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第3章 第2話「読書院」

鏡月の、最初の月曜日の、朝だった。


私の身体には、新しい上着が、着せられていた。


紺色の毛織りで、襟の小さな、子供用の上着。


母は、その襟元を、自分の指で二度、整え直した。


「今日から、お前は、読書院の子よ」


母の声は、いつもよりも、ほんの少しだけ、改まっていた。


私は、母を、見上げた。


母の顔は、笑っていた。


笑いの中に、まだ見えない緊張が、ほんの少しだけ潜んでいた。


二十八歳の私の中で、その緊張が、認識された。


──母は、私が、読書院で、どう振る舞うかを、自分でも、まだ、計りかねている。


──家の中の私は、家の中だけの私だった。


──家の外の私がこれから、どのように社会と繋がっていくのか、母は、まだ見ていなかった。


私は、母の指の動きを、覚えた。


二度の襟直しの、二回目の方が、一回目よりも、ほんの少しだけゆっくりだった。


私は、頷いた。


「いってきます、かあさま」


私は、言った。


母は、私の頭を、軽く、撫でた。


その撫で方は、兄が出立した朝の、母の撫で方とは、別の温度だった。


玄関の戸を開けると、ニコ・モロワが立っていた。


私たちの隣家の、学者の家の息子だった。


ニコは、私と同じ年だった。七歳。


ニコの上着は、私のものと同じ仕立てだったけれども、襟の刺繍が、私のものよりも少しだけ複雑だった。


ニコの母が刺繍上手で、ニコの上着にはいつも、何かの紋様が入っていた。


「テオ」


ニコは、私の名前を、いつも、短く、呼んだ。


「いこう」


「うん」


私たちは、サヴァン通りを、学者街の、奥の方へ、歩き始めた。


通りの両側の書店の戸が、いくつか開いていた。


書店主たちが、私たちに会釈をした。


私たちも、頷いた。


ニコは、私の半歩後ろを歩いた。


それから自分のほうから半歩前に出て、また半歩、後ろに戻った。


ニコの歩幅は、まだ定まっていなかった。


ニコは、自分の歩幅の定まらなさを、気にしているようだった。


私は、自分の歩幅を、ニコの平均的な歩幅に合わせた。


ニコは、私の歩幅の変化に、気付いていた。


気付いていながら、何も、言わなかった。


ニコの歩幅の癖を、私は、覚えた。


学者街読書院は、サヴァン通りを東に十分ほど歩いたところにあった。


煉瓦造りの、二階建てのこぢんまりとした建物だった。


入口の上には、木の板に彫られた看板が掛かっていた。


「学者街読書院」


文字は、フランディア語の楷書だった。


私の中の二十八歳の私は、その楷書を見て、確かめた。


──七歳の身体は、まだ、自分が、その文字を、読めるとは、言わない。


──「読めない、というふりを、する必要は、ない」、と父は、言っていた。


──「ただ、読めることを、わざわざ、見せるな」、とも、言っていた。


私は、その線引きを、自分の中で、もう一度、確認した。


ニコが、看板を、見上げた。


「よみ、ど、ころ」


ニコはゆっくりと、看板の文字を一文字ずつ口にした。


「よめた」


ニコは、自分の声で、自分を、励ましていた。


私は、頷いた。


「にこも、よめたね」


私は、言った。


「うん」


ニコは、笑った。


その笑いは、ニコの、その朝の、最初の笑いだった。


私は、その笑いを、覚えた。


教室は、一階の東向きの部屋だった。


長机が三列、並んでいた。各列に五席。合計、十五席。


すでに半分以上の席が、埋まっていた。


私たちは、教室の入口で足を止めた。


教室の正面に、教師が立っていた。


老いた、男の教師だった。


灰色の髪を、後ろで短く束ねていた。


目元の皺は、深かった。


けれども、目そのものは、明るかった。


着ているのは、神官の退役後の、簡素な灰色のローブだった。


「教師セヴラン」


私は、その名前を、すでに、家の話で、知っていた。


退役した、上級神官。


学者街読書院の、主任。


母の話によれば、約十五年、この場所で、子供たちを、教えている。


セヴランの目が、私たちを、見た。


私と、ニコを、同時に、見た。


その目の中に、何かを、選別する、というほど強くない、けれども、確かに、観察する、温度が、あった。


二十八歳の私の中で、それが、認識された。


──この目は、私を、すでに、ある種類の子として、計ろうとしている。


──父も、母も、私のことを、セヴランには、事前に、何かを、伝えているはずだった。


──伝えた内容を、私は、知らない。


