第6章 第3話「見えない内側」
家族での昼食は、簡素だった。
白パン、根菜の煮込み、葡萄酒の水割り。
ふだんの、神月の祝日の翌日の、午前の労働を、軽く済ませたあとの、昼食らしい献立。
兄マルクが、昼食の途中で、母エリザベートに、告げた。
「俺は、午後二時の馬車で、学院に、戻る」
「ええ」
母は、頷いた。
「お弁当を、用意しておきました。馬車の中で、食べなさい」
「ありがとう、母さん」
兄は、自分の皿の煮込みを、ふだんの早さで、食べていた。
いつもの早さは、家族の昼食では、いちばん速かった。
ただし、今日の早さは、ふだんの早さよりも、少し、ゆっくりに、なっていた。
わずかに。
兄が、何かを、考えながら、食べていた、ということだった。
クララは、自分の皿の根菜を、選り分けていた。
赤い根を、先に、食べて、白い根は、後で、食べる、と、決めていた。
クララの、ふだんの、食べ方の癖。
私は、その選り分けを、見ながら、いつもの白パンを、半分だけ、食べた。
午前中の、四つの属性の試行で、ふだんより、腹の奥に、ある「ある」感覚が、軽くなっていた。
魔力を、四つの方向に、引き出した、その分。
そのため、ふだんの食欲が、ふだんより、半分くらいに、なっていた。
母エリザベートが、私の方を、見た。
「テオ、午前中の魔法は、どうだった?」
「四つの属性を、試しました」
私は、答えた。
「残りは、二つです」
「四つ?」
「火、水、風、土」
「あらまあ」
母は、ふだんの「あらまあ」の音で、答えた。
驚きの、半分。
理解の、半分。
「それは、お疲れさま。残りの二つは、いつ、するの?」
「午後です」
「夕方になる前に、終わらせるつもりです」
「ええ」
母は、頷いた。
「夕食の前に、終わらせて、夕食の後は、ゆっくり、しなさい」
「はい」
父アンリが、卓の上の、葡萄酒の水割りの杯を、軽く、傾けた。
そして、いつもの「テオ」の音より、ほんの少しだけ、ゆっくり、私の名を、呼んだ。
「テオ」
「はい、お父さま」
「よく、休みながら、進めなさい」
父は、それだけ、言った。
それ以上は、何も、言わなかった。
ただ、その「休みながら」の言葉が、ふだんの「休みながら」より、わずかに、重かった。
「はい」
私は、答えた。
兄マルクが、昼食を、終えた。
兄は、立ち上がって、玄関ホールへ、向かった。
私も、自分の昼食を、終えて、兄を、玄関ホールまで、見送った。
玄関で、兄は、学院の正装の上に、外套を、着た。
外套は、紺の、厚手の、もの。
学院から、支給された、冬用の外套。
兄が、外套の留め金を、留めながら、私に、向かって、言った。
「テオ」
「はい、兄さん」
「夜には、戻れない」
「はい」
「明日の朝、お前が、学院に発つ前に、もう一度、戻る」
「はい」
「明日の朝、もう一度、話そう」
「はい」
兄は、頷いた。
そして、玄関の扉を、開けた。
冬の午後の、薄い光が、玄関に、入ってきた。
「行ってくる」
「行ってらっしゃい、兄さん」
兄は、外套の襟を、首の周りに、立てて、外へ、出た。
扉が、閉まった。
玄関に、私だけが、残った。
私は、しばらく、玄関の床の、ふだんの石の冷たさを、足の裏で、感じていた。
兄が、ふだんと違って、丁寧に、林檎を、半分に、割ってくれたこと。
兄が、ふだんと違って、ゆっくり、煮込みを、食べたこと。
兄が、ふだんと違って、「明日の朝、もう一度、話そう」と、告げたこと。
──兄さんは、私に、何かを、伝えたい。
私は、内側で、保留した。
ただ、それが、何かは、まだ、わからなかった。
兄が、明日の朝、戻ってきて、話す、と、決めたなら、それが、明日の朝、わかる。
私は、玄関ホールから、自分の部屋へ、戻った。
廊下の床の冷たさが、いつもの感覚で、足の裏に、届いていた。
その感覚は、ふだんの私を、ふだんの暮らしに、繋いでいた。
自分の部屋に、戻った。
窓辺の光は、午後の、薄い光に、変わっていた。
冬の午後の、雲の薄い、光。
いつもの、夕方には、まだ、間が、ある。
ただ、もう、午前の光では、なかった。
──残りは、光と、闇。
──光から、試そう。
──闇は、最後だ。
私は、内側で、決めた。
そして、もうひとつ、決めた。
──光と、闇は、家族の目を、避けて、自室で、試そう。
光は、視野が、白く、飽和するかもしれなかった。
その瞬間に、誰かが、見ていると、誰かを、驚かせる、かもしれなかった。
闇は、もっと、別の理由で、家族の目を、避けたかった。
その理由を、私は、まだ、自分でも、明確には、説明できなかった。
ただ、闇は、人前で、出すものでは、ないかもしれない、と、内側で、感じた。
その感覚は、ふだんの私の、観察癖から、来た、ものでは、なかった。
もっと、深い場所から、来た、本能的な、節度。
その節度を、私は、いったん、受け止めることに、した。
私は、机の椅子に、座った。
机の上には、まだ、午前の、二つの杯が、置かれていた。
一つは、空の杯。
魔法の水玉が、消えたあとの杯。
もうひとつは、井戸水の杯。
