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第6章 第4話「南へ、と告げられる」

神月十六日から、二週間が、過ぎた。


私は、毎朝、自分の部屋で、六つの属性のうち、一つか二つを、復習した。


復習、というのは、私が、自分に、許した呼び方だった。


呼吸のひとつのように、食事のひとつのように、属性を、一つずつ、丁寧に、出して、私の身体に、その出し方を、馴染ませた。


二週間で、六つの属性は、それぞれ、十数回ずつ、私の手のひらの上で、芽吹いた。


組み合わせは、試さなかった。


学院で、適切な教師の立ち会いのもと。


ノートに書いた一行を、私は、自分に、守らせた。


二週間目の、ある日の、午後。


ヴァルメール邸の、玄関に、大神殿の、神官事務室から、書状が、届いた。


灰色の蝋印には、六柱の、簡素な紋様が、刻まれていた。


父アンリが、書状を、受け取った。


開けて、読んだ。


そして、私の方を、見た。


「テオ。明日の、午前、神官事務室から、お前と、私を、呼んでいる」


「今後の、修練について、話したい、と、書いてある」


「私と、一緒に、行きなさい」


「はい、お父さま」


父は、書状を、卓の上に、置いた。


それ以上は、何も、言わなかった。


その夜、私は、実験ノートを、開いた。


二週間の、属性ごとの、安定性のデータを、簡潔に、記録した。


火、橙の点の、発動時間、一秒の、半分。


水、蒼の球、一秒。


風、空気の筋、一秒の、半分。


土、灰褐色の塊、一秒の、二倍。


光、白光の面、一秒。


闇、影の球、一秒の、二倍。


数値は、まだ、ばらついていた。


二週間の、十数回では、確かな輪郭は、見えなかった。


ただ、観察癖の、軽い記録として、残した。


学院で、もう少し、確かな輪郭が、見えるかもしれない。


そのときに、いまの記録が、比較対象に、なる。


翌朝、私は、父と、大神殿に、向かった。


学者街の、坂を、下った。


街路には、街の人々が、暮らしを、続けていた。


パン屋の煙、八百屋の店先の根菜、肉屋の店主の手。


神月十五日の、祭礼の灯は、もう、消えていた。


灯が、消えた街路は、私が、知っていた街路だった。


ただ、その街路を、私と、父が、二人連れで、歩いていた。


街の人と、何度か、軽く、会釈を、交わした。


ある人は、私の方を、見て、頷いた。


ある人は、父の方を、見て、頷いた。


──「賢者」の俗称が、街に、もう、巡っている。


私は、内側で、保留した。


そして、それ以上は、追究しなかった。


中央広場を、通り過ぎて、参道に、入った。


参道の中ほどで、見覚えのある姿が、私の前を、横切った。


見習い神官の、白い装束。


「テオ」


イザベル・ファヴルだった。


「イザベル」


私は、軽く、答えた。


「あなたの神託も、無事で、よかった」


イザベルの声は、神託の日よりも、少し、整っていた。


「お元気で」


「ありがとう、イザベル」


「お前も、お元気で」


「はい」


イザベルは、頷いた。


そして、参道を、戻って、神官養成所の方へ、歩いていった。


白い装束の背中が、石畳の上で、静かに、遠ざかった。


──イザベルは、ここで、暮らす。


──私は、ここを、離れて、リューヴェルへ、行く。


神託で、別れた、二人の道。


私は、軽く、頷いた。


それで、よかった。


神官事務室は、本殿の、北側の、回廊の、奥に、あった。


中級神官の、灰色の装束を、纏った男が、机の向こうに、座っていた。


年齢は、五十代の、中ほど。


頭髪は、半分ほど、白くなっていた。


「マルカン・ヴィルヌーヴと、申します」


「神官事務室の、進路担当を、しております」


「アンリ・ヴァルメールでございます」


「テオドール・ヴァルメールです」


「はじめまして、マルカン神官」


マルカン神官は、頷いた。


そして、書類の棚から、二通の書類を、取り出した。


ひとつは、灰色の蝋印の、白い封筒。


もうひとつは、銀の蝋印の、別の白い封筒。


