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第3章 第4話「焦げた机」

結月の、最初の月曜日の朝だった。


私は、九歳になっていた。


父の書斎の絨毯の上に、座っていた。


膝の上に、薄い、青い革表紙の書物が、置かれていた。


『現代魔法理論初歩』


王立図書館の現代書部門で、私が一年前に目に入れた本だった。


父に頼んで、家の書斎の本棚に、同じ書名の別の刷りを、買い置きしてもらっていた。


父は、私がその書名を覚えていたことを、聞いた時、何も言わなかった。


ただ頷いて、書店で同じ書名の別の刷りを買ってきた。


家の本棚に、それを置いた。


「お前が、読みたい時に、読んでいい」


父は、それだけ、言った。


私は、半年、その本を、読み続けていた。


頁をめくると、図解が出てきた。


魔素の流れの、模式図だった。


魔素は、目には見えないけれども、人の身体の中を流れている。


身体の中の魔素は、外側の空気中の魔素と、絶えず入れ替わっている。


魔素の濃度は、地域によって違う。


アルセリアは、フランディアの、中でも、魔素の濃度が、比較的、高い土地だ、と、書物は、述べていた。


私の中の、二十八歳の私が、その記述を、読んだ。


──「魔素」、という単語を、私が、前世で、知っていた言葉に、当てはめると、どこに、近いか。


──「気体の、揮発しやすい、化学的に活性の、媒介物質」、と、私の中の、研究者の血は、認識した。


──「触媒に、近い」、と、私は、認識した。


──だが、完全には、触媒とは、違う。


──「触媒」は、自身は、変化しないが、「魔素」は、反応に、参加するように、書物の、別の頁には、書かれていた。


私は頁の隅に、自分の幼児の字で書き込みを入れた。


「しずくの、はなしと、にている」


私の中で、結月の議論練習の、「そらが、つめたいから、しずくが、ふえる」という、二年前の答えが、もう一度、浮かんだ。


──水蒸気が、冷えて、液化する。


──気体が、媒介する。


──気体の濃度が、地域によって、違う。


──私の中の、二十八歳の、研究者の血が、すぐに、対応関係を、作り始めた。


「とうさま」


私は、書斎の机の、父に、呼びかけた。


「ここに、かいてあるの、ぼくが、まえに、きいた、しずくの、はなしと、にている気がする」


父は、書類から、目を、上げた。


私の方を、見た。


しばらく、何も、言わなかった。


それから、ほんの少しだけ、口の端を、緩めた。


「そうか」


父は、それだけ、言った。


「お前は、それを、覚えておけ」


私は、頷いた。


「にている、の、棚」、と、私は、自分の中で、その並列を、しまった。


兄マルクが、賢窓塔に、入って、半年が、過ぎていた。


兄の不在は、家の中の、空気の、密度を、ほんの少しだけ、下げていた。


私は、月に、一度の、兄の帰省を、待った。


待つ間の、ひと月は、九歳の身体に、長かった。


私は、読書院で、ロランや、ピエールの前では、「速度を、選ぶ」習慣を、身に、つけ始めていた。


──九歳の身体の、語彙の、範囲。


──九歳の身体の、思考の、速度。


──家の方針として、私は、外の世界で、自分を、ひとつ、遅らせて、見せていた。


その反動が、家の中に、戻った時に、私を、押した。


──家の中だけは、「速度を、選ばない」場所で、ありたかった。


──家族には、二十八歳の私を、見せて、よい、はずだった。


──家族の前で、私は、自分の、思考の、速度の、まま、動きたかった。


『現代魔法理論初歩』を、半年、読み続けてきた、私の中の、二十八歳の血は、もう、頁の上で、止まることに、飽き始めていた。


──読むだけでは、もう、もたない。


──書物の中の、図解を、頭の中で、再現するだけでは、もう、足りない。


──「試したい」、と、私の中の、研究者の血が、ささやいた。


──ささやきは、最初、小さかった。


──だが、ひと月ごとに、その声は、少しずつ、大きくなった。


──九歳の身体の、好奇心が、二十八歳の血の、ささやきに、共鳴した。


