、私の席のところまで来た。
導師専攻の徽章を、すでに胸につけていた。
杖と光輪の紋様。
「今朝、ライナル先輩、来るんだろ」
「ええ」
「俺も、見たかったんだが」
ニコは少し残念そうに笑った。
「導師専攻の朝の自習が、ある」
「そうか」
「後で、教えてくれ。どんな人だったか」
「ええ。教える」
ニコは短く頷いて、別のテーブルへ移った。
私はパンを千切りながら、食堂を見渡した。
──同じ朝、同じ食堂、同じ寮生。
──だが、今朝は、ふだんと、少しだけ、違う。
朝食を終え、マチューと玄関ホールで別れた。
マチューは剣冠館の朝の演習へ。
私は賢窓塔へ。
寮区を抜け、中央広場を斜めに横切る。賢窓塔の入口から、螺旋階段を二階まで登る。合わせて、十二分。
毎朝の動線は、もう体で覚えていた。
中央広場では、新入生の何人かが三系統の建物へ散っていくところだった。
賢者専攻の同期のうち、二人ほどが、私を見つけて軽く頭を下げた。
私も頷き返した。
──マルク先輩の弟、と、まだ呼ばれる。
──だが、それも、いつかは、ただの「テオ」になるのだろう。
賢窓塔の入口の扉をくぐって、螺旋階段に足をかけた。
石造の階段は、白く磨かれている。
ふだんは段数を意識せずに登るのだが、今朝は数えた。
一、二、三。
十、十一、十二。
十八段で、二階の踊り場に出た。
胃の奥が、少しだけ、冷たかった。
──こんなに、登っていたのか。
二週間、毎朝登っていた階段の段数を、初めて、数えた朝だった。
賢者専攻棟の自習室は、二階の南側にある。
朝の鐘五つから六つの間、新入生が自由に予習・復習する場所。
入ると、同期が三人ほど、ばらばらに座って本を開いていた。
私も窓際の席に座って、実験ノートを開いた。
昨日の魔法概論の講義の復習。
ガリエ専任教授が語った「魔法の本質は、属性に従って、世界に変化を生じさせること」を、私はそのままノートに書き写してあった。
書き写すだけで、自分の見解は書き加えなかった。
──書き加える時期では、まだ、ない。
二週間、私は聞くばかりだった。
自習室の扉が、静かに開いた。
ヴァルニエ教授だった。
教授は自習室の入口で、新入生たちを軽く眺めた。
それから、私の席まで、ゆっくり歩いてきた。
「ヴァルメール君、ちょっと、いいか」
「はい」
私は実験ノートを閉じ、席を立った。
周囲の同期が二、三人、振り返った。
だが私は気にしなかった。
──ヴァルメール家の次男、と認識される程度の関心だ。
教授の後ろについて、自習室を出た。
廊下の向かいに、小会議室がある。
教授室の隣の、十人ほどが入れる部屋。
教授は会議室の扉の前で立ち止まり、私を振り返った。
「先輩賢者と、引き合わせる」
「はい」
「ライナル・ベルクハイト。応用科二年。賢者専攻の最上級生だ」
「はい」
教授は扉を開けた。
窓辺の椅子に、一人の青年が座っていた。
少しだけ姿勢を崩した座り方で、片肘を窓枠にかけている。
灰がかった褐色の髪は、無造作に切られていた。
緑がかった榛色の瞳は、私の方を、ゆっくり、辿った。
目尻には細かい笑い皺が、まだ若いのに、薄く刻まれていた。
学院の標準ローブを着ていたが、袖をまくっていた。
腕の皮は、《賢者》にしては、厚かった。
──手も、厚い。
──薪を、握る手だ。
帯に、小ぶりな革袋を下げていた。
「ライナル、こちらが、新入生のヴァルメール、テオドール。賢者専攻の、最年少だ」
教授が静かに告げた。
ライナルは椅子から立ち上がった。
中背。
肩幅は普通。
私の頭、ふたつ分は、高い。
「ああ、わかりました、ヴァルニエ先生」
ライナルの声は、少し低めで、穏やかだった。
教授に対して、砕けた敬語混じりだった。
教授は短く頷いた。
「それでは、二人で」
教授は会議室を出ていった。
扉が、静かに閉まった。
二人きりの会議室で、私は少しだけ、立ち位置に迷った。
席に座っていいのか、立ったままでいいのか。
ライナルが笑った。
立ち上がってから、私の方へ歩み寄った。
