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第6章 第2話「中庭の井戸端で」

私は、自分の部屋の扉を、開けた。


廊下の床は、ふだんと、同じ、冷たさだった。


ただ、廊下の窓から、入る光が、ふだんの午前より、少しだけ、強くなっていた。


時刻は、ふだんの朝食から、二時間ほど、経った頃。


午前の、後半。


廊下を、歩いた。


途中で、書斎の扉の前を、通り過ぎた。


書斎の中から、父アンリの、本を、めくる音が、ごく、薄く、聞こえた。


父は、約束通り、書斎で、本を、読んでいた。


私は、書斎の扉を、ノックせずに、通り過ぎた。


そのまま、玄関ホールへ、出た。


玄関ホールの、北側の扉。


中庭への、扉。


私は、その扉を、軽く、押した。


中庭への扉は、いつもの開閉と、同じ、軽い軋みを、立てて、開いた。


中庭の空気が、私の頬に、届いた。


冬の中庭の、午前の空気だった。


朝、目覚めたときの、窓越しの冷たさよりも、もう少しだけ、和らいでいた。


霜は、もう、地面の上には、見えなかった。


ただし、井戸の石組みの上に、薄い湿りが、まだ、残っていた。


霜が、午前の光で、融けて、石の上で、湿りに、変わったあと、まだ、乾いていない。


その湿りが、井戸の石組みの、灰色を、少し、濃く、染めていた。


中庭の、西側の塀の方に、目を、向けた。


葡萄の蔓が、塀に、這っていた。


蔓は、冬で、葉を、落として、骨だけに、なっていた。


骨だけの蔓の下に、家猫の、灰色の毛並みが、あった。


家猫は、葡萄の蔓の根もとの、日溜まりに、座って、午前の光を、受けていた。


目は、半分だけ、閉じていた。


そして、家猫の脇に、妹クララが、しゃがんでいた。


クララは、家猫に、向かって、手を、伸ばしていた。


ただし、その手は、家猫の毛並みに、まだ、触れていなかった。


触れる前で、止まっていた。


家猫の方が、まず、クララの手の匂いを、嗅ぐのを、待っているような、姿勢だった。


「お兄ちゃん」


クララが、私の方を、見ずに、私の名を、呼んだ。


クララの目は、まだ、家猫の方に、向いていた。


ただし、その視界の、隅に、私の輪郭は、入っていた。


「うん」


私は、答えた。


「何してるの?」


クララが、ようやく、私の方を、見た。


「ちょっと、魔法を、試そうかと、思って」


私は、答えた。


「中庭で、試すの?」


「うん」


「見ていい?」


クララは、家猫から、手を、引っ込めて、私の方に、立ち上がった。


家猫が、半分だけ、閉じていた目を、ふだんの猫の眼に、戻して、クララの動きを、見た。


ただし、家猫は、動かなかった。


ただ、日溜まりの中で、姿勢を、保ったままだった。


「少しだけなら」


私は、答えた。


「光が、強くなったり、音が、急に出たりするかも、しれない」


「怖かったら、家に、入って、いいよ」


「怖くないもん」


クララは、両手を、腰に、当てた。


ふだんの「クララなの!」の構え。


七歳の妹の、強がりの構え。


私は、内側で、軽く、微笑んだ。


私は、井戸の方へ、歩いた。


中庭の南端、井戸の石組みの脇に、ふだんから、母エリザベートが、洗濯物を、絞るときに、使う、低い石の腰掛けが、あった。


その腰掛けの上に、私は、座った。


腰掛けの石は、ふだんより、わずかに、冷たかった。


ただし、冷たさは、午前の光の中で、ゆっくりと、和らいでいくはず。


クララが、私の脇に、立った。


立ったままだった。


座る場所が、なかった、というのも、あったが、たぶん、立っている方が、よく、見えると、思った、というのも、あった。


「お兄ちゃん、最初は、何を、試すの?」


「風」


私は、答えた。


「風?」


「うん」


「風って、見えないよね?」


「そう。見えない」


「でも、出るの?」


「たぶん、出る。出ても、見えないかもしれない」


「ふうん」


クララは、首を、傾げた。


「見えない、魔法を、見るの?」


「見えないものを、どう、見るかは、ちょっと、難しい」


私は、答えた。


「だから、何か、別のものを、揺らして、確かめようと、思う」


「別のもの?」


「うん」


私は、中庭の石畳の上に、目を、走らせた。


石畳の継ぎ目の、わずかな隙間に、葡萄の枯れ葉が、一枚、落ちていた。


葡萄の蔓から、落ちた、小さな、丸い、葉。


私は、立ち上がって、その枯れ葉を、拾った。


そして、また、腰掛けに、座った。


枯れ葉を、左手の上に、軽く、乗せた。


「これ、揺らしてみる」


私は、クララに、告げた。


「葉っぱ、揺れたら、風が、ある、ってこと?」


「そう」


「揺れなかったら?」


「揺れなかったら、風は、出てない、ってこと」


「わかった」


クララは、頷いた。


両手は、まだ、腰に、当てたままだった。


七歳の構え。


私は、左手の上の枯れ葉を、わずかに、空気の中に、浮かせた、ような位置に、保った。


そして、右手のひらを、上に向けて、左手の枯れ葉から、いつもの一センチほど、離れた位置に、合わせた。


ふだんの、火と、水の姿勢とは、少しだけ、違っていた。


火と、水は、右手のひらの上で、属性を、立てた。


風は、右手のひらの、先で、属性を、出して、左手の枯れ葉に、届ける、と、決めた。


そう、決めた根拠は、自分の中の、ふだんの直感ではなかった。


聖紋盤の上で、ソフォンが、私の身体に、刻んだ、風の種詠唱の、その奥にある、手順の方向が、自然に、外向きを、指していた。


──風。