兄の不在が、家の中の、抑えを、ほんの少しだけ、緩めていた。


兄が、家に、いる時、私は、無意識のうちに、兄の目を、意識して、自分の、速度を、抑えていた。


兄の目は、家族の中で、最も、私の、速度に、近かった。


その目が、半年、家の中に、いなかった。


私は、自分の中で、それを、意識せずに、緩み始めていた。


──いま、思えば。


──二十八歳の私は、後から、認識する。


──兄の不在の、その半年が、私の中の、何かを、押した。


──押されたものが、灯月の、ある日の、午後、台所の、保存食の、棚の前で、形に、なった。


灯月の、ある日の、午後だった。


私は台所にいた。


母は、近所のニコの母と、玄関先で立ち話をしていた。


クララは、自分の部屋で人形と遊んでいた。


台所には、誰もいなかった。


私は、保存食の棚の前に立った。


上から二段目に、塩壺が置かれていた。


その奥の隅に、ほんの少しだけ、別の白い結晶が紛れていた。


──「硝石」、と、私の中の、二十八歳の私が、すぐに、認識した。


──保存食用の、硝石。


──肉の、塩漬けの、発色用に、使う。


──家の中で、母が、年に、数回、肉の、塩漬けを、作る時に、使っている、結晶だった。


──前世の、化学の、知識の中で、硝石は、「硝酸カリウム」だった。


──火薬の、三成分の、ひとつ、だった。


私の手が、塩壺の方に、伸びた。


私の中の、二十八歳の私が、その瞬間、はっきりと、認識した。


──九歳の身体が、いま、危ない場所に、足を、踏み出そうとしている。


──前世の研究者の血が、九歳の身体に、無断で、手を、動かそうとしている。


──「やめろ」、と、二十八歳の私が、九歳の身体に、声を、かけた。


──だが、九歳の身体の、好奇心は、二十八歳の声を、押し切った。


私の手は、硝石の結晶を、ほんの、少しだけ、指で、つまんだ。


私は、自分の懐から、麻布の、小さな袋を、取り出した。


家の、繕い物の、母の道具入れから、もらってきた、空の袋だった。


私は、その袋に、硝石の結晶を、ほんの、少しだけ、移した。


塩壺の、結晶の量は、目で、見ても、ほとんど、減らなかった。


母は、気付かないだろう、と、私は、思った。


これは、家族の秘匿運用とは、別の、私だけの、秘匿だった。


──家族の秘匿運用は、家族で、共有する。


──だが、いま、私が、しまったのは、家族には、共有しない、私だけの、秘匿だった。


──家族に、共有しない秘匿が、家族の秘匿運用と、同じ場所に、ある、ということ自体が、ある種の、裏切りだった。


──二十八歳の私の中で、それが、認識された。


──だが、その認識は、九歳の身体の、好奇心を、止められなかった。


私は、麻布の袋を、自分の懐に、しまった。


台所を、出た。


その夜、私は、暖炉の灰の奥から、木炭の粉を集めた。


家族は皆、寝ていた。


ろうそくの光だけで、暖炉の前にしゃがんだ。


火かき棒で、灰を軽くかき混ぜた。


灰の中から、燃え残りの小さな木炭の塊が、いくつか出てきた。


それを、別の麻布の袋に移した。


塊は、指で押すと、簡単に粉になった。


──「木炭」、と、私の中の、二十八歳の私が、認識した。


──火薬の、三成分の、ふたつめ。


私は、そっと、その袋を、自分の机の、引き出しの、奥に、しまった。


私は、もう、引き返せない場所に、足を、踏み入れていた。


岳月の、ある日、書斎の、父の本棚の、奥の段で、私は、古い、薬瓶を、見つけた。


ガラスの瓶の中に、黄色い、結晶が、入っていた。


瓶の口の、紙の蓋に、父の字で、「虫除け 古書用」、と、書かれていた。


私の中の、二十八歳の私が、瓶を、見た。


──黄色い結晶。


──虫除け、と、書かれている。


──「硫黄」、または、「硫黄を、含む化合物」。


──前世の、化学の、知識の中で、硫黄は、火薬の、三成分の、みっつめ、だった。


私は、その瓶を、しばらく、見ていた。


父の本棚の、奥の段、というのは、父が、滅多に、開けない段だった。