「テオドール・ヴァルメール」


「はい」


「神月十五日の、神託の儀で、お前は、賢者を、授かった」


「はい」


「賢者は、フランディアの、地方では、稀少だ」


マルカン神官の、淡々の中に、わずかに、別の重さが、混じった。


「アルセリア地方から、王立学院の、賢窓塔に、進学した、賢者は、最近の、五年間で、お前と、もうひとりだけだ」


「もうひとり?」


私は、内側で、口を、開きそうに、なった。


ただ、開かなかった。


「アネット・カステル」


「お前と、同じ日に、賢者を、授かった、もうひとり」


「はい」


「アネット・カステルは、家計の関係で、進学を、見送った」


「……」


「お前一人が、本年の、地方からの賢者の、新入生だ」


私は、頷いた。


頷きながら、内側に、留めた。


──アネットは、進学しないのか。


二週間前の、神託の儀の、夜、帰路で、私と、アネットは、視線を、一拍、合わせて、それから、離した。


そのときの、私の中の、ぼんやりとした、予感のひとつ。


「いずれ、また、話す時が、来る」


その「いずれ」の中に、私は、王立学院での、再会を、漠然と、想定していた。


アネットは、王立学院に、来ない。


その事実は、予感を、別の方向に、組み替えた。


ただし、組み替えを、いま、追究は、しなかった。


ただ、頷いた。


マルカン神官は、机の上の、二通の書類を、私と、父の、中間に、置いた。


「これは、王立フランディア学院・賢窓塔長への、推薦状です」


銀の蝋印の、封筒を、軽く、押した。


「学院の、入学手続きの場で、賢窓塔長に、直接、お渡しください」


「はい」


「もうひとつは、ご家族宛の、旅費補助の通知です」


灰色の蝋印の、封筒を、軽く、押した。


「ユニーク階層の、授与者には、王立学院への、進学が、慣例として、求められています。神殿は、ご家族の、旅費の、一部を、補助いたします」


「ありがとうございます」


父は、丁寧な手付きで、二通の書類を、受け取った。


私は、その手付きを、軽く、見ていた。


マルカン神官は、私の目を、見た。


そして、もうひとつ、別の調子で、告げた。


「テオドール・ヴァルメール」


「はい」


「お前の道は、まだ、始まったばかりだ」


「はい」


「お前は、賢者を、授かった。それは、観察で、確かめられた」


「はい」


「お前が、賢者として、何を、するかは、観察では、まだ、確かめられない」


「はい」


「学院で、修練を、積みなさい」


「はい」


「いずれ、お前が、賢者として、何を、するかが、確かめられる、ようになる」


「はい」


「そのときに、もう一度、神殿の、記録に、戻ってきなさい」


「はい」


私は、頷いた。


「何か、不安な、ことは、あるかね」


しばらく、考えた。


不安は、いくつか、ある。


学院は、私が、まだ、行ったことのない、首都にある。


学院の、先輩や、教師や、同期は、私が、まだ、知らない。


寮の生活は、家族の生活と、違うはずだった。


それらの不安は、私の中に、薄く、あった。


ただ、ここで告げるべきかどうかは、別の問題だった。


「ありません」


私は、答えた。


裏側に、もうひとつの答えが、ある。


「6つの未解決事項が、あります。けれども、それは、学院で、解くべきものだと、思います」


その別の答えを、私は、マルカン神官には、告げなかった。


マルカン神官は、頷いた。


その頷きの、裏側に、ほんの少しだけ、別の含意が、ある気が、した。


「答え方を、知っているね」


そんな、含意。


「では、お前の道に、神々のご加護が、ありますように」


私と、父は、神官事務室を、辞した。


廊下を、戻った。


石の冷たさが、足の裏に、届いていた。


回廊の途中で、私は、足を、止めた。


窓の向こうに、六角祭壇が、見えた。


私は、六柱の神像を、軽く、見渡した。


北の、白大理石の、賢者神像。


書を、抱えた立像。


白い大理石の、わずかな、罅。


罅は、二週間前と、同じ位置に、あった。


東の、苔生した、武闘家神像。