その一音を、心の中で、呟いた。


種詠唱の、最後の一音が、内側で、消えた瞬間。


指先で、何かが、また、巻き始めた。


火と、同じ流れ。


水と、同じ流れ。


ただし、巻き始めた渦は、すぐに、外向きに、抜け出した。


火の渦は、手のひらの少し上で、止まった。


水の渦は、手のひらの中央で、止まった。


風の渦は、止まらなかった。


指先から、外へ、抜けた。


抜けた先は、左手の枯れ葉の、ほぼ、すぐ近くだった。


私の指先と、左手の枯れ葉の、間。


いつもの一センチほどの、空気の層。


その層の中に、ごく、小さな、渦が、生まれた。


私の目には、見えなかった。


ただ、感覚として、ある。


そして、空間が、わずかに、歪んでいた。


歪んでいた、というのは、空気の屈折のような、目に見える歪みでは、なかった。


私の知覚の中で、空気の、ふだんの「ある」感覚が、その層だけ、少しだけ、違っていた。


左手の枯れ葉が、揺れた。


最初、わずかに、片端が、上に、浮いた。


次に、もう一方の端が、わずかに、下に、沈んだ。


そして、葉全体が、私の指先の方向に、向かって、ゆっくりと、滑った。


「動いた!」


クララが、小さく、叫んだ。


クララの声は、ふだんの「クララなの!」の元気とは、少しだけ、違っていた。


何かを、初めて、見つけたときの、子供の声。


「動いたよ、お兄ちゃん、葉っぱが、動いてる!」


「うん」


私は、答えた。


「動いてる」


私は、葉の動きを、もう少しだけ、追った。


葉は、私の意志に、応じて、動いていた。


右へ、と、内側で、念じた瞬間に、葉が、右へ、滑った。


左へ、と、念じた瞬間に、葉が、左へ、滑った。


円を、描けと、念じた瞬間に、葉が、左手のひらの上で、ゆっくりとした、円を、描いた。


──意志通りに、動いた。


私は、内側で、保留した。


そして、もうひとつ、確かめた。


風の経路は、左手の枯れ葉から、私の指先までの、一直線。


その一直線は、まったく、揺れていなかった。


途中で、枝分かれも、していなかった。


途中で、乱流に、崩れも、していなかった。


いつもの、空気の流れは、一直線では、ありえなかった。


少しでも、長い距離を、流れれば、乱流に、崩れる。


──これは、流体力学的に、不自然だ。


前世の、研究者の声が、頭の中で、呟いた。


──前世で学んだ、流体の方程式では、これは、説明できない。


そう、続いた。


具体的な、方程式の名前は、頭の中に、浮かばなかった。


ただ、その方程式は、私が、前世の大学院で、習った、空気の流れの、基本的な式だった。


その式は、層流から、乱流への、遷移を、扱う式だった。


その式に従えば、いま、私の指先と、左手の枯れ葉の間の、空気の流れは、層流から、乱流に、遷移しているはずだった。


していなかった。


ただ、層流のまま、一直線を、保っていた。


私は、真理の眼を、開いた。


中庭の、午前の光の中で、もうひとつの目が、ゆっくりと、見えるものを、変えた。


空気の、筋が、見えた。


私の指先から、左手の枯れ葉まで、一本の、薄い、透明な、筋。


筋は、規則的だった。


太さが、一定だった。


枝分かれが、なかった。


そして、筋の中の、空気の、ひとつひとつの、小さな粒の、動きが、規則的だった。


すべての粒が、同じ方向に、ほぼ、同じ速さで、流れていた。


ふだんの空気の中なら、粒は、ばらばらに、動いている。


風の中なら、粒は、流れの方向に、おおむね、向かいながら、しかし、内部に、無数の、小さな乱れを、含む。


この風の筋の中の粒は、乱れを、含まなかった。


──ありえない。


私は、内側に、留めた。


そして、その「ありえない」を、ふだんの「ありえない」より、もう少しだけ、丁寧に、受け止めた。


私は、もうひとつ、確かめた。


風の経路を、少しだけ、曲げた。


直線から、緩やかな、曲線に、変えた。


すると、左手の枯れ葉が、緩やかな、曲線を、辿って、私の指先の方に、滑り寄ってきた。


私は、曲線を、もう一度、引き直した。


円。


ふだんの、子供が、地面に、棒で、描くような、丸い、円。


左手の枯れ葉が、私の指先の前で、円を、描いた。


時計回りに、一周、半。


枯れ葉は、葡萄の蔓から、落ちた、ふだんの、葉だった。


その、ふだんの葉が、私の意志の、ひとつの円の中で、滑っていた。


「お兄ちゃん、葉っぱ、ぐるぐるしてる!」


クララの声が、私の脇で、上がった。


ふだんの「クララなの!」の、半分の声量と、もう半分の、子供の、興奮の混じった声。


「ぐるぐる、してる」


私は、答えた。


そして、自分の声に、わずかな、子供の興奮が、混じっていることに、気付いた。


二十八歳の、研究者の声では、なかった。


十歳の、私の声でも、なかった。


その中間の、どちらでもない、ある声。


──これは、楽しい。


私は、内側で、その言葉を、置いた。


火を、出した時の「緩み」と、水を、三度、出した時の「楽しい」と、いまの、円を、描いた時の「楽しい」は、三度とも、別の場所から、来た「楽しい」だった。


三つを、足すと、私の中で、もうひとつ、別の何かが、立ち上がりかけていた。


──遊んでいる。


私は、その言葉を、内側で、確かめた。


そして、確かめながら、軽く、苦笑した。


ふだんの観察癖の、ふだんの私が、神託の儀の翌日に、中庭の井戸端で、遊んでいる。


それは、ふだんの私の、ふだんの想定の中には、なかった。


私は、もう一度、葉の経路を、引き直した。


二重の円。


外側の円を、時計回りに。


