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第10章 第1話「同じ字体だ」

鐘九つが、賢窓塔の中で、低く、鳴った。


午前の、半ばの鐘。


賢窓塔の北窓から差す結月の光はまだ高く、書架の上段の埃を金色に浮かせていた。


私は図書館の中層に足を踏み入れた。


学院に来てから、ここに上がるのは初めてだった。


賢窓塔の図書館は三層に分かれている。下層は教科書と参考書、中層は副教材と地方資料、上層は研究科向けの専門書庫。


中層は許可なく入れる。だが、十歳の一年生が午前の自習時間にわざわざ上がってくる場所ではなかった。


午前の中層に、人影はなかった。


奥の書架の前で、見習い司書らしい若い男が黙々と書物の背表紙を揃えていた。


私は書架の間をゆっくりと歩いた。


「今日は、何を、読むか」を、決めずに来ていた。


岳月初旬の、あの夜から——燃え尽きたノートと、煤と、霜の息と、夜半の教授室——あれから私の中で、「読みたい本のリスト」が空になっていた。


ヴァルニエ教授の事前確認のもとでは、新しい実験はできなかった。手を動かさずに過ごす午前を、何で埋めるか。


私はまだ、見つけていなかった。


書架の側面に、案内札が掲げられていた。


「地方資料/民俗/歴史/伝承」


下の段に、もう一行。


「閲覧自由。書物は、図書館の外に、持ち出さない」


私は案内札の前で、しばらく立っていた。


午前の図書館の静けさが、書架の通路を薄く満たしていた。


階下から何かを踏みしめる足音は、上がってこなかった。


中層に来ているのは、私と奥の見習い司書だけ。


「まあ、何かを、選べばよい」


そう、内側で整理した。


地方伝承資料の棚の前で、私は止まった。


理由は、なかった。


いや、理由はあったのかもしれない。


燃え尽きた、あの夜から、私は手に取ったことのない棚を、選びたかった。


未踏領域を、何か一つ、自分の手で、引き抜きたかった。


棚の表示札に、「北西ベルジア辺境伯領/南海レヴァンタ/西部フランディア丘陵地」と並んで書かれていた。


私は上から二段目の革表紙の書物のうち、わずかに傾いて並んだ一冊を、指で引き抜いた。


表題には、こう読めた。


「北西ベルジア辺境伯領 民俗記録 第三巻」


書物を手前の机に置いた。


椅子を引いた。


座って、表紙を開いた。


羊皮紙の頁が、薄く抵抗するようにめくれた。


古いインクの褐色。フランディア語の、地方の民俗の記述。婚礼の風習、収穫祭の歌詞、地名の由来、土地の精霊についての伝承。


知らない地名と知らない歌が、頁の上で淡々と並んでいた。


私は半分ほど、読み進めた。


頁の中ほどで、私の指が止まった。


頁の中央に、フランディア語の段落が終わって、一行空いている。


その空白の下に、フランディア語ではない一文が、引用として挿入されている。


短い。十二、三語ほど。


字形は、フランディア語の文字とは明らかに違う。


母音らしき記号が、子音らしき記号より目立っていた。


長く、伸びる、線。


子音と子音が、隣り合わない。


カタカナで書き写すなら——ノアン、コリエ、エ、マグナ、フォクス、ノ、テラム、コリエ、と、そんな音感が舌の上に浮かんだ。


前世の音体系の記憶が、片隅で何かを囁いた。


「北欧語のような、しかし違う、何か」


私の前世の知識は、こんな音体系を知らなかった。


だが、この音感は——


頭の中で、何かが、引かれた。


完全記憶は、私が意識せずとも、似た形を勝手に呼び出してくる。


呼び出されたのは——


神月十四日の夜、父の書斎で私が開封した、あの羊皮紙の、三枚目。


私の頭の中に、二つの頁が並んだ。


一つ。


今、目の前にある、地方民俗記録の引用句。


もう一つ。


完全記憶が私の中に保持している、あの三枚目の、冒頭の数行。


字形が、同じだった。


筆跡は、違う。


目の前の頁の文字は、印刷された、整った字体。あの羊皮紙の三枚目は、肉筆の、やや右下がりで、小ぶりに密。


だが、文字の体系が、同じだった。


長音記号の位置、母音の連なり方、子音の単独で立つしかた——どれも、同じ。


私は図書館の机の前で、息を止めた。


完全記憶は、字形の細部を四十六年前の筆跡のまま、私の中に保持している。


私はあの三枚目を、神月十四日の夜以来、物理的には二度しか開いていない。


だが、字は、私の中で、いつでも、引き出せる。


頭の中で、二つの頁を、重ね合わせた。


引用句の、二語目。


完全記憶の中の、三枚目の、最初の段落の、後半に、現れる、似た形の語。


長音記号の、傾き。


母音と母音の間の、点の有無。


線の終わりの、わずかな、跳ね。