──ただ、伝えられた範囲の中で、私は、振る舞う、必要が、ある。


「ヴァルメール家の、テオドール、君だね」


セヴランは、私の名前を、丁寧に、呼んだ。


「はい」


私は、答えた。


「モロワ家の、ニコラ、君も」


「はい」


ニコは、私の隣で、頷いた。


セヴランは、教室の、二列目の、左から二番目と三番目の席を、自分の手で、指した。


「あの席に、座ってごらん」


私たちは、頷いた。


教室の、ほかの席の子供たちが、私たちを、見ていた。


その視線の中の、いくつかが、私の上着の、襟の縁を、見ていた。


別のいくつかは、私の顔を、見ていた。


私は、自分の顔を、特別な表情に、しないように、努めた。


努めながら、ニコと並んで、二列目に、座った。


教室の、後ろの方の、列の、左の方の席に、アネット・カステルが、いた。


アネットの目が、私を、見ていた。


アネットは、笑っていた。


私が、振り返って、目を、合わせると、アネットは、口の中で、何か、小さな言葉を、言った。


「テオお兄ちゃん、こんにちは」


声に、なるか、ならないか、の、ぎりぎりの、囁き、だった。


私は、頷いた。


頷きながら、私の中の、ある場所が、ほんの一拍だけ、強く、鳴った。


──結月の中庭の、鬼ごっこの、果樹の下の、瞬間。


──「ねえ、テオお兄ちゃん、いま、なんで、額に、手を当てたの」、と、アネットが、口にした、あの瞬間。


──あの瞬間の、アネットの目を、私は、忘れていなかった。


──けれども、目の前のアネットの目には、その瞬間の、追求の、温度は、なかった。


二十八歳の私の中で、それが、認識された。


──「夢でも見たんでしょう」と、母が、アネットの母に、話を、預けた、あの瞬間が、アネットの中で、本当に、「夢」として、片付けられていた。


──少なくとも、今、この、教室の、初日の、朝の、アネットの目の中には、その温度は、ない。


私は、ほんの少しだけ、息を、吐いた。


ニコが、私の隣で、自分の机の上の、教科書の表紙を、人差し指で、触っていた。


ニコは、私の息の、変化に、気付いていなかった。


私は、それで、よかった。


書庫に、新しい棚が、加わった。


「アネットの、夢の棚」、と、私は、その棚に、仮の名を、つけた。


棚の名が、いつか、また、変わるかもしれなかった。


けれども、今は、その名で、十分だった。


午前中の授業が、始まった。


セヴランは、教室の正面に、立った。


「今日は、新しい年の、最初の日だ」


セヴランは、言った。


「この教室には、君たちが、これから、約三年、通うことになる」


「三年の間に、君たちは、字を、覚える。算を、覚える。歌を、覚える。そして、議論を、覚える」


「だが、その前に、ひとつ、聞いておきたい」


セヴランの目が、教室を、一巡した。


「この教室の中で、家で、もう、字が、読める子は、手を、挙げてごらん」


私の手は、動かなかった。


私の身体の中で、二十八歳の私が、はっきりと、判断した。


──手を、挙げない。


──家族の事前の打ち合わせは、これだった。


教室の中で、何人かの子が、手を、挙げた。


四人。


五人。


その中に、ニコは、含まれていなかった。


ニコは、自分の手を、机の下に、置いていた。


ニコは、家で、字を、少しだけ、読めるはずだった。


私たちが、サヴァン通りを、歩く時、ニコは、書店の看板を、いつも、口に出して、読もうとしていた。


けれども、ニコは、手を、挙げなかった。


ニコは、自分の「少しだけ読める」が、ほかの子の「読める」と、同じ範囲だ、と、確信できなかった、のだろう。


二十八歳の私の中で、それが、認識された。


ニコの控えめさを、私は、覚えた。


教室の、後ろの方で、アネットの手が、上がっていた。


アネットは、はっきりと、手を、挙げていた。


セヴランは、頷いた。


「ありがとう」


「手を、挙げてくれた子は、家で、字を、教えてくれた家族に、感謝するといい」


「家で、字を、教えてくれなかった子も、ここで、これから、教える」


「速度は、皆が、同じだ」


「速度を、揃えることが、この教室の、第一の仕事だ」


セヴランの目が、教室の、二列目の、私の方を、見た。


その目は、ほんの一瞬だけ、私の上で、止まった。


止まって、それから、離れた。


私は、その目の温度を、覚えた。


「目立たない、ことを、知っている目」、と、私は、その温度を、認識した。


セヴランは、私が、字を、読めることを、すでに、知っていた。


知っていながら、私が、手を、挙げなかったことを、認めた。