父が、虫除けの瓶を、最後に、見たのが、いつなのかは、私には、わからなかった。


私が、瓶に、手を、伸ばした、その瞬間だった。


廊下の、床板が、軋んだ。


私は、息を、止めた。


足音が、書斎の戸の方に、近づいてくる、ように、感じた。


──父か。


──母か。


私の、九歳の胸が、異常に、速く、打った。


私の指は、瓶の蓋の上で、止まっていた。


足音は、書斎の戸の前を、通り過ぎた。


家政婦のマリーの、台所への、足音だった。


足音は、廊下を、奥に、抜けていった。


私は、息を、吐いた。


胸の鼓動が、まだ、収まらなかった。


──いま、私は、何を、しているのか。


──二十八歳の私の中で、その問いが、一瞬だけ、浮かんだ。


──だが、九歳の身体の、好奇心は、もう、その問いを、押し切っていた。


私は、瓶の蓋を、開けて、その結晶を、ほんの少しだけ、自分の、三つ目の、麻布袋に、移した。


瓶を、元の場所に、戻した。


──三つの、成分が、揃った。


──二十八歳の私の中で、火薬の、三成分の、配合比率が、すでに、計算されていた。


──「硝石、七十五。木炭、十五。硫黄、十」


──黒色火薬の、伝統的な、配合比だった。


──私が、これから、混ぜる量は、それぞれの、ほんの、一つまみ。


──結果は、限定的な、ものに、留まる、はずだった。


──「はず、だった」、と、二十八歳の私は、後から、思った。


──だが、その時、私の中の、二十八歳の血は、その「はず」を、過信した。


──過信は、九歳の身体に、伝染した。


神月の、最初の、灯月の終わりの、午後だった。


家族は、それぞれの、用事で、家を、空けていた。


母は、近所の、書店の、奥さんの、お産の、手伝いに、行っていた。


父は、図書館だった。


クララは、隣家の、ニコの妹と、遊びに、行っていた。


家には、私と、家政婦の、マリーだけが、いた。


マリーは、台所で、夕食の、下ごしらえを、していた。


私は、書斎の、裏手の、小屋に、向かった。


小屋は、父の、道具置き場だった。


家の、裏庭の、奥の方に、あった。


家族の動線の、外側だった。


マリーは、台所から、小屋の方を、見ることが、できなかった。


私は、小屋の戸を、開けた。


中は、薄暗かった。


埃の匂いが、した。


私は、自分の、小さな、陶器の器を、持ってきていた。


器を、小屋の、作業用の、木の机の上に、置いた。


私の懐の、三つの、麻布袋。


私は、それを、机の上に、並べた。


私は、自分の中で、もう一度、数えた。


──硝石、ほんの一つまみ。


──木炭の粉、その三分の一の、量。


──硫黄、その五分の一の、量。


私は、それぞれの、ほんの、少しずつを、陶器の器の中に、移した。


器の中で、三色の、粉が、並んだ。


私は、自分の、指先で、それを、ゆっくりと、混ぜた。


混ぜながら、私の中の、二十八歳の私が、認識した。


──いま、私は、前世の、化学の、知識を、現世の、身体で、再現しようと、している。


──結果は、限定的だ、と、私は、思っている。


──だが、現世の魔素が、この反応に、どう、関与するかは、私の、二十八歳の血でも、計算しきれていない。


──「魔素が、媒介物として、反応に、参加する」、と、現代魔法理論初歩は、述べていた。


──その「参加」が、火薬の反応で、どう、現れるかは、書物には、書かれていなかった。


──書物は、もっと、穏当な、魔法の反応の話しか、していなかった。


──私の手の中で、いま、起きようとしているのは、書物に、書かれていない、領域、だった。


──「やめろ」、と、二十八歳の私が、もう一度、九歳の身体に、声を、かけた。


──だが、その時、私の指は、もう、混ぜ終わっていた。


私は、火かき棒で、暖炉の、消し炭を、ひとつ、持ってきていた。


その消し炭を、器の、中央に、置こうとした。


その瞬間だった。


陶器の器の中の、混合物が、いきなり、白い、強い、光を、発した。


私の、指の先で、何かが、はぜた。


机の、表面が、焦げた。


煙が、立った。


煙は、白くて、苦い、匂いを、していた。