内側の円を、反時計回りに。


葉が、二つの円の、外側と、内側を、交互に、滑った。


ただし、その滑り方は、ふだんの流体力学では、絶対に、ありえない、ふたつの、対立する流れの、共存だった。


私の意志が、対立する流れを、保たせていた。


ふだんの空気の、ふだんの法則は、ここで、無視されていた。


私は、その「無視」を、観察しながら、もう一度、口元が、緩んだ。


──これは、ありえない、けれども、できる。


「ありえない、けれども、できる」が、たぶん、魔法の、ふだんの居場所だった。


「ありえない」を、ただ「できる」と、私の意志は、認めていた。


私は、二重の円を、解いた。


風が、ふだんの空気に、戻った。


葡萄の枯れ葉が、左手のひらの上で、止まった。


クララが、ぱちぱち、と、軽く、拍手した。


七歳の妹の、ふだんの「クララなの!」とは、また別の、観客としての、拍手。


私は、ふだんの観察癖の、ふだんの私には、似合わない、ぎこちない頷きで、クララの拍手に、答えた。


ぎこちない頷き、というのは、私の身体が、いまの「楽しい」を、どこに、しまえばよいか、まだ、知らない、ということだった。


曲線にしても、乱流に、崩れなかった。


直線でも、崩れない。


曲線でも、崩れない。


つまり、この風は、経路を、私の意志に、合わせて、保つだけの、別の力に、支えられていた。


その別の力が、何かは、私には、まだ、わからなかった。


魔法解析が、頭の中で、動いた。


──圧力差。


ひとつ。


──運動量の、伝達。


ふたつ。


──分子の、定向流。


みっつ。


そこで、止まった。


その先の、「なぜ、乱流に、崩れないのか」という問いは、魔法解析の、言語化できる範囲の、外に、あった。


──これは、前世で学んだ、流体の方程式では、記述できない。


頭の中の、研究者の声が、もうひとつ、別の言葉を、呟いた。


前世の、博士課程で、夜中に、扱った式は、空気や、水の、流れを、記述する、最も基本的な式のひとつだった。


その式は、層流と、乱流の、両方を、扱える、はずだった。


ただし、乱流の場合の、解は、解析的には、求まらない、ことが、多かった。


いま、私の指先の先の、風は、解析的に、求まる、空気の流れ、では、なかった。


ただ、私の意志に、応じて、規則的に、流れていた。


その規則性は、空気の側の、物理法則からでは、なく、私の意志の側の、何かから、来ていた。


──意志、と、空気が、繋がっている。


私は、内側で、置いた。


その「意志、と、空気が、繋がっている」という感覚は、いつもの私の、暮らしの中では、ありえないものだった。


ただ、ある。


そして、もうひとつ、内側で、保留した。


──便利すぎる気もする。


その感覚は、ふだんの私の、ふだんの観察癖から、来た、ほんの、微かな、違和感だった。


意志通りに、動くものは、たいてい、どこかで、私の予想を、裏切る。


裏切らないものは、たぶん、まだ、私の予想の方が、浅い。


そう、置いた。


ただし、いま、それを、追究は、しなかった。


私は、左手の枯れ葉の上の、風の渦を、解いた。


風の経路が、ふいに、ほどけた。


ほどけた、というのは、消えた、ではなかった。


空気の筋が、いつもの、ばらばらな、空気の動きに、戻った、ということ。


枯れ葉が、滑るのを、止めた。


左手のひらの上で、止まった枯れ葉は、ふだんの、葡萄の枯れ葉だった。


特別な、ものは、何も、なかった。


「葉っぱ、止まったね、お兄ちゃん」


クララが、言った。


「うん」


「もう一回、やる?」


「いまは、いい」


「次は、何?」


「土」


「土?」


「うん」


「土も、出るの?」


「出る、はず」


「お兄ちゃんの、手のひらに?」


「うん」


「土が、出てくるの?」


「出てくる、はず」


クララは、首を、また、傾げた。


「中庭の、土が、出てくるの?」


「いや」


私は、答えた。


「中庭の土とは、違う、土が、たぶん、出てくる」


「違う土?」


「同じ、土に、見えるかもしれない。でも、違う土」


「ふうん」


クララは、頷いた。


そして、葡萄の蔓の下の、家猫の方を、また、ちらりと、見た。


家猫は、まだ、日溜まりの中で、姿勢を、保ったまま、ふだんの猫の眼で、こちらを、見ていた。


風の試行に、家猫は、興味を、示さなかった。


私は、腰掛けから、立ち上がった。


立ち上がって、井戸の石組みの、北側に、回った。


そこは、中庭の地面が、いちばん、剥き出しに、なっている場所だった。


石畳が、途中で、終わって、井戸の周りだけ、土が、剥き出しに、なっていた。


土は、冬の朝の、霜が、融けたあとの、湿った、灰褐色の、土。


私は、その土を、軽く、手の指で、触った。


土は、冷たかった。


そして、わずかに、湿っていた。


私の指の腹に、土の小さな粒が、いくつか、付着した。


その粒を、私は、軽く、払い落とした。


そして、手のひらを、上向きに、戻した。


右手のひらを、上に、向けて、左手のひらで、軽く、支えた。


いつもの、火と、水の姿勢。


ただし、土は、火や、水と、また、違っていた。


風が、手のひらの「先」で、出たように、


土は、手のひらの「中」で、出る予感が、あった。


「中」というのは、手のひらの皮膚の上、ではなく、皮膚の少しだけ、内側、ではなく、皮膚の表面の、ちょうど、中央。


手のひらの中央が、土を、受ける場所だ、と、自然に、決まった。


──土。


その一音を、心の中で、呟いた。


種詠唱の、最後の一音が、内側で、消えた瞬間。