セヴランの目は、それを、私に、伝えていた。


私も、目で、頷いた。


それが、その朝の、私とセヴランの、最初の、契約だった。


午後の時間、音読の練習が、あった。


セヴランは、教科書の、最初の頁を、開かせた。


「この頁を、隣の子と、二人で、交互に、読んでごらん」


「読めない字は、隣の子に、聞きなさい」


私たちは、頷いた。


ニコと私は、教科書を二人の机の真ん中に置いた。


ニコが先に読んだ。


「むかし」


ニコは最初の二文字を口にして、それから止まった。


ニコの目が、三文字目を見ていた。


「むかし、あるところに」


私が続きを、子供の声で読んだ。


ニコは、頷いた。


「ありがとう、テオ」


ニコは、言った。


「ぼく、よめた、ような、きもする」


「よめてたよ、にこ」


私は、言った。


私たちは、頁を半分まで進んだ。


頁の後半は、ニコがほとんど読んだ。


ニコがつかえた箇所だけ、私がささやいた。


「たろうは」


「わらった」


「わらった、たろうは」


私たちの音読は、教室の、ほかの席よりも、ほんの少しだけ、速かった。


けれども、ほかの席よりも、目立つほどではなかった。


セヴランは、教室の、それぞれの席を、回って、聞いていた。


私たちの席に来た時、セヴランは、ニコの方を、見て、頷いた。


それから、私の方を、見た。


セヴランの目は、何も、言わなかった。


ただ、頷いた。


私は、頷き返した。


結月の、半ばの、ある午後だった。


議論練習の時間が、初めて、組まれた。


セヴランは、教室の正面に、立った。


「今日は、ひとつの、お題で、皆で、考えてみよう」


「お題は、これだ」


セヴランは、黒板に、自分の手で、書いた。


「雨は、なぜ、降るか」


教室の子供たちが、それぞれに、何かを、口にした。


「かみさまが、おみずを、まくから」


「くもが、おもくなるから」


「そらが、なくから」


「くもが、けんかするから」


セヴランは、それぞれの答えを、頷いて、受けた。


セヴランは、否定しなかった。


「全部、面白い」


セヴランは、言った。


「では、テオドール、君は、どう思う」


セヴランの目が、私の方を、見ていた。


私の身体の中で、二十八歳の私が、瞬間的に、整理した。


──水の蒸発と冷却。


──大気の上層での凝結。


──水滴の重力による落下。


──前世の物理学の、初等の説明。


──それを、七歳の身体の、フランディア語に、翻訳する。


──翻訳の、線引きは、どこか。


「しずくが、おもくなったから、おちる」


私は、答えた。


七歳の身体の、子供の声で、答えた。


教室の、ほかの席の何人かが、私を、振り返って、見た。


セヴランの目が、私の上で、止まった。


セヴランは、頷いた。


「しずくが、おもくなる」


セヴランは、繰り返した。


「それは、いい答えだ」


「では、なぜ、しずくは、おもくなる」


セヴランの目は、私を、見ていた。


その目は、私の中の、もう一段、奥の答えを、引き出そうと、していた。


私は、答えに、迷った。


──「水蒸気が冷えて液化する」と、私は、知っていた。


──だが、その言葉を、七歳の身体は、まだ、知らない。


──「冷える」は、私の語彙の中に、ある。


──「液化」は、まだ、ない。


──「冷える」だけで、答えるか。


「そらが、つめたいから、しずくが、ふえる」


私は、答えた。


七歳の身体の、限界の、ぎりぎりの、答えだった。


セヴランの目が、私の上で、一拍、止まった。


それから、目元の、皺の中で、ほんの少しだけ、目が、笑った。


「そらが、つめたい」


セヴランは、繰り返した。


「それも、いい答えだ」


「皆、テオドールの、答えを、聞いた」


「自分の答えと、テオドールの答えを、比べて、家で、もう一度、考えてごらん」


「今日は、ここまでだ」


セヴランは、議論を、そこで、止めた。


止め方は、自然だった。


教室の、ほかの席の子供たちは、すでに、別のことを、考え始めていた。


セヴランは、私の答えを、皆の前で、特別扱いしなかった。


特別扱いしないことで、私の答えは、皆の答えの中の、ひとつとして、流れた。


二十八歳の私の中で、それが、はっきりと、認識された。


──セヴランは、私の答えの、二段目を、引き出した。


──そして、三段目には、進ませなかった。


──進ませなかったことで、私は、自分の中の「三段目」を、自分の中に、しまうことが、できた。


──「見せる速度と、見せない速度を、私は、選んでいいのだ」、と、私は、確信した。