顔の輪郭が、失われている。


岩塊と、区別が、つかない。


二週間前と、同じ朽ち方。


北西の、多重環の、召喚士神像。


契約の輪の、ひとつに、細い亀裂。


二週間前と、同じ亀裂。


北東の、黒鉄に鈍銀の、魔導工師神像。


伏せた目。


二週間前と、同じ伏せ方。


──「最古の神ゆえ、補修を控える伝統」と、神官は、言った。


──けれども、それは、本当に、伝統、だろうか。


問いは、追究しなかった。


──気のせいか。


──こういうものか。


軽く、置いて、通り過ぎた。


父が、私の脇で、頷いた。


父も、同じ方向を、見ていた、たぶん。


ただし、父は、何も、言わなかった。


私も、何も、言わなかった。


二人で、回廊を、抜けて、参道へ、出た。


午前の光が、肩の上に、戻ってきた。


その日の、午後と、翌日と、翌々日と、その後の、数日のあいだに、私は、街の同期を、ひとりずつ、訪ねた。


中央市場の、葡萄畑農家の屋台の前で、エメ・サンテールに、会った。


「テオ」


「エメ」


「あなたは、学院に、行くの?」


「うん」


「私は、葡萄畑よ」


「やっぱり、私は、畑の子だね」


エメの調子は、しっかりと、地に、足が、着いていた。


「私は、リューヴェルへ、行く」


「お前は、ここで、畑を、続けるんだね」


「うん」


「三年に、一度、葡萄の出来が、いい年と、悪い年が、ある」


エメは、続けた。


「今年は、いい年に、なりそう」


「そうか」


「あなたが、戻ってくる頃には、ちょうど、いい年の葡萄が、できるかも」


「戻ってくる頃が、いつか、まだ、わからない」


「いつでも、いいよ。葡萄は、毎年、できるから」


私は、頷いた。


──エメは、ここで、毎年、葡萄を、待つ。


──私は、毎年、葡萄を、待たない場所へ、行く。


別れの、形だった。


「お前が、知っていることは、私には、わからない」


私は、続けた。


「葡萄の、出来の、いい年と、悪い年の、見分け方は、私には、まだ、わからない」


「うん」


「けれども、お前が、それを、知っていることは、私には、嬉しい」


「ふうん」


エメは、頷いた。


七歳の妹の「クララなの!」とは違う、十歳の、落ち着いた頷き。


「ありがとう、テオ」


翌日、私は、庶民街の、鍛冶屋の前で、ロイク・ベルナールに、会った。


ベルナール鍛冶工房の、煙の匂いが、街路に、薄く、立っていた。


ロイクは、工房の戸口で、徒弟の服を、着て、立っていた。


「テオ」


ロイクは、寡黙な声で、私の名を、呼んだ。


「ロイク」


「お前は、賢者だってな」


「うん」


「俺は、武闘家らしい」


「うん」


「風の音が、聞こえたんだ」


「お前の風の音は、私には、聞こえない」


私は、答えた。


「けれども、お前が、それを、聞いたことは、信じる」


ロイクは、頷いた。


そして、太い手の関節を、軽く、ほどいて、握手の手を、差し出した。


私は、その手を、握り返した。


ロイクの手の、強さが、私の手の、弱さを、受け止めた。


──ロイクは、ここで、風の音を、聞く。


──私は、ここを、離れて、別の音を、聞く。


二人の道は、神託で、別れた。


握手が、ほどけた。


ロイクは、寡黙に、頷いた。


私も、頷いた。


それ以上の言葉は、なかった。


その日の、午後、私は、サヴァン通りの、古本屋メゾン・デュ・リーヴルに、訪れた。


店の、木の扉。


扉の脇の、銀の鈴。


私は、扉を、開けた。


店の中は、古本の匂いに、満ちていた。


紙の、長い時間の匂い。


革の表紙の匂い。


書架の木の匂い。


店主のオーギュストが、机の向こうから、私の方を、見た。


「テオドール」


「アネットを、呼ぼう」


「ありがとうございます、オーギュスト様」


オーギュストは、店の奥に、声を、かけた。


「アネット」


「はい、お父さま」


「テオドールが、来た」


「はい」


足音が、奥から、近づいてきた。


アネット・カステルが、住居部分から、店の方に、出てきた。