ひとさじの、井戸水が、まだ、残っていた。
私は、その二つの杯を、机の脇に、寄せた。
机の中央を、空けた。
そして、カーテンを、もう、もう少しだけ、深く、閉めた。
午前のときよりも、もう少しだけ、室内を、暗くした。
光を、出すのに、外の光が、強すぎると、白光の球の輪郭が、見にくいと、思ったから。
椅子に、座った。
両手を、机の上に、置いた。
右手のひらを、上に向けて、左手のひらで、軽く、支える。
ふだんの、姿勢。
──光。
その一音を、心の中で、呟いた。
種詠唱の、最後の一音が、内側で、消えた瞬間。
指先で、何かが、また、巻き始めた。
ただし、今回の渦は、これまでの、火、水、風、土と、また、違う、巻き方を、した。
火は、点として、凝集した。
水は、球として、凝集した。
風は、外へ、抜けた。
土は、下へ、沈んだ。
光は、いつもの一秒のあいだに、面として、広がった。
広がる、というのは、私の指先から、外へ、抜けるのでは、なかった。
私の指先から、手のひらの上面に、ゆっくりと、薄く、広がる。
そして、手のひらの上面の、空間全体に、薄く、白光が、満ちた。
白光は、手のひらの皮膚の、上面の、ふだんの空気の層の、その奥に、ひとつの、丸い、面として、現れた。
面の直径は、握りこぶしの、二倍ほど。
ふだんの蝋燭の、炎の、面が、あるとしたら、その面の、二倍ほど。
そして、その白光は、視野の中で、急に、強くなった。
私は、目を、軽く、細めた。
完全に、閉じはしなかった。
ただ、いつもの目の開きの、半分くらいに、絞った。
その絞り方で、白光は、視野の中心で、白く、飽和しかけた。
ただし、飽和は、しなかった。
ぎりぎりの、ところで、止まった。
それは、私が、集中の力で、止めた、のかもしれなかった。
あるいは、白光そのものが、ふだんの蝋燭の、炎より、少しだけ、強いだけで、私の視野を、完全に、塗りつぶす力は、持っていなかった、のかもしれない。
──熱が、ない。
私は、内側に、留めた。
そして、その置き方は、火のときとは、まったく、違う、置き方だった。
火のときは、橙の点が、出た瞬間に、皮膚に、届く前の層で、止まる熱を、感じた。
体温より、三度、高い熱。
それが、火の、ふだんの感覚だった。
光のときは、白光の球が、出た瞬間に、手のひらの皮膚に、何の温度の変化も、感じなかった。
冷たくも、ない。
熱くも、ない。
いつもの、私の手のひらの、ふだんの温度のまま。
その上に、白光が、ある。
──光が、熱と、切り離されている。
私は、内側で、置いた。
そして、もうひとつ、置いた。
──ふだんの世界では、光と、熱は、切り離せない、はずだ。
前世の物理学で、私は、習った。
可視光は、エネルギーを、持つ。
エネルギーを、持つものは、熱を、伴う。
蝋燭の炎の光は、炎の熱を、伴う。
太陽の光は、太陽の熱を、伴う。
いつもの世界の、光は、ふだんの世界の、熱と、不可分だった。
ここに、ある光は、熱を、伴わない。
不可分が、分かれていた。
口の中が、わずかに、甘くなった。
ふだんの、味覚ではない味。
砂糖の、甘さでは、なかった。
蜂蜜の、甘さでも、なかった。
果実の、甘さでも、なかった。
ただ、口の中の、舌の真ん中あたりに、ふだんと違う、薄い甘さが、ある気が、した。
その甘さは、たぶん、光属性の、いつもの味覚への、影響だった。
そして、聴覚も、ふだんと、違っていた。
ふだんの、自分の部屋の、自分の呼吸の音と、机の脇の二つの杯の、井戸水のわずかな揺れの音と、廊下の遠くの、台所の物音。
それらの、ふだんの、室内の音が、すべて、薄まった。
いつもの自分の呼吸の音は、まだ、聞こえた。
ただ、ふだんより、遠く、聞こえた。
そして、もうひとつ、別の音が、耳の奥に、ある気が、した。
耳鳴り、のような、高音。
ふだんの耳鳴りとは、違う、もう少し、澄んだ高音。
その音は、白光の球の、内側から、来ている気が、した。
私は、白光の球を、見つめた。
そして、真理の眼を、開いた。
ふだんの、真理の眼を、開いた瞬間。
いつもの、対象の、輪郭が、薄く、ほどける。
ほどけた内側に、対象の、内部構造が、見える。
火のときは、渦が、見えた。
水のときは、球面張力と、流動が、見えた。
風のときは、空気の筋が、見えた。
土のときは、結晶格子が、見えた。
光の、球の内部は、ほぼ、均一だった。
均一、というのは、何も、見えない、のでは、なかった。
ただ、ふだんの、対象の、ふだんの、内部構造の、複雑さが、なかった。
火の渦のような、回転が、なかった。
水の球面張力のような、張りが、なかった。
風の空気の筋のような、方向が、なかった。
土の結晶格子のような、規則的な、繰り返しが、なかった。
ただ、白光が、均一に、満ちている。
球の中心と、球の表面の近くで、わずかな、明るさの差が、ある気が、した。
ただし、その差は、ほとんど、見分けが、つかなかった。
いつもの、私の真理の眼の、感度の、限界に、近い、わずかな差。
──光には、構造が、ないのか?