指先で、また、何かが、巻き始めた。


火と、水と、風と、同じ流れ。


ただし、巻き始めた渦は、上昇せず、外向きにも、抜けず、下向きに、沈んだ。


手のひらの中央に、沈み込んだ渦は、灰褐色を、帯び始めた。


色は、ゆっくり、深くなった。


水の蒼よりも、ゆっくり、だった。


ふだんの一秒の、二倍ほどの、時間。


そして、手のひらの中央に、灰褐色の、塊が、現れた。


塊は、握りこぶしの、十分の一ほどの、大きさだった。


形は、不定形だった。


丸でも、四角でも、なく、わずかに、楕円に、近い、塊。


そして、その塊が、現れた瞬間。


──重い。


私は、内側に、留めた。


ただし、塊そのものの、重さは、それほど、重くはなかった。


ふだんの、握りこぶしの、十分の一ほどの、土塊なら、ほんの少しだけの、重さ。


手のひらに、感じるはずの、重さ。


その重さが、ふだんより、深く、感じられた。


重さは、手のひらから、手首へ、降りた。


手首から、肘へ、降りた。


肘で、止まった。


つまり、手のひらの土塊の重さが、私の腕全体に、伝わっていた。


いつもの、握りこぶしの、十分の一ほどの、土塊の重さなら、手のひらだけで、収まる。


けれども、この土塊の重さは、肘まで、降りた。


──塊の中の、密度が、ふだんの土より、高い。


私は、内側で、置いた。


そして、もうひとつ、確かめた。


土塊の匂いが、鼻に、届いた。


鉱物の、苦みの、匂いだった。


雨後の、土の匂いとも、少し、違っていた。


雨後の土の匂いは、湿度の、匂いが、混じる。


この匂いは、湿度が、混じっていなかった。


純粋な、鉱物の、苦みだけ。


そして、舌の奥に、その苦みが、薄く、移った。


鉄分の、味に、近い。


口の中が、少しだけ、収斂した。


私は、塊を、見つめながら、真理の眼を、開いた。


塊の輪郭が、薄く、ほどけた。


ほどけた内側に、結晶の、格子が、見えた。


結晶の、格子は、規則的だった。


整然と、同じ、長さの、辺で、組み上げられた、立体的な、網目。


その網目の、ひとつひとつが、同じ、形を、していた。


同じ、形が、何百も、何千も、塊の中で、繰り返されていた。


ふだんの、地面の土の、結晶構造は、こうでは、なかった。


いつもの土は、もっと、不規則だった。


異なる、鉱物の結晶が、混じり合い、結晶の、向きが、ばらばらで、結晶の、大きさも、ばらばら。


そして、結晶と、結晶の、間に、有機物の、わずかな、混入が、ある。


この塊の中の、結晶は、有機物の、混入が、まったく、なかった。


そして、結晶の、向きが、すべて、同じだった。


そして、結晶の、大きさが、すべて、同じだった。


──純粋すぎる。


私は、内側で、保留した。


私は、塊を、左手のひらに、軽く、移した。


そして、右手で、井戸の石組みの脇の、地面の、湿った土を、ひとつかみ、掬った。


両方の手のひらに、土が、ある状態に、なった。


右手のひらの土は、地面の、湿った土。


左手のひらの土は、魔法で、生まれた、塊。


真理の眼を、両方の手の、土に、順に、向けた。


右手のひらの、地面の土の、内部の結晶は、ふだんの不規則さを、含んでいた。


異なる、鉱物の結晶が、混じり合い、向きが、ばらばらで、大きさも、ばらばら。


雨後の、わずかな、有機物の、混入が、薄く、残っていた。


左手のひらの、魔法の土塊の、内部の結晶は、純粋すぎる規則性を、保っていた。


有機物の、混入は、まったく、ない。


──同じ土だ。


私は、内側に、留めた。


──けれども、同じ土では、ない。


そして、もうひとつ、確かめた。


地面の方を、見た。


井戸の石組みの脇の、剥き出しの地面。


その地面の、土が、減っているかどうか。


減っていなかった。


私が、右手で、ひとつかみ、掬った土は、減っていた。


それは、当然のこと。


私が、手で、運んだから。


けれども、左手のひらの、魔法の土塊の、分の土は、地面から、減っていなかった。


地面の土の、量は、私が、魔法を、出す前と、出した後で、目に見える変化が、なかった。


──この土は、どこから、来たのか。


私は、内側で、置いた。


──地面の土は、減っていなかった。


魔法解析が、頭の中で、動いた。


──凝集。


ひとつ。


──密度。


ふたつ。


──結晶、格子。


みっつ。


そこで、止まった。


その先の、「質量が、どこから、来たか」という問いは、魔法解析の、言語化できる範囲の、外に、あった。


──前世の物理では、質量は、保存される、はずだった。


頭の中の、研究者の声が、もうひとつ、別の言葉を、呟いた。


その声には、ふだんの淡々の、その奥に、別の、震えが、混じっていた。


震えは、興奮だった。


ふだんの観察癖の、ふだんの観察結果ではなかった。


前世の智哉が、博士課程の、五年目の、夜中の、研究室で、データの異常値を、見つけた、その瞬間の、興奮の、震え。


その震えが、十年ぶりに、私の中の、研究者の声を、震わせていた。


──これは、本来なら、論文の、ひとつや、ふたつ、書ける、現象だ。


その内側の声を、私は、ふだんの十歳の、ふだんの口の中で、止めた。


止めながら、左手のひらの上の、灰褐色の塊を、もう一度、見た。


塊は、ふだんの土に、似ていた。


似ているのに、ふだんの土から、できた、わけでは、なかった。


その「ふだんの土から、できた、わけでは、ない」という事実は、地味で、静かで、けれども、私の中の、研究者を、しばらく、机に、突っ伏させる、ぐらいの、衝撃を、持っていた。


