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第5章 第3話「叡智の継承者」

聖紋盤の文様が、足の裏に、触れた。


文様は、四百年以上、人の足に、磨り減ってきた縁だった。


冷たい石だった。


けれども、石の冷たさは、足の裏に届く前に、わずかに、和らいでいた。


聖紋盤が、発光した。


発光は、ジャンの時より、エメの時より、強かった。


クレマンの時の発光より、強かった。


アネットの時の発光と、ほぼ、同じ。


いや。


ほんの少しだけ、強い。


私は、視野の下半分が、白く、染まっていくのを、感じた。


周囲の音が、遠ざかった。


家族席の方向から、届いていた衣擦れの音も、補助神官の足音も、本殿の高い天井に残る祈祷の余韻も、全部、遠ざかった。


私の鼓動だけが、聞こえた。


その鼓動も、ゆっくりと、遠ざかっていった。


私は、目を、伏せた。


伏せた瞬間。


意識が、内側に、向いた。


身体の中の、自分の輪郭が、薄れた。


ふだんは、皮膚の内側で、はっきりと、終わっていた「私」の境界が、もう少し、深い場所まで、引かれた。


──私は、いま、別の場所に、いる。


私は、内側で、思った。


その「別の場所」には、暗さも、明るさも、なかった。


ただ、広さだけが、あった。


広さは、本殿の中の広さでは、なかった。


身体の中の、まだ自分が、足を、踏み入れたことのない場所の、広さだった。


そこに、声が、届いた。


実音では、なかった。


意識の奥に、直接、届いた。


声は、丁寧だった。


中性的で、男性寄り。


老成しているが、声そのものは、若かった。


ただ、痩せていた。


豊かではなかった。


声は、私の名を、呼んだ。


「テオドール・ヴァルメール、汝の魂を、見た」


その一行は、明瞭だった。


──ああ、神の、声だ。


私は、内側で、感動した。


感動の質は、私が、これまでに感じたことのない質だった。


前世の研究室で、論文の最終図表が、初めて、正しく、組み上がった瞬間の感覚に、わずかに、似ていた。


けれども、似ているだけで、同じではなかった。


「汝は……」


声が、続いた。


そして、その続きの途中で、


途切れた。


声は、一瞬、止まった。


「……知を求める者……」


続きが、戻ってきた。


「……賢者の道を、歩むがよい」


声は、その一行を、最後まで、言った。


──あれ。


私は、内側で、思った。


──いま、声が、途切れた?


