第7章 第4話「初学の階段」
入学式の翌朝、私は起床の鐘で目を覚ました。
朝の鐘は、五つ低く響いた。
午前五時半だった。
入学式の朝の鐘よりも、一刻早かった。
──初学の、朝は、ここから、始まる。
その時刻を、胸の奥で確かめた。
奥の寝台で、マチューが毛布の中で唸った。
「……五つ、もう?」
「ええ。五つ」
「冬は、まだ、暗いぜ……」
マチューは毛布からゆっくり頭を出した。
栗色の髪が寝乱れていた。
「南方では、冬の朝が、こんなに、早く、ないのか」
「ない。レヴァンタは、夏も冬も、朝が、緩い」
「商家の、息子は、たぶん、朝、緩い」
「商家じゃ、なくても、たぶん、緩いと思う」
マチューは欠伸をしながら、寝台から起き上がった。
「ただ、初学の、朝は、起きるしか、ない」
「ええ。起きるしか、ない」
私たちは制服に着替え、食堂で朝食を済ませ、玄関ホールで別れた。
マチューは剣冠館の初日の共通講義へ。
私は賢窓塔の賢者専攻の最初の講義へ。
寮区の出口から中央広場まで、ふだんの歩幅で五分。
中央広場から賢窓塔の入口まで、もう五分。
賢窓塔の入口から賢者専攻棟の二階の講義室まで、階段で二分。
合計、十二分ほど。
これが、毎朝の動線だった。
賢窓塔は白い石造りの塔だった。
入口の扉はふたつ。
両側に彫刻が彫られていた。
左の彫刻は書物。
右の彫刻は星。
そして、ふたつの上の要石に、螺旋の紋様が彫られていた。
──書物と、星と、螺旋。
──神紋の、三要素と、同じだ。
私は立ち止まり、要石を見上げた。
ただ、要石の螺旋は、神紋の螺旋とは線の太さが違った。
要石の螺旋は、太く装飾的だった。
神紋の螺旋は、細く機能的だった。
──同じ要素でも、表れ方が、違う。
──賢窓塔は、神紋を、引用しているのでは、なく、賢者の、象徴を、引用している。
──象徴の、起源が、神紋にある、というだけ、だ。
その距離を、胸の奥に置いた。
塔の入口を抜けると、内側は円形のホールだった。
ホールの中央に、らせん階段が立っていた。
階段は石造で、内側をらせん状に登っていく構造だった。
賢者専攻の講義室は二階。
導師専攻の講義室は三階。
最上階は観星台。
私はらせん階段を、二階まで登った。
階段の踏み面がすり減っていた。
第二寮の階段と、同じすり減り方だった。
──この、すり減りは、何百人もの、賢者の、徒の、跡だ。
──いま、私の、足が、その跡の、上に、ある。
その層を、足の裏で受け止めた。
二階の講義室は、賢者専攻の初学の教室だった。
中に入ると、すでにニコが座っていた。
私を見つけて、軽く手を上げた。
「テオ」
「ニコ」
私はニコの横の席に座った。
講義室は六十名ほどが座れる大きさだった。
ただし、初学の必修「魔法概論」は、全系統共通だった。
賢者専攻、導師専攻、そしてほかの系統からの聴講者も加わる。
総勢、六十人ほどだった。
私とニコは、賢者と導師の列の中間に座った。
その配置は自然だった。
「ニコの、寮、どう?」
「悪くない。同室は、北嶺ドイチェからの、留学生だった」
「北嶺ドイチェ?」
「ええ。なんか、口数の、少ない、人」
「ただ、夜、ストーブの、扱いが、上手い」
「冬の、フランディアは、ストーブが、扱えれば、半分、勝ち、らしい」
ニコはストーブの知識を、自分の口で嬉しそうに語った。
地方神官の家で育ったニコにとって、北の人のストーブの扱いは、新しい知識らしかった。
「テオの、同室は?」
「マチュー・サルダン。レヴァンタの、商家の、三男」
「召喚士系。砂蜥蜴を、一体、連れてる」
「砂蜥蜴?」
「ええ」