私は、内側で、保留した。
その置き方は、これまでの、四つの属性の、どれとも、違う、戸惑い方だった。
火、水、風、土。
そのどれも、内部構造を、持っていた。
そして、その内部構造の中に、ふだんの物理学では、説明できない、部分が、必ず、ひとつ、含まれていた。
光は、内部構造が、見えない。
見えないのは、内部構造が、ないからなのか。
それとも、ふだんの、私の真理の眼では、見えないだけで、構造そのものは、あるのか。
私は、真理の眼を、もう少しだけ、深く、向けた。
すると、白光の球の、表面に、極めて、細かい、揺らぎが、見えた。
揺らぎは、いつもの、私の真理の眼で、ぎりぎり、見える程度の、細かさだった。
揺らぎの大きさは、髪の毛の、太さの、十分の一くらい。
揺らぎの動きは、規則的だった。
ある一定の、周期で、繰り返されていた。
その揺らぎを、私は、まだ、言語化できなかった。
たぶん、それは、光の、波長の分布の、表れ、だった。
前世の物理学で、私は、習った。
可視光は、波長を、持つ。
波長は、色を、決める。
色は、赤、橙、黄、緑、青、藍、紫の、虹の色の、順に、波長を、変える。
ただし、その「波長」を、いま、私の真理の眼が、見ている、と、断言は、できなかった。
ただ、揺らぎが、ある。
その揺らぎは、たぶん、光の、構造の、何かを、表していた。
──構造は、ある。
私は、内側に、留めた。
──ただ、薄い。
そして、もうひとつ、置いた。
光の、球を、見つめながら、ふと、私の内側で、別の感覚が、生まれた。
それは、白光の球の温度と、私の額の、ある記憶の、温度の、重なりだった。
私の額の、ある記憶。
聖紋盤の上で、私の額に、紋様が、浮かんだ、あの瞬間。
額の中央が、焼けるように、熱く、感じた。
そのあとに、額の温度が、ゆっくりと、引いていった。
引きながら、私の額の中央に、ある「ある」感覚が、残った。
いまの、白光の球は、ふだんの温度を、持たない。
ただし、光の質感の、ある部分が、私の額の、あの記憶の、温度の質感と、重なって、感じられた。
──この光は、私の額の温度に、似ている。
私は、内側で、置いた。
ただし、いまの、私の額の温度を、確かめたら、ふだんの温度だった。
熱くは、なかった。
光を、出しているあいだも、額の温度は、いつものままだった。
「似ている」というのは、いまの温度では、なくて、聖紋盤の上の、あの記憶の温度との、似方、だった。
──気のせいか。
私は、内側で、保留した。
そして、追究は、しなかった。
似方が、ある、というだけ。
そして、それは、ふだんの観察の、ふだんの偶然の、範囲かもしれない。
魔法解析が、頭の中で、動いた。
──明度。
ひとつ。
──波長の、集中。
ふたつ。
そこで、止まった。
その先の、「なぜ、熱を、伴わないのか」という問いは、魔法解析の、言語化できる範囲の、外に、あった。
──光と、熱は、分けられない、はずなのに。
頭の中の、研究者の声が、もうひとつ、別の言葉を、呟いた。
その「分けられないはずなのに」は、前世の物理学の、基本的な、認識だった。
可視光は、エネルギーである。
エネルギーは、熱を、伴う。
光と、熱は、同じ、ひとつの、現象の、別の側面。
ここに、ある光は、その「同じ、ひとつの、現象」から、熱だけを、抜き取られていた。
そんなことが、できる、はずが、なかった。
できる、はずが、ない、ことが、現に、できていた。
私は、白光の球を、もう少しだけ、保った。
合わせて、十数秒、白光は、手のひらの上で、安定して、止まり続けた。
そして、いつもの呼吸に、戻ろうとした瞬間。
白光の、白さが、ふいに、透明に、変わった。
透明に、変わった瞬間。
白光の球が、消えた。
ふだんの、室内の、午後の光だけが、残った。
カーテン越しの、薄い光。
ふだんの、机の上の、いつもの光景。
私は、軽く、息を、吐いた。
両手のひらは、わずかに、だるかった。
火、水、風、土、と、続けてきた、だるさが、累積していた。
そして、目の奥に、ふだんとは、違う、鈍い、痛みが、出始めていた。
ふだんの、書物を、長く読んだあとの、目の奥の、疲労に、似ていた。
ただし、ふだんの目の疲労よりも、奥の、深い場所に、ある痛み。
──真理の眼を、立て続けに、使ったから、かもしれない。
私は、内側で、保留した。
そして、その痛みを、いつもの呼吸で、軽く、薄めた。
少しだけ、薄まった。
完全には、消えなかった。
──最後は、闇だ。
私は、内側で、決めた。
──闇は、一人で、試そう。
そして、私は、机の上に、両手を、軽く、組んで、しばらく、静止した。
静止のあいだ、自分の呼吸を、ふだんの呼吸に、戻すことに、集中した。
部屋の中の空気は、ふだんの、午後の、室内の空気。
カーテン越しの、薄い光。
机の脇の、二つの杯の、いつもの、置き方。
廊下の遠くの、台所の、ふだんの、物音。
そのすべてが、ふだんに、戻っていた。
常に、戻ったうえで、私は、闇を、試す覚悟を、決めた。
闇は、ふだんの「見える」とは、別の方向の、何かだった。
火、水、風、土、光。
その五つは、いつもの「見える」の、別の形だった。
火は、橙として、見えた。
水は、蒼として、見えた。
風は、見えなかったが、葉を、揺らすことで、見えた。
土は、灰褐色として、見えた。
光は、白として、見えた。
ふだんの「見える」の、五つの、別の形。