私は、その疑問を、内側で、確かめた。


確かめながら、自分の感覚に、自信が、持てなかった。


途切れたのは、声だったのか。


それとも、私の側の、受け取る側の、何かが、揺らいだのか。


私には、判断が、つかなかった。


──いや、こういうものか。


私は、内側で、自分に、言い聞かせた。


神は、偉大だ。


神が、疲れることなど、ない。


途切れたように感じたのは、私の側の問題だ。


私の理性は、そこで、留まった。


そう、整理することは、私の理性に、合っていた。


声が、また、続いた。


「初級の、全属性魔法を……」


そして、その途中で、


ふたたび、途切れた。


「……汝に、授ける」


声は、最後まで、言った。


その瞬間、私の身体の中に、新しい感覚が、入ってきた。


感覚は、記憶ではなかった。


記憶は、過去の出来事を、思い出すものだ。


これは、思い出すものではなく、いま、新しく、身体に、刻まれた何かだった。


手のひらの中に、六つの、何かが、入った。


それを、何と呼ぶべきか、私には、まだ、分からなかった。


ただ、手のひらの内側で、六つの、別々の質感の流れが、眠っているのを、感じた。


火、水、風、土、光、闇。


その、六つの。


──六つの種が、植えられた。


私は、内側で、そう、呼んだ。


「種」という言葉が、一番、近かった。


種は、まだ、芽吹いていない。


ただ、植えられた、ことだけが、はっきりと、わかった。


声が、また、続いた。


「魔法の構造を、読む眼を、汝に、授ける」


その一行は、明瞭だった。


途切れなかった。


そして、私の身体の中に、もう一つ、新しい感覚が、入ってきた。


それは、種ではなかった。


それは、眼だった。


ただし、肉体の眼ではなかった。


物事の、構造を、見るための、眼。


そして、その眼で見たものを、言葉に、置き換えるための、別の機能。


二つは、隣り合っていた。


私の中の、真理の眼と、隣り合うように、新しい眼が、立ち上がった。


二つの眼が、隣に並んで、立っているのが、内側で、感じられた。


──これが、魔法解析、か。


私は、内側で、その名前を、置いた。


そう、呼ばれているはずだった。


兄マルクが、いつだったか、教えてくれたことが、ある。


そして、私の額が、熱くなった。


熱は、ふだんの、わずかな温度ではなかった。


焼けるような、熱だった。


額の中央、髪の生え際の、わずか上。


そこに、紋様が、浮かんでいた。


私の意識は、聖紋盤の上に、まだ、いた。


けれども、私の身体の額には、紋様が、確かに、浮かんでいた。


螺旋。


そして、本。


そして、星。


三つが、組み合わさった、紋様。


私は、自分の額を、目で、見ることは、できなかった。


ただ、額の中央が、薄く、光っているのが、内側で、感じられた。


──神紋が、いま、出ている。


私は、内側で、思った。


幼い日に、家族の前で、二度、出かけた、あの紋様。


書庫の中で、自分だけが、何度か、感じた、あの紋様。


ふだんは、見えない場所に、いて、時折、額に、薄く、上がってくる、あの紋様が、いま、はっきりと、私の額に、出ている。


家族席の方向から、わずかな、息の音が、届いた。


母エリザベートの、息の、止まる音だった。


距離があって、顔は、見えない。


それでも、私には、その音が、母のものだと、わかった。


母の隣で、父アンリも、おそらく、目を、見開いていた。


兄マルクは、おそらく、片頬で、わずかに、笑っていた。


──家族に、見られている。


私は、内側で、思った。


そう思った時、頬の奥に、ほんのわずかに、また、熱が、上がった。


それは、恥ずかしさではなかった。


それは、もう少し、深い場所に、近い熱だった。


──家族に、私の、真の姿を、見られている。


「真の姿」という言葉が、内側で、上がってきた。


それは、強い言葉だった。


声が、また、届いた。


声は、続きを、告げた。


「叡智の継承者、と、汝の真の名を、告げる」


私の意識の中で、何かが、ぴたりと、止まった。


──真の、名?


私は、内側で、その言葉を、確かめた。


確かめながら、確かめているのは、自分の側だけだと、内側で、わかった。


真の名、という概念を、私は、どこかで、読んだ気がした。父アンリの書斎の、古い神官団の文献の、欄外の注に、稀に、現れる言葉だった。読者の、ほとんど、いない概念だった。


