第6章 第1話「指が、先に、知っていた」
私は、目を、開けた。
寝台の中で、最初に届いたのは、窓辺の冷たさだった。
冷たさは、外の空気の冷たさだった。
部屋の中の空気は、外より、少し、暖かい。
わずかに、というのは、暖炉の余熱が、夜のあいだに、ゆっくりと、冷めたから。
私は、寝台の上で、しばらく、動かなかった。
身体の中の、自分の輪郭を、確かめていた。
輪郭は、ふだんと、同じだった。
手のひらの、皮膚の感覚も、足の裏の、皮膚の感覚も、いつもと、同じだった。
ただ、内側の、ある場所が、ふだんと、違っていた。
腹の奥。
前世で、丹田、と呼んだ位置。
その位置に、何かが、溜まっていた。
何か、というのは、たぶん、魔力だった。
それは、昨日の朝には、なかった。
昨日の夕方、聖紋盤の上で、私の中に、入ってきたもの。
その「ある」感覚が、寝起きの今も、確かに、残っていた。
私は、寝台の上で、両手を、毛布の外に、出した。
右手のひらを、上に向けて、左手のひらで、軽く、支えた。
そして、内側に、聞いた。
──火、水、風、土、光、闇。
六つの種が、手のひらの中で、まだ、眠っていた。
眠っている、というのは、私の主観だった。
実際には、種は、いつでも、芽吹ける状態で、ただ、私が、まだ、声を、かけていなかっただけ。
私は、声を、かけなかった。
寝起きの直後に、いきなり、試すのは、危ないと、思った。
朝食を、終えてから、自分の部屋で、ゆっくり、試そう。
そう、決めた。
私は、毛布から、足を、出した。
足の裏に、寝台脇の絨毯の毛足が、触れた。
絨毯は、ふだんより、ほんの少しだけ、冷たかった。
冷たさは、私の足の裏で、ゆっくりと、和らいでいった。
私は、寝台の脇に、立った。
窓のカーテンを、半分だけ、開けた。
外の光が、薄く、入ってきた。
雲の薄い、冬の朝の光だった。
東の空は、まだ、淡い橙が、混じっていた。
橙の色は、昨日の聖紋盤の上で、私の手の中に、入ってきたもののひとつだった。
──いま、思い出した。
私は、内側で、保留した。
そして、窓辺から、机に、目を、移した。
机の引き出しの、二段目。
祖父エミールの手紙の、木箱が、置かれている段。
私は、引き出しの取っ手に、目を、合わせた。
合わせただけだった。
手は、伸ばさなかった。
──今朝も、まだ、触れない。
私は、内側で、確かめた。
明日でも、ない。
明日では、ない。
いつか、ある日。
その「いつか」は、まだ、来ていない。
私は、机から、目を、離した。
着替えを、始めた。
寝衣を、脱ぎ、ふだんの厚手の上下を、身につけた。
紐を、結びながら、内側で、確かめた。
──昨日とは、何かが、違っていた。
それは、私の身体の、内側の、ある場所の重さだった。
それは、私の頭の、ある場所の、新しい言葉だった。
それは、私の手のひらの中の、まだ、声をかけていない、六つの種だった。
そして、それは、家族の、私への、まなざしの、わずかな変化だった。
その四つが、合わさって、「昨日とは、違う朝」を、作っていた。
私は、寝室の扉を、開けた。
廊下に、出た。
廊下の床は、冷たかった。
朝食の支度の匂いが、台所の方向から、伸びてきた。
母エリザベートの煮込みの匂いではなかった。
朝食らしい、白パンと、薄い葡萄酒の水割りと、林檎の、軽い匂い。
私は、その匂いを、辿って、食堂へ、向かった。
食堂の卓には、家族の四人が、すでに、揃っていた。
父アンリは、いつもの椅子に、座って、新聞を、読んでいた。
新聞は、王立図書館の朝刊。
母エリザベートは、卓の脇に、立って、白パンを、薄く、切り分けていた。
兄マルクは、学院の正装に、すでに、着替えていた。
紺の上着、白の襟、銀の留め金。
ふだんの家庭の上下とは、違って、まっすぐな襟が、首の周りで、ぴたりと、止まっていた。
妹クララは、自分の椅子の上に、半分だけ、座って、半分だけ、足を、揺らしていた。
私が、入ると、四人の視線が、私の方に、来た。
父アンリの目が、新聞から、私の額の方に、来た。
母エリザベートの手の、白パンを切る音が、一拍だけ、止まった。
兄マルクの片頬が、わずかに、ゆるんだ。
妹クララは、足を、揺らしたまま、私の名を、呼んだ。
「お兄ちゃん!」
「おはよう、クララ」
私は、答えた。
「おはよう、お父さま、お母さま、兄さん」
私は、四人に、順に、挨拶を、した。
父アンリは、新聞を、言葉にせず、通り過ぎた。