私の、前髪の、左側の、一部が、縮れた。


左の、眉の、半分が、焦げた。


私の、左手の、甲に、一点、火傷が、できた。


熱さよりも、驚きの方が、大きかった。


私は、その場に、座り込んだ。


座り込みながら、咳を、した。


煙が、口に、入った。


苦かった。


私は、咳を、止めることが、できなかった。


しばらく、咳が、続いた。


二十八歳の私は、自分の中で、瞬時に、状況を、認識した。


──予想を、超えた、反応の、増幅。


──「魔素濃度の、地域差で、予測が、ずれる」、という、書物に、なかった、現象。


──現世の、アルセリアの、魔素濃度が、前世の、地球の、化学の、計算を、上回って、反応を、加速した。


──怪我は、軽微。


──だが、もし、私が、もう、少しでも、多くの量を、配合していたら、私の、左手は、もう、なかった、かもしれない。


──九歳の身体の、好奇心の、限界が、まさに、いま、私の前で、露わに、なった。


私は、咳を、しながら、机の上の、焦げ目を、見ていた。


机の、表面の、焦げ目の、形は、丸かった。


中心が、深く、焦げて、外側に、向かって、薄く、なっていた。


私の、二十八歳の血は、その形を、覚えようとした。


──その形を、私は、覚えなければ、ならない。


──書かなければ、ならない。


──書くことは、覚えることだ。


──覚えることは、考えることだ。


──父の言葉が、私の中で、もう一度、響いた。


私の中の、九歳の身体は、まだ、咳を、していた。


私の中の、二十八歳の血は、もう、ノートの方を、見ていた。


二つの、私が、同じ身体の中で、別々の、方向を、向いていた。


戸を叩く音は、なかった。


戸は、いきなり開いた。


父アンリだった。


外出から戻ってきたばかりの上着が、まだ汚れていた。


父の目が、小屋の中を一瞥した。


机の、焦げ目。


煙の、残り。


私の、左の眉。


私の、左手の甲。


私の、咳。


父の目は、それぞれを、一拍ずつ、見て、それから、私の目に、戻った。


「テオ」


父の声は、低かった。


私が、これまで、家の中で、聞いたことの、ない、温度の、低さだった。


──怒り、では、なかった。


──怒りよりも、ずっと、深い、何か、だった。


「お前、火を、扱ったのか」


私は、頷いた。


頷くしか、できなかった。


「そうか」


父は、それだけ、言った。


母が、後ろから、走ってきた。


母の目は、私を、見た瞬間に、すべてを、把握した。


「テオ」


母は、小屋に、駆け込んだ。


私の、左手を、自分の両手で、掴んだ。


「水よ。早く」


母は、自分の手を私の左手から離さずに、振り返った。


「マリー。台所から、冷たい水を、桶に」


家政婦のマリーの足音が、台所の方から、聞こえた。


桶を、持ってくる、足音だった。


母は、私の左手を、見つめた。


「傷は、深くないわ」


母は、自分の声を、自分で、確認するように、言った。


「深くない」


「深くない」


母は、二度、繰り返した。


二回目は、自分に、言っていた。


二十八歳の私の中で、その繰り返しの、温度が、置かれた。


「母の、繰り返し」を、私は、自分の中に、しまった。


父が、しゃがんだ。


私の目線の、高さに、しゃがんだ。


「テオ」


父は、もう一度、私を、呼んだ。


「それは、恐ろしい」


父は、言った。


「なぜ、恐ろしいか、説明してごらん」


父の声は、まだ、低かった。


低かったけれども、その低さの中に、怒りは、なかった。


──父は、私を、叱るために、その質問を、しているのでは、なかった。


──父は、私に、自分の、いま、起きたことを、私自身の言葉で、説明させようと、していた。


──「説明してごらん」、という言葉の、底に、流れているのは、岳月の夜に、父が、私に、初めて、実験ノートを、渡した、あの夜の、温度と、同じ温度だった。


──「書くことは、覚えることだ。覚えることは、考えることだ」


──父は、私に、考えさせようと、していた。