一致。


引用句の、五語目。


完全記憶の中の、三枚目の、別の段落の、頭に、ある語。


二つの語は、同じ形を、共有していた。


口の中で、舌が、わずかに、動いた。


ノアン、コリエ、エ、マグナ、フォクス、ノ、テラム、コリエ。


その音を、内側で、確かめた瞬間、完全記憶が、あの三枚目の、別の場所を、もう一つ、呼び出した。


三枚目の、中ほど。


ノアン、モルテ、ファルナ、エ、イシュタル、コーレ、ノ、テラム。


「ノアン」が、両方に、ある。


「テラム」が、両方に、ある。


「コリエ」が、片方に、二度、片方に、一度、ある。


完全記憶は、こちらが問いを発しなくても、関連する形を勝手に並べ始めていた。


私はその並びを止めなかった。


ただ、机に両手を置いて、頭の中で静かにそれを見ていた。


「……これは、祖父の手紙と、同じ言葉だ」


内側で、だけ、呟いた。


声には、ならなかった。


書架の奥で、見習い司書が本の背を揃え直す音が続いていた。


私は書物を閉じなかった。


頁を開いたまま、しばらく机に両手を置いた。


胸の中で、何かがゆっくりと温度を変えていた。


驚き、では、なかった。


四十六年前の夜と目の前の昼が、一本の糸で繋がった——その繋がりに、私が追いついた感覚だった。


私は立ち上がった。


司書席に向かった。


「書物を、写したいのですが」


見習い司書の若い男は、書架の前から振り返った。


私より四つか五つ年上に見えた。学院の制服ではない。図書館の見習い用の、灰色の上衣。


「書物は、持ち出さないように」


短く応えてから、男は司書席の引き出しを開けた。


紙と、筆と、小さなインク壺を机に出した。


「ここで、写すなら、自由だ」


「……ありがとうございます」


私は紙と筆を受け取って、机に戻った。


書物の頁を、もう一度、開いた。


引用句は、まだ、同じ位置に、ある。


私は、完全記憶を、使わなかった。


頭の中で、字を、見ることは、できる。


だが、私は、手で、写すことを、選んだ。


岳月初旬の、あの夜から、私は「書き写さないことを、選ぶ」を覚えた。


燃え尽きたノートの全頁は、今も私の頭の中で、いつでも再生できる。


だが、書き写さない。


それが、私の、運用に、なった。


今は、違った。


「祖父の手紙と、同じ字形だ」と確信した瞬間、それを物理的に手元に持つことが、次の一歩のために、要る、と判断した。


書き写さない選択も、書き写す選択も、私が、その都度、決める。


筆を、握った。


ペン先を、インクに浸した。


一画ずつ、写し始めた。


ゆっくりと、写した。


完全記憶があるから、書き間違える心配はなかった。


だが、私は手の動きそのものを覚えるように、写した。


長音記号の位置の、わずかな高さ。


母音と母音の間の、間隔。


子音単独の、線の、わずかな終わりの曲がり。


字を書くという動作は、頭の中で字を見るのとは違った。


頭の中で見る字は、四十六年前の肉筆のまま。


手で書く字は、十歳の私の、まだ細い筆運びの跡。


二つは同じ字形を共有しながら、別の体に宿っていた。


「書くと、字が、自分の体の中に、入る」


そう、内側で整理した。


完全記憶は、見たものを忘れない。


だが、見たものは、まだ、私の手の動きには、なって、いない。


手で写すことは、字を、知識から技能に移し替える動きだった。


そう、私は岳月初旬の失敗の夜以来、初めて考えた。


頭の中の、燃え尽きたノートの全頁は、いまも保持されている。


だが、それは私の手では、もう、書けない。


書こうとしないから、書けない。


今、書こうとしている、この、知らない言語の一文だけは、違った。


書こうとしている。


書ける。


私の手が、覚え始めている。


写し終えるのに、四半刻ほどかかった。


紙をふたつ折りにした。


書物を書架に戻した。


革の表紙の手触り。書架への戻る低い音。頁の重み。


それらも、私の中に、入った。


司書席に礼をして、図書館を出た。


賢窓塔の螺旋階段を下りた。


鐘十一つが、賢窓塔の中で、低く、鳴った。


昼前の鐘。


階段を下りきって、外に出た。


賢窓塔の、北側の中庭。


ライナル先輩の井戸端の、あの石組みが、視界の隅に見えた。


四ヶ月前、あの石組みの周りで、私は先輩の三十滴と向き合った。


私は井戸端に寄らなかった。


「今は、井戸端では、ない」


内側で、判断した。


先輩はまだ、ベルジア方面から戻っていなかった。だが、それだけが理由ではなかった。


書き写したばかりの紙は、今、私の手の中にある。


これをまず、机の上で見直す。


机の引き出しに、麻布で包んだ、あの木箱がある。