「おはよう、テオ」
父は、短く、言った。
「昨日は、よく、お休みになれた?」
母エリザベートが、白パンを、切り終えて、私の方に、来た。
母の手が、私の肩に、軽く、触れた。
「ええ、お母さま。眠れました」
私は、答えた。
「ふだんと、同じくらい、眠れました」
「それは、よかった」
母は、頷いた。
「神託の翌朝は、人によっては、眠れない子も、いるのよ。あなたは、よく、眠れたのね」
「はい」
母の手が、私の肩から、離れた。
そして、自分の椅子に、戻った。
兄マルクが、卓の上の、林檎を、一つ、手に、取った。
林檎を、いつもの「ばきっ」ではなく、いつもの倍くらい、丁寧に、半分に、割った。
「テオ」
兄は、半分の林檎の、片方を、私の皿の上に、置いた。
「お前の分」
「ありがとう、兄さん」
私は、頷いた。
兄は、自分の分の林檎を、ばきっと、一口、噛んだ。
そして、噛みながら、続けた。
「俺は、午後の馬車で、学院に、戻る」
兄の口の中で、林檎の繊維が、ゆっくりと、噛み砕かれていった。
「夜には、戻らない。明日の朝、お前が、学院に発つ前に、もう一度、戻る」
「はい、兄さん」
私は、答えた。
兄は、頷いた。
それ以上は、何も、言わなかった。
ただ、林檎を、半分、食べた。
食べ終えると、立ち上がって、自分の支度の続きへ、戻った。
兄が、食堂を、出たあと、卓には、私と、両親と、クララが、残った。
クララが、足を、揺らすのを、止めて、私の方を、見た。
「お兄ちゃん」
「うん」
「お兄ちゃん、賢者って、本を、読む人なんだよね?」
クララの目は、ふだんの「クララなの!」の元気とは、少し、違っていた。
何かを、確かめたい、という目だった。
「うん」
私は、答えた。
「お父さまみたいに、本を、読む人」
「お父さまみたいに?」
「うん」
「お父さま、本、いつも、たくさん、読んでるよね」
「そうだね」
「クララも、本、読みたいな」
「いまも、絵本、読んでるよ」
「あれは、絵本だもん。本じゃないもん」
「絵本も、本だよ」
「ほんとに?」
「ほんとに」
クララは、頷いた。
それから、自分の皿の上の、林檎の薄切りを、一切れ、口に、入れた。
林檎を、噛みながら、足を、また、揺らし始めた。
父アンリが、私の方を、見た。
「テオ」
父は、ふだんの「テオ」より、わずかに、ゆっくり、私の名を、呼んだ。
「お前は、賢者を、授かった」
「はい、お父さま」
「だが、それは、お前の道の、始まりだ」
父は、新聞を、卓の上に、軽く、置いた。
そして、私の目を、見た。
「今日は、ゆっくり、しなさい」
父の声は、いつもと、同じだった。
ただ、その「ゆっくり」の言葉の重みが、いつもの「ゆっくり」より、少しだけ、重かった。
「はい」
私は、答えた。
そして、内側で、確かめた。
──今日は、ゆっくり、する。
ゆっくり、する、というのは、私にとって、何も、しないことでは、なかった。
私にとって、ゆっくり、するとは、自分の手のひらの中の、まだ、声をかけていない、六つの種に、ひとつずつ、声を、かけることだった。
その「ゆっくり」を、私は、父に、告げなかった。
父も、それ以上は、何も、言わなかった。
朝食は、ふだんより、少し、長かった。
長かった、というのは、誰かが、何かを、長く話したわけではなかった。
ただ、卓の上の沈黙が、ふだんより、ほんの少しだけ、長く、続いただけ。
その沈黙の中で、私は、ふだんと同じ、白パン、葡萄酒の水割り、林檎、を、食べた。
葡萄酒の水割りは、ふだんより、少し、薄かった。
母が、今朝、私のために、薄めに、割ってくれたのかもしれなかった。
──昨日が、長い一日だったから。
私は、内側で、保留した。
そして、母には、告げなかった。
朝食が、終わった。
クララが、母と一緒に、皿を、台所へ、運んだ。
父アンリが、新聞を、たたんで、卓の脇に、置いた。
そして、私の方を、見ずに、ふだんの椅子から、立ち上がった。
「私は、書斎で、しばらく、本を、読む」
父は、それだけ、言って、食堂を、出た。
卓には、私だけが、残った。
私は、自分の皿の脇の、林檎の最後の一切れを、口に、入れた。
林檎は、甘かった。
冬の終わりの林檎は、夏のものとは、違う、奥行きのある甘さを、持っていた。
私は、その甘さを、ゆっくり、噛んだ。
そして、立ち上がろうとしたとき、母エリザベートが、台所から、戻ってきた。