「この名は、汝と、我らのみが、知るものだ」


声は、続けた。


「俗には、汝は、賢者と、呼ばれるであろう」


「けれども、内には、汝は、叡智の継承者だ」


声は、その一行を、最後まで、言った。


私の中で、自分の名が、二重に、なった。


一つは、街の人々が、口にする、賢者という名。


母エリザベートが、これから、市場で、隣人と話す時に、口にするであろう、賢者という名。


父アンリが、王立図書館の同僚に、報告する時に、書くであろう、賢者という名。


兄マルクが、学院に戻った時に、級友に、伝えるであろう、賢者という名。


それが、俗の名。


もう一つは、神々と、自分だけが、知る、叡智の継承者という名。


それは、誰にも、告げられない。


誰の口にも、上らない。


私の内側にだけ、刻まれる。


──私の名は、いま、二重に、なった。


私は、内側で、その事実を、置いた。


事実は、重かった。


けれども、重さは、押しつぶされる重さでは、なかった。


ただ、内側に、確かに、留まる重さだった。


声が、また、続いた。


「……汝が、最初の……」


声は、そこで、削げた。


削げた、というのが、一番、近い表現だった。


声の続きが、何かに、削り取られるように、消えた。


「最初」の後に、何かが、続くはずだった。


「最初の、何か」が、あったはずだった。


けれども、それが、何だったかは、声の主にも、私にも、分からないまま、消えた。


声は、もう、戻ってこなかった。


私は、意識の奥で、しばらく、その消えた場所を、見つめていた。


「最初の、何だろう」


私は、内側で、思った。


聞き返すことは、できなかった。


接触は、すでに、終わりに、向かっていた。


意識が、身体の中に、戻ってきた。


身体の輪郭が、ふたたび、皮膚の内側で、はっきりと、終わった。


視覚が、戻ってきた。


聖紋盤の文様の、磨り減った縁が、目の前に、あった。


額の熱が、ゆっくりと、引いていった。


紋様も、薄まっていった。


完全に、消えるまでに、十数秒、かかった。


私は、聖紋盤の上で、立ったまま、息を、整えた。


息は、わずかに、乱れていた。


大神官が、私の脇に、立った。


大神官の証書の上に、墨が、走った。


「テオドール・ヴァルメールに、賢窓塔・賢者の道を、授ける」


大神官の声が、本殿の高い天井に、響いた。


その声は、クレマンの時より、アネットの時より、ほんの少しだけ、長く、伸びた。


ユニーク階層の、賢者の、授与。


しかも、神紋発現を、伴った、授与。


家族席の方向から、もう一度、わずかな、衣擦れの音が、届いた。


私は、頷いた。


そして、聖紋盤を、降りた。


降りた時、足の裏に、もう一度、聖紋盤の文様の縁が、触れた。


文様は、まだ、わずかに、光っていた。


けれども、その光は、私が、聖紋盤を離れる、ほぼ同時に、淡い光に、戻った。


私は、列の方向ではなく、家族席の方向の側廊へ、歩いた。


歩きながら、内側で、もう一度、確かめた。


──叡智の継承者。


その名を、誰にも、告げない。


私は、家族席の手前で、足を、止めた。


家族の顔が、見えた。


父アンリの目が、私の額の、もう薄まった、紋様の痕を、追っていた。


母エリザベートが、両手を、軽く、口の前で、組んでいた。


兄マルクが、片頬で、わずかに、笑っていた。


その笑いの中には、ふだんの「お前らしいな」の笑いとは、別の重さが、混じっていた。


家族は、誰も、何も、言わなかった。


それで、よかった。


私は、家族席の、空席に、座った。


家族の脇で、座って、ふたたび、列の方向を、見た。


「二十二番。ロイク・ベルナール、庶民街より」


補助神官の声が、次の名を、呼んだ。


ロイクが、列から、進み出た。


体格が、同年代より、一回り、大きかった。


日焼けした肌、短く刈った黒髪、鍛冶屋の子らしい、太い手首の関節。


ロイクが、聖紋盤の上に、立った。


聖紋盤の発光は、はじめ、淡かった。


ロイクが、目を、伏せた。


数秒、伏せた。


そして、十秒。


