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第3章 第3話「父の書架」

灯月の、最初の月曜日の、朝だった。


私は、八歳に、なっていた。


家の玄関で、父アンリが、私の上着の襟を整えていた。


母エリザベートが整えるよりも、ずっと不器用な整え方だった。


襟の右側が、左側よりも、ほんの少しだけ立ちすぎていた。


私は、それを自分の手で直したい衝動を、抑えた。


抑えたのは、父の手の不器用さの中に、ほんの少しだけ緊張が混じっているのを、感じたからだった。


二十八歳の私の中で、それが、認識された。


──父も、私を、今日、初めて、自分の職場に、連れていく。


──連れていくことを、父は、いつから、考えていたのだろう。


──三日前か。


──一週間前か。


──それとも、もっと、前から、なのか。


私は、その問いを、自分の中に、しまった。


「テオ」


父は、襟を、整え終わってから、私を、呼んだ。


「今日は、父さんに、ついて、おいで」


「はい、とうさま」


私は、答えた。


クララが、廊下の奥から、走ってきた。


クララは、四歳半になっていた。


クララの手の中には、母の縫った布の人形が、握られていた。


「にいさま」


クララは、私の前で、止まった。


「おかえり、まってる」


クララは、それだけ、言った。


私は、頷いた。


私は、クララの「まってる」を、確かに、受け取った。


「まってる」、と、クララは、もう、自分が言った言葉として、しまった様子だった。


クララの目は、すでに、人形の方を、向いていた。


私は、それで、よかった。


サヴァン通りは、灯月の朝の淡い光の中にあった。


朝の空気は、まだ夏の残りを、わずかに含んでいた。


父と私は、並んで歩いた。


父の歩幅は、私の歩幅のほぼ二倍だった。


父は、それを意識して、自分の歩幅を半分に落としていた。


私は、自分の歩幅を、いつもよりほんの少しだけ伸ばした。


私たちの歩幅は、サヴァン通りの石畳の、ひとつの石の幅ずつ進んだ。


書店主たちが、父に会釈をした。


父は、それぞれに頷き返した。


「アンリさん、おはようございます」


「おはようございます」


「坊ちゃんも、いつの間にか、大きく、なられて」


「そうですね」


父は、それぞれに、似たような答えを、似たような温度で返した。


私は、書店主たちに頭を下げた。


頭の下げ方は、母が教えてくれた角度だった。


肘の角度。


腰の角度。


目線の落とし方。


──家の中の、礼の作法だった。


──家の外でも、同じ作法を、すれば、いい。


──母は、そう、言っていた。


私は、母の教えに、従った。


書店主たちは、私の頭の下げ方に、それぞれ、ほんの少しだけ、目元を、緩めた。


書店主たちの、目元の温度を、私は、覚えた。


「メゾン・デュ・リーヴル」


私たちが、その看板の前に、来た時、店の戸が、内側から、開いた。


中から、出てきたのは、大柄な、丸い顎の、男の人だった。


オーギュスト・カステル。


アネットの父だった。


「アンリさん」


オーギュストは、父を、見て、笑った。


「お久しぶりです」


「こちらこそ、ご無沙汰しています」


父は、答えた。


オーギュストの目が、私の方に、降りた。


「坊ちゃん」


オーギュストは、私を、見て、笑った。


「大きくなられて。アネットが、いつも、坊ちゃんの話を、するんですよ」


「読書院で、隣の席だ、なんだ、と」


オーギュストの声は、低く、温かかった。


私の中で、ある瞬間、結月の中庭の、果樹の下が、また、浮かんだ。


──「ねえ、テオお兄ちゃん、いま、なんで、額に、手を当てたの」


──アネットの声。


──「夢でも見たんでしょう」と、母が、預けた、その後。


──オーギュストは、それを、家で、アネットから、聞いている、はずだった。


──聞いていながら、目の前のオーギュストの目には、追求の温度は、なかった。


オーギュストの目は、ただ、温かかった。


「こんにちは、おじさま」


私は、頭を、下げた。


「アネットちゃんの、おとうさま」


「おう、そうだ」


オーギュストは、笑った。


「今度、家に、遊びに、おいで」


「店の二階に、子供が、読める本が、たくさん、ある」


「アネットも、喜ぶ」


私は、頷いた。


頷きながら、私は、オーギュストの、店の戸の奥を、見た。


戸の奥に、本棚の、最初の一列が、見えた。