亜麻色の長い髪を、一本に、束ねた、いつもの装い。


ただし、上着の上に、もうひとつ、軽い、別の上着が、重ねられていた。


その上着は、学院の、賢窓塔の装束では、なかった。


もう少し、簡素で、もう少し、地方の、賢者の、私的な、修練の装束。


──アネットは、家で、賢者の、修練を、始めている。


私は、内側で、置いた。


「テオ」


「アネット」


しばらく、二人とも、何も、言わなかった。


そして、アネットが、先に、口を、開いた。


「テオ、私たち、同じ賢者だね」


調子の中に、わずかに、別の、微笑みが、混じっていた。


観察眼の、鋭さの、その奥の、別の、微笑み。


「ええ、同じです」


私は、答えた。


ただし、内側で、もうひとつの行が、ある。


「しかし、私の聞いた声と、彼女の聞いた声は、同じだろうか」


その別の行は、口には、出さなかった。


「お前は、ここで、学ぶのか」


「ええ」


アネットは、頷いた。


「母の店の、古い書物を、整理しながら」


「母から、賢者の修練の、手ほどきを、受けます」


「お前の母は、賢者だったのか?」


「いいえ」


アネットは、首を、軽く、振った。


「賢者では、ありません」


「けれども、古い本を、よく、読みます」


「お父さまから、王立図書館の、写しを、頂いて、よく、読んでいました」


「私の、神紋階層は、ユニークでした」


「けれども、賢者の、修練は、たぶん、書物を、丁寧に、読むことから、始まります」


「母は、それを、知っています」


「だから、母から、まず、書物の、丁寧な読み方を、教わります」


私は、内側で、整理した。


──もう一つの、賢者の道が、ここに、ある。


王立学院の、賢窓塔の、修練の道。


地方の、古本屋の娘の、私的な、修練の道。


二つの道は、別の道だった。


そして、別の道として、両方とも、賢者の、修練の道だった。


「テオ、あなたは、いつ、発つの?」


「明日の、朝です」


「ニコと、二人で、馬車に、乗ります」


「ええ、ニコも、行くのね」


「ニコの、お父さまが、推薦状を、取ってくれて」


「うん」


アネットは、頷いた。


「テオ」


「リューヴェルで、何か、面白い本を、見つけたら、私にも、教えて」


「うん」


「手紙で、知らせる」


「手紙で?」


「うん」


「手紙、書いて、くれるの?」


「書く」


「ありがとう、テオ」


アネットの、微笑みが、もう一度、調子の中に、混じった。


私は、頭を、軽く、下げた。


オーギュストにも、頭を、下げた。


そして、店を、辞した。


店の、木の扉が、私の背中の後ろで、軋みを、立てて、閉まった。


サヴァン通りの、石畳の上に、戻った。


午後の光が、肩の上に、降りていた。


──アネットは、ここで、別の、賢者の道を、歩む。


──私は、別の場所で、別の、賢者の道を、歩む。


二つの道。


両方とも、賢者の、道。


サヴァン通りの、石畳を、北へ、ゆっくり、歩いた。


歩きながら、内側で、もう一度、置いた。


──アネットは、たぶん、私の手紙を、待つだろう。


待つ、というのは、ふだんの「待つ」では、ない。


学院の蔵書で、何かを、見つけた私が、それを、便箋に、書く。


便箋が、リューヴェルから、アルセリアまで、馬車で、半月。


そのあいだ、アネットは、母の店の、古い書物の、ふだんの整理を、続ける。


便箋が、店に、届く。


アネットが、店の奥の、いつもの椅子で、便箋を、開く。


──そんな、半月単位の、待ち方を、たぶん、アネットは、これから、何度も、繰り返す。


私が、学院で、本を、開くたびに。


私だけが、学院に、行く、ということの、重みが、ようやく、足元に、降りてきた。


──同じ日に、同じ神に、呼ばれて、私は、行き、彼女は、残る。


理由は、家計の、ひとつ。


家計の、ひとつ、というのは、たぶん、私には、永遠に、わからない種類の、ひとつだった。


ヴァルメール家の、副司書長の家の十歳と、古本屋の娘の十歳の、家計の、輪郭は、ふだんから、別のものだった。


私は、それを、ふだんに、知っていた。