闇は、ふだんの「見える」の、別の形では、ないかもしれない。
闇は、いつもの「見えない」の、別の形かもしれない。
その「見えない」の、別の形を、見るために、私は、何を、するべきなのか。
その問いの答えは、たぶん、闇を、出してみないと、わからない。
私は、覚悟を、決めて、もう一度、両手の姿勢を、取った。
右手のひらを、上に向けて、左手のひらで、軽く、支える。
ふだんの、姿勢。
──闇。
その一音を、心の中で、呟いた。
種詠唱の、最後の一音が、内側で、消えた瞬間。
指先で、何かが、また、巻き始めた。
ただし、今回の渦は、これまでの、どの渦とも、違う、巻き方だった。
渦は、無色から、すぐに、別の色を、帯び始めた。
別の色、というのは、「黒」と、呼んでよい色だった。
ただし、その黒は、ふだんの「黒」とは、違っていた。
いつもの「黒」は、光を、反射しない色だった。
光が、入ってきても、跳ね返さない色。
それが、ふだんの黒の、定義。
いま、指先で、立ち上がった黒は、光を、反射しないだけでは、なかった。
光を、入れて、外に、出さない色。
つまり、光を、吸う色。
光が、入ってきたら、その光は、その色の内側に、消えて、二度と、出てこない。
そういう、黒。
その黒が、手のひらの上で、球として、凝集した。
凝集する、というのは、火や、水や、土と、似ていた。
ただし、球の、できる位置が、また、違っていた。
火は、手のひらの少し上。
水は、手のひらの中央。
風は、手のひらの先。
土は、手のひらの中。
光は、手のひらの上面。
闇は、手のひらの「輪郭の上」だった。
「輪郭の上」というのは、私の手のひらの皮膚の、輪郭の、ちょうど、外側、私の身体の、ちょうど、境界。
その境界の上に、影の球が、凝集した。
影の球は、握りこぶしの、二分の一ほどの、大きさだった。
形は、丸かった。
ふだんの、丸い球。
ただし、その丸さの、内部は、光を、吸い込んだ、深い、黒だった。
黒、ではなく、影、と、呼ぶ方が、たぶん、正しかった。
そして、私の手のひらの感覚が、ふだんと、違ってきた。
手のひらの、皮膚の感覚が、薄まっていた。
薄まる、というのは、火や、水や、土のときの「だるさ」とは、違っていた。
だるさは、感覚が、ある。
ただ、その感覚が、鈍くなる。
薄まる、というのは、感覚そのものが、ぼやけて、輪郭を、失う感じ。
いつもの、私の手のひらの、皮膚の、輪郭が、消えていた。
──手のひらが、輪郭を、失っている。
私は、内側に、留めた。
そして、もうひとつ、置いた。
──体温が、奪われている。
ただし、それは、ふだんの「冷たい」とは、違っていた。
冷たくは、なかった。
私の手のひらの皮膚の表面の、温度は、ふだんとは、それほど、違わなかった。
ただ、内側の、ある場所の、熱が、影の球の方へ、引かれていた。
引かれる、という感覚は、寒さでも、冷たさでも、なかった。
ただ、熱が、ある方向に、ゆっくりと、流れていく感覚。
「奪われる」というのは、その流れの、方向の、ことだった。
そして、聴覚も、ふだんと、違っていた。
ふだんの、自分の部屋の、いつもの音が、急に、遠ざかった。
廊下の遠くの、台所の物音。
机の脇の、ふだんの、井戸水のわずかな揺れ。
自分の呼吸の音。
それらの、ふだんの、室内の音が、すべて、いつもの距離より、遠く、聞こえた。
耳が、わずかに、詰まる感覚。
潜水中の、水の中で、耳の奥に、圧力を、感じるような、詰まり方。
嗅覚も、薄まっていた。
ふだんの、自分の部屋の、ふだんの匂い。
机の木の、わずかな匂い。
カーテンの、布の匂い。
廊下の遠くの、台所の、根菜の煮込みの、いつもの余韻。
それらの、ふだんの、室内の匂いが、すべて、薄まっていた。
ある匂いが、ある、と、わかるけれども、ふだんよりも、薄く、ある。
そして、口の中が、乾いていた。
ふだんの、唾液の量が、減っていた。
唾液が、出にくい感じ。
私は、影の球を、見つめた。
影の球の、輪郭は、はっきりと、見えた。
ただし、輪郭の内側は、見えなかった。
「見えない」という言葉が、いちばん、近かった。
いつもの「黒い」とは、違う。
ふだんの「暗い」とも、違う。
ただ、見えない。
そして、影の球の、すぐ周辺の、空間の光が、わずかに、歪んでいた。
歪んでいる、というのは、空気の屈折のような、ものでは、なかった。
ふだんの、室内の、いつもの光の、ふだんの届き方が、影の球の周辺で、ふだんと、違う届き方を、していた。
光が、影の球の方向に、ゆっくりと、引かれていた。
引かれて、影の球の表面で、消えていた。
──闇は、光の不在ではなかった。
私は、内側で、置いた。
ふだんの「闇」は、光の不在だった。
夜の闇。
地下室の闇。
目を、閉じたときの、瞼の裏の闇。
そのどれもが、光が、届かない、状態。
光が、ない、というのが、いつもの闇の、定義。
ここに、ある「影の球」は、光の不在では、なかった。
ふだんの、午後の、私の部屋の中には、薄い光が、満ちていた。
カーテン越しの、午後の光。
その光が、影の球の、周辺で、引かれて、消えていた。
つまり、影の球は、光が、なくなった、結果として、ある、のでは、なかった。
影の球が、光を、能動的に、吸い込んでいた。
──能動的に、そこに、満ちていた。
私は、内側で、保留した。
影の球の表面で、消えた光は、もう、戻ってこなかった。