「俺、見たこと、ない」
「私も、まだ、見ていない。後で、マチューが、見せてくれるらしい」
「いいね。お前と、見るとき、俺も、誘ってくれ」
「ええ」
私たちが話していたそのとき、講師が講義室に入ってきた。
三十代の男だった。
簡素なローブ。
胸に専任教授の徽章。
歩き方は、靴音を立てず、ゆっくりだった。
教壇まで歩く間、講義室を一度ぐるりと見渡した。
新入生ひとりひとりの顔を、確かめるような視線だった。
「おはようございます」
「ガリエ専任教授、と、申します」
「初学の、魔法概論、を、担当いたします」
声は若く、明るかった。
ただ、明るさの奥に、知性の芯があった。
「諸君は、神託で、それぞれの、クラスを、授かりました」
「今日から、五年間で、諸君は、自分の、クラスを、もう一度、自分の、言葉で、学び直します」
「いま、諸君は、自分の、クラスを、知っているつもりでしょう」
「だが、たぶん、五年後には、もう一度、知らないことを、知ることに、なります」
ガリエ教授の口調は柔らかかった。
ただ、柔らかさの中に、油断を許さない何かがあった。
──言い切らない、節度の人だ。
「たぶん」「のでしょう」と、留保を一文ごとに置く癖がある、と私はすぐに気づいた。
「まず、初日です」
「初日は、魔法とは、なにか、という、最も、簡単で、最も、答えにくい、問いから、始めます」
「諸君は、魔法を、どう、定義しますか」
ガリエ教授は講義室を見渡した。
しばらく、誰も答えなかった。
緊張で、答える容量が足りないらしかった。
ガリエ教授は急がなかった。
ゆっくり待った。
そして、わずかに微笑んだ。
「急がなくて、よい」
「今日、答えなくても、いい」
「この問いは、五年間、抱えていく、問いです」
「今日の、私の、定義を、申し上げます」
「魔法とは、属性に、従って、世界に、変化を、生じさせる、ことです」
「ただし、これは、暫定的な、定義です」
「諸君は、これを、五年で、書き換えます」
私はその定義を、紙に書き写した。
「魔法とは、属性に、従って、世界に、変化を、生じさせる、こと」
──それは、すでに、自分で、確かめた。
火、水、風、土、光、闇。
六属性の初体験で、私は世界に変化を生じさせた。
そして、ガリエ教授の定義の上には、私の手のひらの中で、無から水玉が湧いた感覚が、すでに乗っていた。
──質量は、どこから、来たのか。
──風は、なぜ、乱流に、崩れなかったのか。
──光と、闇は、対称だったのか、対称でなかったのか。
追問は、いくつもあった。
ただ、いまここで、口に出すべきではなかった。
新入生の、初日の、必修講義は、講師の暫定定義を、まず受け取る場所だった。
反論は、後だ。
私はノートを簡素に取った。
前世物理学の用語は出さなかった。
ただ、講師の定義を、そのまま書き写した。
ガリエ教授の講義は、約一時間だった。
最後に教授は、宿題を出した。
「次の、講義までに、自分の、属性の、ひとつを、選んで、その、最初の、発動の、感覚を、紙に、書いて、提出してください」
「正解は、ありません」
「ただし、嘘は、書かないように」
「嘘は、書かないように」
その一文に、私は深く頷いた。
魔法概論の講師は、知性派の人らしかった。
そして、留保を置きながら、最後の一文だけは言い切る人だった。
「嘘は、書かないように」は、留保のない、ひと文だった。
二限目は、必修「歴史誌」だった。
別の講義室だった。
賢窓塔の別の棟の講義室らしかった。
私はニコと一緒にホールを降り、別の棟へ移動した。
歴史誌の講師は女性だった。