母の手は、布巾で、軽く、拭かれていた。
「テオ」
母は、私の名を、呼んだ。
「はい、お母さま」
「今朝は、何か、予定が、あるの?」
母の声は、ふだんと、同じだった。
ただ、その「予定」の言葉の選び方が、ふだんの「今日は、何を、するの?」とは、少しだけ、違っていた。
──母も、たぶん、察している。
私は、内側で、思った。
そして、母の目を、見た。
「お母さま」
私は、いつもの「お母さま」より、わずかに、ゆっくり、母の名を、呼んだ。
「今日は、私の部屋で、魔法を、試してみたいと、思います」
母の目が、わずかに、ひらいた。
ひらいた、というのは、驚きではなかった。
予期していたものを、確かめたときの、目のひらき方だった。
「家の中で、迷惑を、かけないように、気をつけます」
私は、続けた。
「火を、出すかもしれません。けれども、手のひらの上の、小さな火です。家具には、触れません」
「水も、出すかもしれません。けれども、手のひらの上の、小さな水玉です。床は、濡らしません」
「他の属性も、試すかもしれません。けれども、どれも、手のひらの上で、収まる、小さなものです」
私は、母に、自分の試みの規模を、先に、告げた。
母が、想定する不安を、減らすために。
母は、私の目を、見つめた。
少しだけ、考える顔を、した。
そして、頷いた。
「ええ、テオ」
母は、答えた。
「気をつけて」
「何か、困ったら、呼びなさい。お母さま、台所か、居間に、います」
「はい、お母さま」
母の手が、もう一度、私の肩に、軽く、触れた。
そして、離れた。
母は、台所へ、戻った。
私は、自分の部屋に、戻った。
部屋は、朝、起きたときと、ほとんど、同じだった。
ただ、窓辺の光が、ほんの少しだけ、強くなっていた。
私は、窓辺に、立ち、カーテンを、もう一度、半分だけ、閉めた。
光を、わずかに、絞った。
火を、出すのに、光が強すぎると、橙の色が、見えにくいと、思ったから。
机の椅子に、座った。
机の上には、何も、置かなかった。
ペンも、ノートも、本も、いったん、引き出しの中に、しまった。
机の表面は、何も、ない、平らな木の板。
その上に、私の両手を、置いた。
右手のひらを、上に向けて、左手のひらで、軽く、支える姿勢。
これが、私の、いまの、自然な、姿勢だった。
なぜ、これが、自然だと、感じたかは、わからなかった。
ただ、聖紋盤の上で、両足を、置いた瞬間に、身体が、覚えていた姿勢。
その姿勢の延長で、両手の姿勢も、自然に、決まった。
私は、軽く、息を、吐いた。
そして、内側で、決めた。
──火、から、試そう。
最も、典型的な属性から、始める。
最も、見えやすい属性から、始める。
それが、安全だと、思った。
私は、目を、軽く、伏せた。
完全に、閉じるのではなく、半分だけ、伏せた。
睫毛のあいだから、机の表面の、木の節が、薄く、見えていた。
その視界を、保ちながら、内側に、聞いた。
──火。
その一音を、心の中で、呟いた。
ただし、その一音は、ふだんの「火」の発音とは、少しだけ、違っていた。
ふだんの「火」は、フランディア語の、ひとつの単語だった。
いま、心の中で、呟いた「火」は、フランディア語の、ひとつの単語の、その奥に、別の、もうひとつの、響きを、持っていた。
その響きは、聖紋盤の上で、ソフォンが、私の身体に、刻んだ、火の種詠唱だった。
種詠唱は、フランディア語ではなかった。
けれども、フランディア語ではない言葉が、私の中に、どうして、根付いたのかは、わからなかった。
ただ、根付いていた。
そして、その根が、私の意志に、呼応した。
詠唱の、最後の一音が、内側で、消えた瞬間。
指先で、何かが、巻き始めた。
それは、目には、まだ、見えなかった。
ただ、指先の感覚として、ある。
腹の奥から、胸へ、胸から、肩へ、肩から、肘へ、肘から、手首へ、手首から、指先へ。
細い流れが、立った。
その流れが、指先で、渦を、巻いた。
渦は、無色だった。
ただし、その無色は、いつもの「何もない」とは、違った。
何かが、そこに、あるけれども、まだ、属性を、帯びていない、状態。
ふだんの私の感覚では、「透明な水」のような、感触。
その透明な水のような感触が、ふだんの一秒で、橙の色を、帯び始めた。
橙は、ゆっくり、ではなかった。
いつもの一秒のあいだに、無色から、淡い橙へ、淡い橙から、明らかな橙へ。
二段階の変化が、ほぼ同時に、起きた。