──いま、起きたことを、私の中で、ひとつの、形に、させようと、していた。


私は、咳を、止めるのに、しばらく、時間が、かかった。


止めてから、私は、口を、開いた。


「ぼく、しおつぼの、おくに、しょうせきが、あるのを、しっていた」


私は、九歳の身体の、子供の言葉で、答え始めた。


「まえに、よんだ、ほんに、しょうせきは、ねつを、だす、もとに、なる、と、かいてあった」


「もくたんの、こなと、いおうも、おなじ、なかまの、もの、と、かいてあった」


「みっつ、いっしょに、まぜると、ねつが、おおきく、なる、と、ぼく、おもった」


私は、子供の言葉の、限界の、ぎりぎりまで、説明した。


子供の言葉の、奥には、二十八歳の、研究者の、計算が、あった。


その計算は、私は、口には、出さなかった。


出さないのは、家族の方針だった。


父は、最後まで、聞いた。


聞いてから、しばらく、何も、言わなかった。


「ねつが、おおきく、なる、と、思ったか」


父は、繰り返した。


「うん」


「だが、思った以上に、大きく、なった、ということだな」


「うん」


「なぜ、思った以上に、大きく、なったと思う」


父の目は、私の目を、見ていた。


私は、答えに、迷った。


──「魔素」、と、答えるか。


──「魔素」は、書物に、書かれていた、単語だった。


──九歳の身体が、書物で、読んだ単語を、使うことは、許される、はずだった。


──だが、「魔素が、反応に、参加した」、という、説明は、書物には、書かれていなかった。


──書物に、書かれていない、説明を、私が、自分で、推測した、ことに、なる。


──九歳の身体の、推測の、範囲を、超えるか。


──父は、それを、見抜くだろうか。


私は、しばらく、迷ってから、答えた。


「ほんに、まそ、というものが、ある、と、かいてあった」


「まそが、なにか、しているのかも、しれない、と、ぼく、おもった」


「けれど、よく、わからない」


私は、九歳の身体の、推測の、限界を、自分で、引いた。


「わからない」、と、明示することで、自分の、推測の、範囲を、子供の範囲に、収めた。


父の目が、私の上で、しばらく、止まった。


「お前は、自分で、わからない、と、言える」


父は、言った。


「それは、よい」


「わからないことを、わからない、と、言えることは、考えるための、第一歩だ」


父は、それだけ、言った。


それから、もう一言、加えた。


「お前は、書け」


「今夜、書け」


「書いて、明日、父さんに、見せろ」


私は、頷いた。


書庫の、新しい棚に、父の言葉の、温度が、置かれた。


「書け、の、棚」、と、私は、その棚に、名を、つけた。


棚の中身は、まだ、これから、書かれる。


母の手当ては、暖炉の前の椅子の上で行われた。


母は、桶の冷水で、私の左手をしばらく浸した。


それから、繕い物の清潔な麻布を、火傷の上に軽く当てた。


「傷は、本当に、深くないわ」


母は、もう一度、自分に、言った。


「眉も、毛は、また、生えてくる」


「前髪も、切れば、いいだけ」


母は、自分に、確認するように、四度、五度、繰り返した。


クララが、自分の部屋から出てきた。


クララは、私の焦げた眉を見て、しばらく固まった。


それから、母の足元に、自分の手を伸ばした。


「かあさま」


クララは、言った。


「にいさま、いたかった」


「少し、痛かったでしょうね」


母は、答えた。


「でも、もう、大丈夫」


クララは、母の足の、ひざの上に、自分の頭を、押し付けた。


クララの目は、私の左手の、麻布を、見ていた。


クララの目は、それから、私の顔に、移った。


しばらく、私の顔を、見ていた。


それから、クララは、自分の手を、私の方に、伸ばした。


伸ばして、私の、焦げていない方の、右手を、握った。


「にいさま」


クララは、言った。


「おかえり」


私は、頷いた。


頷きながら、私の中の、何かが、緩んだ。


二十八歳の私の中で、その緩みが、認識された。