ただし、常に、知っていたことが、神託の、同じ日の、別の道として、はじめて、私の足元に、輪郭を、見せた。


私は、坂の途中で、軽く、頭を、垂れた。


通行人の、誰にも、見えない角度で、垂れた。


そして、もう一度、北へ、歩き出した。


その日の、夕方、学者街の、坂の途中で、私は、ニコ・モロワに、会った。


ニコは、ヴァルメール邸の、坂の手前で、私の家の方を、見ながら、立っていた。


「テオ」


「ニコ」


「ぼくもリューヴェルに行くんだって」


ニコの、内向的な調子の中で、いつもよりも、少し、嬉しそうな、声。


「父さんが、推薦状を、取ってくれて」


「うん」


「出立は、いつだ?」


「お前と、同じ日」


「明後日?」


「いや、明日」


「明日?」


「うん。明日の、朝の、馬車」


「中央広場の、馬車場で、合流しよう」


「中央広場の、馬車場で」


「明日の、朝の、何時?」


「七時半」


「七時半」


「うん」


私は、内側で、保留した。


「よかった」


私は、短く、言った。


私は、学院に、独りで、行くわけでは、なかった。


ニコと、二人で、行く。


その事実は、十歳の私の、安心の、根拠だった。


ニコは、頷いた。


内向的な調子の中で、外には、出さない、ほっとした、感情。


それを、私は、軽く、察した。


「じゃあ、明日の朝、馬車場で」


「うん、明日の朝、馬車場で」


ニコは、坂を、軽く、下っていった。


ニコの背中が、坂の途中で、小さくなっていった。


私は、坂の手前で、しばらく、立っていた。


夕方の光の中で、坂の石畳の上に、私の影が、薄く、伸びていた。


──明日、私は、リューヴェルへ、発つ。


その後の、数日のあいだに、私は、残りの、街の同期にも、ひとりずつ、軽く、挨拶した。


街路を、歩く、その途中、途中で、すれ違うように、別れの言葉が、交わされた。


八百屋の店先で、オーレリー・ボワソナードに、会った。


「契約の神様の、声、たくさん、あったの」


おっとりとした調子。


「何の、契約だったのか、わかったのか」


「わからない。けれども、神様は、笑っていた気がする」


──神が、笑う、ということが、あるのか。


私は、内側に、置いた。


神々の、声の、その奥に、温かさが、ある気がした。


追究は、しなかった。


製本工房の路上で、トマ・ベリエとは、すれ違いざまの、握手で、別れた。


トマの、徒弟の手の、インク染みと、紙の匂い。


「お前が、書け。お前が、書いた本を、俺が、装丁する」


トマの、直球の、一言。


「一年後、工炉院で」


「うん」


それだけだった。


別れの場で、別の道の、出会い直しが、約束された。


街路を、戻る道で、印刷工房街の、別の同期の少年たちと、ふだんの会釈を、交わした。


ふだんの会釈の、いつもの相手は、すでに、徒弟の前掛けを、身につけて、それぞれの工房の、戸口に、立っていた。


俗称授与を、受けた子たちが、それぞれの家業に、戻っていた。


私だけが、街を、離れる。


その輪郭が、街路の、ふだんの石畳の上で、はっきりと、輪郭を、立てた。


そして、出立の、前夜が、来た。


その夜、兄マルクが、午後の、馬車で、学院から、帰省した。


家族での夕食は、簡素だった。


母エリザベートの、煮込み、白パン、葡萄酒の水割り、林檎。


ただし、卓の上の灯火が、いつもより、ほんの少しだけ、長く、灯っていた。


夕食が、終わった。


クララと、母が、皿を、台所へ、運んだ。


父アンリは、ふだんの椅子の上で、まだ、卓の上の灯火を、見ていた。


兄が、卓の脇で、私の方を、見た。


「テオ」


「はい、兄さん」


「少し、話そう」


「はい」


兄と、二人で、書斎へ、向かう前に、私は、いつもの椅子の、父の正面に、半歩、近づいた。


父は、私の方を、見上げた。


「お父さま」


「テオ」


「明日の朝、発ちます」


「ええ」


父は、頷いた。


それから、卓の灯火に、視線を、戻した。


「私は、お前を、見送る。中央広場まで」


「はい、お父さま」