ふだんの黒い物体なら、光が、表面で、跳ね返らない、というだけで、光そのものは、別の方向に、抜けていく。
影の球は、抜けていかなかった。
入ってきた光を、内側に、引き込んで、そのまま、留めていた。
留めて、何を、しているのかは、私には、まだ、わからなかった。
私は、真理の眼を、開いた。
その瞬間。
目の奥の鈍痛が、いつもの倍ほどの、強さに、なった。
私は、軽く、目を、細めた。
そして、痛みを、いったん、内側で、受け止めて、真理の眼を、続けた。
影の球の、輪郭の内側を、真理の眼で、見ようとした。
ふだんの、対象なら、輪郭が、薄く、ほどけて、内部構造が、見える。
火の渦。
水の球面張力。
風の空気の筋。
土の結晶格子。
光の薄い構造。
影の球の、輪郭は、薄く、ほどけなかった。
ほどけない、というのは、輪郭が、強固だった、というのとは、違った。
輪郭の、外側は、ふだんの、私の真理の眼で、明確に、見えた。
ただ、輪郭の、内側を、見ようとすると、何も、見えなかった。
何も、見えない、というのは、「黒」が、見えている、のでは、なかった。
「黒」は、何かが、見えていることに、なる。
光を、反射しない、対象が、そこに、ある、ということ。
影の球の、内側は、「何か」が、見えている、のでは、なかった。
ただ、「ない」。
いつもの真理の眼が、向ける、対象が、そこに、ない。
対象が、ないから、見えない。
ただし、対象が、ないわけでは、なかった。
影の球は、現に、そこに、ある。
私の手のひらの、輪郭の上に、ある。
形は、丸い。
光は、その方向に、引かれて、消える。
それは、ある。
「ある」けれども、真理の眼が、内側を、見られない。
これは、これまでの、五つの属性の、どれとも、違う、ことだった。
──真理の眼でも、闇の内側は、見えない。
私は、内側に、留めた。
そして、その置き方は、これまでの、どの置き方とも、違う、重さで、内側に、刻まれた。
ふだんの、私の真理の眼は、世界の、ふだんの対象を、観察する道具だった。
井戸の水。
街路の石畳。
家族の顔の輪郭。
書架の本の並び。
葡萄の蔓の冬の骨。
家猫の眼の色。
そのどれも、真理の眼で、観察できた。
観察できないものは、いつもの、私の暮らしの中には、なかった。
ここに、ある「影の球」は、観察できなかった。
観察できないものが、世界には、ある。
──観察できないものが、ある。
私は、内側で、もう一度、置いた。
その置き方は、私の、ふだんの、観察癖の、根本に、初めて、揺さぶりを、かけた。
ふだんの私は、観察できないものに、出会うと、観察方法を、変えれば、いずれは、観察できる、と、考えてきた。
いつもの目で、観察できなければ、真理の眼で、観察する。
真理の眼で、観察できなければ、別の道具で、観察する。
別の道具で、観察できなければ、いずれは、別の道具を、見つける、と、信じてきた。
ここに、ある「影の球」は、その信頼を、揺さぶった。
別の道具を、私は、まだ、知らなかった。
そして、たぶん、別の道具を、持ってきても、観察できない、種類の、対象だった。
そんな対象が、私の手のひらの、輪郭の上に、現に、ある。
魔法解析が、頭の中で、動いた。
──光の、遮蔽。
ひとつ。
そこで、ほぼ、止まった。
その先の、「闇が、能動的に、満ちている」という構造の、ふだんの言語化は、魔法解析の、言語化できる範囲の、外に、あった。
──闇は、光の不在では、ないのか。
頭の中の、研究者の声が、もうひとつ、別の言葉を、呟いた。
そして、その問いの答えは、私の中で、すでに、出ていた。
──ここの闇は、何かが、能動的に、置かれている。
私は、内側で、置いた。
そして、その「能動的に、置かれている」の、能動性は、誰の、能動性なのかも、わからなかった。
私が、影の球を、出した。
だから、私の、能動性が、影の球を、置いた。
ただし、影の球そのものが、能動的に、光を、吸い込んでいる、その能動性は、私の、能動性とは、別だった。
私が、影の球を、出した、その瞬間以降、影の球は、私の意志とは、独立して、光を、吸い込み続けている。
私は、影の球を、見つめながら、もうひとつ、内側で、感じた。
──これは、人前で、出すものでは、ないかもしれない。
影の球は、私の手のひらの、輪郭の上で、私の体温を、奪い続けていた。
奪い続けるのは、私一人のあいだは、私一人の体温で、済む。
家族の、誰かの脇で、出したら、家族の温度が、どこに、流れるかは、わからなかった。
その想像が、ひとつ、根拠の輪郭としては、あった。
ただし、それは、根拠の、半分だった。
残り半分の、根拠は、まだ、私の言葉では、組み上がらなかった。
その感覚は、ふだんの、私の観察癖から、来た、ものでは、なかった。
もっと、本能的な、節度。
光は、家族の前で、出しても、たぶん、構わない。
火、水、風、土も、同じ。
闇は、違う気が、した。
家族にも、たぶん、見せていない方が、いい。
理由を、言葉に、できなかった。
ただ、内側で、決まった。
私は、影の球を、解除しようと、内側で、決めた。
意志を、緩めた。
すると、影の球は、表面の、輪郭が、薄まり始めた。
薄まる、というのは、影が、淡くなる、のでは、なかった。
光を、吸う力が、弱まる。
引き込まれていた光が、戻り始める。
そして、影の球の、内側が、いつもの「黒」に、近づき、
ふだんの「黒」が、ふだんの「暗い」に、近づき、