そして、その明らかな橙が、手のひらの少し上の、空間に、点として、凝集した。
橙色の点が、生まれた。
──ああ。
私の口から、声に、ならない、声が、漏れた。
漏れた、というのは、口の中で、止まった、という意味だった。
ただし、内側では、止まらなかった。
前世の智哉が、二十八歳の、研究者の声で、内側で、叫んだ。
──できた。
そして、十歳の私の身体の中で、もうひとつ、別の声が、答えた。
──火だ。
二つの声は、同じ橙の点を、見ていた。
二つの声の、どちらが、私だったかは、その瞬間、私には、わからなかった。
ただ、その「わからなさ」が、私の頬の筋肉を、わずかに、緩ませた。
笑った、というより、緩んだ。
ふだんの観察癖の、ふだんの顔は、こんな緩み方は、しなかった。
橙の点を、見つめながら、私は、しばらく、自分の頬の緩みを、止めなかった。
止める、という発想自体が、その時間、私の中から、消えていた。
手のひらの上、ではなく、手のひらの少し上。
皮膚から、おそらく、二、三センチほど、離れた位置。
その位置に、橙色が、灯った。
私は、息を、止めた。
止めた、というのは、止めようと、決めたのではなく、勝手に、止まった。
その瞬間に、私の身体が、止まった。
橙色の点は、ふだんの蝋燭の炎の、二倍くらいの大きさだった。
形は、揺らいでいなかった。
蝋燭の炎は、空気の流れに、揺れる。
この橙色の点は、揺れなかった。
ただ、橙のまま、止まっていた。
熱が、手のひらに、届いた。
ただし、皮膚そのものを、焼く熱では、なかった。
焚き火の前に、手のひらを、かざしたときの、あの熱。
体温より、三度ほど、高い熱。
熱は、皮膚に、届く前に、止まっていた。
ある層が、私の手のひらと、橙の点の、あいだに、あった。
その層が、私を、守っていた。
その層を、私は、まだ、説明できなかった。
ただ、ある。
微かな音が、聞こえた。
「ぱち」と、ひとつ。
それから、しばらく、無音。
「しゅう」と、ひとつ。
それから、また、無音。
音は、ふだんの焚き火の音と、似ていた。
ただし、いつもの焚き火の音は、燃料が、燃える音だった。
火が、油や、木材や、紙を、消費するときに、出る、ぱちぱち、しゅうしゅう。
この橙色の点の周りには、燃料が、なかった。
机の上は、何も、ない、平らな木の板だった。
机の木の板は、橙の点から、二、三センチほど、離れていた。
その距離では、机の木の板が、焦げる温度には、なっていなかった。
私は、橙の点を、見つめながら、内側で、確かめた。
──何が、燃えているのだろう。
そして、もうひとつ、別の感覚が、鼻に、届いた。
匂いだった。
匂いは、焦げ臭では、なかった。
机の木の板が、焦げている、わけでは、なかった。
匂いは、もっと、乾いていた。
金属の、乾いた匂い。
雷の前の、空気の匂い。
そのどちらにも、似ていた。
口の中が、わずかに、乾いた。
私は、橙の点を、五秒、見つめた。
そのあいだ、橙の点は、消えなかった。
七秒、見つめた。
まだ、消えなかった。
十秒、見つめた。
橙の縁が、わずかに、揺らぎ始めた。
橙は、私の集中が、緩むのを、待っているように、見えた。
私は、自分の集中を、保つことに、軽く、力を、入れた。
すると、橙は、もう、数秒、安定して、立ち続けた。
合わせて、十五秒ほど、橙は、手のひらの少し上で、点として、止まり続けた。
そして、私が、ふだんの呼吸に、戻ろうとした瞬間。
橙が、赤に、落ちた。
赤は、橙よりも、深く、沈んだ色だった。
赤の色は、わずかに、しゅっと、息を、吐くような音を、立て、
そして、消えた。
手のひらの上の、空間が、急に、ふだんの透明に、戻った。
私は、軽く、息を、吐いた。
机の上の、木の板を、見た。
焦げ目は、なかった。
熱の痕も、なかった。
ただ、空気の中の、乾いた金属の匂いだけが、まだ、わずかに、残っていた。
私は、両手を、机の上に、戻した。
右手のひらは、少し、だるかった。
腕全体は、それほど、重くなかった。
ただ、右手のひらに、ほんの一握り分の、疲労が、残っていた。
──火は、出た。
私は、内側で、確かめた。
そして、続けて、内側に、留めた。
──いま、私は、何を、見たのか。
私は、机の上で、しばらく、動かなかった。
そして、もう一度、同じ姿勢を、取った。
二度目の火を、出した。
二度目は、最初より、少しだけ、早く、橙が、立った。