二十秒。


三十秒。


ロイクは、まだ、目を、伏せたままだった。


聖紋盤の発光は、淡いままだった。


──おかしい。


私は、内側で、思った。


ユニーク階層なら、聖紋盤の発光が、強まるはずだった。


コモン階層なら、十数秒で、何かが、進むはずだった。


ロイクの神託は、どちらでも、なかった。


ただ、ロイクが、聖紋盤の上で、立ち尽くしている時間が、続いた。


大神官は、ロイクの脇で、急かさなかった。


ただ、待っていた。


待つ姿勢の中に、わずかな緊張が、混じっていた。


ようやく、ロイクが、顔を、上げた。


ロイクの口が、ゆっくりと、開いた。


「……いま」


ロイクは、言った。


声は、低く、寡黙だった。


「いま、風の音が、聞こえました」


ロイクは、それだけ、言った。


それ以上は、何も、言わなかった。


大神官が、深く、頷いた。


そして、告げた。


「ガイア・ヌムの感応だ。剣冠館・武闘家の道を、授ける」


大神官の声には、ふだんの俗称授与には、ない、重さが、混じっていた。


ロイクは、頷いた。


そして、聖紋盤を、降りた。


私は、ロイクの背中を、見ていた。


──言葉のない、神託が、あるのか。


私は、内側で、思った。


ロイクは、神の声を、言葉として、聞かなかった。


風の音として、聞いた。


風の音は、神の声、なのだろうか。


それとも、武闘家神は、言葉を、持たないのだろうか。


私は、その問いを、内側に、置いた。


置いて、追究は、しなかった。


「こういう、神もいるのだろう」


私は、そう、納得することに、した。


そう、納得することは、いま、私の理性に、合っていた。


「二十三番。オーレリー・ボワソナード、庶民街より」


次が、呼ばれた。


オーレリーは、八百屋の娘だった。


おっとりとした顔、栗色の髪。


聖紋盤の発光が、変わった。


ユニーク階層の発光。


ただし、光の質は、これまでに見た、どの光とも、違っていた。


光の縁に、わずかな、揺らぎが、あった。


ひとつの色では、なかった。


複数の色が、ごく、薄く、混じっているように、見えた。


オーレリーは、聖紋盤の上で、目を、伏せた。


数秒。


そして、戸惑った顔で、目を、上げた。


「……たくさんの、声が……」


オーレリーは、小さく、呟いた。


「神様の、声が、たくさん、聞こえました」


大神官は、頷いた。


そして、告げた。


「シェレムの呼びかけだ。賢窓塔・召喚士の道を、授ける」


私は、その「たくさんの声」を、内側で、繰り返した。


──神は、一人で、語るとは、限らないのか。


私は、内側で、思った。


私のソフォンは、一人だった。


明瞭で、痩せていた、その一人の神の声を、私は、聞いた。


オーレリーのシェレムは、複数だった。


複数の声を、オーレリーは、聞いた。


「神は、神ごとに、声の形が、違うのだ」


私は、内側で、置いた。


それは、わずかに、新しい認識だった。


「二十四番。エミール・ラフォン、学者街より」


数十秒の後、大神官の声が、続いた。


「薬学見習いの素養を、授ける」


「二十五番。トマ・ベリエ、印刷工房街より」


トマの名が、呼ばれた。


トマは、製本工房の息子。


亜麻色の癖毛、指先のインク染み。


トマが、聖紋盤の上に、立った。


聖紋盤の発光が、変わった。


ユニーク階層の発光。


光の縁に、わずかに、沈んだ、暗い色合いが、混じっていた。


橙とも、緋色とも、青みとも、違う、ほんの少しだけ、灰色に、近い色。


トマは、聖紋盤の上で、目を、伏せた。


十数秒。


トマの顔が、ふだんの、直球な顔とは、違って、考え込む顔に、なっていた。


トマが、顔を、上げた。


「奢るな、と、神は、おっしゃいました」


トマは、低く、言った。


「奢るな、と。それだけ、です」


大神官は、頷いた。


そして、告げた。


「フェレンの呼びかけだ。工炉院・魔導工師の道を、授ける」


トマは、頷いた。


聖紋盤を、降りた。


降りる時、トマの口元は、引きしまっていた。