その本棚の、上から二段目の、左の方の、本の背の革の色が、ほんの少しだけ、ほかの本と、違って、見えた。


──色が、違うのは、その本だけが、ほかの本よりも、ずっと、古い、ということだ。


──二十八歳の私の中で、それが、認識された。


──だが、八歳の私の身体は、その認識を、口に出さない。


──「面白いお店だ」、というほどの、子供の感想で、抑える。


「おもしろい、おみせ、ね」


私は、言った。


オーギュストは、もう一度、笑った。


「坊ちゃんは、お父さん似だな」


「お父さんも、初めて、この店に来た時、上から二段目の、革の古い本を、すぐに、見つけたよ」


オーギュストの目が、父の方に、向いた。


父が、頷いた。


「あれは、もう、十五年も前の、話だ」


「ええ。十五年です」


父と、オーギュストは、しばらく、互いの目を、見ていた。


その間に、流れたものは、十五年分の、何かだった。


二十八歳の私の中で、それが、認識された。


──父と、オーギュストの間には、私の知らない、十五年分の、何かが、ある。


──その何かは、私が、今日、立ち入る場所では、ない。


──私は、自分の場所を、知っていた。


オーギュストが、私たちを、見送った。


私たちは、サヴァン通りを、北東に、歩き続けた。


王立図書館アルセリア館は、サヴァン通りの、北東の端の、広い広場の、奥に、あった。


四階建ての、灰色の、石造りの、建物だった。


正面の、大きな扉の上に、フランディア語と、古代語の、両方で、「フランディア王国 王立図書館 アルセリア館」と、刻まれていた。


古代語の方は、私の中の、八歳の身体は、まだ、読めない、はずだった。


──「アルセリア館」、と、二つ目の、古代語の単語が、書かれている。


──二十八歳の私の中で、それが、すでに、認識されていた。


──だが、八歳の身体は、その認識を、口に出さない。


私は、ただ、扉を、見上げた。


父が、私を、見ていた。


父の目は、私の目の、動き方を、見ていた。


私の目は、上の段の、フランディア語の上で、一度、止まり、それから、下の段の、古代語の上で、もう一度、止まった。


止まりすぎたかもしれない、と、私は、感じた。


私の目は、すぐに、扉の、把手の方に、降りた。


父の目が、私の目の動きを、追っていた。


何も、言わなかった。


入口の廊下を歩く時、父の靴の音が、石床の上で響いた。


私の靴の音は、父の音のほぼ半分の大きさだった。


廊下の途中で、向こうから一人の男の人が歩いてきた。


紺色の長い上着を着ていた。


胸の縁に、銀色の縁取りがあった。


年齢は、五十を過ぎているように見えた。


灰色の髪を、後ろで結っていた。


目は、温和だった。


「ヴァルメール卿」


その人は、父を見て、軽く頷いた。


「おはようございます、子爵」


父は、深く一礼した。


その一礼の角度は、私が家で見たことのない角度だった。


母が私に教えた角度よりも、もう五度ほど深かった。


──父の、職場での、礼の角度だった。


──家の外の、父の角度を、私は、初めて、見た。


子爵の目が、父の隣の私の上に降りた。


「君が、ヴァルメール卿の、次男君か」


子爵は、私を見て笑った。


「父君に、よく似ておいでだ」


私は、母が教えた角度よりも、もう二度ほど深く、頭を下げた。


「はじめまして、おじさま」


私は、答えた。


子爵は、もう一度頷いた。


それから、私の頭の上に、自分の手を軽く置いた。


その手は、温かかった。


すぐに離れた。


子爵は、父に向き直った。


「今日は、坊ちゃんに、図書館を、見せてあげるのかね」


「はい。少しずつです」


「いい。ゆっくり、見せてあげなさい」


「ありがとうございます」


子爵は、軽く頷いて、廊下を進んでいった。


子爵の背中が、廊下の奥に消えた。


父の目が、私の方に降りた。


「オクターヴ・ド・モンレー、子爵」


父は、子爵の名を、私に、言った。


「父さんの、上司だ」


私は、頷いた。


子爵の手の、温度を、私は、覚えた。


家の外にも、温かい手は、ある。


副司書長補佐クレマンス・フォシエは、父よりも、四つ、若かった。


赤茶の髪を、後ろで、束ねていた。


灰青色の目だった。


クレマンスは、父の代わりに、私を、図書館の、子供向けの、絵本コーナーに、連れていった。


絵本コーナーは、一階の、東の方の、明るい部屋だった。


低い書架が、子供の、手の届く高さで、並んでいた。


絵本の表紙が、それぞれ、子供の目を、引く色を、していた。