詠唱の最終音から、橙の点の凝集まで、いつもの一秒の、半分ほどに、縮んだ。
私は、二度目の橙の点を、見つめながら、ゆっくりと、もうひとつの、感覚を、開いた。
真理の眼。
私が、五歳の冬から、ふだんの暮らしの中で、開いたり、閉じたりしてきた、もうひとつの目。
ふだんは、井戸の水の流れや、書架の本の並びや、家族の顔の輪郭や、街路の石畳の継ぎ目を、観察するために、開く目。
その目を、今朝、初めて、自分の手のひらの上の、橙の点に、向けた。
橙の点の、輪郭が、薄く、ほどけた。
ほどけた、というのは、輪郭が、消えたのではなかった。
輪郭の外側に、もうひとつ、薄い、輪郭の層が、現れた。
その層の内側に、橙の点の、内部構造が、見えた。
渦だった。
時計回りの、小さな、渦。
渦は、点の中心から、外側へ、ゆっくりと、回っていた。
渦の動きは、規則的だった。
ふだんの焚き火の、揺らぎの、不規則さは、なかった。
ただ、規則的に、時計回りに、回っていた。
そして、渦の中心に、点が、あった。
点は、橙の点の、中心の、さらに、内側の、もうひとつの、点。
その点は、何かを、燃やしている、ようには、見えなかった。
その点は、ただ、そこに、あった。
ただ、そこに、あって、渦を、回していた。
その点を、私は、まだ、説明できなかった。
──燃料、では、ない。
私は、内側で、置いた。
何が、燃えているのか、私には、まだ、分からなかった。
私は、真理の眼を、もう少しだけ、深く、向けた。
すると、頭の中で、別の、機能が、動き始めた。
それは、聖紋盤の上で、ソフォンが、私の身体に、刻んだ、もうひとつの、機能。
魔法の構造を、読む眼。
魔法解析、と、ソフォンは、呼んだ。
魔法解析が、橙の点の、内部構造を、読み始めた。
頭の中で、いつもの言葉とは、少しだけ、違う、言葉が、生まれた。
──温度勾配。
ひとつ。
──粒子の、運動の、活性化。
ふたつ。
──熱対流。
みっつ。
それらの言葉は、ふだんの私が、自分で、考えた言葉では、なかった。
ただ、橙の点の、内部構造を、見ているうちに、頭の中に、勝手に、浮かんできた、言葉だった。
その言葉たちは、前世の物理学で、私が、覚えていた言葉と、似ていた。
ただし、完全に、同じでは、なかった。
温度勾配、という言葉は、前世の物理学では、もっと、厳密に、定義されていた。
いま、頭の中に、浮かんだ、温度勾配は、もう少し、緩い、輪郭を、持っていた。
そして、もうひとつ、別の言葉が、頭の中に、浮かばなかった。
「燃焼源」という言葉が、浮かばなかった。
魔法解析は、温度勾配、粒子の運動の活性化、熱対流、まで、言語化した。
そこで、止まった。
その先の、「何が、燃焼源か」という問いは、魔法解析の、言語化できる範囲の、外に、あった。
──変数が、ひとつ、足りない。
私の頭の中で、もうひとつ、別の声が、呟いた。
その声は、前世の、研究者の声だった。
工藤智哉が、博士課程の、研究室で、データの異常値を、見つけたときに、内心で、呟いていた声。
その声が、十年ぶりに、頭の中で、響いた。
橙の点が、再び、揺らぎ始めた。
私の集中が、解析の方に、移ったから。
橙が、赤に、落ち、赤が、消えた。
二度目の、終わりだった。
私は、軽く、息を、吐いた。
手のひらが、最初より、ほんの少しだけ、だるかった。
腕全体は、まだ、重くなかった。
──火は、橙の点として、出た。
──燃料は、なかった。
──真理の眼で、内部の渦と、中心の点が、見えた。
──魔法解析で、温度勾配、粒子の運動の活性化、熱対流、までは、言語化された。
──燃焼源は、言語化できなかった。
私は、内側で、四つの行を、整理した。
そして、もうひとつ、五つ目の行を、加えた。
──私は、まだ、その答えを、知らない。
その五つ目の行は、私の中で、軽く、置かれた。
軽く、置かれた、というのは、解決しなければならない、と、慌てなかった、という意味。
ただ、置いた。
その答えは、たぶん、すぐには、出ない。
たぶん、学院で、何かを、学べば、近づける。
たぶん、古い本を、読めば、別の手がかりが、得られる。
たぶん、誰かと、議論すれば、新しい角度が、開ける。
たぶん、そのどれもが、必要だった。
そして、たぶん、そのどれもが、揃っても、まだ、足りないかもしれなかった。
それでも、私は、置いた。
置いたうえで、次の属性に、進むことを、決めた。