五十代、灰色の髪を結んでいた。
「ペレ専任教授、と、申します」
「アルテリア大陸の、通史を、五年で、講じます」
「初学の、初日は、千年前の、異変の、伝承から、始めます」
ペレ教授はアルテリア大陸の地図を、講義室の壁に広げた。
地図の上の点を指で示すとき、指先がわずかに震えていた。
──癖、らしかった。
地名を口にするときだけ、声に重みが乗った。
「千年前、アルテリア大陸の、各地で、似た、伝承が、残っています」
「地脈の、乱れ」
「魔物の、異常出現」
「古い、祠の、倒壊」
「これらの、現象が、ほぼ、同時期に、起きた、という、伝承です」
ペレ教授は地図の点をひとつずつ確かめながら、説明した。
「現代では、伝承の、域を、出ません」
「だが、伝承は、地名と、結びついて、複数の、地域に、似た、形で、残っています」
「そして、千年に、一度、似た、現象が、繰り返される、と、伝承は、語っています」
「つまり、次の、周期が、近いかもしれない、という、推測も、立てられます」
ペレ教授は、ここでひと呼吸を、置いた。
地図を指す手が、止まった。
そして、講義室の新入生たちを、一度見渡した。
「ただし、これは、学者議会では、議論の、最中、です」
「諸君は、五年で、議論の、現状を、自分の、言葉で、整理する、ことに、なります」
「千年前」と、胸の奥で繰り返した。
──千年前の、異変。
──次の周期が、近いかもしれない、と、ペレ教授は、言った。
──近い、とは、いつのことだろう。
──十年、五十年、百年、それとも、明日。
──講義室では、その問いを、表に出さなかった。
──いまは、まず、伝承の枠組みを、受け取る場、だった。
ペレ教授の講義は、淡々と続いた。
私はノートに短く書きとめた。
「千年前の、異変。地脈の、乱れ/魔物の、異常出現/古い祠の、倒壊」
「千年周期、説。学者議会、議論中」
それで十分だった。
三限目は、必修「討論基礎」だった。
講師は四十代の男だった。
声が太く、姿勢がよかった。
ひと言を発するたびに、半呼吸の沈黙を挟む癖があった。
講師は講義室を見渡し、ひとことだけ述べた。
「反論は、まず、聴くことから、始まる」
それから、半呼吸の沈黙を置いて、続けた。
「聴かずに、反論することは、容易だ。だが、議論ではない」
「フランディアの、議論は、聴くこと、を、最初の、節度と、する」
「聴いて、相手の、論を、自分の、言葉で、再構成、する」
「再構成して、初めて、自分の、反論が、立つ」
──前世の、研究室の、議論と、通底する。
──博士課程の、ゼミで、教授が、繰り返した、教えだった。
──「反論する、前に、相手の、論を、ひと文で、要約しなさい」
その教えと、今日の講師の教えは、同じものだった。
私はノートに書いた。
「反論は、まず、聴くことから、始まる」
「聴いて、相手の、論を、自分の、言葉で、再構成、する」
「再構成して、初めて、反論が、立つ」
それで十分だった。
三つの必修科目を終えると、午前は終わった。
午後は自由時間と選択講義の時間だった。
私は自由時間を選んだ。
ニコは選択講義に行った。
「お前、自由?」
「ええ。今日は、自由」
「いいね。俺、選択の、古典語、行く」
「学院公認の、初級、らしい」
「私も、いずれ、取る、かもしれない」
「来期から、ね」
「ええ」
ニコと別れ、私は賢窓塔を出た。
中央広場を横切り、図書館棟のほうへ歩いた。
学院図書館の入口を覗いただけだった。
中に入る勇気は、まだ出なかった。
それから、足は自然に工炉院のほうへ向かった。
理由は、自分でもよく分からなかった。