その二つを並べて、見る。


それが、今日の昼だった。


寮の自室。


マチューはまだ、授業中で不在。


私は机の前に腰を下ろした。


ふたつ折りの紙を机の上に広げた。


書き写した古代語の一文が、机の上に現れた。


紙の隣に——


書きかけの、アネットへの手紙がある。


封のないまま、五行。


岳月初旬の、あの夜から、続きを書かなかった。


その隣に——


書きかけの、父への手紙。


封のないまま、一行。


「父上。リューヴェルで、最初の、失敗を、しました」


机の上で、三つが、並んだ。


書き写した古代語の一文。


書きかけのアネット手紙。


書き始めの父への手紙。


「書きかけ、書きかけ、書けない」


そう、内側で、整理した。


私は父への手紙を取った。


筆を、握り直した。


書き継ぐ内容を、しばらく考えた。


失敗の経緯は、書かない。マルクへの返事の手紙で、すでに書いた。母エリザベートにも、兄から伝わっている。父にも、おそらく伝わっている。


ヴァルニエ教授の保護観察も、書かない。それは私の方から、報告する話ではない。


代わりに——


私は書き写したばかりの古代語の一文を、便箋に転写した。


一字ずつ、丁寧に。


書き終えてから、続く三行を書き足した。


「学院の図書館の、地方民俗記録の中に、こういう一文が、引用として、ありました」


「字形が、神月十四日の夜に、頂いた、あの羊皮紙の三枚目と、同じに、見えました」


「父上の、お考えを、お聞かせください」


便箋を、ふたつ折りにした。


封蝋を机の引き出しから出した。


蝋を軽く、灯りに近付けた。


蝋がわずかに柔らかくなったところで、封を押した。


ヴァルメール家の紋章ではない。学院の、見習い用の、小さな印。


手紙便で出すのは、明朝。


寮の玄関の、共用の手紙箱に入れれば、明朝、学院の連絡係が街道便に引き渡す。


アルセリアまで四日。返事の手紙が戻るまで、おそらく九日か、十日。


机の上で、書き始めの父への手紙は、四行になった。


書きかけのアネット手紙は、まだ、五行のまま。


書き写した古代語の一文の原本の紙は——机の引き出しの、二段目に収めた。


机の引き出しの最下層には、麻布で包んだ、あの木箱がある。


四ヶ月前、リューヴェルに来る時、寮の机の中に移した。


私は最下層を開けない。


開けないまま、頭の中で、三枚目の冒頭を引き出した。


字形は、完璧に、私の中に、ある。


「読めるのに、意味が、取れない」


そう、内側で、呟いた。


声には、ならなかった。


字は、私の中に、ある。


だが、それは、まだ、私の言葉に、なって、いない。


机の上で灯りを一度消そうとして、私は手を止めた。


まだ、夕方の鐘十二つの前だった。


寮の窓から、結月の光がヴァルの霧の薄い空の下を横切って、まだ机の上を薄く照らしていた。


私は椅子に座ったまま、窓の方を見た。


賢窓塔の双子尖塔——いや、リューヴェルの双子尖塔はヴァル川の中州。学院の賢窓塔は、別の塔。


窓から見えるのは、賢窓塔の他の棟と、その向こうの、街路の屋根。


「ライナル先輩は、まだ、戻っていない」


「だが、戻ってきても、井戸端で、報告する話は、これでは、ない」


「これは、まず、父上に、相談する話だ」


「先輩に、話すのは——もう少し、後」


そう、内側で、決めた。


「明朝、手紙便で、出す。返事は、九日後か、十日後か」


「返事が来るまで、私は、何を、するか」


「……井戸端に、寄ろう。明日の、朝の、鐘六つ」


「先輩は、いない。だが、井戸の前で、立つことは、できる」


「水球の精度を、もう一度、確かめる」


その判断は、岳月初旬の失敗の夜以来、初めて、内側で、軽く、動いた決断だった。


軽い、と感じた。


それが、少し、怖かった。


「軽い、ということは、私が、もう、あの夜の重みから、抜けかけている、ということか」


そう、内側で、問うた。


答えは、出なかった。


ただ、机の上で、四つが、並んでいた。


書きかけのアネット手紙。


書き始めの父への手紙——いまは、四行に、なった。


書き写した古代語の一文の、原本。


そして、明朝、手紙便に、出す封筒。


四つを、見比べた。


「書きかけ、書きかけ、書けない、書き終えた」


そう、内側で、整理しなおした。


「書き終えた」が、一つ、増えた。


岳月初旬の、あの夜以来、初めて。


鐘十二つが、賢窓塔の中で、低く、鳴った。


正午の鐘。


マチューが、午前の授業から、寮の廊下を、歩いてくる音が、聞こえた。

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