ふだんの観察癖が、その衝撃を、ふだんの淡々に、ラップしていた。


ラップが、わずかに、薄れた瞬間、内側の研究者が、もうひとつ、別の言葉を、呟いた。


──これは、面白い。


その「面白い」は、私の中で、ひとつの、確かな、温度を、持って、灯った。


質量は、ある場所から、別の場所へ、移動する。


けれども、無から、生まれることは、ない。


そう、習った。


いま、私の左手のひらの上に、ある、灰褐色の、塊は、無から、生まれた、塊だった。


地面の土から、移動した、わけでは、なかった。


空気中の、何かが、凝集した、わけでも、なかった。


──質量は、保存されない。


私は、内側で、保留した。


そして、その置き方は、火の燃料の不在より、水の無からの湧きより、もう一段、深い、置き方だった。


「お兄ちゃん」


クララが、私の腰掛けの、もう少し、近くまで、寄ってきた。


「手の中に、土が、できたの?」


「できた」


私は、答えた。


「けれども、これは、地面の土とは、違う土だ」


「違うの?」


「同じに見えるけど、内側の、作りが、違う」


「内側の、作り?」


「地面の土は、もう少し、ばらばらだ」


「ばらばら?」


「砂の粒、葉っぱのかけら、虫のかけら、岩のかけら。それぞれ、違うものが、混じってる」


「うん」


「手の中の土は、同じ大きさの、同じ形の、岩のかけらだけが、揃っている」


「揃ってるの?」


「うん」


「揃ってるって、いいことなの?」


クララは、ふだんの「クララなの!」の構えを、解いていた。


腰に、当てていた手を、自分の前で、組んでいた。


七歳の、聞き方の、構え。


「いいこと、なのかどうかは、わからない」


私は、答えた。


「ただ、違うことは、確かだ」


「ふうん」


クララは、頷いた。


「クララは、どっちが、好き?」


「クララ」


「うん」


「どっちが、好きか、わからない」


「わかんないの?」


「同じに、見えるから」


「同じに、見えるけど、違う、ものを、どう、好きになるか、わからない」


クララは、首を、傾げた。


私は、内側で、軽く、微笑んだ。


そして、もうひとつ、確かめた。


土塊を、見つめる、私の感覚の中に、ひとつ、別の感覚が、混じっていた。


それは、火のときには、なかった。


水のときには、もちろん、なかった。


風のときにも、なかった。


──土は、少しだけ、遠い。


私は、内側に、留めた。


「遠い」というのは、物理的な、距離では、なかった。


土塊は、いま、私の左手のひらの上に、現にあった。


距離は、ゼロ。


けれども、内側の感覚としては、土だけが、火や、水や、風よりも、ほんの、わずかに、引きが、弱かった。


火のときは、橙が、出る、その手応えに、私の中の、何かが、合わせて、引かれていた。


水のときは、もっと、強く、引かれていた。


風のときは、火と、似た強さで、引かれていた。


土のときは、それらより、ほんの、わずかに、弱かった。


ほんの、わずか。


いつもの、感覚で、聞き分けられる、ぎりぎりの、わずかさ。


──土は、少しだけ、遠い。


理由は、わからなかった。


地面の土と、手のひらの土を、並べたから、わかったこと、だったかもしれない。


地面の土に、私の意志が、いったん、引き寄せられて、それから、手のひらの土に、戻ってきた。


その「いったん、引き寄せられた」分が、土の引きの、わずかな弱さに、なったのかもしれない。


それは、ただの、思いつきだった。


確かめる方法は、いまの私には、まだ、なかった。


ただ、内側に、置いた。


そして、追究は、しなかった。


私は、左手のひらの上の、土塊を、見つめながら、軽く、息を、吐いた。


土塊は、まだ、私の集中の、力で、形を、保っていた。


私が、集中を、わずかに、緩めた瞬間。


塊の、輪郭が、少しずつ、崩れ始めた。


崩れる、というのは、土塊が、地面に、落ちる、のでは、なかった。


塊の、表面が、粒度を、変えた。


最初、ふだんの、土塊の、粒度だった。


それが、ふだんの、砂の、粒度に、変わった。


いつもの、砂の、粒度から、もっと、細かい、粉の、粒度に、変わった。


そして、ふだんの、粉が、空気中に、飛ぶ前に、塊全体が、左手のひらから、ふっと、消えた。


「わあ」


クララが、声を、上げた。


ふだんの「クララなの!」の元気の、半分ほどの、声量。


驚きと、感心の、混じった、声。


「消えたよ、お兄ちゃん」


「うん」


私は、答えた。


「土塊が、砂に、変わって、手のひらから、消えた」


「砂、どこ、行ったの?」


「わからない」


私は、答えた。


「来た場所に、戻った、のかもしれない」


「来た場所?」


「うん」


「どこから、来たの?」


「わからない」


「わからないの?」


「わからない」


クララは、しばらく、首を、傾げた。


そして、いつもの「クララなの!」の構えに、戻った。


「ふうん」


クララは、頷いた。


頷くだけだった。


それ以上、聞かなかった。


七歳の妹は、「わからない」と、兄が、答えたものに、それ以上、踏み込まない知恵を、すでに、持っていた。


私は、両手のひらを、膝の上に、戻した。