「奢るな」の意味を、内側で、考えている顔だった。


──あの神は、何かを、悔いているのか。


私は、内側で、思った。


直感だった。


理性的な根拠は、なかった。


ただ、「奢るな」という言葉の選び方の中に、悔いに、近い、何かが、混じっていた気がした。


私は、その直感を、追究しなかった。


ただ、内側に、置いた。


二十六番から、三十番までは、私の知らない名前が、続いた。


床屋手伝い。


神具屋手伝い。


小麦畑見習い。


羊飼い見習い。


果樹園見習い。


大神官の俗称授与の声が、淡々と、続いた。


聖紋盤の発光は、淡い光のまま、保たれた。


三十番が、聖紋盤を、降りた。


本殿の中の空気が、もう一度、ぴたりと、静まった。


大神官が、祭壇の上に、進んだ。


「閉儀の、祈祷を、捧げます」


短い祈祷だった。


最後の一行は、開儀の祈祷と同じだった。


「我ら、ここに、神々の声を、聞きぬ」


ただし、語尾だけが、過去形に、なっていた。


参列者全員が、目を、伏せた。


復唱した。


私も、復唱した。


復唱の声の中に、自分の声が、確かに、混じっていた。


祈祷が、終わった。


聖紋盤の発光が、完全に、消えた。


控室での、白衣の返却と、自分の服への着替え。


簡素な食事が、神殿側から、支給された。


粥と、林檎。


私は、粥を、半分だけ、食べた。


林檎は、丸ごと、一つ、食べた。


林檎は、甘かった。


中庭で、家族と、合流した。


家族の顔を、見た瞬間、私の胸の奥が、ふだんとは違う場所で、ゆるんだ。


父アンリが、私の前に、立った。


そして、短く、言った。


「テオ。お前は、その道を、授かったのだな」


その一行は、父らしい一行だった。


短く、確かめる、ための、一行だった。


「はい、お父さま」


私は、答えた。


父は、頷いた。


それ以上は、何も、言わなかった。


兄マルクが、片頬で、わずかに、笑った。


「やはり、お前は、賢者か」


兄は、それだけ、言った。


「はい、兄さん」


私は、答えた。


兄も、それ以上は、何も、言わなかった。


母エリザベートが、私の前に、立った。


そして、両手で、私の両肩を、軽く、押さえ、


額に、唇を、軽く、寄せた。


唇は、額の中央、神紋が、いましがた、浮かんだ場所に、触れた。


母は、無言だった。


無言の唇が、私の額の上で、わずかに、止まった。


そして、離れた。


母も、何も、言わなかった。


家族の中の、誰も、「叡智の継承者」のことは、知らなかった。


私も、明かさなかった。


私は、それで、よかった。


私たちは、大神殿の中庭を、出た。


中央広場までの道を、戻った。


道は、来る時と同じ、坂を、登る道だった。


街路には、祭礼の灯が、まだ、灯っていた。


灯は、来る時より、強かった。


ほかの受儀者の家族たちと、ところどころで、すれ違った。


すれ違うたびに、軽い会釈が、交わされた。


サヴァン通りの、古本屋メゾン・デュ・リーヴルの前を、通った。


店の前に、アネット・カステルが、家族と、立っていた。


アネットも、すでに、自分の服に、着替えていた。


アネットの父オーギュストが、私たちの方に、軽く、頷いた。


父アンリも、頷き返した。


アネットの視線が、私の方に、来た。


距離は、十歩ほど、あった。


私の視線が、アネットの視線と、合った。


合った瞬間、アネットの口元が、ほんの一瞬、ゆるみそうに、なった。


けれども、すぐに、また、引きしまった。


アネットは、何も、言わなかった。


私も、何も、言わなかった。


私たちは、ただ、視線を、一拍、合わせて、それから、離した。


家族の歩みは、続いた。


私は、振り返らずに、坂を、登り続けた。


──いずれ、また、話す時が、来る。


私は、内側で、思った。


学者街の坂の途中から、ヴァルメール邸が、見えてきた。


邸の玄関の灯が、ほかの家より、ほんの少しだけ、強く、灯っていた。


玄関の框に、妹クララの姿が、見えた。


「お兄ちゃん!」