ただ、午前に煙突の煙を見て、その下にジル・カンタンのような人がいる、と思い出したからかもしれない。
工炉院の工房棟は、中央広場の南、低い塀の向こうに立っていた。
煙突が二本立ち、薄い煙が立ち上っていた。
煙は、午前見たときよりも薄かった。
午後の作業が、まだ本格化していないらしい。
私は工房棟の外側をゆっくり歩いた。
工房棟の入口の前に、ひとりの新入生が立っていた。
ジル・カンタンだった。
ジルは学院制服の上に、革のエプロンを羽織っていた。
エプロンには、すでにわずかな煤が付いていた。
ジルは入口の横の石に腰を降ろし、自分の指先を見ていた。
私はジルから十歩ほど離れた場所で、立ち止まった。
声をかけるか、迷った。
ジルが先に気づいた。
顔を上げ、私を見た。
そして軽く頷いた。
私も頷き返した。
それで、会話は終わった。
ジルは自分の指先に、目を戻した。
指先に、小さな焼き傷がひとつ増えていた。
赤い点だった。
ジルはその焼き傷を、もう一方の指で軽く触れていた。
──ジルは、毎日、手を、動かしている。
──初日から、もう、焼き傷を、ひとつ、増やしている。
──工炉院の、徒は、こうやって、日々を、過ごす。
その配置を、胸の奥に置いた。
そして、ジルにもう一度軽く頷き、工房棟のほうから離れた。
ジルは私を止めなかった。
呼び止めもしなかった。
ただ、私が立ち去るまでのあいだ、指先の焼き傷を見ていた。
──ジルと、私は、別系統だ。
──別系統だが、同じ、学府丘で、毎日を、過ごす。
──いつか、たぶん、何かで、私たちは、関わる。
──いつ、どこで、何で、関わるかは、まだ、分からない。
その「いずれ」を、胸の奥に置いた。
夜、202号室で、マチューが私に砂蜥蜴を紹介した。
寮の共同小屋から、マチューが砂蜥蜴を両手で運んできた。
砂蜥蜴は手のひらサイズ、灰褐色、ゆっくり動いた。
目が小さく、賢そうだった。
「テオ、こいつ、砂吉」
「すなきち?」
「ええ。俺が、付けた、名前」
「南方の、本名は、別に、ある」
「ただ、フランディアでは、すなきち、で、呼ぶ」
「すなきち、って、フランディア語?」
「いや。俺が、考えた、造語。砂、と、吉、で、すなきち」
「吉?」
「縁起、いい、字、らしい。母さんの、故郷の、商家の、家紋に、入ってる」
「らしい?」
「うん。商家の、母さんが、教えてくれた。南方の、商人言葉、らしい」
マチューは笑った。
「テオ、こいつ、触ってみる?」
「いいの?」
「いい。優しく、ね」
私は指先を砂蜥蜴の背中に触れた。
砂蜥蜴の背中は乾いていた。
冷たいが、不快ではない冷たさだった。
──蜥蜴は、温度を、持たない、らしい。
──正確には、外気と、同じ、温度に、なる。
前世の生物学が、頭の隅で軽く囁いた。
砂蜥蜴は私の指の温かさを感じたのか、わずかに私の指の方に頭を向けた。
「あ、お前のこと、ちょっと、興味、持ってる」
「分かる、の?」
「分かる。こいつは、興味ある人と、ない人で、頭の、向き方、違う」
「ふだん、他人には、こんなに、向けない」
「お前、相性、いいのかも、しれない」
私は指先を止め、砂蜥蜴の目を見た。
砂蜥蜴の目は、黒く小さく、しかし深かった。
──この子は、生きている。
──この子は、誰かに、選ばれた、ことを、知っている。
──そして、たぶん、自分も、選んだ、ことを、知っている。
マチューが私に語った。
「テオ、契約って、知ってる?」
「ええ。神託の、儀の、説明で、聞いた」
「召喚士は、契約獣を、契約する」