右手のひらには、まだ、地面の土が、少し、付着していた。


左手のひらは、空だった。


ただし、空の左手のひらの、中央に、ほんの、わずかな、ざらつきが、残っていた。


魔法の土塊が、あった場所。


そのざらつきは、しばらくすると、自然に、消えた。


そして、私の腕全体が、重かった。


火の時よりも、水の時よりも、風の時よりも、重かった。


土塊の重さが、肘まで、降りた、その重さが、肘から、肩へ、まだ、薄く、残っていた。


そして、両方の手のひらが、だるかった。


特に、左手のひらが、だるかった。


土塊を、受けた手のひらだった。


四属性を、終えた。


火、水、風、土。


六つの種のうち、四つに、声を、かけた。


そして、四つの芽は、それぞれ、別の形で、出てきた。


──6つは、本当に、別のものなんだ。


私は、内側で、置いた。


その置き方は、火と、水だけを、終えたときには、まだ、なかった。


火と、水だけのときは、二つの、対比だった。


火が、外へ、膨らむ。


水が、内へ、張る。


それは、対比として、わかりやすかった。


風と、土を、終えて、初めて、四つの対比が、立った。


風が、外へ、抜ける。


土が、下へ、沈む。


それぞれの方向が、すべて、違った。


そして、温度も、違った。


火の熱、水の冷、風のわずかな冷却、土の鈍さ。


そして、匂いも、違った。


火の乾いた金属臭、水の雨後の土、風の鋭敏化、土の鉱物の苦み。


そして、舌の感覚も、違った。


火の乾き、水の塩気、風の薄まり、土の苦み。


そして、聴覚も、違った。


火の「ぱち」「しゅう」、水の「とぷ」、風の紙のすれる音、土の「ざり」「こつ」。


四つの属性が、四つとも、別の、温度、匂い、音、味、を、持っていた。


そして、それぞれが、それぞれの場所で、起きた。


手のひらの少し上。


手のひらの中央。


手のひらの先。


手のひらの中。


ふだんの、私の手のひらは、ひとつの、皮膚の表面だった。


それが、四つの属性によって、四つの、別の、位置を、持つことに、なった。


──6つは、本当に、別のものなんだ。


私は、内側で、もう一度、置いた。


そして、その置き方は、ふだんの、私の観察の、ひとつの、結論として、軽く、刻まれた。


ただ。


残りの二つを、私は、まだ、見ていなかった。


光と、闇。


その二つは、火と、水、風と、土、と、また、別の対だった。


その二つを、見ないと、「6つ」の、本当の意味は、まだ、わからなかった。


「お兄ちゃん、もう一回、土、出す?」


クララが、聞いた。


「いまは、いい」


「次は、何?」


「光」


「光?」


「うん」


「光って、見える?」


「たぶん、見える」


「光が、強くなったり、する?」


クララは、自分の言葉を、内側で、軽く、繰り返した。


「お兄ちゃんが、さっき、言ってたじゃん」


「光が、強くなったり、音が、急に出たりするかも、しれない、って」


「うん」


「だから、光は、強くなるかもしれない」


「クララ、怖い?」


「怖くないもん」


クララは、いつもの「クララなの!」の構えに、戻りかけた。


そのとき、中庭の北側の、扉が、軋んで、開いた。


母エリザベートが、玄関ホールから、中庭に、出てきた。


母の手には、ふだんの、布巾が、握られていた。


「クララ」


母は、ふだんの、柔らかい声で、妹を、呼んだ。


「そろそろ、お昼の支度を、手伝いなさい」


クララの首が、いつもの「クララなの!」の構えから、母の方に、振り向いた。


「はい、お母さま」


クララは、ふだんより、少しだけ、ゆっくり、答えた。


少しだけ、名残惜しい、声。


「お兄ちゃん」


クララは、私の方に、もう一度、振り返った。


「また、見せてね」


「うん」


私は、答えた。


「次は、いつ?」


「夕方かな」


「いつ?」


「夕方」


「夕方って、いつ?」


「クララが、おやつを、食べる、ちょっと、前」


「わかった」


クララは、頷いた。


そして、母の方へ、駆け寄った。


家猫が、葡萄の蔓の下の、日溜まりから、ふだんの猫の眼で、その駆け寄りを、見送った。


家猫は、動かなかった。


母エリザベートが、私の方を、見た。


「テオ、午前中の、続きを、するの?」


「いいえ」


私は、答えた。


「いまは、休みます」


「四つの属性を、終えました。残りは、二つです」


「あらまあ」


母は、ふだんの「あらまあ」の音で、答えた。


驚きの、半分。


理解の、半分。


「お昼の支度の、できる頃までに、家に、入って」


「はい、お母さま」


母は、頷いた。


そして、クララの肩に、軽く、手を、添えて、玄関ホールへ、戻った。


クララは、母の手に、自分の小さな手を、重ねた。


その二つの手が、玄関ホールの、扉の向こうに、消えた。


中庭に、私だけが、残った。


家猫は、まだ、葡萄の蔓の下の、日溜まりに、いた。


家猫は、私の方を、見ているのか、いないのか、わからない、いつもの、眼を、していた。


私は、井戸の、釣瓶を、見た。


釣瓶は、井戸の縁に、ふだんから、掛けられていた。


私は、釣瓶を、井戸の中に、降ろした。