水。
二つ目の種は、水だった。
火と、対の属性。
私は、机の脇の、小さな水差しを、見た。
水差しは、昨夜、母が、寝室に、置いてくれた、井戸水の水差しだった。
水差しの脇に、ふだんの杯が、ひとつ、置かれていた。
杯は、空だった。
私は、杯を、机の上に、移した。
机の中央ではなく、少しだけ、脇に。
そこに、空の杯が、置かれた。
そして、もうひとつ、別の杯を、引き出しから、取り出した。
二つの杯を、机の上に、並べた。
並べた理由を、私は、まだ、自分でも、明確には、説明できなかった。
ただ、水を、出すなら、井戸の水と、比べたい、という直感が、あった。
その直感が、二つの杯を、机の上に、並ばせた。
私は、もう一度、両手の姿勢を、取った。
右手のひらを、上に向けて、左手のひらで、軽く、支える。
そして、内側で、決めた。
──水。
詠唱の、最後の一音が、内側で、消えた。
指先の渦が、無色から、蒼色を、帯びた。
蒼は、火の橙よりも、ゆっくり、立った。
ゆっくり、というのは、いつもの一秒のあいだに、無色から、淡い蒼へ、淡い蒼から、深い蒼へ、二段階の変化が、火の場合の、半分くらいの、速さで、進んだ。
そして、詠唱の最終音から、二秒ほど、遅れて、手のひらの、中央に、水玉が、現れた。
水玉は、火の橙の点と、違って、手のひらの少し上、ではなかった。
水玉は、手のひらの、ちょうど、中央の、皮膚の上に、乗っていた。
杯一杯の半分ほどの、量。
手のひらに、乗る、ちょうど、いい大きさ。
指先が、冷えた。
体温より、二、三度、低い冷たさ。
冷たさは、指先から、手のひらの中央の、水玉の方へ、流れていった。
水玉の表面で、冷たさは、止まった。
水玉の中の、水は、冷たかった。
ただし、その冷たさは、井戸水の、冷たさとは、少しだけ、違っていた。
井戸水の冷たさは、外から、来た冷たさだった。
地下の、深い場所で、ゆっくりと、貯められた冷たさ。
この水玉の冷たさは、外から、来た冷たさでは、なかった。
水玉そのものが、最初から、その温度で、生まれたような、冷たさ。
匂いが、鼻に、届いた。
雨後の、土の匂い。
湿った石の匂い。
そのどちらにも、似ていた。
そして、舌の奥に、わずかな、塩気が、残った。
塩気は、海のものでは、なかった。
もっと、淡い。
涙の、塩気よりも、淡い。
ただ、確かに、舌の奥に、残った。
私は、水玉を、見つめた。
水玉は、手のひらの中央で、安定して、止まっていた。
球面が、ぴんと、張っていた。
球面の張りは、ふだんの水滴より、強かった。
ふだんの水滴は、皮膚の上に、落ちると、すぐに、平たく、広がる。
この水玉は、平たく、広がらなかった。
球の形を、保ったまま、手のひらの中央に、止まっていた。
そして、内側で、もうひとつ、感じた。
──これは、私の、属性だ。
その感覚は、火のときには、なかった。
火のときは、橙の点を、出したあと、「ああ、火が、出た」と、確認するだけだった。
水のときは、違った。
水を、出した瞬間に、内側で、何かが、ぴたりと、収まった。
いつもの呼吸の、ふだんの鼓動の、ふだんの体温の、その奥に、もうひとつ、水玉と同じ、温度の、何かが、ある。
その何かが、水玉と、呼応していた。
母エリザベートが、ある日、私に、教えてくれた言葉が、頭に、浮かんだ。
「あなたの本命星は、一白水星」
私は、その言葉を、五歳の冬に、聞いた。
そのときは、星位の、意味を、よく、わからなかった。
ただ、一白水星、という名前の響きだけ、覚えた。
いま、その響きが、水玉と、重なった。
──他の属性は、覚えていることを、再現している感覚だった。
私は、内側で、保留した。
──けれども、水だけは、最初から、私の中に、いた気がした。
私は、水玉を、解いた。
そして、もう一度、出した。
二度目の水玉は、最初より、わずかに、早く、形を、結んだ。
私は、二度目の水玉を、見ながら、ふと、もう一度、出したくなった。
その「もう一度」は、観察のための、もう一度では、なかった。
水玉が、私の手のひらの中央に、現れる、その瞬間の感触を、もう一度、味わいたい、という、ただの衝動だった。
研究者の声では、なかった。
十歳の、私の身体の、声だった。
私は、その声を、聞いた。
聞いて、軽く、頷いた。
そして、三度目の、水玉を、出した。
三度目の水玉は、二度目より、もうわずかに、早かった。