「ええ。けれど、契約の、形は、聞いた話と、実際で、たぶん、違う、らしい」
「うん。俺の、契約も、聞いた話と、違った」
「教科書では、召喚士が、契約獣を、選ぶ、と、書いてある」
「だが、実際は、違う」
「俺、レヴァンタの、砂浜で、父さんと、貝を、拾っていた」
「そしたら、こいつが、勝手に、俺の、指の上に、登ってきた」
「俺、驚いて、動けなかった」
「父さんが、『お前、選ばれたな』と、言った」
「父さんは、商人だから、神々の、仕組みには、詳しくない」
「だが、父さんの、口から、出た、その、ひとことが、たぶん、正解だった」
「俺は、選ばれた」
「選んだのは、こいつだ」
私はその「選ばれた」を、胸の奥で受け止めた。
──召喚士の、核は、契約は、理論ではなく、関係性。
神官事務室で、マルカン神官から、神託の前に教わった話。
それが、いまマチューの口から、生きた言葉として出てきた。
──契約は、選ぶのではなく、選ばれる。
その認識は、胸の奥で新しい層になった。
「マチュー」
「うん?」
「俺、もし、いつか、南へ、行ったら、お前の、家族に、会ってもいい?」
私は、率直に、尋ねた。
マチューは、笑った。
「もちろん!」
「いや、むしろ、俺の、家族に、会いに来てくれ」
「俺の、家族、サルダン商会、レヴァンタの、古市場の、近くに、ある」
「もしお前が、いつか、南へ、行くなら、訪ねろよ」
「父に、手紙、書いておく」
「テオ・ヴァルメールが、訪ねるかもしれない、と」
「父、喜ぶ、ぜ」
「ええ」
「ありがとう、マチュー」
私は深く頷いた。
──いつか、南へ、行くかどうかは、まだ、分からない。
──だが、行く道が、いま、ひとつ、開かれた。
その道を、胸の奥に置いた。
別の日の夜、共同浴場から戻る廊下で、イリヤとすれ違った。
イリヤは廊下の向こうから、自室のほうへ戻るところだった。
「ヴァルメールさん、こんばんは」
「こんばんは、ノヴァクさん」
「お慣れに、なりましたか」
「少しずつ」
「私も、似ています」
イリヤの応答は、入学式の日と同じ、丁寧な敬語だった。
私は立ち止まり、ひとこと付け足した。
「ノヴァクさんは、聖教国の、出身、ですよね」
「ええ」
「中央ルシア聖教国」
「フランディアと、信仰の、形が、違う、と、聞きました」
「ええ。違います」
「いずれ、お話を、聞かせて、いただけますか」
「夜更けに、たまには」
イリヤはわずかに目を上げ、私を見た。
その目は青く、透明だった。
そして、わずかに微笑んだ。
「喜んで」
「ただ、私は、押し付け、ません」
「信仰の、話は、聞きたい、と、聞き手が、思った、ときに、しか、しません」
「そういう、信仰、です」
イリヤのその節度に、私は深く頷いた。
──この人は、信仰を、武器にしない、人、だ。
──押し付けない、信仰の、人、だ。
「ありがとう、ノヴァクさん」
「いつか、お聞きします」
イリヤは軽く頭を下げ、自室のほうへ戻っていった。
私は202号室の扉を開け、中に入った。
マチューはまだ共同小屋で、すなきちの世話をしていた。
部屋には私ひとりだった。
私は机に座り、引き出しから実験ノートを取り出した。
ノートを開き、新しいページの前のページに戻った。
そこに、六つの未解決事項が書かれていた。
火、水、風、土、光、闇。
それぞれの未解決の問い。
そして、ページの下に、私が書いた一行があった。
「複合魔法は、学院で」
私はその一行を、指で軽くなぞった。
──この一行を、まだ、実行しない。
──もう少し、待つ。
──いまは、まず、学院の、議論を、聞く。
──まず、学院の、講義を、受ける。