「ここは、坊ちゃんと、同じくらいの子が、お母さんと、一緒に、来る場所です」


クレマンスは、説明した。


「坊ちゃんは、もう、字が、十分に、読めるから、絵本ばかりでなくても、いいですね」


クレマンスの声は、優しかった。


優しかったけれども、その優しさの中に、ほんの少しだけ、確認の、温度が、あった。


──「坊ちゃんは、もう、字が、十分に、読める」、と、クレマンスは、私の前で、口に出した。


──父が、クレマンスに、それを、伝えているか、クレマンスが、自分で、推測しているか、私には、分からない。


──いずれにせよ、私は、頷くだけで、よかった。


「はい」


私は、答えた。


クレマンスは、頷いた。


それから、私を、現代書部門の、書架の手前に、連れていった。


現代書部門の、書架は、高かった。


天井の、半分ほどの、高さがあった。


書架の縁には、革の表紙の、新しい書物が、並んでいた。


「ここは、ここ五十年ほどの、書物の、書架です」


クレマンスは、説明した。


「フランディア語の、現代の書物が、たくさん、あります」


私は、頷いた。


書架の、上の方の段は、私の身長の、二倍以上の、高さに、あった。


私の目は、上の段に、届かなかった。


クレマンスは、私の目線を、見て、笑った。


「上の方の段は、坊ちゃんが、もう少し、大きくなってから、見せてあげますね」


私は、頷いた。


頷きながら、私は、現代書部門の、書架の、下から三段目の、左の方の、本の背を、見た。


『現代魔法理論初歩』


その背の文字が、私の目に、入った。


──現代魔法理論初歩。


──私が、まだ、読んだことの、ない、書物の、名前だった。


──『現代魔法理論初歩』、と、私は、その書名を、しまった。


──「いつか、読む」、と、私は、その書名の上に、しるしを、つけた。


私は、その背を、長く、見ないようにした。


クレマンスは、私の目線の、動きを、見ていなかった。


クレマンスの目は、別の書架の、別の本の背を、見ていた。


私は、それで、よかった。


午後、父が、戻ってきた。


父は、自分の仕事の、合間の、休憩時間だった。


「テオ」


父は、私を、呼んだ。


「もう一つ、見せておこう」


「だが、ここから先は、許可が、要る場所だ」


父の声は、いつもよりも、ほんの少しだけ、低かった。


私は、頷いた。


父は、私を、図書館の、奥の方の、廊下を、進んだ。


廊下の、突き当たりに、一つの、扉が、あった。


扉の上に、「特別書架」と、彫られた、小さな看板が、掛かっていた。


父は、自分の懐から、鍵を、取り出した。


鍵は、銀色だった。


鍵の頭に、フランディアの、紋章が、彫られていた。


父は、鍵を、扉の鍵穴に、差した。


回した。


扉は、開いた。


中は、薄暗かった。


書架が、両側に、並んでいた。


書架の数は、十二、ほど、だった。


それぞれの書架は、私の身長の、四倍ほどの、高さが、あった。


書架の段数は、十段、ほど、だった。


父は、入口から、三歩、進んで、立ち止まった。


「ここで、見せられるのは、上の段だけだ」


父は、言った。


「上の段、というのは、一番上の段、ではない。下から、七段目以上の、四つの段、という意味だ」


「それより下の段は、まだ、お前には、見せられない」


「さらに、最下層の棚は、父さんでも、勝手に、開けることが、できない」


父の声は、淡々としていた。


私は、頷いた。


頷きながら、私の中の、二十八歳の私が、瞬間的に、認識した。


──父は、私に、書架の、構造を、説明している。


──「上の段だけ」、「最下層棚は不可侵」、という、家族と、図書館の、二重の、線引きを、私に、見せている。


──私の中に、その線引きを、今日、置く、というのが、父の意図だ、と、私は、感じた。


父は、書架の、ひとつに、近づいた。


下から、七段目を、指した。


そこには、地方の、郷土史と、思われる、書物が、並んでいた。


「アルセリア近郊」


「西部フランディア」


「北西ベルジア」


「南海レヴァンタ」


それぞれの地域の、郷土史の、背表紙が、並んでいた。


父は、その中から、一冊を、抜き出した。


『アルセリア近郊 古き街区の話』


父は、その本を、私に、差し出した。


私は、両手で、受け取った。


「これは、お前が、いつか、読むかもしれない本だ」


父は、言った。


「今日は、表紙だけ、見ておけ」


私は、頷いた。


表紙の革は、暗い茶色だった。


革の縁が、何度も、何度も、開かれてきたことで、丸く、磨り減っていた。