──九歳の身体は、いま、初めて、本当に「痛かった」、と、自分で、認められた。


──認める前から、痛みは、あった。


──だが、認めるためには、家族の中の、誰かが、自分の、痛みを、見てくれる、必要が、あった。


──クララの、握った手が、それを、引き出した。


その夜、私は、自室の机に向かった。


実験ノートの十八冊目の頁を開いた。


最初の絵は、陶器の器の、上から見た絵だった。


器の中に、三色の粉。


「しょうせき・ひとつまみ」


「もくたんのこな・三ぶんの一」


「いおう・五ぶんの一」


その下に、机の、焦げ目の、絵を、描いた。


焦げ目の中心が深く、外側が薄くなる形を、模写した。


中央に、文字で書いた。


「ねつが、おおきく、なった」


「思った、よりも、ずっと」


頁を、めくった。


次の頁に、私は、もうひとつ、絵を、描いた。


その絵は、二つの、書庫の、絵だった。


ひとつは、前世の、物理学の、書庫。


ひとつは、現世の、魔法理論の、書庫。


二つの書庫の、間に、矢印を、描いた。


矢印の、根本の方に、「にている、ところ」


矢印の、先の方に、「ちがう、ところ」


「にている、ところ」の、根本に、私は、書き込みを、入れた。


「ねつが、はっせいする」


「まぜると、はんのうする」


「ちがう、ところ」の、先に、もうひとつの、書き込みを、入れた。


「まそが、ある」


「まそが、はんのうを、ふやしたかもしれない」


「まだ、わからない」


頁の、隅に、私は、もうひとつ、文字を、書いた。


「まほうは、もしかしたら、かがくなのかもしれない」


──二十八歳の私の中で、その一行が、書かれた瞬間の、温度が、認識された。


──一行は、まだ、確信、では、なかった。


──「かもしれない」、と、書いたのは、推測の段階に、留めるためだった。


──確信は、まだ、四年、先に、ある、はずだった。


──それでも、推測の、最初の一行が、いま、ノートに、置かれた。


──書庫の、新しい棚に、その一行が、置かれた。


──棚の名は、もう、私の中で、決まっていた。


──「まほうと、かがくの、棚」。


──棚の中身は、これから、私が、四年、いや、二十年、いや、もっと、長い時間を、かけて、しまっていくものだった。


──だが、その夜、私は、まだ、そのことを、知らなかった。


私は、ノートを、閉じた。


ろうそくの炭の粉を、指で、払った。


兄マルクが、神月の祭りで、帰省したのは、その三日後だった。


兄の、賢窓塔の、制服の、襟元は、緩んでいた。


賢窓塔の、規律よりも、ほんの少しだけ、自分の身体の方に、合わせた、緩み方だった。


兄の髪は、前の帰省の時よりも、わずかに、長くなっていた。


兄の体格は、もう一段、がっしりと、してきていた。


兄の目つきの、奥に、賢窓塔の、訓練の、何かが、混じり始めていた。


剣を、諦めきれない、導師の卵の、目つき、だった。


十二歳の、夏が、兄を、ほんの少しだけ、変えていた。


兄は、私の左手の、麻布と、焦げた眉と、前髪の、縮れを、見て、しばらく、何も、言わなかった。


それから、息を、ひとつ、深く、吐いた。


「お前」


兄は、言った。


「やりやがったな」


兄の声は、低かった。


低かったけれども、その低さの中には、怒りは、なかった。


呆れと、何か、別の温度が、混じっていた。


「ごめんなさい、にいさま」


私は、頭を、下げた。


「で」


兄は、続けた。


「何が、起きたのか、説明しろ」


「怒ってんじゃねえ、興味が、あるんだ」


兄の目は、私を、見ていた。


その目には、好奇心が、はっきりと、燃えていた。


二十八歳の私の中で、それが、認識された。


──兄は、自分の中の、何かと、私の中の、何かが、共鳴することを、感じている。


──兄は、それを、自分でも、まだ、十分には、自覚していない。


──だが、確かに、共鳴している。


──「リソース消費の、暴走」、と、後年、私が、兄の、導師としての、戦闘スタイルを、知った時に、認識する、その共鳴が、いま、この夜、すでに、兄の目の、底で、燃えていた。