縄が、ゆっくりと、井戸の、深い場所へ、伸びていった。


縄の長さの、半分ほどが、出たところで、釣瓶が、井戸の、水面に、触れる音が、薄く、上がってきた。


「とぷん」


ふだんの井戸水の、表面の音。


私は、釣瓶を、ゆっくりと、引き上げた。


縄を、両手で、交互に、巻き取りながら、井戸の深さを、感じた。


ふだんから、私が、井戸水を、汲むときの、ふだんの感覚。


釣瓶が、井戸の縁まで、上がった。


私は、釣瓶を、井戸の縁に、置いた。


そして、井戸の脇の、もうひとつの、空の杯を、取り出した。


その杯は、ふだん、井戸水を、汲み置くために、井戸の脇に、ある、家の杯。


釣瓶の中の、井戸水を、空の杯に、ひとさじ、注いだ。


水は、井戸の、深い場所の、冷たさを、まだ、保っていた。


午前の、中庭の空気の中で、ゆっくりと、温度を、上げ始めている、ところ。


そして、私は、もう一度、両手の姿勢を、取った。


右手のひらを、上に、向けて、左手のひらで、軽く、支える。


そして、内側で、決めた。


──水。


詠唱の、最後の一音が、内側で、消えた。


指先の渦が、すぐに、蒼を、帯びた。


朝、自室で、水を、出したときよりも、わずかに、早かった。


私の身体が、水の、種詠唱を、いつもの呼吸の、ひとつのように、扱い始めていた。


ふだんの一秒で、水玉が、手のひらの中央に、現れた。


杯一杯の半分ほどの、量。


私は、水玉を、井戸の縁の、もうひとつの杯の、隣に、移した。


移した、というのは、物理的に、運んだ、のでは、なかった。


水玉を、手のひらの中央から、井戸の縁の上に、ゆっくりと、滑らせた。


水玉は、手のひらから、井戸の縁へ、表面張力を、保ったまま、自然に、転がった。


井戸の縁の、平らな、石の上で、水玉が、止まった。


その水玉の、すぐ脇に、もうひとつの杯の、井戸水が、ある。


二つの、水が、並んだ。


私は、真理の眼を、両方の水に、順に、向けた。


右側の、井戸水の杯。


杯の中の、井戸水は、ゆっくりと、内側で、流動していた。


その流動は、不規則だった。


杯の壁に、押し返され、わずかな、傾きが、混じり、水面が、わずかに、揺れていた。


そして、水の中に、薄い、不純物が、混じっていた。


地下水脈の、岩盤の、わずかな鉱物の、溶けたかけら。


長い時間、地下を、流れてきた、履歴の、薄い痕跡。


左側の、水玉。


水玉の中の、水は、ゆっくりと、内側で、流動していた。


その流動は、規則的だった。


時計回りに、極めて、ゆっくりとした、一方向の流れ。


杯の壁には、当たっていなかった。


水玉そのものの、表面の、球面張力が、流動の境界に、なっていた。


そして、水の中に、不純物が、まったく、なかった。


地下水脈の、履歴の、痕跡が、なかった。


ただ、純粋な、水だけが、球の中に、あった。


──井戸水は、もっと、豊かで、もっと、複雑だ。


私は、内側で、保留した。


──魔法の水玉は、もっと、純粋で、もっと、整っている。


豊かさと、純粋さは、対立する、わけでは、なかった。


豊かさは、井戸水が、地下の、岩盤の、無数の、鉱物の、わずかな、痕跡を、保ち、長い時間を、生きてきた、ということ。


純粋さは、魔法の水玉が、無から、生まれて、外の、何の履歴も、持たない、ということ。


ふだんの私が、水を、飲むなら、たぶん、井戸水の方が、いい。


豊かな、複雑さは、私の身体の、いつもの、滋養に、近い。


魔法の水玉の、純粋さは、私の身体の、滋養とは、別の、何かに、近い。


それでも、どちらも、水だった。


そして、どちらも、同じ水では、なかった。


──どちらも、水だ。


私は、内側に、留めた。


──けれども、同じ水では、ない。


その置き方は、火と、水、風と、土を、終えた、私の中で、ひとつの、輪郭を、持ち始めていた。


魔法で、生まれた、火、水、風、土。


そのどれも、ふだんの世界の、火、水、風、土と、同じに、見えた。


そして、どれも、ふだんの世界の、火、水、風、土と、同じでは、なかった。


いつもの、火は、燃料を、消費する。


魔法の、火は、燃料を、消費しない。


ふだんの、水は、空気の湿度から、来る、あるいは、地下水脈から、来る。


魔法の、水は、無から、来る。


ふだんの、空気の流れは、乱流に、崩れる。


魔法の、風は、乱流に、崩れない。


いつもの、土は、地面の、長い時間の、累積で、生まれる。


魔法の、土は、無から、生まれる。


──ふだんの世界の、火、水、風、土と、似ている。


私は、内側で、置いた。


──けれども、ふだんの世界の、火、水、風、土とは、違う。


その「似ているけれど、違う」は、私の、いつもの観察の、根本的な、ひとつの、認識だった。


ふだんの世界の、物理学の、言葉では、説明できる部分が、ある。


説明できる部分の、その先に、説明できない、部分が、ある。


その「説明できない部分」が、たぶん、魔法の、本当の姿だった。


私は、まだ、それを、確信は、できなかった。


ただ、その方向に、考えが、傾いた。


そして、もうひとつ、確かめた。


魔法の水玉は、井戸の縁の、石の上で、まだ、安定していた。


時間が、経過していた。


私の集中は、解析の方に、移っていた。


それでも、水玉は、消えなかった。