私は、その磨り減り方を、覚えた。


その時、私の耳に、変な音が、入った。


書架と、書架の、隙間から、風の音が、聞こえた。


特別書架の部屋は、外側に、面した窓は、なかった。


入口の扉も、父が、入ってから、後ろ手に、閉めていた。


外気の通り道は、どこにも、ないはずだった。


ないはずなのに、風の音だけが、書架の隙間を、流れていた。


──おかしい、と、私は、感じた。


──けれども、八歳の私は、それを、言葉には、できなかった。


廊下から、入ってきた風が、書架の隙間を、通って、流れている、ということは、あり得たかもしれない。


けれども、その風の音は、私の中で、なぜか、私の呼吸の音と、ほんの少しだけ、重なって、聞こえた。


──私の呼吸の、半拍、後ろを、追うように、風の音が、流れた。


──風の音の、リズムは、私の呼吸の、リズムと、ほぼ、同じだった。


──ほぼ、同じだったけれども、完全には、同じでは、なかった。


──風の音の方が、私の呼吸の、半拍、後ろを、流れていた。


──「追ってくる」、と、私の中の、ある場所が、認識した。


──二十八歳の私の中の、その認識は、すぐには、形に、ならなかった。


──「変な音だ」、と、私は、認識した。


──ただ、それだけだった。


私は、その音を、自分の中に、しまった。


私の目は、まだ、表紙の、革の磨り減りの方を、見ていた。


父が、私の方を、見ていた。


父の目は、私の様子に、何かを、感じている、ようだった。


何を感じているか、私は、分からなかった。


父は、何も、言わなかった。


ただ、私の手の中の、本を、受け取って、書架の、元の場所に、戻した。


「今日は、ここまでだ」


父は、言った。


私は、頷いた。


私たちは、特別書架の、部屋を、出た。


父が、扉に、鍵を、かけた。


鍵が、回る音が、廊下の石床に、響いた。


風の音は、扉が、閉まると同時に、聞こえなくなった。


私の呼吸の音は、まだ、続いていた。


書庫の、新しい棚に、「変な音の棚」、と、私は、仮の名を、つけた。


棚は、空のままだった。


棚の中身は、まだ、何にも、なっていなかった。


ただ、棚だけが、開いた。


家に、帰る道、サヴァン通りを、私と、父は、並んで、歩いた。


夕方の、光が、石畳の上に、長く、伸びていた。


「とうさま」


私は、父を、呼んだ。


父は、私を、見た。


「きょう、ほんの、ならびに、すきまが、みえたのだけれど」


私は、言った。


父は、足を、止めた。


止めて、しばらく、何も、言わなかった。


それから、もう一度、歩き始めた。


「ほう」


父は、それだけ、答えた。


歩きながら、もう一言、加えた。


「お前は、それを、覚えておけ」


それだけだった。


父は、それ以上、何も、聞かなかった。


私の中の、二十八歳の私は、それが、父の、いつもの、問い返し型の、応答だ、と、認識した。


──父は、答えを、与えない。


──父は、私の中に、覚えるべきことを、置かせる。


──「書くことは、覚えることだ。覚えることは、考えることだ」、と、岳月の夜に、父が、私に、言った言葉が、今日も、その応答の、底に、流れている。


私は、頷いた。


頷きながら、私の足は、サヴァン通りの石畳を、いつもの幅で、進んだ。


その夜、私は、自分の机に、向かった。


実験ノートを、開いた。


開いた頁は、まだ、白かった。


私は、ろうそくの炭を、削った。


削った炭を、指で、つまんだ。


頁に、絵を、描き始めた。


最初の絵は、王立図書館の、正面の、扉だった。


扉の上の、看板に、「フランディア王国 王立図書館 アルセリア館」と、二段に、書いた。


下の段には、古代語の、文字の、形だけを、覚えている範囲で、模写した。


模写は、完全では、なかった。


模写しきれなかった文字は、空白に、しておいた。


次の頁に、特別書架の、部屋の絵を、描いた。


書架の、十二本の、線。


書架の、十段の、線。


下から七段目に、横線を、引いた。


「ここから、上の段」と、私の幼児の字で、書いた。


最下層の段に、もう一本、横線を、引いた。


「ここは、とうさまも、あけられない」、と、書いた。


私の手は、しばらく、頁の上で、止まった。


それから、頁の隅に、私は、もう一つの、絵を、描いた。


──白い、大理石の、像。


──半開きの、書を、抱えている、像。


──書架の、向こうに、あった、ような、なかった、ような、像。


──四歳の、神月の、寝る前の、夢の中で、ぼんやりと、見た、像。