──まず、ここに、慣れる。
その抑制を、胸の奥で受け止めた。
「複合魔法は、学院で」と書いたあの夜、私は神月十六日の最後の独白を書いた。
──魔法は科学だ。
──だが、科学だけでは、魔法は、語れない、らしい。
その一行は、まだ生きていた。
そして、六つの未解決事項も、まだ抱えたままだった。
──ここでは、まだ、試さない。
もう一度、自分に言い聞かせた。
そして、ノートを閉じた。
ノートを閉じたあと、私は机の引き出しから別の紙を取り出した。
母エリザベートが用意してくれた、薄い羊皮紙の一枚だった。
その羊皮紙を、机の上に広げた。
私は筆を取り、息を整えた。
そして、書き始めた。
「アネット様」
呼称は、迷ってから「アネット様」と書いた。
「カステル様」ではない。
「アネット様」と書いた。
神月の街角の挨拶のときに、古本屋の店先で、アネットは私に「テオ、私たち、同じ賢者だね」と言った。
その「テオ」と呼ばれた響きが、私の内側に残っていた。
その響きの対として、「アネット様」と書いた。
──「様」は、私と、アネットの、距離。
──「アネット」は、ニコや、エメや、ロイクと、同じ、呼び方。
そのふたつの釣り合いで、書いた。
「リューヴェルに、着きました」
「入学式は、長く、しかし、興味深い、ものでした」
「塔は、問い、館は、応え、炉は、形にする、と、学院長は、訓示しました」
「……あなたの、古本屋の、書架の、静けさが、ここでは、街路の、議論の、声の、中に、ありました」
そこまで書いて、私は筆を止めた。
筆が、止まったままだった。
書架の、紙の、匂いを、私は、思い出していた。
古い紙の、わずかに甘い、埃のような匂い。
「テオ」と、呼ばれた響きを、もう一度、胸の中で、再生した。
ふだんの「テオドール」とは、半歩、違う「テオ」だった。
近い、けれども、馴れ馴れしくない「テオ」だった。
その響きを、どう、続けるべきか、私は、まだ、知らなかった。
筆の先で、墨が、わずかに、滲んだ。
私は筆を、置いた。
──まだ、何を、書くべきか、整理されていない。
──続きは、半月後に、書こう。
そう、自分に言い聞かせた。
手紙は、まだ未完だった。
未完のまま、羊皮紙を机の上に置き、ノートと並べた。
封はしない。
封は、続きを書いてから、する。
机の両側に、ノートと書きかけの手紙が並んだ。
ノートには、六つの未解決事項と「複合魔法は、学院で」の一行。
手紙には、五行の書き出しと、まだ書かれない続き。
私は椅子から立ち上がり、窓辺に立った。
夜の霧が、また立ち始めていた。
霧の向こうに、ヴァル川の双子尖塔は見えなかった。
ただ、私は知っていた。
そこにある、ということを。
「双子尖塔は、そこに、ある」
「霧が、薄れれば、また、見える」
胸の奥で、繰り返した。
そして、もう一度振り返って、机の上のノートと手紙を見た。
机の左に、未解決の問い。
机の右に、書きかけの手紙。
そして、引き出しの最上段に、入学式の案内。
二段目に、明日からの朝の案内。
三段目に、薄い羊皮紙の残り。
──ここの、机の、引き出しに、未来が、ある。
──あの、アルセリアの、机の、引き出しに、過去が、ある。
──ふたつの、机が、ふたつの、街で、私を、引っ張っている。
──ふたつの、引っ張りが、私の、毎日の、軸に、なる。
私はもう一度、窓辺に立った。
そして、過去を、胸の奥で振り返った。
アルセリアでの神月十五日。
聖紋盤の上の額の熱。
ソフォン、と呼ばれた内なる声。
そして、神月十六日からの数週間。
自室での六属性試行。