いつもの「暗い」が、ふだんの「ふつう」に、近づき、
そして、影の球が、消えた。
消えた瞬間、室内の、午後の光の、ふだんの届き方が、戻った。
私の手のひらの、輪郭の上の、空気の層が、いつもの空気の層に、戻った。
そして、私の手のひらの感覚が、ふだんの輪郭を、取り戻した。
体温の、奪われ方が、止まった。
聴覚が、ふだんに、戻った。
嗅覚が、常に、戻った。
口の中の、唾液が、ふだんの量に、戻り始めた。
私は、軽く、息を、吐いた。
そして、両手を、机の上に、戻した。
両方の手のひらは、ふだんより、だるかった。
腕全体も、重かった。
目の奥は、まだ、鈍く、痛んでいた。
息の、いつもの、ひとつひとつが、わずかに、震えていた。
六つ目の種に、私は、声を、かけた。
そして、六つ目の芽は、これまでの、五つの芽とは、根本的に、違う、形で、出てきた。
私は、机の上に、両手を、軽く、組んで、目を、伏せた。
完全に、閉じるのではなく、半分、伏せた。
そして、内側で、六つの属性の、発動の記憶を、順に、辿った。
火の、橙の点と、その内部の渦と、中心の「燃料ではない何か」。
水の、蒼の球と、球面の張りと、内側の流動と、「無からの湧き」。
風の、見えない空気の筋と、規則的な定向流と、「乱流に、崩れない」不自然さ。
土の、灰褐色の塊と、純粋すぎる結晶格子と、「地面の土は、減らなかった」事実。
光の、白光の面と、構造の薄さと、「熱を、伴わない」分離。
闇の、影の球と、内側の見えない「ない」と、「能動的に、満ちている」充填。
六つの、別の、現象だった。
そして、六つの、それぞれの、内側に、ふだんの世界の物理学では、説明できない、部分が、必ず、ひとつ、含まれていた。
そして、目を、伏せたまま、私は、もうひとつ、確かめた。
六つの属性の、発動の記憶を、辿るあいだ、私の頭の中で、もうひとつの機能が、動き続けていた。
魔法解析。
聖紋盤の上で、ソフォンが、私の身体に、刻んだ、もうひとつの、機能。
魔法解析は、六つの属性の、それぞれの内部構造を、ふだんの言葉に、翻訳していた。
温度勾配、粒子の運動の活性化、熱対流。
凝集、球面張力、水分子の繋がり方。
圧力差、運動量の伝達、分子の定向流。
凝集、密度、結晶格子。
明度、波長の集中。
光の遮蔽。
それぞれの、内部構造の、いつもの言葉への、翻訳が、頭の中に、すでに、揃っていた。
ただ、そこで、止まっていた。
その先の、「燃料は、何か」「水分子は、どこから、来たか」「乱流に、崩れない理由は、何か」「質量は、どこから、来たか」「光と熱が、分離する理由は、何か」「闇が、能動的に、満ちる理由は、何か」、という、最後の問いが、ひとつずつ、頭の中で、宙に、浮いていた。
魔法解析の、ふだんの言葉に、翻訳できる範囲の、外。
そこに、六つの、未解決の問いが、揃っていた。
そして、目を、伏せたまま、私は、もうひとつ、別の感覚を、味わっていた。
真理の眼が、構造を、見せた。
火の渦、水の球面張力、風の空気の筋、土の結晶格子、光の薄い構造、闇の見えない「ない」。
六つの、構造、または、構造の不在。
魔法解析が、それに、名前を、つけた。
温度勾配、凝集、圧力差、結晶格子、明度、光の遮蔽。
六つの、名前、または、名前の限界。
その二つが、揃った瞬間。
私の中で、世界の一片が、はじめて、読める、文章に、なった。
私は、目を、伏せたまま、息を、止めた。
止めた、というのは、意図して、止めたのでは、なかった。
ただ、止まった。
身体の、ある場所で、ふだんの呼吸が、勝手に、いったん、停止した。
そして、止まった呼吸の、その奥で、私の中の、二十八歳の研究者と、十歳の私の身体が、はじめて、同じ場所で、同じ方向を、向いた。
ふだんは、二重写しの、二人だった。
子供七、大人三、と、私が、自分に、言い聞かせてきた、ふだんの比率。
その比率の中で、二人は、別の方向を、見ていた。
子供は、目の前の現象を、見ていた。
大人は、現象の、向こう側の、理屈を、見ていた。
いまの瞬間、二人は、同じ「文章」を、見た。
子供は、文章を、楽しいと、感じた。
大人は、文章を、解けたと、感じた。
二つの感じ方は、別の言葉だったが、同じ「文章」を、指していた。
──ああ。
私の中で、内側の智哉が、もう一度、ふだんの研究室の、ふだんの声で、呟いた。
ただし、今回の呟きは、火の橙の点を、出した時の、二十八歳の歓声では、なかった。
もっと、深いところからの、安堵に、近い、息の漏れだった。
──これだ。
私は、内側で、その言葉を、受け止めた。
「これだ」というのは、何が「これだ」だったかは、まだ、よく、わからなかった。
ただ、内側の智哉が、十年ぶりに、自分の前世を、肯定された、その温度を、私は、感じた。
そして、十歳の私の身体は、その温度を、笑顔の半分の、頬の緩みで、受け止めた。
止まっていた呼吸が、ようやく、ふだんの呼吸に、戻った。
「文章になった」というのは、本のページの上で、文字が、組み上がる、ということ、では、なかった。
ふだん、私が、ふだんの世界を、見ているとき、世界は、ばらばらの、現象の、ばらばらの、寄せ集めとして、見えていた。
火が、燃える。
水が、流れる。
風が、吹く。
土が、積もる。
光が、差す。
闇が、満ちる。
そのそれぞれが、別の現象として、私の知覚に、届いていた。
それらを、繋ぐ言葉は、いつもの私の頭の中には、なかった。