「まあ、座れよ。立ったままじゃ、話しにくいだろ」
「……はい」
私は長机の対面に座った。
ライナルも座り直した。
革袋が、ローブの裾の下で、軽く揺れた。
「俺は、ライナル・ベルクハイト」
ライナルは机に肘をついた。
「応用科二年。賢者専攻。北西の、ベルジア辺境から来てる」
「テオドール・ヴァルメールと、申します。十歳です」
「おう、よろしくな、テオドール」
ライナルは私の名を、フルネームで呼んだ。
子供扱いはしていないが、親しみは込めていた。
「……テオで、いいです」
「テオな」
ライナルは笑った。
「じゃあ、テオ。俺のことは、ライナルでいい。先輩、とか、つけなくていい」
「……敬語、抜きですか」
「敬語は、自分が、自然な範囲で、つければいい。ベルジアじゃ、年上でも、名前で、呼ぶんだ」
──辺境の文化を、さらりと、出した。
──押し付けは、しない人だ。
ライナルは座り直したとき、帯の革袋から、小さな草の葉が一枚、覗いた。
私は目を留めた。
ライナルが気付いて、笑った。
「ああ、これか。野草採取の、癖でな」
「……薬草、ですか」
「そうとも、限らない」
革袋の口を、指で押し戻しながら、ライナルは続けた。
「ただの葉っぱのことも、ある。でも、ベルジアじゃ、葉っぱを見るのが、最初の学問なんだ」
ライナルは少しだけ、目を細めた。
「川は、見ているうちに、覚える」
──学院に、薪割りの手の、賢者が、いた。
二週間、私が見てきた学院の風景の中に、なかった種類の佇まいだった。
「で、テオ。お前、賢者を、神託で授かったんだろ。十歳で入学。早いな、最年少」
「ええ」
「俺は、九歳で神託、十三歳で家業を抜けて、十四歳で入学した」
「家業、ですか」
「薪割りと、畑が、好きだった。だから、十三歳までは、家にいた」
ライナルは机に置いた手のひらを、軽く返した。
「賢者は、辺境じゃ、教える人が、いなかった」
「では、どうやって」
「野師と、民間の呪師の爺さんが、いた。その人に教わった」
「雨を、読むとか、井戸の水量を、測るとか、家畜の出産を、手伝うとか」
ライナルは数えるように、指を立てた。
「そういう、生活の魔法を、覚えたんだ」
「学院に来てから、それが『初級魔法』だって、知った」
──生活密着型の、魔法。
──私の想像の中には、なかった使い方だった。
私は実験ノートのページの、頭の中の余白に、その言葉を仮置きした。
「お前は、どうだ。賢者、授かって、どう、思った」
私は少し、考えた。
考えてから、答えた。
「……魔法は、科学だ、と、思いました」
ライナルは目を、少し、見開いた。
それから、笑った。
「ほう、科学か」
「面白いことを、言うな」
「……変、ですか」
「変じゃ、ない」
ライナルは机の上で、両手の指を組んだ。
「でも、続きが、ある。詳しくは、また、今度、話そう」
──ここで、終わるのか。
──いや、ここから、なのだ。
朝の鐘六つが、塔の中で鳴った。
魔法概論の講義開始の鐘。
ライナルは椅子から立ち上がった。
「まあ、よろしくな、テオ」
「ありがとうございます、ライナル……先輩」
「ライナル、で、いい、って言ったろ」
ライナルは笑いながら、扉の方へ歩いた。
私は数秒、口の中で言葉を転がしてから、声に出した。
「……ライナル」
ライナルは、振り返って、もう一度笑った。
それから、廊下に出た。
廊下で、ライナルが立ち止まった。
「明日、井戸端で、見せたいものが、ある」
「井戸端、ですか」
「中庭の、北側の、井戸だ。鐘六つの、半、頃に、来い」
「はい」
ライナルは応用科棟の方へ、歩き出した。
私は廊下に立ったまま、後ろ姿を見た。
革袋が、ローブの裾の下で、軽く揺れていた。
歩幅は、急いでいなかった。
──この人は、私に、教えようとは、していない。
──ただ、見せようと、している。
──明日、中庭の、井戸端で。
私は会議室の扉の方を、もう一度、見た。
それから、自分の講義室へ向かう廊下を、歩き始めた。
朝の鐘六つは、まだ、塔の中で、薄く、響いていた。