書庫に、新しい棚が、加わった。


「速度を、選ぶ」、と、私は、その棚に、名を、つけた。


家に、帰った夜、私は、書斎で、父に、その日の出来事を、報告した。


書斎の机の前に、父は、座っていた。


私は、父の足元の絨毯に、座った。


「とうさま」


私は、呼びかけた。


「きょう、せんせいに、しつもんを、された」


「ほう」


父は、書類から、目を、上げた。


「あめは、なぜ、ふるか、と、きかれた」


「ほう」


「ぼく、しずくが、おもくなるから、おちる、と、こたえた」


「ほう」


「そらが、つめたいから、しずくが、ふえる、とも、いった」


「ほう」


父は、四度、「ほう」と、言った。


四度の「ほう」は、それぞれ、少しずつ、違う温度だった。


私の中で、その四つの温度の差を、私は、忘れなかった。


「ぼく、はやく、こたえすぎないように、した」


私は、最後に、言った。


「「冷える」までは、いったけれども、「ひえて、しずくに、なる」までは、いわなかった」


私は、自分の選択を、父に、見せた。


父は、私を、しばらく、見ていた。


それから、自分の手を、伸ばして、私の頭を、撫でた。


「テオ」


父の声は、低かった。


「お前は、よく、選んだ」


それだけだった。


父は、それ以上、何も、言わなかった。


ただ、もう一度、私の頭を、撫でた。


二度目の撫で方は、一度目の撫で方よりも、ほんの少しだけ、ゆっくりだった。


私は、その差を、覚えた。


その夜、寝る前、私が、自分の机の上で、教科書を、開いていた時、額に、温度が、来た。


家の中だった。


母が、隣の部屋で、繕い物を、していた。


父は、書斎にいた。


クララは、すでに、眠っていた。


温度は、いつもの、第一段階だった。


額の、髪の生え際の、少し下。


二、三層、内側の、温もり。


私は、髪を、軽く、触った。


それから、教科書から、目を、上げた。


母が、繕い物の手を、止めて、私を、見ていた。


母の目は、私の額を、見た。


それから、笑った。


母は、何も、言わなかった。


ただ、笑って、繕い物に、戻った。


母の繕い物の、針の音が、また、始まった。


温度は、しばらくして、引いた。


私は、教科書に、目を、戻した。


家の中の、神紋の発現の、いつもの形だった。


──家族の中で、温度が、来て、家族の中で、温度が、引いた。


──誰も、何も、言わない。


──私は、髪を、軽く、触っただけだった。


──母は、笑って、繕い物に、戻っただけだった。


──家族の秘匿運用が、確かに、形に、なっていた。


二十八歳の私の中で、それが、認識された。


私は、その「家の中の、いつもの形」を、確かめた。


神月の、祭りの、近づく頃だった。


母が、私と、クララに、告げた。


「兄さんが、帰ってくる」


クララの目が、ぱっと、明るくなった。


「にいさま」


クララは、何度も、繰り返した。


「にいさま、にいさま、にいさま」


私も、頷いた。


頷きながら、私の中の、ある棚に、兄の問いが、まだ、置かれているのを、確かめた。


「お前は、神に、何を、願う」


私は、まだ、その問いに、答えられていなかった。


兄が、帰ってきたら、私は、兄に、何を、伝えるのだろう。


──「ぼく、よみどころに、いきはじめた」。


──「ぼく、せんせいに、ほめられた」。


──「ぼく、はやく、こたえすぎないように、した」。


──そういう報告は、できる。


──だが、兄の問いに対する、答えは、まだ、ない。


私は、答えのないまま、神月の祭りを、待った。


書庫の、新しい棚に、「待つ」と、名前を、つけた。


──読書院は、私が、知識を、出す速度を、選ぶことを、覚えた場所だった。


──その三年の間に、私は、自分の中の「三段目」を、自分の中だけに、しまう習慣を、身につけた。


──後年、私が、王立学院で、賢者として、知識を、共有する速度を、選ぶ訓練の、その最初の一歩が、結月の午後の、議論練習の、セヴランの目元の、ほんの少しだけの、笑いの中に、あった。


──その日、七歳の私は、まだ、自分が、何を、選び始めたのかを、十分には、知らなかった。


──ただ、家に帰る道の、サヴァン通りの、夕暮れの空が、いつもよりも、ほんの少しだけ、深い色を、していたのを、覚えていた。


第3章「兄の背中」


第2話「読書院」 完


次話「父の書架」(八歳・灯月〜鏡月)へ続く

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