私は、自分の頬が、もう一度、緩むのを、感じた。
──こんなに、楽しいのか、これは。
私は、内側で、ようやく、その言葉を、見つけた。
楽しい、という言葉を、ふだんの観察癖の、ふだんの語彙の中から、引き出すのは、私には、初めてに、近かった。
ただ、いま、その言葉は、水玉と、ぴたりと、重なっていた。
その「最初から」は、聖紋盤の上で、ソフォンが、私の身体に、刻む、より、前のこと。
もっと、前。
私が、現世に、生まれる、その前から、もしかしたら、水は、私の中に、いたのかもしれない。
その考えは、まだ、確信では、なかった。
ただ、その方向に、考えが、傾いた。
私は、水玉を、見つめながら、真理の眼を、開いた。
水玉の輪郭が、薄く、ほどけた。
ほどけた内側に、球面の張りが、薄い網目のように、見えた。
網目は、規則的だった。
いつもの水滴の、表面張力よりも、強い、ぴんと張った、網目。
そして、球の内部に、ゆっくりとした、流動が、見えた。
時計回りの、極めて、ゆっくりとした、流動。
その流動は、水玉の内側だけで、完結していた。
外と、繋がっていなかった。
私は、もうひとつの杯を、見た。
机の上の、空の杯。
その横に、水差しから、井戸水を、ひとさじ、注いだ。
杯の中で、井戸水が、わずかに、揺れた。
私は、真理の眼を、井戸水の方に、向けた。
井戸水の中の、水も、ゆっくりと、流動していた。
ただし、その流動の方向は、不規則だった。
外側の、杯の壁との接触で、わずかに、押し返されていた。
そして、内側の、水分子の、まばらな配列の中に、ふだんの井戸水らしい、不純物が、薄く、混じっていた。
岩盤の鉱物の、わずかな溶けたかけら。
地下水脈の、流れの履歴。
それらが、井戸水の中に、薄く、残っていた。
私は、もう一度、自分の手のひらの、水玉に、視線を、戻した。
水玉の中には、不純物が、なかった。
岩盤の鉱物の、溶けたかけらも、なかった。
地下水脈の、流れの履歴も、なかった。
ただ、純粋な、水だけが、球の中に、ぴたりと、収まっていた。
──この水は、無から、生じている。
私は、内側に、留めた。
そして、もうひとつ、確かめた。
部屋の空気の、湿度を、感じた。
冬の朝の、室内の空気は、もともと、乾いていた。
私が、水を、出す前から、室内の空気は、乾いていた。
私が、水を、出したあとも、室内の空気は、乾いていた。
水玉が、手のひらの上に、ある、いまも、室内の空気の湿度は、ふだんと、変わらなかった。
水玉の中に、ある、水は、室内の空気から、来たわけでは、なかった。
来るなら、室内の空気の、湿度が、下がるはずだった。
下がっていなかった。
──水は、無から、湧いた。
私は、内側で、もう一度、置いた。
そして、頭の中で、魔法解析が、また、動いた。
──凝集。
ひとつ。
──球面、張力。
ふたつ。
──水素、結合。
みっつ。
それらの言葉は、前世の物理学で、私が、覚えていた言葉と、ほとんど、同じだった。
ただし、もうひとつ、別の言葉が、浮かばなかった。
「水分子の、出所」という言葉が、浮かばなかった。
魔法解析は、凝集、球面張力、水分子の繋がり方、まで、言語化した。
そこで、止まった。
──これは、凝結では、ない。
私の頭の中で、もうひとつの声が、呟いた。
研究者の声だった。
凝結は、空気中の、水蒸気が、冷えて、液体に、変わる現象。
この水玉の、生まれ方は、凝結では、なかった。
私は、水玉を、もう少し、保った。
合わせて、十数秒、水玉は、手のひらの中央で、安定して、止まり続けた。
そして、ふだんの呼吸に、戻ろうとした瞬間。
水玉の球面の張りが、ふいに、ほどけた。
ほどけた、というのは、水玉が、平たく、広がる、のでは、なかった。
水玉が、手のひらの中に、ふっと、吸い込まれるように、消えた。
蒸発では、なかった。
蒸発なら、水蒸気の、わずかな上昇が、感じられたはずだった。
感じられなかった。
ただ、水玉が、その場で、なくなった。
──水は、来た場所に、戻った。
私は、内側で、置いた。
来た場所が、どこだったかは、わからなかった。
無、というのは、私には、まだ、よくわからない言葉だった。
ただ、水は、無から、来て、無に、戻った。
そう、置くしか、なかった。
私は、手のひらを、机の上に、戻した。
両方の手のひらが、わずかに、湿っていた。
湿りは、皮膚の表面の、結露のような、ものだった。