「それから、私は、図書館に、戻る」


「はい」


「ふだんの一日に、戻る」


父の声は、ふだんの「ふだん」と、ほとんど、同じだった。


ほとんど、というのは、いつもの「ふだん」より、ほんの一拍だけ、ゆっくりだった、という意味。


その一拍の、ゆっくりが、父の、沈黙の、手触りだった。


「お前は、お前の道に、進みなさい」


父は、それだけ、言った。


「私の方は、ふだん、通りだ」


「はい、お父さま」


私は、頭を、軽く、下げた。


父は、頷き返した。


そして、もう、何も、言わなかった。


私と、兄は、家族の共用書斎へ、移動した。


父アンリの仕事部屋とは、別の、家族みんなが、本を、読むための、部屋。


暖炉が、薄い、炎で、燃えていた。


書架が、四方の壁に、立っていた。


椅子が、暖炉の脇に、ふたつ、向かい合っていた。


私と、兄は、その二つの椅子に、向かい合って、座った。


兄は、紺の上着の、襟を、いつもよりも、少し、整えて、座った。


学院の正装、ではなかった。


家族の服。


ただし、その服の、整え方が、いつもよりも、整っていた。


「テオ」


兄は、家族向けの「俺」の調子で、私の名を、呼んだ。


「はい、兄さん」


「お前は、賢者を、授かった」


「はい」


「俺は、導師を、授かった」


「はい」


兄は、暖炉の、薄い炎を、軽く、見つめた。


そして、続けた。


「学院では、俺は、二年生だ」


「お前は、新入生だ」


「賢窓塔で、同じ建物に、通う」


「けれども、専攻と、階層が、違う」


「学院では、私が、先輩だ」


兄の「俺」が、「私」に、変わった。


公式の場の、調子。


「だが、お前は、賢者だ」


「私とは、違う道を、歩む」


兄の「私」の調子は、書斎の、暖炉の炎の、薄い橙の中で、重さを、持っていた。


私は、頷いた。


頷きの、裏側に、別の、重さが、混じり始めた。


兄は、続けた。


兄の「俺」が、戻ってきた。


「俺は、剣を、握りたかった」


「けれども、神は、別の道を、示した」


「導師は、補助の役だ」


「前線では、ない」


「俺は、それを、受け入れるのに、時間が、かかった」


兄の調子の中に、別の、調子が、薄く、混じった。


剣を、握りたかった、希望の、残り物。


「お前は、賢者を、希望していた」


「希望と、神託が、一致した」


「それは、運が、いい」


兄の淡々の奥に、別の、含意が、ある気が、した。


「けれども、希望と、一致したことは、お前の責任を、軽くは、しない」


「むしろ、重くする」


その「重くする」の、調子は、重さを、持っていた。


私は、頷いた。


頷きの裏側に、別の、理解が、薄く、生まれた。


──兄さんは、自分の三重ミスマッチを、私に、贈っている。


剣を、握りたかった、希望。


神が、別の道を、示した、神託。


導師は、補助の役だ、現実。


三つの、ミスマッチが、兄の内側に、残っていた。


その三つを、兄は、私に、贈っていた。


「お前は、ミスマッチが、なかった」


「それは、運だ」


「運の、その上に、責任が、ある」


そんな、別の、含意。


ただし、兄は、その別の含意を、口に出しては、告げなかった。


ただ、「希望と、一致したことは、お前の責任を、軽くは、しない。むしろ、重くする」と、告げただけ。


別の含意の、理解は、私の側の、観察癖から、組み上がった。


「俺は、先輩だが、お前の道に、俺は、口を、出せない」


兄は、「俺」の調子で、続けた。


「お前の道は、賢者の道だ」


「俺の道とは、別の道だ」


「俺は、お前の、兄だが、お前の、師では、ない」


「お前の師は、お前の、内側に、いる」


私は、深く、頷いた。


頷きの裏側に、別の、深さが、生まれていた。


──兄さんは、自分の経験を、私に、ある形で、贈っている。


兄の、二年間の、学院の、修練。


導師の、修練。


三重ミスマッチの、受け入れの、時間。


その三つを、兄は、私に、贈っていた。


ただし、自分の言葉の、整い方の、節度の中で。


「兄さん」


私は、応じた。


「ありがとう」