中庭の井戸端での風と土。
街角の同期との挨拶。
兄マルクとの書斎での対話。
クララとの3年後の約束。
そして、章末独白。
「魔法は科学だ。だが、科学だけでは、魔法は、語れない、らしい」
──あの数週間は、楽しかった。
過去形だった。
楽しかった、と過去形で置いた。
──アルセリアの、数週間は、楽しかった。
──六属性の、試行は、楽しかった。
──研究者の、興奮と、子供の、身体の、高揚が、釣り合っていた、あの数週間。
──「ありえない、けれども、できる」を、何度も、繰り返した、あの数週間。
──たくさんの、新しいことを、自分の、手で、確かめた、あの数週間。
──あの数週間は、楽しかった。
過去形で置くことで、私はそれを内側にしまった。
そして、現在形を置いた。
──ここから、別の、毎日が、始まる。
楽しかったことは、過去形。
これから始まることは、現在形。
ふたつの時制が、内側で釣り合った。
私は机に戻り、ノートの別のページを開いた。
今日の章末独白を書くページだった。
筆を取った。
息を、ひと呼吸整えた。
──少し、考えた。
そして、書いた。
「リューヴェルは、見上げる街だった」
「私の道は、ここから、毎朝、始まる」
筆を置いた。
ノートを閉じた。
そのとき、扉が開いた。
マチューが共同小屋から戻ってきた。
すなきちはもう、小屋に戻されていた。
マチューの頬が、夜の空気でわずかに赤くなっていた。
「テオ、寝るところ?」
「いや、まだ。机に、いた」
「真面目だね、お前」
「そんなことはない」
マチューは寝台に腰を降ろし、ふと、思い出したように付け足した。
「そういえば、テオ、聞いたか?」
「何?」
「賢者専攻の、応用科二年の、先輩賢者が、明日、新入生に、初顔合わせの、挨拶を、するらしい、ぜ」
「応用科、二年?」
「そうそう」
「寮の、談話室で、聞いた」
「北西ベルジアの、辺境出身、らしい」
「口数の、少ない人、らしいけど、評判は、いいらしい」
私は「先輩賢者」と、黙って短く反芻した。
──応用科二年の、先輩賢者。
──北西ベルジアの、辺境出身。
──口数の、少ない人。
──評判は、いい。
兄マルクと、同じ、応用科二年。
ただ、専攻は、賢者。
兄は、導師。
賢者の先輩というのは、私がまだ出会っていない、別の先輩だった。
「ありがとう、マチュー」
「教えてくれて」
「ふん、まあな」
「俺、剣冠館の、連中から、聞いた」
「剣冠館にも、賢窓塔の、噂が、流れてくる」
「学院は、狭いな」
「ええ。学院は、狭い」
マチューは寝台で、ひと欠伸をした。
それから、寝衣に着替え、寝台に入った。
私も寝衣に着替え、寝台に入った。
ランプの火を絞った。
部屋が薄暗くなった。
寝台の中で、最後の確認を置いた。
──リューヴェルは、見上げる街だった。
──私の道は、ここから、毎朝、始まる。
──明日、賢窓塔の、先輩賢者が、初顔合わせの、場に、来るらしい。
過去形と、現在形と、未来形。
時制の三つが、胸の中で釣り合った。
私は目を閉じた。
寝台の中で、ヴァルの霧の湿りはもう感じられなかった。
毛布の温度が、私の身体に馴染んでいた。
──五日、寮の、寝台に、なじむのに、五日。
──五日で、寝台は、私の、寝台に、なった。
その馴染みを、足の裏で受け止めた。
そして、眠りに降りていった。
霧の向こうの双子尖塔は、見えなかった。
ただ、明日も、明後日も、その向こうも、そこにある。
私の毎朝は、その「ある」の上で始まる。
そして、その上で、まだ出会っていない先輩賢者が、明日、私の前に現れる。