魔法を、試したあとの、いまの、私の頭の中では、六つの現象が、ひとつの、構造の中で、繋がっていた。
火、水、風、土、光、闇。
そのそれぞれが、独自の、ふだんの世界の、物理学では、説明できない、部分を、持っていた。
そして、その「説明できない部分」を、含む、ひとつの、構造として、繋がっていた。
ひとつの、構造。
その構造を、私は、まだ、完全には、見ていなかった。
ただ、「ひとつの、構造として、繋がっている」という、ぼんやりとした、確信が、内側に、生まれていた。
その確信が、ふだんの私の、世界の、見方を、少し、変えていた。
──真理の眼は、構造を、見せた。
──魔法解析が、それに、名前を、つけた。
──二つが、揃ったとき、私の中で、世界の一片が、はじめて、読める、文章に、なった。
私は、内側で、保留した。
そして、その置き方は、これまでの、どの置き方とも、違う、満ち方を、内側に、もたらした。
ただし、そこで、もうひとつ、私は、気付いた。
──文章は、まだ、最後の一行が、欠けていた。
六つの、未解決の問いが、頭の中で、まだ、宙に、浮いていた。
その六つの、問いの、答えが、まだ、ない。
答えが、ないまま、文章は、組み上がっていた。
組み上がった文章には、最後の一行が、まだ、書かれていなかった。
その最後の一行は、誰が、書くのか。
ソフォンが、書くのか。
それとも、私が、書くのか。
それとも、別の、誰かが、書くのか。
それとも、まだ、誰も、書けないのか。
その問いも、いまの私には、答えが、わからなかった。
ただ、置いた。
そして、置いたあと、私は、目を、開けた。
机の上に、私の両手が、軽く、組まれていた。
目の奥の、鈍痛は、まだ、続いていた。
ただし、いつもの呼吸を、繰り返すうちに、痛みは、少しずつ、ふだんの輪郭の中に、収まり始めていた。
私は、机の引き出しの、上の段を、開けた。
そこには、ふだんの実験ノートが、入っていた。
第三章で、初めて、書き始めた、ヴァルメール家の実験ノートの、第十八冊目以降の、ノート。
私は、第二十二冊目の、ノートを、机の上に、置いた。
そして、新しいページを、開いた。
ペンを、取り、インク壺を、開けた。
ペン先を、インクに、軽く、浸した。
ページの、いちばん上に、まず、日付を、書いた。
神月十六日。
そのあと、ページの中央に、改行して、六つの行を、書き始めた。
一、火。燃料源が、ない。何が、燃えているのか。
二、水。水分子が、どこから、来たのか。空気中の水分は、減らなかった。
三、風。乱流に、崩れない。前世の流体方程式では、説明できない。
四、土。前世の物理では、質量は、保存される、はずだった。地面の土は、減らなかった。
五、光。熱を、伴わない。光と熱は、分けられないはずなのに。
六、闇。能動的に、満ちる。真理の眼でも、内側は、見えない。
六つの行を、書き終えた。
ペン先を、もう一度、インクに、浸した。
そして、六つの行の、すぐ下に、改行して、もうひとつ、別の行を、書こうとした。
その行の、最初の言葉が、頭の中に、すぐには、浮かばなかった。
しばらく、ペンを、止めた。
そして、内側で、言葉にせず、通り過ぎた。
──もし、火と、風を、同時に、出したら、どうなるだろう。
その問いが、頭の中に、ふっと、浮かんだ。
火の橙の点と、風の空気の筋を、同時に、出したら。
風が、火の周りの、空気を、運ぶ。
火が、運ばれてきた空気を、燃やす。
いつもの、焚き火と、ふいごの関係。
風で、空気を、送り込むと、火は、強くなる。
ただし、いまの、私の魔法の火は、燃料を、持たなかった。
燃料が、ないなら、空気を、送り込んでも、火は、強くならない、はずだった。
それでも、もし、強くなったら。
「燃料が、ない」と、いう私の、いまの観察が、間違っていた、ということになる。
そして、もし、強くならなかったら。
「燃料が、ない」と、いう私の、いまの観察が、正しかった、ということになる。
それは、確かめてみたい、実験だった。
ふだんの、私の、観察癖の、ふだんの延長として、自然に、思いついた、実験。
いつもの、研究者の声が、頭の中で、軽く、頷いた。
ただし、私は、すぐに、自分に、言い聞かせた。
──今日は、ここまで。
六つの種に、声を、かける。
それが、今日の、目標だった。
目標は、達成した。
その先の、組み合わせを、試すのは、今日では、ない。
理由は、いくつか、あった。
ひとつ目。
私の身体は、もう、だるかった。
両手のひらが、だるく、腕全体が、重く、目の奥が、鈍く、痛む。
ふだんの呼吸の、ひとつひとつが、わずかに、震えていた。
ふだんの集中の、いつもの保ち方が、ふだんよりも、少しだけ、難しくなっていた。
その状態で、組み合わせを、試すのは、たぶん、危険だった。
ふたつ目。
私は、まだ、ひとつの属性を、安定して、出せる、というだけだった。
ひとつの属性を、出した状態で、別の属性を、同時に、出す、という方法を、私は、まだ、身体に、刻んでいなかった。
ソフォンが、私の身体に、刻んだ、種詠唱は、六つ、それぞれ、独立した、種詠唱だった。
二つの種詠唱を、同時に、唱える方法を、私は、まだ、知らなかった。
たぶん、その方法は、別の、訓練が、必要だった。
みっつ目。
家族が、家の中に、いる。
母エリザベートが、台所に、いる。
父アンリが、書斎に、いる。
クララが、家の中の、どこかに、いる。