兄は、片頬の、わずかな、笑いで、頷いた。


「私は、自分の道を、歩みます」


私は、続けた。


「けれども、兄さんが、いる学院に、行けることは、心強い」


兄の、片頬の笑いが、いつもよりも、わずかに、深くなった。


「そうか」


「それなら、いい」


「何か、困ったら、寮の俺の部屋を、訪ねろ」


「場所は、入学手続きの日に、教える」


兄の調子の中に、優しさが、薄く、混じっていた。


「はい、兄さん」


それ以上の言葉は、なかった。


兄は、椅子から、立ち上がった。


私も、立ち上がった。


書斎の、暖炉の炎が、私と、兄の、背中の、薄い橙の影を、揺らした。


書斎を、出たあと、私は、妹クララの、部屋へ、向かった。


クララの部屋の、扉の前で、軽く、ノックした。


「はい」


「お兄ちゃん?」


「うん」


「入っていい」


私は、扉を、開けた。


クララは、就寝の支度を、整えていた。


寝衣に、着替えて、寝台の縁に、座っていた。


寝台の脇に、絵本が、一冊、開かれていた。


クララは、私の方を、見た。


「お兄ちゃん、明日、行くの?」


「うん」


「リューヴェルへ」


「リューヴェルへ」


クララは、頷いた。


「クララなの!」の元気の調子の中に、別の、調子が、薄く、混じっていた。


別れの、寂しさの、薄さ。


「クララも、知ってるもん」


「うん」


「ねえ、お兄ちゃん」


「うん」


「クララ、三年後の、神託、怖いの」


クララは、構えを、解いて、両手を、自分の前で、軽く、組んでいた。


七歳の妹の、聞き方の、構え。


「三年後」


私は、繰り返した。


「三年後、お前が、神託を、受けるとき」


「うん」


「私は、必ず、手紙を、書く」


「手紙?」


「うん」


「リューヴェルから?」


「リューヴェルから」


「神託の、前に?」


「神託の、前に」


クララは、頷いた。


「クララなの!」の調子に、戻り始めた。


「約束」


私は、結んだ。


「約束?」


「ええ、約束」


「お兄ちゃん、約束は、守るの?」


「守る」


「ぜったい?」


「ぜったい」


クララは、頷いた。


そして、寝台の縁から、私の方に、軽く、寄ってきた。


私は、妹の頭を、軽く、撫でた。


「お兄ちゃん、三年後まで、待ってる」


「うん」


「三年後まで」


クララは、頷いた。


そして、絵本を、軽く、閉じた。


寝台に、入った。


「お兄ちゃん、おやすみなさい」


「おやすみ、クララ」


私は、扉を、軽く、閉めた。


廊下の、石の冷たさが、足の裏に、届いていた。


自分の部屋に、戻った。


夜の、薄い灯火。


机の上に、実験ノートが、置かれていた。


私は、椅子に、座った。


そして、ノートを、開いた。


二週間前の、神月十六日の、ページを、軽く、開いた。


六つの未解決事項の、行が、位置で、並んでいた。


その下に、「複合魔法は、学院で」の、一行。


その下の、白い、ページ。


私は、ペンを、取った。


インク壺の蓋を、開けた。


ペン先を、インクに、軽く、浸した。


そして、しばらく、考えた。


十歳の、考え方では、何を、書くべきか、わからない。


研究者の、観察癖では、何を、書くべきか、薄く、浮かんでいた。


ペンを、構えたまま、私は、ふと、二週間と、数日の、時間を、頭の中で、巻き戻した。


巻き戻された時間の中で、橙の点が、もう一度、生まれた。


蒼の水玉が、もう一度、私の手のひらの中央に、収まった。


空気の筋が、葡萄の枯れ葉を、二重の円で、滑らせた。


灰褐色の塊が、地面の土を、減らさずに、現れた。


白光の面が、熱を、伴わずに、私の手のひらの上面に、満ちた。


影の球が、私の体温を、わずかに、奪った。


そして、神官事務室の、灰色の蝋印と、銀の蝋印と、街角の、葡萄畑と、鍛冶屋と、古本屋と、製本工房と、八百屋と、参道の白い装束と、坂の途中のニコの背中と、書斎の暖炉の前の兄の「私」と、寝台の縁の妹の「ぜったい?」が、頭の中で、ひとつの、薄い、布のように、重なった。