私は、兄に、自分の説明を、繰り返した。


父にした、説明と、ほぼ、同じ説明だった。


兄は、最後まで、聞いた。


聞いてから、自分の頭を、軽く、振った。


「お前は、面白い」


兄は、言った。


「だが、次は、もっと、危なくない場所で、やれ」


「そして」


兄は、私の、机の上の、ノートを、指した。


「次の手紙で、もっと詳しく、書け」


「俺に、書け」


「失敗は、悪くない」


「隠すのが、悪い」


「ちゃんと、書いておけ」


──二十八歳の私の中で、その言葉が、書庫の、新しい棚に、置かれた。


──棚の名は、まだ、なかった。


──棚の名が、私の中で、形になるのは、四年後の、王立学院の、酸素濃縮実験の、失敗の、夜のことだった。


──だが、その夜、兄が、私の机の前で、口にした言葉が、四年後の、私を、救うことに、なる、とは、九歳の私は、まだ、知らなかった。


書庫の、新しい棚に、兄の言葉が、置かれた。


棚は、空ではなかった。


棚の中には、すでに、兄の言葉が、ひとつ、しまわれていた。


読書院の、その後の、結月のある日だった。


中庭で、ロランとピエールが、私の方を見ていた。


ロランは九歳、ピエールは十歳。


二人とも、私よりも年上の学年の子だった。


「おい、テオ」


ロランが、私に、声を、かけた。


「お前、火を、出したんだって」


「眉まで、燃やしたって」


ピエールが、続けた。


「坊ちゃんなのに、危ないことを、するなあ」


二人の声は、からかいの、温度を、持っていた。


けれども、その底に、ほんの少しだけ、感心の、温度も、混じっていた。


私は、俯いた。


俯くのが、家の方針だった。


「ごめんなさい」


私は、答えた。


「ぼく、もうしません」


「そりゃ、そうだ」


ロランは、笑った。


「もう、しないほうが、いいぞ」


二人は、それで、満足した。


別の遊びの方に、戻っていった。


私の隣に、ニコが来た。


ニコは、私の眉を見ていた。


それから、もう外れた、左手の麻布の痕の方を見た。


「テオ」


ニコは、言った。


「おとうさんに、��られたの」


「叱られた、ってより、説明させられた」


私は、答えた。


「そうか」


ニコは、頷いた。


「でも、もう、痛くないんだろ」


「うん」


「じゃあ、よかった」


ニコは、それだけ、言った。


それから、自分の弁当箱から、林檎の、薄く、切った、ひとつを、私に、差し出した。


「おかあさんが、テオに、って」


「ありがとう、にこ」


私は、林檎を、受け取った。


林檎は、薄く、切ってあって、甘い、酸味が、口の中で、広がった。


書庫の、新しい棚に、ニコの林檎の、温度が、加わった。


「ニコの、林檎の棚」、と、私は、その棚に、名を、つけた。


棚は、すでに、いっぱいに、なっていた。


中身は、林檎の、薄い切れひとつ、だった。


それで、十分、だった。


その夜、私は、自室の、机の前で、もう一度、実験ノートの、十八冊目の、頁を、開いた。


机の、焦げ目の、絵。


書庫の、二つの、絵。


「まほうは、もしかしたら、かがくなのかもしれない」


私は、その一行を、もう一度、読んだ。


私は、頷いた。


頷きながら、私は、その頁の、最後の隅に、もうひとつ、文字を、書き加えた。


「だが、まだ、たしかでは、ない」


「たしかに、するには、もっと、書かなければ、ならない」


「もっと、考えなければ、ならない」


「もっと、試さなければ、ならない」


「だが、九さいの、ぼくの、てが、もう、たりない、ばあいも、ある」


私は、最後の一文を、書きながら、自分の左手の、薄く、残った、傷の痕を、見ていた。


九歳の手は、まだ、足りない。


書きながら、考えるしか、なかった。


考えるしか、できない時には、考えに、留めて、試すことを、保留しておくしか、なかった。


「ためすのは、まだ、はやい」、と、私は、自分の中に、しまった。


私は、ノートを、閉じた。


ろうそくを、吹き消した。


──机の、焦げ目を、私は、いつまでも、覚えていた。


──後年、私が、王立学院で、酸素濃縮の、実験を、試みて、もっと、大きく、失敗するのは、これより、四年も、先のことだったが、その四年の、間、私の中で、結月の小屋の、机の、焦げ目の、形が、消えることは、なかった。


──失敗は、消えない。


──消えないからこそ、私は、その上に、次の、頁を、重ねていくことが、できた。


──兄が、私に、口にした「失敗は、悪くない。隠すのが、悪い。ちゃんと、書いておけ」、という言葉が、四年後の、夜の、私の、自室の、机の、ろうそくの、灯りの下で、もう一度、私に、響くことに、なる。


──だが、その夜の、九歳の、私は、まだ、四年後の、自分が、その言葉を、必要とすることを、知らなかった。


──ただ、自分の、左手の、薄い傷痕と、自分の中に、しまった、いくつかの、形と、そして、実験ノートの、十八冊目の、頁の、ある一行だけが、私の、九歳の年の、終わりに、形を、持って、残った。


──「まほうは、もしかしたら、かがくなのかもしれない」


──その一行が、後年、私が、神託の朝の、神殿の、高い天井の下で、賢者神の、声を、初めて、聞く、その時まで、私の、ノートの、白い余白の上で、ひっそりと、待ち続けることに、なる。


第3章「兄の背中」


第4話「焦げた机」 完


第3章「兄の背中」 完


次章「神月の前夜」(九歳〜十歳)へ続く

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