組み合わせを、試して、もし、何かが、暴走したら、家族に、被害が、及ぶ。
ふだんの私の、節度は、それを、許さなかった。
よっつ目。
そして、いちばん大きな、理由。
ふだんの私の、観察癖は、ひとつのことを、丁寧に、見終えてから、次のことに、進む、癖だった。
六つの属性を、ひとつずつ、丁寧に、見終えた。
ひとつずつの、観察結果は、それぞれ、別の、未解決の問いに、収束していた。
その未解決の問いを、解く、別の方法は、いつもの、ヴァルメール家の図書館や、王立図書館や、王立学院の蔵書に、たぶん、ある。
その方法を、まず、調べてから、組み合わせを、試す方が、研究者の、ふだんの順序として、自然だった。
組み合わせを、試すのは、学院で、適切な、教師の、立ち会いの、もと。
そう、決めた。
私は、ペンを、もう一度、取った。
そして、六つの未解決事項の、すぐ下に、改行して、最後の一行を、書いた。
複合魔法は、学院で。
その一行を、書き終えて、私は、ペン先を、ふだんの位置に、戻した。
インク壺の蓋を、軽く、閉めた。
ノートの、いまの、ページを、軽く、見つめた。
日付の、神月十六日、の下に、六つの未解決事項が、並んでいた。
その下に、複合魔法は、学院で、の一行が、ある。
合計、八つの行。
その八つの行は、私の、いまの、いつもの、観察結果の、軽い、整理だった。
私は、ノートを、閉じた。
閉じる前に、ノートの、まだ、白い、ページを、軽く、見た。
白いページは、まだ、たくさん、あった。
明日の朝、学院に発つ前に、もう少し、書くかもしれない。
書かないかもしれない。
ふだんの、私の、書く癖は、書きたいときに、書く、書きたくないときには、書かない、ふだんの癖。
私は、ノートを、引き出しに、戻した。
机の引き出しの、上の段。
下の段、ではない。
下の段の、二段目には、まだ、祖父エミールの手紙の、木箱が、ある。
私は、二段目の、引き出しの取っ手に、目を、合わせた。
合わせただけだった。
手は、伸ばさなかった。
──今日も、まだ、触れない。
私は、内側で、確かめた。
明日でも、ない。
明日では、ない。
いつか、ある日。
その「いつか」は、まだ、来ていない。
私は、机から、目を、離した。
そして、窓辺へ、歩いた。
カーテンを、半分だけ、開けた。
午後の光が、薄く、入ってきた。
午後の光は、もう、夕方の光に、近づき始めていた。
東の空に、まだ、神月の月は、見えなかった。
月は、夜の空に、上がってくるはず。
ただし、その月は、もう、満月を、一日、過ぎていた。
──6つは、別のものだった。
私は、内側に、留めた。
──けれども、6つを、揃えると、何かが、噛み合った。
「噛み合った」というのは、ぴたりと、すべての、答えが、出た、ということ、では、なかった。
噛み合ったのは、構造の、ぼんやりとした、輪郭。
その輪郭の、内側に、まだ、六つの未解決事項が、宙に、浮いていた。
ただし、その六つの未解決事項が、ばらばらの、寄せ集めとして、浮いている、わけでは、なくなった。
ひとつの、構造の、内側で、浮いている。
その「ひとつの、構造の、内側で、浮いている」という感覚が、いつもの私の、世界の、見方を、ほんの少しだけ、変えていた。
私は、窓辺で、深く、息を、吐いた。
冬の午後の、薄い光の中で、私の吐いた、白い息が、窓硝子の表面で、わずかに、結露した。
結露の、ふだんの、丸い、薄い、跡。
その跡を、しばらく、見つめた。
ふだんの、結露は、私の身体の、いつもの温度の、表れだった。
私の身体の温度が、窓硝子の、冷たさに、触れて、白く、可視化された。
魔法の、六つの属性の温度は、ふだんの結露を、起こさなかった。
火の橙の点は、ふだんの結露を、起こさなかった。
水の蒼の球も、いつもの結露を、起こさなかった。
風の空気の筋も、土の灰褐色の塊も、光の白光の面も、闇の影の球も、ふだんの結露を、起こさなかった。
ふだんの私の身体の温度は、いつもの結露を、起こす。
魔法の、六つの属性の温度は、ふだんの結露を、起こさない。
その違いは、たぶん、魔法の温度が、ふだんの世界の物理学の、いつもの温度では、ないことの、別の表れだった。
ただし、その「別の表れ」を、いま、追究するには、私は、もう、疲れていた。
私は、窓辺から、机に、戻った。
椅子に、もう一度、座った。
両手を、膝の上に、軽く、組んで、目を、伏せた。
そして、内側で、もう一度、置いた。
──6つは、別のものだった。
──6つを、揃えると、ひとつの、構造の、輪郭が、見えた。
──ただし、その構造の、内側には、まだ、6つの、未解決事項が、宙に、浮いていた。
そして、もうひとつ、置いた。
──世界の一片が、はじめて、読める、文章に、なった。
──けれども、文章は、まだ、最後の一行が、欠けていた。
最後の一行は、誰が、書くのか。
その問いには、まだ、答えが、なかった。
そして、私は、椅子の、背に、もたれた。
しばらく、目を、伏せたまま、何も、しないことを、決めた。
部屋の中の、ふだんの、午後の光が、私の頬に、薄く、届いていた。
光の温度は、ふだんの私の頬の温度と、いつもの違い方で、混じっていた。
ふだんの違い方は、ふだんの世界の物理学で、ふだんに、説明できる範囲の、違い方だった。
いつもの世界の、ふだんの温度の、ふだんの混じり方。
その、ふだんが、いまの私を、いつもの暮らしに、繋いでいた。