私は、その像の絵を、描いた。


像の絵の隣に、書架の絵を、もう一度、描いた。


書架と、像が、同じ頁に、並んだ。


その頁の、隅の、空いた場所に、私は、三つの、文字を、書いた。


S。


O。


F。


四歳の、神月の、寝る前の、夢の中で、見た、三つの文字だった。


あれは、書架と、白い大理石の像と、半開きの書の、夢だった。


母の腕の中で、私は、その三文字を、たしかに、見た。


私は、その三文字を、夢の後の、朝に、まだ、覚えていた。


覚えていたけれども、誰にも、言わなかった。


実験ノートにも、これまで、書かなかった。


今日、初めて、私は、それを、書いた。


書いてから、私は、その三文字を、長く、見ていた。


「あの夢の、三文字も、この書架の、中に、ある気がする」


私は、自分の中で、そう、つぶやいた。


──つぶやきは、私の、口の中にだけ、留まった。


──二十八歳の私の中の、書庫の、ある棚に、その三文字が、置かれた。


──棚の名は、まだ、なかった。


──棚は、これから、長い時間を、待つことに、なるだろう。


私は、ノートを、閉じた。


ろうそくの炭の粉を、指で、払った。


私は、寝床に、入った。


寝床の中で、私は、図書館の、特別書架の、扉の鍵の、回る音を、もう一度、思い出した。


そして、その後で、書架と書架の、隙間を、流れた、風の音を、思い出した。


風の音は、私の呼吸の、半拍、後ろを、追っていた。


──追ってくる、と、私の中の、ある場所が、もう一度、認識した。


──だが、八歳の私は、それを、「呼びかけ」とは、呼ばなかった。


──まだ、呼ばなかった。


私は、その音を、自分の中に、しまったまま、眠った。


神月の、祭りの、後の、月一帰省の、夜だった。


兄マルクが、帰っていた。


賢窓塔の、紺色の、銀の縁取りの、制服を、着ていた。


「今日、的当ての、稽古、見学した」


兄は、私に、言った。


「先輩、四人。賢者と、召喚士と、導師と、魔剣士。一人ずつ」


「四人で、一つの的を、落とす」


「順番が、決まっている」


「順番が、ずれると、的が、落ちない」


私は、その「順番」を、覚えた。


──四人で、ひとつ。順番。


兄は、私の机の上の、実験ノートの絵を、覗き込んだ。


「お前、図書館に、行ったのか」


兄は、言った。


「うん」


「特別書架まで、見せてもらったのか」


「うえの、だん、だけ」


「そうか」


兄は、ノートの、書架の絵を、しばらく、見ていた。


それから、絵の隅の、白い大理石の像と、S・O・F の三文字に、目を、止めた。


兄の目が、その三文字の上で、ほんの一拍、止まった。


止まったけれども、兄は、何も、聞かなかった。


「にいさま」


私は、呼んだ。


「がくいんは、どんなところ」


兄は、ノートから、目を、上げた。


「でかい」


兄は、答えた。


「本が、お前の図書館より、もっと、たくさん、ある」


「そうなの」


「だが、本ばかりじゃ、ないぞ」


兄は、それを、付け加えた。


「本ばかり、じゃない」


私は、繰り返した。


「そうだ」


兄は、頷いた。


兄は、それ以上、何も、言わなかった。


ただ、私のノートを、もう一度、見て、それから、私の頭を、軽く、撫でた。


兄の撫で方は、結月の朝の、駅馬車場の、撫で方とは、別の温度だった。


──少し、深い、温度だった。


──「兄の代わりだ」、と、結月の朝に、兄が、私に、言った、あの温度の、半年分の、続きの温度だった。


二十八歳の私の中で、それが、認識された。


書庫の、新しい棚に、その温度が、置かれた。


──S・O・F の、三文字を、私が、ようやく、固有名として、受け取るのは、十四歳の、秋まで、待たねば、ならなかった。


──けれども、その、八歳の、夜の、私のノートの、隅に、最初の、待つ三文字が、置かれた。


──その夜、私は、自分が、何を、待ち始めているのかを、知らなかった。


──ただ、特別書架の部屋の、書架と、書架の、隙間を、流れた、風の音が、私の呼吸の、半拍、後ろを、追っていた、その音だけが、私の中で、消えずに、残っていた。


──風の音は、しばらくの間、棚の中で、形にならないまま、ただ、置かれていた。


──その音が、後年、私の中で、ひとつの、声として、形を、持つのは、まだ、ずっと先のことだった。


第3章「兄の背中」


第3話「父の書架」 完


次話「焦げた机」(九歳・結月〜神月)へ続く

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