しばらくすると、その湿りも、自然に、消えた。
私は、机の上の、二つの杯を、見た。
ひとつは、空の杯。
水玉が、あった場所の、すぐ脇に、置かれた、空の杯。
もうひとつは、井戸水の杯。
杯の中の、井戸水は、まだ、揺れていた。
──同じ水が、二つの場所に、あった。
──ひとつは、私の手のひらの中の、水玉。
──もうひとつは、井戸の、深い場所の、水。
──同じ水だ。
──けれども、同じ水では、ない。
私は、内側で、保留した。
窓の外、午前の光が、室内に、伸び始めていた。
光は、いつもの冬の朝の光より、わずかに、強くなっていた。
時刻は、たぶん、ふだんの、朝食を、終えてから、二時間ほど、経った頃。
──火と、水。
私は、内側で、確かめた。
──二つの種に、声を、かけた。
──二つの種は、芽を、出した。
──火の芽は、燃料が、なかった。
──水の芽は、無から、湧いた。
──二つとも、前世の私の、理屈では、説明できない、部分を、持っていた。
そして、もうひとつ、確かめた。
──指は、私の意志より先に、形を、作った。
火の橙が、出る前に、私の指は、すでに、橙を、出す形を、作っていた。
水の蒼が、出る前に、私の指は、すでに、蒼を、出す形を、作っていた。
その「先に」は、ソフォンが、聖紋盤の上で、私の身体に、刻んだ、手順の、痕跡だった。
私は、机の脇に、ふだんの実験ノートを、置こうかと、思った。
引き出しから、ノートを、取り出して、火と、水の、観察結果を、書きこむ。
いつもの、私の、習慣。
けれども、今朝は、まだ、書かないことに、した。
理由は、はっきりとは、わからなかった。
ただ、書く前に、もう少し、内側で、置く時間が、欲しかった。
私は、軽く、椅子の背に、もたれた。
手のひらは、わずかに、だるかった。
水を、出した手のひらの方が、火を、出した手のひらより、だるかった。
これは、予想外だった。
火の方が、水より、消費が、大きい、と、内側で、感じていた。
実際は、逆だった。
水の方が、私の中の、深い場所から、何かを、引き出していた。
──水は、私の、属性だ。
私は、もう一度、内側に、留めた。
そして、その重みを、軽く、受け止めた。
窓の外、午前の光が、私の机の上の、空の杯と、井戸水の杯を、薄く、照らしていた。
二つの杯は、並んで、机の上に、置かれていた。
ひとつは、私の手のひらの、水玉が、あった場所の、すぐ脇に、ある、空の杯。
もうひとつは、井戸水の、ひとさじが、残っている杯。
私は、その二つの杯を、しばらく、見つめた。
そして、内側で、確かめた。
──水だけは、最初から、私の中に、いた気がした。
──指は、私の意志より先に、形を、作った。
──けれども、私は、その水が、どこから来たのか、知らなかった。
私は、椅子から、立ち上がった。
机の上の、空の杯と、井戸水の杯は、そのまま、置いておくことに、した。
午後の、残りの試行に、また、使うかもしれない。
窓辺へ、歩いた。
カーテンを、もう一度、半分だけ、開けた。
外の光が、もう少しだけ、強く、入ってきた。
外の中庭の、井戸の石組みが、半分ほど、見えた。
中庭の葡萄の蔓の下に、家猫の、灰色の毛並みが、薄く、見えた。
そして、もうひとつ、見えた。
妹クララの、後ろ姿が、葡萄の蔓の下に、しゃがんで、家猫の方に、手を、伸ばしていた。
──次は、風と、土。
私は、内側で、置いた。
──次は、中庭の、井戸端で、試そう。
中庭の、外の空気の中で、風を、確かめたい。
中庭の、地面の土と、手のひらの土を、並べて、確かめたい。
その二つの理由が、自然に、頭の中で、決まった。
その「次」は、まだ、もう少し、先のことだった。
いまは、まず、手のひらの、だるさを、ふだんの感覚に、戻したい。
それから、ふだんの呼吸を、もう、しばらく、続けたい。
私は、窓辺で、深く、息を、吐いた。
外の冬の空気の、冷たさが、窓硝子越しに、頬に、薄く、届いた。
頬の冷たさは、私の中の、水玉の冷たさと、よく、似ていた。
──同じ冷たさだ。
私は、内側で、保留した。
──そして、同じ冷たさでは、ない。
その二つの行を、内側で、軽く、置いて、
私は、椅子に、もう一度、座って、
両手を、膝の上に、軽く、置いて、
しばらく、何も、しないことを、決めた。
手のひらの、まだ、声を、かけていない、残りの四つの種が、
いつもの「ある」感覚で、
そこに、
眠っていた。