ふだんの、私の集中の、緩みで、消えるはずだった。


消えなかったのは、井戸の縁の、石の、いつもの冷たさが、水玉の、ふだんの冷たさと、よく、似ていたから、かもしれなかった。


水玉が、いまの、外の環境の、温度を、保ちやすい、位置に、置かれていたから、かもしれない。


それは、ただの、仮説だった。


確かめるには、別の、場所で、もう一度、試す必要が、あった。


私が、確かめようとは、しなかった。


ただ、内側に、置いた。


水玉は、井戸の縁の、石の上で、もうしばらく、安定して、止まっていた。


そして、私が、ふだんの呼吸に、戻ろうとした瞬間。


水玉の、球面の張りが、ふいに、ほどけた。


ほどけた水玉は、井戸の縁の、石の上で、平たく、広がる、のでは、なかった。


ふっと、石の中に、吸い込まれるように、消えた。


石の表面に、湿りも、残らなかった。


ただ、いつもの、井戸の縁の、石の、灰色だけが、残った。


──来た場所に、戻った。


私は、内側で、保留した。


火の橙が、消えたときと、水の球が、消えたときと、土の塊が、消えたときと、同じ、置き方。


来た場所が、どこかは、まだ、わからなかった。


ただ、来た場所が、ある。


そして、戻った。


私は、井戸の縁から、井戸水の杯を、取り上げた。


杯の中の、井戸水は、まだ、揺れていた。


魔法の水玉は、もう、なかった。


私は、井戸水を、半分だけ、口に、含んだ。


冷たかった。


そして、わずかに、岩盤の、鉱物の、味が、した。


ふだんの、井戸水の、味。


私の身体の、ふだんの、滋養に、近い、味。


──いつもの水は、うまい。


私は、内側で、保留した。


そして、口に、含んだ井戸水を、ゆっくり、飲み下した。


私は、井戸水の杯を、井戸の縁に、戻した。


そして、井戸の方を、向いて、深く、息を、吐いた。


息は、白く、なった。


冬の中庭の、午前の空気の中で、私の吐いた、息の、温かさが、白く、可視化された。


息の白さは、ふだんの、息の白さと、同じだった。


ふだんの息の、白さは、私の身体の、いつもの温度から、来た、白さ。


私の身体の、ふだんの温度。


それは、私が、現世に、生まれて、十年の間、ずっと、私の身体の、内側に、ある、温度だった。


その温度は、火の魔法の、橙の点の、熱とは、違う。


水の魔法の、水玉の、冷たさとも、違う。


風の魔法の、空気の筋の、わずかな冷却とも、違う。


土の魔法の、土塊の、鈍さとも、違う。


私の身体の、ふだんの温度は、ただ、私の身体の、いつもの温度だった。


そして、その温度が、私を、生かしていた。


魔法の、四つの属性は、私の身体の、ふだんの温度とは、別の、温度を、持っていた。


魔法の温度は、私を、ふだんの意味では、生かさない。


ただ、私の手のひらの、その周りで、それぞれの温度を、保ったまま、現れ、そして、消える。


──私の身体の温度と、魔法の温度は、別だ。


私は、内側で、言葉にせず、通り過ぎた。


その置き方は、すぐには、追究しなかった。


ただ、置いた。


私は、井戸の脇の、腰掛けから、立ち上がった。


両方の手のひらは、まだ、わずかに、だるかった。


腕全体は、わずかに、重かった。


目の奥には、まだ、痛みは、なかった。


ただ、痛みの、ふだんとは、違う、微かな、予兆の、ようなものが、ある気が、した。


──光と、闇は、午後に、しよう。


私は、内側で、決めた。


──いまは、いつもの呼吸に、戻ろう。


私は、井戸の縁から、玄関ホールへ、向かった。


中庭の北側の扉の手前で、もう一度、振り返った。


葡萄の蔓の下の、日溜まりの、家猫は、まだ、姿勢を、保っていた。


家猫の眼は、いまは、半分だけ、閉じていた。


午前の光を、受けて、ふだんの猫の、まどろみの中に、入っていた。


私は、家猫に、軽く、頷いた。


家猫は、頷き返さなかった。


ただ、ふだんの猫の、まどろみの中で、姿勢を、保ったままだった。


私は、中庭の北側の扉を、軽く、押した。


扉は、いつもの軋みを、立てて、開いた。


玄関ホールの空気が、私の頬に、届いた。


中庭の、冬の空気よりも、わずかに、暖かい、玄関ホールの空気。


私は、玄関ホールに、入って、扉を、後ろで、閉めた。


中庭の音が、扉の向こうに、遠ざかった。


家の中の、ふだんの、静けさが、戻ってきた。


廊下を、歩いて、自分の部屋に、戻る前に、私は、ひとつ、立ち止まって、内側で、確かめた。


──6つは、本当に、別のものなんだ。


──温度も、重さも、匂いも、音も、全部、違う。


そして、もうひとつ、置いた。


──ただ、残りの二つを、私は、まだ、見ていなかった。


光と、闇。


その二つを、見るまでは、「6つ」の、本当の意味は、まだ、わからなかった。


私は、自分の部屋へ、向かう、廊下を、ゆっくり、歩いた。


廊下の床の、ふだんの冷たさが、私の足の裏に、いつもの感覚で、届いていた。


ふだんの感覚は、ふだん、通り、私を、ふだんの暮らしに、繋いでいた。


いつもの暮らしの、ちょうど、真ん中に、まだ、声を、かけていない、二つの種が、眠っていた。

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