その布の、ひとつひとつの、糸目が、軽く、温度を、持っていた。


──あの数週間は、楽しかった。


私の中で、ひとつの、確かな、認識が、立った。


ふだんの観察癖の、ふだんの語彙の中で、「楽しかった」という言葉を、こんなふうに、過去形で、置くのは、たぶん、私が、現世に、生まれて、はじめてだった。


「楽しい」を、過去に、回収する、ことができる、ということを、私は、いま、この机の前で、ようやく、知った。


楽しさは、現在形の、その瞬間に、ある。


そして、その現在形が、過ぎ去ったあと、過去形に、なる。


過去形に、なって、ようやく、「楽しかった」という、ふだんの、生活の言葉に、私の中で、刻まれる。


その刻みが、ペン先と、インクの瓶の、あいだで、軽く、私の手を、止めた。


二週間の、六つの属性の、試行の、結果。


街角の、別れの、儀礼の、結果。


兄の、書斎の、対話の、結果。


妹の、寝台の縁の、約束の、結果。


その四つの、結果の、合わさり方の、中で、私の中に、一行が、浮かんでいた。


私は、ペンを、構えた。


そして、十歳の手付きで、一行を、書いた。


魔法は科学だ。


ペン先を、軽く、止めた。


そして、続けた。


だが、科学だけでは、魔法は、語れない、らしい。


書き終えて、ペン先を、戻した。


その一行は、十歳の手付きの、整った、書体だった。


観察癖の、結論の、一行。


その一行の、上に、空の、一行が、ある。


「魔法は科学だ。」の、上に。


その一行の、下に、空の、一行が、ある。


「だが、科学だけでは、魔法は、語れない、らしい。」の、下に。


上下の、空の一行だけ。


詩的な、一語改行は、しなかった。


文体の、節度。


私は、ペンを、戻した。


インク壺の蓋を、軽く、閉めた。


そして、ノートを、軽く、閉じた。


机の引き出しの、二段目を、軽く、見た。


祖父エミールの、手紙の、木箱が、位置で、ある。


私は、引き出しの取っ手に、目を、合わせた。


合わせただけだった。


手は、伸ばさなかった。


──今夜も、まだ、触れない。


明日でも、ない。


明日の、リューヴェルへの、出立の朝でも、ない。


いつか、ある日。


その「いつか」は、まだ、来ていない。


私は、椅子から、立ち上がった。


窓辺へ、歩いた。


カーテンを、半分だけ、開けた。


冬の夜の、空が、見えた。


神月十六日から、二週間と、数日が、過ぎていた。


神月の月は、もう、新月に、近かった。


夜の空には、月の代わりに、星々が、位置で、輝いていた。


北の空の、低い場所に、一白水星が、薄く、輝いていた。


私の本命星。


母エリザベートが、私が、五歳の冬に、教えてくれた、星。


水との、親和の、星。


その星は、低い場所で、薄く、輝いていた。


薄さの、裏側に、確かさが、あった。


毎年、毎年、その位置で、輝いている、確かさ。


──明日、私は、リューヴェルへ、発つ。


私は、内側に、留めた。


──六つの、未解決事項を、抱えて、発つ。


そして、もうひとつ、置いた。


──一白水星は、ここで、私を、見送る。


──そして、リューヴェルの、夜の空でも、私を、待っている、はず。


星の位置は、街が、変わっても、変わらなかった。


賢者の、星の、観察の、最も、基礎。


私は、窓辺で、深く、息を、吐いた。


白い息が、冬の夜の空気の中で、可視化された。


そして、消えた。


私の身体の温度は、結露を、起こす。


その温度が、私を、生かしている。


私は、窓辺から、寝台へ、向かった。


寝衣に、着替えた。


ランプの火を、軽く、絞った。


寝台に、入った。


毛布の、重さ。


寝台の、硬さ。


私の身体の中の、「ある」感覚。


腹の奥に、魔力の、溜まり。


六つの種が、芽吹いた、跡。


そして、もうひとつの「ある」感覚。


頭の中に、魔法解析の、言語化の機能。


そのふたつを、抱えて、私は、明日、リューヴェルへ、発つ。


六つの、未解決事項を、抱えて、発つ。


そして、内側で、もう一度、確かめた。


──魔法は科学だ。


──だが、科学だけでは、魔法は、語れない、らしい。


その一行は、十歳の、現時点の、結論だった。


そして、結論は、暫定的だった。


暫定が、明日からの、修練で、書き換わるかもしれない。


書き換わるかもしれない、暫定の、一行を、抱えて、私は、明日、発つ。


私は、呼吸を、寝台の中で、ゆっくりと、整えた。


呼吸が、眠りの方へ、降りていった。


十歳の、最後の、一夜の、眠り。


ヴァルメール邸の、夜の中で。


明日の朝、私は、リューヴェルへ、発つ。

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