クララの声が、坂の上から、届いた。


声は、いつもの、元気な、「クララなの!」の元気を、取り戻していた。


クララは、玄関の框から、坂の途中まで、駆け降りてきた。


母エリザベートが、「クララ」と、軽く、呼んだが、止めなかった。


クララは、私の腰に、抱きついた。


「お帰りなさい、お兄ちゃん!」


「ただいま、クララ」


私は、答えた。


妹の頭を、軽く、撫でた。


「お兄ちゃん、何に、なったの?」


クララは、私の腰に、抱きついたまま、顔を、上げた。


「賢者だよ」


私は、短く、答えた。


「賢者!」


クララは、繰り返した。


「賢者って、何?」


「お父さまみたいに、本を、読む人かな」


私は、答えた。


「お父さまみたいに?」


「うん」


クララは、頷いた。


満足そうな、頷きだった。


それから、私の腰から、離れて、家の方へ、駆け戻った。


家の中から、夕食の支度の匂いが、漏れていた。


「祝いの夕食です」


母エリザベートが、玄関で、告げた。


「簡素ですが、家族五人での、祝いの夕食です」


夕食は、簡素だった。


葡萄酒の水割り、白パン、母エリザベートの煮込み、林檎。


祭礼の日の、家庭の、ふだんの夕食。


ただ、卓の上の灯火が、ふだんより、一本、多かった。


父アンリは、静かだった。


兄マルクも、静かだった。


母エリザベートは、微笑んでいた。


クララだけが、終始、興奮していた。


「クララも、三年後、賢者になれるかな!」


クララは、自分の皿の根菜を、選り分けながら、言った。


「神さまが、決めることだから、わからないけど」


クララは、続けた。


「でも、クララは、お兄ちゃんと、同じが、いいな」


私は、内側で、微笑んだ。


そして、答えた。


「クララが、何を、授かっても、家族は、変わらないよ」


その答えは、おそらく、私が、答えるべき、答えだった。


クララは、頷いた。


夕食は、一時間ほどで、終わった。


夜が、深くなる前。


家族は、それぞれの場所に、戻った。


私は、自分の部屋に、戻った。


部屋は、来る時と、同じ、寒かった。


ランプを、点けた。


机に、向かって、座った。


机の引き出しの、二段目を、見た。


祖父エミールの手紙の、木箱が、ある場所。


私は、引き出しの取っ手に、手を、置いた。


そして、置いた手を、また、離した。


──今夜も、まだ、触れない。


私は、内側で、確かめた。


明日では、ない。


明日の朝、私は、最初の魔法を、試す。


そのあと、いつか、また、この手紙に、向かう日が、来る。


来るかもしれない。


来ないかもしれない。


来るとしても、今夜では、ない。


私は、手を、引き出しから、離した。


椅子に、もたれた。


机の上には、何も、置かなかった。


ただ、両手を、机の上に、軽く、置いた。


手のひらの内側に、六つの種が、まだ、眠っていた。


火、水、風、土、光、闇。


その六つの。


私は、その種を、まだ、試していない。


種が、芽吹くかどうかは、明日の朝、わかる。


明日の朝、最初の魔法を、試す。


そう、決めた。


窓の外、神月の月が、東の空で、もう少しだけ、雲を、抜けてきた。


満月に近いが、満ちきってはいない月。


来る時と、同じ月だった。


ただ、月の位置が、空の反対側に、移っていた。


私は、月を、見ながら、内側で、もう一度、置いた。


──私は、賢者を、授かった。


──けれども、私は、それだけでは、なかった。


──叡智の継承者、と、神は、私の真の名を、告げた。


──その名を、私は、誰にも、告げない。


私は、ランプの火を、小さく、絞った。


そして、机の上の、両手の温度が、ふだんと変わらないことを、確かめた。


額の温度も、ふだんと、変わらなかった。


ただ、内側に、二重の名が、確かに、刻まれていた。


──私は、明日、最初の魔法を、試す。


私は、そう、決めて、寝台に、向かった。

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